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【2004年10月】

10月28日(木)  「そういうものだ(So it goes.)」、お返事。

 というわけで(←何がだ)、カート=ヴォネガット・ジュニア「スローターハウス5」(ハヤカワ文庫SF)を買ってきて読み直した。整いすぎた話だと思いましたよ。
 読んでる最中にやたらと、木村敏「時間と自己」(中公新書)の内容が頭に浮かんできたので困った。たとえば、
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 離人症患者がしばしば語ってくれる体験のうちで、われわれにとって特に問題になるのは、その独特の時間体験である。ある患者は「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先に進んでいかない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もつながりもない」という。
 「時間と自己」(27ページ)
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とか。


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 たとえばトラルファマドール星人は、ちょうどわれわれがロッキー山脈をながめるのと同じように、あらゆる異なる瞬間を一望のうちにおさめることができる、彼らにとっては、あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができるのである。一瞬一瞬は数珠のように画一的につながったもので、いったん過ぎ去った瞬間は二度ともどってこないという、われわれ地球人の現実認識は錯覚にすぎない。
 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、”そういうものだ”。
 「スローターハウス5」(39ページ)
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 この本のなかで繰り返し語られる「そういうものだ」という台詞。原文ではこの台詞、"So it goes."らしい。なんだか実に訳しづらそうな言葉。「そういうものだ」と訳してしまうと、justだのonlyだの「単に〜にすぎない」というニュアンスが出てきてしまう気がするのだけど、それで良いものかしらん。

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["so+主語+(助)動詞"の語順で,先行の陳述に対する同意・確認を表わして] まさに、いかにも、実際。
You said it was good, and so it is. 君はいいと言ったがいかにもいいね.
"You look very tired."―"So I am." 「ずいぶん疲れているようだね」「まったく疲れたよ」
"They work hard."―"So they do." 「彼らは勉強家だね」「まったくだ」
"You promised to buy me a ring!"―"So I did!" 「指輪を買ってくれると約束したじゃないの!」「そうだった! 《忘れていた》」
[株式会社研究社 新英和・和英中辞典 "so"の項]
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 手元の辞書をめくってみたところ、一番近そうなニュアンスはこの辺りなのではないかという気がした。同語反復的な繰り返し・確認のつぶやき。「単に〜にすぎない」というような意味づけすら拒否するような。
 マイスター伊藤典夫の訳をいじるのは甚だ勇気が要ることではありますが、「そういうものだ」をこのように変更したら印象が変わるかも、という代案を幾つか考えてみたですよ。
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・「まあ、そんな按配」
・「色々あった。
・「やれやれ」(←いやその…、オチとして)
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 インタビューに答えて「ほら、宇宙が単一の時空連続体だって想像すると、幸せになってこない?」なんて言ったのはルーディ・ラッカーで、彼とヴォネガットの間の近さと遠さについて少しだけ考える。
 ヴォネガットがメジャーになったきっかけというのは「猫のゆりかご」が大学生の間で熱い支持を受けたことにあるらしいのだけど、ラッカーってちょうどそのころ大学一年生なんだよなあ。
 テッド・チャン「あなたの人生の物語」? そんなのどうでもいいです。




