【2005年1月】
1月8日(土) 「このノータリン!」、手の中の小鳥、罵倒、お返事。
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とある人とあなたは議論をしている。頭の鈍さ、不快な口調、とにかく相手のあらゆる点があなたを苛立たせる。その苛立ちが頂点に達した瞬間に、あなたは思わず口走ってしまう。
「 この、ノータリン! 」
なんとまあアナクロな言葉だろうと、あなたは我ながら呆れてしまう。相手の顔が見る間に紅潮していく。その一方、あなたは不思議な気分になっている。心のなかには高揚感が満ち溢れているのに、どこか氷のように冷静な部分も残っているのだ。あなたは自分が残忍な気分になっていることを自覚する。
トマトケチャップのように顔を真っ赤にして、相手は言う。
「 私をバカにする気か? 」
さーて、どんな返答をしようかしら?
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選択肢1: 「ええ、そうです。 僕は貴方を、バ・カ・に・してるんですよ」
選択肢2: 「違いますよ。僕は貴方をバカにしてるんじゃない。貴方は単にバカなんだ。事実の問題です」
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あなたはどちらを選んだだろうか。その理由は何故だろうか。状況次第でどちらを選ぶか変わるという場合、それを決定する要因は何なのだろう?
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どこかで読んだ喩え話のこと。
盲目の女のところに悪ガキたちがやってくる。嫌がらせをしようとして、彼女を遠巻きにした悪ガキたちが問いかける。僕たちの手の中にいる小鳥は生きてる? それとも死んでる? さあ、当ててごらん?
彼女はその問いに直接答えない。代わりにこう言う。
「 分からない。でも、一つだけ分かっていることがあるわ。その小鳥は、あなたたちの手の中にあるの。そう、あなたたちの手の中にあるのよ。 」
ここでの悪ガキたちの問いかけや、それに対する彼女の返答が持っている「戦闘性」「挑発性」とでも言うべきものを、どのように受け止めればよいだろうか。 表面的には彼女の返答というのは、悪ガキたちの言葉を確認するものでしかない。
「 小鳥が僕たちの手の中にある。 」
「 ええ、あなたたちの手の中にあるのね。 」
けれどこれらの言葉は、その効力を発揮する瞬間において、実のところ全く逆のことを言っているのではなかろうか。悪ガキたちは「彼女の返答こそが小鳥の生死を決定する」のだと、つまり、「小鳥は彼女の手の中にある」と述べているのだ。
そして彼女は、受動的な現状確認のふりをしつつ、彼らの言葉が持つ破壊力の向きを引っくり返すのだ。
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たとえば、誰かがあなたに「窓を開けなさい」と言う代わりに、「私はあなたに窓を開けるように命令します」と言うところを想定してみよう。話し方としては変かもしれないけれど、その誰かが言っている内容は理解できなくはないだろう。
では、「このノータリン!」という言葉を「私は、ノータリンと言うことであなたをバカにします」と置き換えるのはどうだろう。この置き換えは先ほどと比較すると、少しばかり異質ではないかしらん。誰かから、「私は、ノータリンと言うことであなたをバカにします」なんて言われたら、怒るよりも先ず、相手が何を言ってるか分からなくて混乱してしまうのではないかしら。
じゃあ、「私は、ノータリンと言うことであなたをバカにします」という言い方に有効性がないかというと、そういうわけでもない。たとえば前々段での会話のような、
「 このノータリン! 」
「 なんだと、お前は私をバカにしているのか? 」
「 『ええ』、私はノータリンと言うことで、あなたをバカにします。 」
という状況だと、先行する「このノータリン!」との時間差コンビネーション攻撃として効果的に機能するわけで。
この場合の「私は、あなたをバカにします」という発言は再帰的、というか堂々巡り的なものだ。最初に「ノータリン!」という発言が相手に屈辱感を与える。そして次に、「あなたは私にバカにされているような存在だ」という『事実』が、再び相手に屈辱感を与え、打ちのめす。そしてまたバカにする側も、「あなたは私にバカにされているような存在だ」という『事実』を根拠として相手を再びバカにする。
しかし、この堂々巡りの構造は、根っこのところで「このノータリン!」という最初の叫びによって支えられているわけで。
……いつものことですが、何が言いたいのか良く分からなくなってきました。
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(http://village.infoweb.ne.jp/~fwgh5997/diary/tohoho/th0006.html 6月28日分)
政治的意見を述べるときは、「説得」するか、「罵倒」するか、どちらかの語法を選ぶのがいい、と私は思っている。
