11月14日(日) 文章を削った。「スローターハウス5」(続)、自明性の喪失。
少し思うところがあって、過去の文章を削除しました。2003年2月以前の文章全部と、あと今年に入ってからの文章を幾つか。今年に入ってからの文章に関しては、他のひとに言及した、あるいは他の人から言及された文章を削除するようなことはしていないと思いますが。たぶん。
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さて、カート=ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」の続き。この小説の冒頭は、こんな感じ。
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ドイツ系アメリカ人四世であり、いまケープ・コッドにおいて、(タバコの吸いすぎを気にしつつも)安逸な生活をいとなむこの者、遠いむかし、武装を解かれたアメリカ軍歩兵隊斥候すなわち捕虜として、ドイツ国はドレスデン市「エルベ河畔のフローレンス」の焼夷弾爆撃を体験し、生きながらえて、この物語をかたる。
これは、空飛ぶ円盤の故郷トラルファマドール星に伝わる、電報文的分裂症的物語形式を模して綴られた小説である。ピース。
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んで、この「電報文的分裂症的物語形式」とゆーのが一体何なのかということに関して、小説中には次のように書いてある。
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ビリーには、もちろんトラルファマドール語は読めない。だが、トラルファマドール星の本がどのような仕組みになっているかは、およそ見当がついた――記号のかたまりが点々とならび、そのあいだは星のマークで隔てられている。まるで電報のようだ、とビリーは感想を述べた。
「そのとおり」と、声がいった。
「電報だって?」
「トラルファマドール星には電報というものはない。しかしきみの考えはまちがってはいない。それぞれやむにやまれぬ簡潔なメッセージなのだ――それぞれに事態なり情景なりが描かれている。われわれトラルファマドール星人は、それをつぎからつぎというふうでなく、いっぺんに読む。メッセージはすべて作者によって入念に選びぬかれたものだが、それぞれのあいだには、べつにこれといった関係はない。ただそれらをいっぺんに読むと、驚きにみちた、美しく底深い人生のイメージがうかびあがるのだ。始まりもなければ、中間も、終りもないし、サスペンスも、教訓も、原因も、結果もない。われわれがこうした本を愛するのは、多くのすばらしい瞬間の深みをそこで一度にながめることができるからだ。
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この「分裂症(病)的」という言葉、使うひとによって意味合いが様々なので困る。実際の統合失調症とは関係ない文脈で使われることも多いし。それはさておき。電報文的分裂症的物語形式(←長い)の特徴は「局面局面では支離滅裂ではあるけれど、全体を眺めると不思議な統一感を得られる」ということのようだ。
問題は、その統一感というのは、まさしく分裂症者が得ようとしても得られないものではないかということで。そしてもう一つ。この本の背景にはドレスデン大空襲によるトラウマ的経験があるようなのだけど、トラウマというのもまた、自身の経験を何らかの形で統一しようとすることが不可能になるということではないのかしらん。
もちろん、「分裂症的物語」とは分裂症者自身の経験と明らかに異なるわけで、そこが問題。
俗な読み方をしてみるなら、
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ヴォネガットは自らの分身としてのビリーを創造し、そして「外から見た」「戯画的な」分裂症のイメージをもつ物語を彼に与えた。そしてこの戯画化あるいは、模倣=演戯という状態を経由することによって、ヴォネガットは自らの統一されえぬトラウマ的体験を客体化できるようになった(⇒つまり、ある種の統一化が可能になった)のだ。
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ということになるのかしら。ずいぶんと適当な読みだなあ。
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木村敏「時間と自己」(70〜71ページ)から。
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これらの本質的に非特異的な臨床症状以上に、自己性の不確実さという分裂病性の特徴をはっきり反映しているのは、患者が日常の対人関係の場面で示す意識の持ちかたや行動の仕方である。それは、一言でいえば「独特の不自然さ」と言ってよいだろう。あるいはブランケンブルクの症例アンネの表現を借りて、「自然な自明性が失われている」と言ってもよい(木村敏他訳『自明性の喪失』みすず書房)。患者はその対人関係において、相手とのあいだに特有のぎこちなさを感じており、しばしばそれを「間がもたない」「流れにのれない」、「なにかずれている」などと表現する。
(引用者略)
このような分裂病者のありかたは、彼と個人的に親しく交わろうとするわれわれの心に、それ以外ではまず見られないような特別な印象を呼びおこすことが多い。そのために、ある程度の経験を積んだ精神科医にとっては、この印象のほうが個々の症状よりも高い診断的価値をもつ場合がある。従来から分裂病の「直感診断」、「感情診断」、「洞察診断」、「分裂病感」(プレコックスゲフュール)と呼ばれてきたのは、この特有の人間的印象のことである。具体的な印象派患者によってかなりさまざまなニュアンスをおびるが、最も多いのは一種の接近遮断感、あるいは心の不通感とでもいうべき印象だろう。
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ここで描かれる、分裂症者自身にとっての自明性の喪失というのは「自分と外界との境界が、ぐずぐずになってしまう」「自分というものが無くなってしまう」ようなもので。
その一方で、分裂症者を診断する側は、そのような患者と向かい合ったとき「なんとなくいやーな感じがする」と思う、かもしれない。そして、談話室で他のひととこういう会話をしている、かもしれない。
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後輩: 「なんか、あの患者って妙な印象なんですよね」
先輩: 「お、お前もそう感じたか。あれがプレコックス感ってヤツだよ。覚えとけ」
後輩: 「えー、あれがそうなんですか。えーと、上手く言えないですけど、なんか、フツーじゃないっていうか」
先輩: 「そうそう、それ」
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このときの彼らにとって「フツー」は、ごく当たり前に(「自明なものとして」)自分たちの側にある。その上で患者のことを、フツーじゃないもの、自明ではないもの、違和感を感じさせるものとして発見する。でもそれは、分裂症者本人が苦しんでいる「自明性の喪失」とは、あんまり関係が無い。
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ビリーは、けいれん的時間旅行者である。つぎの行先をみずからコントロールする力はない。したがって旅は必ずしも楽しいものではない。人生のどの場面をつぎに演じることになるかわからないので、いつも場おくれ(ステージ・フライト)の状態におかれている、と彼はいう。
(カート=ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」 35ページ)
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この「場おくれ」=ステージ・フライト(stage fright)、辞書的な意味では「舞台に立たされたときにアガってしまう」ことを意味するそうな。ところが実際には、この小説中においてビリーが「気おくれ」を感じている様子というのは全く描写されない。どうしたものか。小説中におけるビリーは、むしろ、今後起こるすべての運命を予め知っていて、諦観のうちにその運命を受け入れている存在であるかのように描かれているわけでさ。
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というか、これ4月に考えてたこと(⇒200404.html#24_1)と同じような気がするな。
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