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−最近の日記−

3月26日(日)  テキトー翻訳
 えらく久しぶりだなあ。えーと、その……、仕事楽しいよ?


「書くことを思いつかなければ翻訳をすればいいじゃない」って、ばっちゃが言ってた。ので、半年前に書かれたスラヴォイ・ジジェクの論説をテキトーに翻訳してみたよ。キャー! ジジェクー! だいすきー!
 えーと、アレだ。映画「ホテル・ルワンダ」を巡るあれこれに関しても示唆的な文章じゃないかしら。

スラヴォイ・ジジェク「略奪や強姦を行っていると想定される誰か――ニューオーリンズにおける現実とファンタジー

 たぶん誤訳がそれなりに有ると思うんで、気付いた方は教えて頂けると幸いです。僕がとても幸せになります。


8月20日(土)  新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」(続々)

 またまた新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」について書いてしまったよ。無駄に長いよ。
http://d.hatena.ne.jp/flurry/20050820


 それはそうとして、だ。ネット上の感想を読んでて思ったのだけど、時間をテーマにした作品を読んだ後の感想が(たとえば)「今年最大級の収穫かもしれない」ってのは、どーなのよ、とゆーか。
 その一年区切りで作品を比較評価するような態度ってのは、当の作品的にはどうなんだろうね。


8月6日(土)  新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」、ストーリーの二段ロケット、「である」と「けれど」
また間が空いた。


 新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」を読み終えたので、感想を少しだけはてなダイアリーに書いたよ。ネタバレ注意でございます。
(8月8日追記)るりあ046さんの文章を受けて、続きを書いてみましたよ。
http://d.hatena.ne.jp/flurry/20050808


5月2日(月)  テッド・チャン原書。英語の短編SF?を勝手に翻訳してみたよ。SFセミナー。
ずいぶんと久しぶりに書くなあ。

 大型書店の洋書売場を覗いてみたところ、テッド・チャン「あなたの人生の物語」の原書が置いてあった。なんの気なしにパラパラめくっていたところ、短編「理解」のラストのほうに「プラグマティズム(pragmatism)」という文字を発見。
「あれ、そんな内容は翻訳にあったかなあ。……ええと、思い出してみるに、確かこの部分って凄くしょーもないことが書いてあって、それで俺が激怒したんじゃなかったっけ?」
などと考えながら、ハヤカワ文庫の棚に行って翻訳文をチェック。んで、そこにあった訳文はというと、これが「実利主義」なのでございました。

 ぎゃー。

 それって最悪の訳語選択ではないかしら? 逃げではあるけど、素直にプラグマティズムとカタカナ表記するのが一番マシだと思うですよ。
 ところで、「唯美主義(aestheticism)を奉ずる超天才が、自らを再プログラミングしながら、同じく超天才のプラグマティストと闘う」という筋書きだけを抜き出してみると、「理解」という作品が何だか面白そうに思えてきてしまったので困るのでした。
知人:「……でも『理解』って、そんなに高尚な内容のことを書いてましたっけ?」
僕: 「……違うんじゃないかな」

 「理解」の筋書きが面白そうに思えてしまった理由としては、少し前までリチャード・ローティ「偶然性・連帯・アイロニー」(とても面白うございます)なんてものを読んでいたせいで、プラグマティズムとやらについて考えていたということがあるのだけど、その話はまた今度。



 そういえば、英語の短編SF?を勝手に翻訳してみましたよ。原文は名作の誉れ高い作品なので、僕の訳文の質を差し引いても、それなりに楽しめるのではないかしら。短いから、すぐ読めますし。

 あ、そうだ。非常に朗読に向いた作品だと思うので、皆様各自で脳内音声を再生しつつ読まれると良いように思います。僕のことを個人的に知っているかたは「ナレーション:僕」で読んでもらうのが良いかも(←えー)。