「説得」というのは、めざす政治的成果を獲得するために、自分の言葉を捨てても「他者」の価値観や経験の仕方のうちに身をすり寄せていくことである。
「罵倒」というのは個人的な好悪の感情の発露であり、真偽や適否を論ずる水準ではない。「バカというやつがバカなんだよ」という小学生の真理が語っているとおり、罵倒は普遍的妥当性をあらかじめ断念しており、その断念(「どーせ、おじさんの繰り言なんですけどねー」)を経由してはじめてその戦闘性を獲得する。
私は政治的言説は、このどちらかに徹すべきだというふうに考えている。
政治について「真理の審級」「当為の語法」では語らない方がいい、と私は思う。
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内田樹氏のこの文章における「罵倒」について。この「罵倒」によって得られる戦闘性とは何なのだろう。そして、誰に対する戦闘性なのだろう。
この内田氏の文章から僕が思い浮かべてしまう罵倒の典型例というのは、ドラマでヒロインが恋人に向かって「○○のバカ!」と叫んで走り去ってしまう、というものだったりするのだ。この場合、ヒロインが有する戦闘性は、いったいどういうものだろう?
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そういえば、http://poteto.itits.co.jp/b.asp?S=lilt(2147〜2148)へのお返事。
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http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200411.html#27_7
各論以前にそもそも「論」が成り立つかどうかの一点だけ。
> いやその。「何々である」というようなことは、つねに命令というか、なにかしらそういうメッセージを含んでいるわけですが。
本気で意味が分からないので説明してください。「いやその」「わけですが。」というこの口調は、「『〜である』という命題は常に『〜せよ』という命令・メッセージを含意する」という説が既に一般に知れ渡っており、ここではその当たり前のことを確認しているだけだ、という態度を示唆すると僕には思えます。
だとしたらそれは performative/constative なんて区別をも真っ向から覆す理論だと思いますが、しかし寡聞にして僕はそんな理論を知りません(そして僕にはこの辺が「噛み合っていない」ように思えます)。なのでこれを説明してください(そうでないと「噛み合っていない」としか思えないので話になりません)。例えば「犬は哺乳類である」、この命題のどこにどういう「命令」が含まれるのかを示してください。次にその説があなたの脳内以外のどこに膾炙しているのかもご教示いただきたい。
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ぎゃー、僕の不用意な発言に対してツッコミが入りました。思わず、
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・「犬は哺乳類である」
・「カモノハシは哺乳類である」
・「トラルファマドール星人は哺乳類である」
・「あなたは哺乳類である」
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これらの文章の違いについて深刻に悩んでしまったのですが、それはさておき。
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・ええと、とりあえず僕の
> いやその。「何々である」というようなことは、つねに命令というか、なにかしらそういうメッセージを含んでいるわけですが。
という発言は撤回します。
・命題ではなく発話のレベルの話を僕はしています。
・「いやその」「わけですが。」という口調は、僕の口癖のようなものなので、あんまり気にしないでください。
・performative/constativeに関しては知識が無いのでなんとも。僕が知っている両者の区分というのは、最終的には両者の区分が放棄されてしまうところの、J・L・オースティン「言語と行為」のものだけですし。
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ってことで。
読者のために直前までのやりとりを僕なりにまとめてみますと、
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林さん:「あなたとは話が噛み合わないことが分かりました」
僕: 「いや、罵倒に対して話を噛み合わせろと言われてもねえ?」
林さん:「話が噛み合わないことが分かったとは言ったけど、話を噛み合わせろとは言ってませんが? あと、その罵倒っていうの、あんたの勝手な解釈じゃん」
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って感じです。日常生活でも頻繁に見られるような流れですね。
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