 全然別の話。たぶん。
 某所、じゃなくてこちらの掲示板(2118〜2121)へのお返事。掲示板に書かれてたもので、知人が教えてくれるまで気付きませんでしたよ。

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http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200410.html#03_2
 あー。あなたと話が噛み合わないということだけは分かりました。例えば「運の悪い」と言うのは「僕の関心領域とそこそこ重なることについてそれをやっている」という「事態」に対する形容で、次にその「事態」は誰にとって「運が悪い」のかと言えばあなたにとってだ、「という意味で書いたつもりです」。
 つまり僕が狂犬であなたが噛み付かれた人だとして、「人が狂犬に噛まれるという事態」は「運の悪い」ことですが、では誰にとってその事態は運が悪いのかと言えば、あなたにとってです、「という意味で書いたつもりです」。それをあなたはなぜか僕(狂犬)にとって運が悪いと解して勝手に愁傷してくれる。この箇所については「 13. 勝利宣言をする」という言葉が浮かびましたが。
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 いやその。罵倒に対して話を噛み合わせろと言われても困ります。
 たとえば、「フゥハハハー、狂犬である俺様の前を通るなんて、運が悪いなあ」みたいなことを言われたときに、「なるほど。犬として生まれてしまったということ自体はあなたにぴったりなので運が悪いとは思いませんけども、狂犬病に罹ってしまったというのは確かに運が悪いとしか言いようがありませんな」と返すのは、話のずらしかたとしては標準的だと思いますが。
 「13. 勝利宣言をする」というのは何のことでしょう。あー、詭弁のガイドラインとかいうやつでしょうか。ところで、そもそものあなたの「ほら、俺様ちゃん狂犬だからさー、自分を止められないんだよねー」みたいな台詞というのは、勝利宣言とは違うのですか?

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ただそれは、句読点の打ち方に多少配慮を欠いた程度で派手な誤読をして後日修正しなければならなくなるような人にこんな文章を書いたのが間違いだったということかも知れません。
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 あはは。句読点の打ち方に(なかなかに)配慮が欠かれてたとはいえ、誤読に関しては済みませんということで。

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「僕はこの文を○○という意味で引用していたつもりです」なんて間の抜けたことは誰だって書きたかありませんよ。それをやらざるを得なかったのは僕の配慮が足りなかったからで、例えば A を意味したい時にそれをごく簡潔に表現している既存の B という文があったので B を採用して手を抜く、この時読み手は B を A ととってくれる必要があり、更にその前提には B を A と読める程度の文化的背景や文脈が共有されている必要がある。無論書き手の意図は読み手が読む段階で常に裏切られるから究極的には全て「見込み」でやるしかなくて、そしてそれがこのケースでは大きく外れたということです。ただそれを「だったら最初からそう書けばいいのに」とか言われるのは心外だし、それはこの「書く - 読む」の間で何が起こっているかを、しかも自分が当事者なのに全く理解しない人間の言です。あとあなたがバルトもデリダも読んでいないのはさもありなんと思いました。
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 いやその。「だったら最初からそう書けばいいのに」というのは、「皮肉の意味で書いたつもりなんですけど」。柄谷のあの文章が何かを簡潔に表現しているとしたら、それは過不足無く表現というよりも、むしろ大概の皮肉がそうであるような(過剰な?)含みを持っているからで。皮肉に対して皮肉で返しているだけです。
α:「まったくもって、君は賢いひとだね」
β:「ほめてくれてありがとう。実は僕もそう思っていたんだ」
α:「…違うよ。皮肉だよ。僕は『君はバカだ』と言ってたつもりなんだ」
β:「なーんだ。だったら最初からそう言えばいいのに。まわりくどいなあ」

 あなたの今回の「書き手の意図は読み手が読む段階で常に裏切られるから究極的には全て見込みでやるしかない」という言葉と、あなたの以前の「ものを言うか言わないかに関しては言うか言わないかの2通りしかない」という言葉。この2つの言葉を繋ぐものが僕には気になります。両者の関係について「手を抜かずに」書いていただけたりすると、僕は嬉しい。

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アドルノは読みましたか?
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 大いにウケました。いえ、アドルノの著作にではなく、あなたのこの言葉に。


10月13日(水)  「大自然の厳しい掟です」、「俺が法律だ!」、「だってバカですよ?」。

 最近はどうだか知らないけれど、以前のNHKは「セレンゲティにおける野生動物たちの四季」とか「ヌーのアフリカ大陸大移動」とか、定番の野生動物ドキュメンタリーを1年に1回ぐらい繰り返し放映していたように思う。

