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【2004年11月】

11月27日(土)  「動物は喋らない」、敬意、カート=ヴォネガット。お返事。

 知人に教えてもらった、「鷹匠ちゃん――『誇りと絆』」というwebマンガを読んだ。3ページ程度と短いマンガなので皆さんも読むといいよ。


 さて、皆さんが読み終わったところで続きを。
 比叡が「ただ、そうしないだけだ」と喋ってしまうところが、このマンガの笑いどころであり、泣かせどころでもあると思ったことですよ。つまり、実際に「そうしなかった」ことと、「ただ、そうしないだけだ」と喋ってしまうこと(いた、テレパシーでも、「ゴーストの囁き」でもいいんだけどさ)との間には、天地の隔たりがあるわけで。つまり僕らは、比叡の言葉を「照れ隠し」だと読むことが出来てしまう。

「あんたってほんと……かわいくないわね!」「かわいらしい猛禽などいるものか」
 だけど、漫画的タッチで描かれた眼のくりくりとした比叡は、困ったことに可愛らしいわけでさ。


 ところで、このマンガの最後には作者による解説が付いてるんだけど、ヒロインについてはこんなことが書いてあったり。
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つらい境遇や心の弱さに負けないように気を張って、ふだんは元気に明るく振る舞える気丈さがあり、人に弱みを見せず強がってるんだけど、そのせいでガラスみたいにもろいところがあって、何かの拍子にポッキリ折れちゃいそうな、ちょっと儚げな陰のある―――それでも何とか自立しようと背伸びして頑張ってる子が好きなのです。
(引用者中略)
 でも大抵そういう子ってのは周囲に対して、誰にも支えられたくない、同情なんか要らない、余計な気を遣って欲しくない、あたしのことなんか放っておいてよ、という態度をとるわけです。本当は誰かに甘えたくて仕方ないんだけど、そんなのは恥ずかしいことだと思ってて、頑として自分の本音に従おうとしない ―――もうね、そのストイックさからくるジレンマがたまらんね。何も言わずにギューッと抱きしめてやりたいし、そのせいで大いにブン殴られたい。うん。
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 この文章を読んだときに僕が思ったのは、
「 なんてヒロインに対して失礼な言種だ。『本当は誰かに甘えたくて仕方ないんだけど』なんて下衆な勘繰りをするんじゃねえよ! たとえアンタが作者だったとしてもだ! 」
ということで。


 最近しばらく、「敬意」という言葉についてもごもご考えてます。たとえば、内田樹氏による次の文章によって示されるようなこと。
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(⇒http://www.tatsuru.com/diary/tohoho/th0006.html の6月30日後半)

 で、話は飛ぶけれど、いまの人間関係でいちばん欠けているものは何か、ということがこのあいだ議論になった。「愛」じゃないですか、と学生さんの一人が言った。甘いね。「愛」なんか売るほどあるよ。欠けているのはね、「敬意」なのである。

 「敬意」というのは、「自分とは別のもの」に対する畏怖と、理解不可能であることへの涼しい諦念と、それにもかかわらずコミュニケーションの回路を維持しておきたいと願う欲望のおりなす、とてもデリケートなこころのあり方である。

 「敬意」のあるところにしか対話は成り立たない。「愛」というのをしばしばひとは「親しさ」と勘違いする。そして「親しさ」は実にしばしば「敬意の欠如」として表現される。だから「愛」があるのに、「対話」が成り立たないという関係が増殖するのである。おじさんたちがいちばん切実に求めているのは、「愛」ではない。「敬意」である。
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 敬意について考えている理由としては、このところカート=ヴォネガット・ジュニアの作品を読み返しているとゆーのがあって。たとえば、彼の作品「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」(ハヤカワ文庫SF)を評した、ジュディス・メリルのこんな文章があるそうな。
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「(前略)作者は厳格で、おそろしいほど透徹した目を持ち、そして愛情深い。腹黒い弁護士、尊大な上院議員、混乱した相続人、ジェット族の妻、金持ちのレズビアン、ふとった保険外交員、老処女のメイド、そして誇り高い漁夫までが、ひとりずつ、なんの容赦もない照明のもとにさらされる。そして彼らのひとりひとりが――愚かしく、貪欲で、意地悪で、エゴイストで、好色で、醜悪で、インポで、インチキで、嘘つきでありながら――どういうわけか、現代作家の中でもとりわけ非凡なこの才能の手にかかると、愛の対象にかわってしまうのだ。それも作家だけでなく、あなたがたの愛の対象に」
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 ふうん、登場人物に対する愛ねえ。でも、作者の登場人物に対する敬意についてはどうなんだろう。まさにその敬意の欠如こそが、ヴォネガットの「ほろ苦くも暖かい、世界への愛情」と評されるものを生み出していたりするのだろうか。