 それでは、こちらのリンクからどうぞ⇒


 よろしければ、感想、誤訳の指摘、お叱りなどをはてなダイアリーのほうに寄せていただけると幸いです。作品を訳してみての僕の個人的な感想も書いてあります。



 明日のSFセミナーに行きますよ。合宿にも居ますよ。


1月8日(土)  「このノータリン!」、手の中の小鳥、罵倒、お返事。

 とある人とあなたは議論をしている。頭の鈍さ、不快な口調、とにかく相手のあらゆる点があなたを苛立たせる。その苛立ちが頂点に達した瞬間に、あなたは思わず口走ってしまう。

「 この、ノータリン! 」

 なんとまあアナクロな言葉だろうと、あなたは我ながら呆れてしまう。相手の顔が見る間に紅潮していく。その一方、あなたは不思議な気分になっている。心のなかには高揚感が満ち溢れているのに、どこか氷のように冷静な部分も残っているのだ。あなたは自分が残忍な気分になっていることを自覚する。
 トマトケチャップのように顔を真っ赤にして、相手は言う。

「 私をバカにする気か? 」

 さーて、どんな返答をしようかしら?
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選択肢1: 「ええ、そうです。 僕は貴方を、バ・カ・に・してるんですよ」
選択肢2: 「違いますよ。僕は貴方をバカにしてるんじゃない。貴方は単にバカなんだ。事実の問題です」
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 あなたはどちらを選んだだろうか。その理由は何故だろうか。状況次第でどちらを選ぶか変わるという場合、それを決定する要因は何なのだろう?



 どこかで読んだ喩え話のこと。
 盲目の女のところに悪ガキたちがやってくる。嫌がらせをしようとして、彼女を遠巻きにした悪ガキたちが問いかける。僕たちの手の中にいる小鳥は生きてる? それとも死んでる? さあ、当ててごらん?

 彼女はその問いに直接答えない。代わりにこう言う。
「 分からない。でも、一つだけ分かっていることがあるわ。その小鳥は、あなたたちの手の中にあるの。そう、あなたたちの手の中にあるのよ。 」

 ここでの悪ガキたちの問いかけや、それに対する彼女の返答が持っている「戦闘性」「挑発性」とでも言うべきものを、どのように受け止めればよいだろうか。 表面的には彼女の返答というのは、悪ガキたちの言葉を確認するものでしかない。
「 小鳥が僕たちの手の中にある。 」
「 ええ、あなたたちの手の中にあるのね。 」
 けれどこれらの言葉は、その効力を発揮する瞬間において、実のところ全く逆のことを言っているのではなかろうか。悪ガキたちは「彼女の返答こそが小鳥の生死を決定する」のだと、つまり、「小鳥は彼女の手の中にある」と述べているのだ。
 そして彼女は、受動的な現状確認のふりをしつつ、彼らの言葉が持つ破壊力の向きを引っくり返すのだ。



 たとえば、誰かがあなたに「窓を開けなさい」と言う代わりに、「私はあなたに窓を開けるように命令します」と言うところを想定してみよう。話し方としては変かもしれないけれど、その誰かが言っている内容は理解できなくはないだろう。
 では、「このノータリン!」という言葉を「私は、ノータリンと言うことであなたをバカにします」と置き換えるのはどうだろう。この置き換えは先ほどと比較すると、少しばかり異質ではないかしらん。誰かから、「私は、ノータリンと言うことであなたをバカにします」なんて言われたら、怒るよりも先ず、相手が何を言ってるか分からなくて混乱してしまうのではないかしら。

 じゃあ、「私は、ノータリンと言うことであなたをバカにします」という言い方に有効性がないかというと、そういうわけでもない。たとえば前々段での会話のような、
「 このノータリン! 」
「 なんだと、お前は私をバカにしているのか? 」
「 『ええ』、私はノータリンと言うことで、あなたをバカにします。 」
という状況だと、先行する「このノータリン!」との時間差コンビネーション攻撃として効果的に機能するわけで。

 この場合の「私は、あなたをバカにします」という発言は再帰的、というか堂々巡り的なものだ。最初に「ノータリン!」という発言が相手に屈辱感を与える。そして次に、「あなたは私にバカにされているような存在だ」という『事実』が、再び相手に屈辱感を与え、打ちのめす。そしてまたバカにする側も、「あなたは私にバカにされているような存在だ」という『事実』を根拠として相手を再びバカにする。
 しかし、この堂々巡りの構造は、根っこのところで「このノータリン!」という最初の叫びによって支えられているわけで。

