【2004年12月】
12月11日(土) 「愛は負けても親切は勝つ」、シラカバの恐怖。
忙しい。きゅう。
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前々回からの続きとゆーか。最近ふと思いついて、「ヴォネガット トラウマ」でGoogle検索したところ、斎藤環【カート・ヴォネガット 「無害な非真実」の伝道者】とかいう文章を発見。ぎゃー。
斎藤氏はヴォネガットの「スローターハウス5」のことを、
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いま読み返すと、これはトラウマとPTSD(トラウマ後ストレス障害)に関する、実に見事な寓話たり得ている。
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と書いているんだけど、僕としては、そのあまりに分かりやすい寓話性はどうよと言いたいところではある。
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(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/saito/bungaku0202.html)
「愛は負けても親切は勝つ」。これがヴォネガット最大のテーマである。彼のエッセイでそれを知って以来、僕はこの言葉を至るところで引用してきた。とりわけ治療場面で。治療が不可能な患者であっても看護は可能であるように、かけらも愛がなくても「親切」にすることはできる。
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こういう文章を読むと、僕はついつい「でもさ、愛が勝とうが負けようが、とりあえず親切にしておけば問題は無いんでしょ? だったら、『親切は勝つ』だけで良いじゃん」と思ってしまう。
けど斎藤氏にとっては、それでは不十分なんだろう。思うに、過酷な(サービス業としての?)治療現場と、治療者の個人的生活とを切り離すために、愛と親切という二つのものが必要なのではないかしら。
「親切は勝つ」単体では、治療現場が個人的生活にまで踏み込んでくるのを阻止できないのだ。親切は本来の愛の地位にまで昇格してしまい、結果として親切は敗れてしまう。 そして「親切は負けても礼儀は勝つ」とか何とか、そういうことを言う羽目になってしまう。
愛と親切のどちらかを(どちらかは分からないけれど)自分のストレスを受け止める生贄に捧げることによって、医療者は(愛と親切のうちの)もう片方を自分自身のために確保することが出来る。そうして医療者は安定した看護体制を維持し、患者へのホスピタリティを守り抜くのだ。
でもさ、と僕はもごもごと思う。「愛なんて甘い考えは捨てちゃいなさい!」と新人看護婦に怒鳴る先輩看護婦のように、あるいはヴォネガットの「猫のゆりかご」でのボコノン教が支配体制と一体化していたように、9/11テロ後の世界における内面の規制というのは、むしろ「愛は負けても親切は勝つ」、「外傷的な真実/無害な非真実」、「悲惨な現実/偽物のユートピア」という形で行われるのではないのかしら。
ついでに言うと、ヴォネガットの無害な非真実というのは外傷的な真実へのほのめかしによって支えられているわけで。「偽物のユートピア」もまた外部の「悲惨な」現実や生贄への参照無しには存在できないのではないかしら。斎藤氏は、悲惨な現実を「やり過ごす」ために無害な非真実が必要だ、みたいな書き方をしているのだけど、その無害な非真実という態度こそが、悲惨な現実を生み出しているという可能性があるわけでさ。
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上とはあんまり関係ない話。とある方から教えていただいて、佐藤亜紀とかいう小説家のサイトを読んだ。
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(http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/tamanoir/mdata/monk28.htmの下部)
このシラカバとは私が最も軽蔑する文学・芸術に対する姿勢であり、
・作品を前にした時には、そこで実現されている(或いは実現されていない)形の美を愛でるだけの眼力が不足なため、ついついメッセージ(思想だの社会性だの)を探し求め、そのメッセージの軽重によって作品を評価する。
・作品を作る時には、形の美自体が唯一の内容であるようなあり方を実現する力を欠くため、これはもう確信犯的に、メッセージの乗り物であるような作品を作り、このメッセージは重要なメッセージなんだから評価されるのが当然だ、と形の不備を棚に上げて主張する。
という、広くはびこる三流の創作者・鑑賞者の姿勢のことを示します。実を言えば私、この種のシラカバを地上から根絶する一人十字軍のつもりでおりますが、旗色はあんまりかんばしくないですね。何しろ現代美術の大半はシラカバの変種ですから。ちなみに批評は、これはもう完全に、シラカバの味方であります。理論的にはシラカバ度ゼロで作られた完璧な作品はただただ美しいだけであって、評論や解説なぞとりつくしまもない、愛でるという行為以外を拒絶する存在になる筈だからです。
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あはは。面白い人だなあ。
とりあえず、「メッセージ性とは何か」とか、そういう問題は脇に置いておこう。ある人がある作品を鑑賞して、「こりゃあシラカバな作品だ」と思ったとする。
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可能性1: 作品がシラカバ。
可能性2: 鑑賞者がシラカバ。
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もちろん1と2の両方、というのも有り得るわけで。この状況下で自らがシラカバでないことを示しつつ、他のシラカバを駆逐しようとする行いというのは、相当にパラノイア的な事態を招くのではないかしら。
ついでに、状況をもう少しパラノイア的にするために「隠れシラカバ」ということについても考えてみよう。誰かが、ある作品を鑑賞して、「こりゃあ、非シラカバ的な作品だ。ブラボー!」と思ったとする。
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可能性1: 作品が非シラカバで、鑑賞者も非シラカバ。
可能性2: 鑑賞者は作品から単純明快なメッセージを受け取っているのだが、そのメッセージを受け取ったことに気付かないふりをしている。
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