 ところでヴォネガットといえば、自分の小説の冒頭に、気の利いたエピグラフやら小説を書くことになった理由やらを置くひとなわけですが。僕ら読者はそれらの前書きやエピグラフをどのように読めばよいのだろうか。とくにそれが、
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本書には真実はいっさいない。
( 「猫のゆりかご」の冒頭 )
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とか、
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生者と死者とを問わず、すべての人びとの存在はたんなる暗合であり、そこに解釈を加えるべきではない。
( 「ローズウォーターさん、あなたに神のお導きを」の冒頭 )
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だったりする場合には。

 あとたとえば、こんなのはどうだろう。
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警告: この物語に主題を見出さんとする者は告訴さるべし。そこに教訓を見出さんとするものは追放さるべし。そこに筋書を見出さんとするものは射殺さるべし。

著者の命によりて 兵器部長G・G
(マーク・トウェイン「ハックルベリー・フィンの冒険」 岩波文庫版の冒頭。新潮文庫版には載ってない。なぜだ。)
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 「そうか、じゃあ筋書きや教訓を見出さないように努力しよう!」というのが、作者に対する読者の仁義だったりするのだろうか。どうだろう。




 全然別の話。たぶん。
http://poteto.itits.co.jp/b.asp?S=lilt(2127〜2133)へのお返事。掲示板に書かれてたから、また気付きませんでしたよ。まったくもう。

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http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200410.html#28_4
泥沼とはこういう事を言うんでしょうね。
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 そうなんでしょうか。この手の話題としては、かなりスムーズに話が進んでいると僕は思ってるんですけど。

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> 罵倒に対して話を噛み合わせろと言われても困ります。
噛み合わないことが分かった、と言ったのであって、噛み合わせろなんて言ってません。人が書いたことを毎回こうやって自分流に解釈(書き手にとっては誤読)してああだこうだ言うから噛み合わないんです。第一僕があなたを「罵倒」しているとは少なくとも僕は一度も言っていない以上、ここで使われた「罵倒」という言葉が既にあなたの解釈なのに、それを自分の解釈だと明示して書かないとか、そういう不注意(配慮の不足?)が多すぎるから掲示板でも kasit とかいう人とまた噛み合わなくなるんですよ。
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 いやその。「何々である」というようなことは、つねに命令というか、なにかしらそういうメッセージを含んでいるわけですが。

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> 勝利宣言とは違うのですか?
話をずらして一方的に高みに立って相手を憐れんでみせることで正面からの応答を回避する態度が「勝利宣言」だと思ったからそう書きました。「自分を止められないんだよねー」はまだ挑んでいるだけの状態なので、勝利宣言とは違うと思います。
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 あー、僕は、あなたの「自分を止められないんだよねー」というのを「一方的に高みに立って相手を憐れんでみせる態度」だと受け取ったのですが、それで良いのでしょうか。
 その場合、その発言が「勝利宣言」かどうかを決めるのは、「正面からの応答を回避する/(相手に真正面から?)挑んでいる」という印象論だけになるんですが。あ、忘れてた。「印象論」というのは僕の解釈です。

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あと
> なるほど。犬として生まれてしまったということ自体はあなたにぴったりなので運が悪いとは思いませんけども、
> そもそものあなたの「ほら、俺様ちゃん狂犬だからさー、自分を止められないんだよねー」みたいな台詞というのは
僕はこういうのこそが「罵倒」であると思いました。この解釈は正しいですか?
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 あなたが出してきた「狂犬」っていう喩えを引き継いだだけじゃないですかね。

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> というのは、「皮肉の意味で書いたつもりなんですけど」。
皮肉キターと言えばいや全然皮肉じゃないですと言い、額面通りに読めば実は皮肉でしたと言う。後付けの言い訳にしか聞こえませんよ。
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 はあ。あなたがそう聞いてしまったのなら仕方ないですね。こちらの言い方を工夫することにしてみましょう。

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> この2つの言葉を繋ぐものが僕には気になります。
自分の中では取り立てて深い連関を持たせて言ったことではないので、あなたがどういう繋がりを期待や憶測しているのかも分かりませんが、見込みでやってみます。外れてたら言ってください。