 ……いつものことですが、何が言いたいのか良く分からなくなってきました。


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http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary/tohoho/th0006.html 6月28日分)
 政治的意見を述べるときは、「説得」するか、「罵倒」するか、どちらかの語法を選ぶのがいい、と私は思っている。
 「説得」というのは、めざす政治的成果を獲得するために、自分の言葉を捨てても「他者」の価値観や経験の仕方のうちに身をすり寄せていくことである。
 「罵倒」というのは個人的な好悪の感情の発露であり、真偽や適否を論ずる水準ではない。「バカというやつがバカなんだよ」という小学生の真理が語っているとおり、罵倒は普遍的妥当性をあらかじめ断念しており、その断念(「どーせ、おじさんの繰り言なんですけどねー」)を経由してはじめてその戦闘性を獲得する。
 私は政治的言説は、このどちらかに徹すべきだというふうに考えている。
 政治について「真理の審級」「当為の語法」では語らない方がいい、と私は思う。
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 内田樹氏のこの文章における「罵倒」について。この「罵倒」によって得られる戦闘性とは何なのだろう。そして、誰に対する戦闘性なのだろう。
 この内田氏の文章から僕が思い浮かべてしまう罵倒の典型例というのは、ドラマでヒロインが恋人に向かって「○○のバカ!」と叫んで走り去ってしまう、というものだったりするのだ。この場合、ヒロインが有する戦闘性は、いったいどういうものだろう?



 そういえば、http://poteto.itits.co.jp/b.asp?S=lilt(2147〜2148)へのお返事。
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http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200411.html#27_7
各論以前にそもそも「論」が成り立つかどうかの一点だけ。
> いやその。「何々である」というようなことは、つねに命令というか、なにかしらそういうメッセージを含んでいるわけですが。
本気で意味が分からないので説明してください。「いやその」「わけですが。」というこの口調は、「『〜である』という命題は常に『〜せよ』という命令・メッセージを含意する」という説が既に一般に知れ渡っており、ここではその当たり前のことを確認しているだけだ、という態度を示唆すると僕には思えます。

だとしたらそれは performative/constative なんて区別をも真っ向から覆す理論だと思いますが、しかし寡聞にして僕はそんな理論を知りません(そして僕にはこの辺が「噛み合っていない」ように思えます)。なのでこれを説明してください(そうでないと「噛み合っていない」としか思えないので話になりません)。例えば「犬は哺乳類である」、この命題のどこにどういう「命令」が含まれるのかを示してください。次にその説があなたの脳内以外のどこに膾炙しているのかもご教示いただきたい。
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 ぎゃー、僕の不用意な発言に対してツッコミが入りました。思わず、
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・「犬は哺乳類である」
・「カモノハシは哺乳類である」
・「トラルファマドール星人は哺乳類である」
・「あなたは哺乳類である」
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これらの文章の違いについて深刻に悩んでしまったのですが、それはさておき。

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・ええと、とりあえず僕の
> いやその。「何々である」というようなことは、つねに命令というか、なにかしらそういうメッセージを含んでいるわけですが。
という発言は撤回します。
・命題ではなく発話のレベルの話を僕はしています。
・「いやその」「わけですが。」という口調は、僕の口癖のようなものなので、あんまり気にしないでください。
・performative/constativeに関しては知識が無いのでなんとも。僕が知っている両者の区分というのは、最終的には両者の区分が放棄されてしまうところの、J・L・オースティン「言語と行為」のものだけですし。
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ってことで。

 読者のために直前までのやりとりを僕なりにまとめてみますと、
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林さん:「あなたとは話が噛み合わないことが分かりました」
僕:  「いや、罵倒に対して話を噛み合わせろと言われてもねえ?」
林さん:「話が噛み合わないことが分かったとは言ったけど、話を噛み合わせろとは言ってませんが? あと、その罵倒っていうの、あんたの勝手な解釈じゃん」
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って感じです。日常生活でも頻繁に見られるような流れですね。


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