一般に人は私念が物質である言語と等価交換可能であると前提して言語を使用する。つまり言語行為に先行して存在する観念を言語という物質を使って表現・代行させることができ、且つそれを受け取る相手もその物質からもとの観念を汲み取ることができる、という前提がある。素朴な言語観なので批判の余地はありまくりますが、ただ差し当たり世俗的な場面ではこれを信じないと言語は使えないし、これを信じられなくなった世界は分裂病的です。

しかし当然、そう上手くは行かず交換が失敗し話が通じなくなる事は(現にこうして)よくある。大体観念と物質を等価交換するというアイディアの時点で無理。しかしそれでもなお伝達を行なおうとするなら交換の失敗の可能性を予め考慮し覚悟して行なわざるを得ず、よって伝達の結果については「究極的には見込み」としか言えない。無論見込みだから当てが外れて「という意味で書いたつもりです」なんて無様な説明をする羽目になることもある(そしてその説明がまた見込みでやるしかない)。

だがいずれにせよ意味があり得るのは言われた(物質になった)言葉だけで、そもそも私念とは言語になる前のものでありまた物質性を欠いた言語とは観念に過ぎない以上、「言われていない言葉」などというものは定義として矛盾している。よって言語行為についても言うか言わないかの 2 通りしかない。他の様態、例えば「思うところがあって、いわないことにした」なんてものはない。あるとしたらまさに観念の中にしかなく、俗に下衆の勘繰りと言われるのがこれです。
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 わざわざ丁寧に有難うございます。「信じる」という言葉がポイントみたいですね。
 ところで「分裂病的」に関してですが、「言葉と観念との交換が信じられなくなった」というよりも、むしろ交換可能であることを過剰に信じてしまっている、さらに言うなら「信じる信じないとか言う以前に、単純に交換してしまっている」ような気がするのですが、どうなんでしょう。
 あと、皮肉というのは「下衆の勘繰り」的な要素を含んでいると僕は思うのですが、それで良いですか?

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> 大いにウケました。いえ、アドルノの著作にではなく、あなたのこの言葉に。
「アドルノは読みましたか?」は勿論皮肉ですが、それはともかく、何がどうウケたのかなど既に言う必要すらないとでも言いたげですね。言われたことにまともな応答はしないで自分が既に相手とは別の次元にいるかのように装って笑ってみせる、「お前なんか相手にしてねーよゲラゲラ」、この態度が勝利宣言なんですよ。
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 いやその。その言葉は皮肉だって、あなた自身もおっしゃってるわけですよね。皮肉に対しての「まともな応答」として僕が知ってるのは、ああいうやり方なんですが。なにか他の方法を教えていただけますか?
 たとえばこれが「アドルノの書いている○○は現在の話題と××という点で明確に絡んでくるのだが、それについてはどう思うか?」とかいうご質問であるなら、僕自身も勉強になりますし、他の答え方も思いつくのですが。
 あと、僕は「お前なんか相手にしてねーよ」なんて書いた記憶は無いわけで。あなたの解釈でしたら、その旨を明記していただけると助かります。


11月14日(日)  文章を削った。「スローターハウス5」(続)、自明性の喪失。
 少し思うところがあって、過去の文章を削除しました。2003年2月以前の文章全部と、あと今年に入ってからの文章を幾つか。今年に入ってからの文章に関しては、他のひとに言及した、あるいは他の人から言及された文章を削除するようなことはしていないと思いますが。たぶん。


 さて、カート=ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」の続き。この小説の冒頭は、こんな感じ。
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 ドイツ系アメリカ人四世であり、いまケープ・コッドにおいて、(タバコの吸いすぎを気にしつつも)安逸な生活をいとなむこの者、遠いむかし、武装を解かれたアメリカ軍歩兵隊斥候すなわち捕虜として、ドイツ国はドレスデン市「エルベ河畔のフローレンス」の焼夷弾爆撃を体験し、生きながらえて、この物語をかたる。
 これは、空飛ぶ円盤の故郷トラルファマドール星に伝わる、電報文的分裂症的物語形式を模して綴られた小説である。ピース。
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 んで、この「電報文的分裂症的物語形式」とゆーのが一体何なのかということに関して、小説中には次のように書いてある。
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 ビリーには、もちろんトラルファマドール語は読めない。だが、トラルファマドール星の本がどのような仕組みになっているかは、およそ見当がついた――記号のかたまりが点々とならび、そのあいだは星のマークで隔てられている。まるで電報のようだ、とビリーは感想を述べた。
「そのとおり」と、声がいった。
「電報だって?」
「トラルファマドール星には電報というものはない。しかしきみの考えはまちがってはいない。それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだ――それぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終りもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ。
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 この「分裂症(病)的」という言葉、使うひとによって意味合いが様々なので困る。実際の統合失調症とは関係ない文脈で使われることも多いし。それはさておき。電報文的分裂症的物語形式(←長い)の特徴は「局面局面では支離滅裂ではあるけれど、全体を眺めると不思議な統一感を得られる」ということのようだ。
 問題は、その統一感というのは、まさしく分裂症者が得ようとしても得られないものではないかということで。そしてもう一つ。この本の背景にはドレスデン大空襲によるトラウマ的経験があるようなのだけど、トラウマというのもまた、自身の経験を何らかの形で統一しようとすることが不可能になるということではないのかしらん。
 もちろん、「分裂症的物語」とは分裂症者自身の経験と明らかに異なるわけで、そこが問題。

 俗な読み方をしてみるなら、
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 ヴォネガットは自らの分身としてのビリーを創造し、そして「外から見た」「戯画的な」分裂症のイメージをもつ物語を彼に与えた。そしてこの戯画化あるいは、模倣=演戯という状態を経由することによって、ヴォネガットは自らの統一されえぬトラウマ的体験を客体化できるようになった(⇒つまり、ある種の統一化が可能になった)のだ。
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ということになるのかしら。ずいぶんと適当な読みだなあ。


 木村敏「時間と自己」(70〜71ページ)から。
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 これらの本質的に非特異的な臨床症状以上に、自己性の不確実さという分裂病性の特徴をはっきり反映しているのは、患者が日常の対人関係の場面で示す意識の持ちかたや行動の仕方である。それは、一言でいえば「独特の不自然さ」と言ってよいだろう。あるいはブランケンブルクの症例アンネの表現を借りて、「自然な自明性が失われている」と言ってもよい(木村敏他訳『自明性の喪失』みすず書房)。患者はその対人関係において、相手とのあいだに特有のぎこちなさを感じており、しばしばそれを「間がもたない」「流れにのれない」、「なにかずれている」などと表現する。
(引用者略)
 このような分裂病者のありかたは、彼と個人的に親しく交わろうとするわれわれの心に、それ以外ではまず見られないような特別な印象を呼びおこすことが多い。そのために、ある程度の経験を積んだ精神科医にとっては、この印象のほうが個々の症状よりも高い診断的価値をもつ場合がある。従来から分裂病の「直感診断」、「感情診断」、「洞察診断」、「分裂病感」(プレコックスゲフュール)と呼ばれてきたのは、この特有の人間的印象のことである。具体的な印象派患者によってかなりさまざまなニュアンスをおびるが、最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。
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 ここで描かれる、分裂症者自身にとっての自明性の喪失というのは「自分と外界との境界が、ぐずぐずになってしまう」「自分というものが無くなってしまう」ようなもので。
 その一方で、分裂症者を診断する側は、そのような患者と向かい合ったとき「なんとなくいやーな感じがする」と思う、かもしれない。そして、談話室で他のひととこういう会話をしている、かもしれない。
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後輩: 「なんか、あの患者って妙な印象なんですよね」
先輩: 「お、お前もそう感じたか。あれがプレコックス感ってヤツだよ。覚えとけ」
後輩: 「えー、あれがそうなんですか。えーと、上手く言えないですけど、なんか、フツーじゃないっていうか」
先輩: 「そうそう、それ」
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 このときの彼らにとって「フツー」は、ごく当たり前に(「自明なものとして」)自分たちの側にある。その上で患者のことを、フツーじゃないもの、自明ではないもの、違和感を感じさせるものとして発見する。でもそれは、分裂症者本人が苦しんでいる「自明性の喪失」とは、あんまり関係が無い。


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 ビリーは、けいれん的時間旅行者である。つぎの行先をみずからコントロールする力はない。したがって旅は必ずしも楽しいものではない。人生のどの場面をつぎに演じることになるかわからないので、いつも場おくれ(ステージ・フライト)の状態におかれている、と彼はいう。
(カート=ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」 35ページ)
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 この「場おくれ」=ステージ・フライト(stage fright)、辞書的な意味では「舞台に立たされたときにアガってしまう」ことを意味するそうな。ところが実際には、この小説中においてビリーが「気おくれ」を感じている様子というのは全く描写されない。どうしたものか。小説中におけるビリーは、むしろ、今後起こるすべての運命を予め知っていて、諦観のうちにその運命を受け入れている存在であるかのように描かれているわけでさ。


 というか、これ4月に考えてたこと(⇒200404.html#24_1)と同じような気がするな。