 セレンゲティ国立公園。生まれたばかりのシマウマの子供を、ジャッカルたちが執拗に狙う。シマウマの母親の懸命な努力にも関わらず、ついに子供はジャッカルに捕らえられ食べられてしまう。
 あるいは、河を渡ろうとするヌーたちの大混雑の様子。力の衰えたヌーが他の個体にのしかかられ、押しつぶされ、河底へと沈んでいく。

 と、そこで入るナレーション。「――大自然の厳しい掟です」

 …以前から不思議に思っていたのだけど、このナレーションって一体何だろう。思想教育の一環だったりするのかしら。他の国でこの手の映像が流されるときには、どんなナレーションが入っているんだろう。
 僕は動物ドキュメンタリーが好きなので、繰り返し放映される「ヌーの大移動」を飽きず眺めていたのだけど、でも、この「大自然の厳しい掟です」という愉快フレーズの存在に気付いてしまってからというもの、このフレーズがスピーカーから流れてくるたびに爆笑するようになってしまった。
 傍から見ると、かなり変なひとである。

 そんな僕とは別のところで、「大自然の厳しい掟です」という言葉を聴くと絶頂を感じてしまうひとというのが世の中には居るらしい。シートン動物記や戸川幸夫動物文学などを読むと、つまるところこれは、読者が「大自然の厳しい掟」を満喫するためにあるのでは、という気がするんだけど。



 「掟」。和英辞典で引くと、ruleだったりlawだったりregulationだったりするらしい。さて、ruleやlawといえば、同時に法則とかそういう意味もあるわけで(自然科学的な法則はlawですね)。
 法律と法則に同じ言葉を割り当てているというのが、色々と面白いところではあります。

 社会的な決まりごと・ルールの場合には「意識して破る」とか、あるいは「破ることに対する罰則」とかがある。けれど自然法則の場合には、そんな対象には成り得ないはず。
 んで、「大自然の厳しい掟です」という言葉が面白いのは、この言葉が「決まりごと・ルール」と「自然法則」との間をふわふわ揺れ動いているところにあるわけで。たとえば、「厳しい」という言葉の使われ方について考えてみればよろしい。


 少し話が変わる。洋物の探偵ドラマとかの定番?として"I am the law."みたいな台詞があって、これは普通、「俺が法律だ」とか「裁くのは俺だ」とか訳されているような気がする。そう訳してしまうと、「世間の法律」vs.「俺法律」、というようなニュアンスが強調されてしまうんだけど、それってどうなんだろう。

 このlawを、どちらかというと自然法則のようなニュアンスだと考えてみると、「俺」的なものとは正反対な意味合いを持ってくる。「個人の主体性を超えた何らかの法則を、俺は代弁している」という感じ。いや、代弁しているという書き方では不十分か。どちらかというなら、「俺は復讐のために生きている。生きながらにして亡霊と化したと言ってもいい」とか、そんなの。…船戸与一の「猛き箱舟」かよ。

 つまり、既に「俺」は空っぽの残骸、空虚にしか過ぎなくて、その代わりになんらかの法則とでも呼ぶべきものが、その空虚を埋めているわけです。アレです。「僕は自動的なんだよ」ってことです。



 上とは、関係が有るような無いような話。
 僕が一等嫌いな人間のタイプとして(←こーいうこと書くと、付き合いの幅をひどく狭めてしまう気もするけど。まあいいか)、「 何にでも、上下関係や点数を割り振ってしまうよーなひと 」というのがある。

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・料理店で食べているときに、即座に他の店との優劣を考えてしまうひと
・街を歩いているときに、出会った異性の(同性の)容貌を採点してしまうひと
・何に使うわけでもないのに、誰かと誰かの能力に優劣をつけて序列評価することに面白さを感じるひと
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とか、そんなひとたち。
 そういうひとたちって、本当に頭悪いよね。

 え? 「なぜ、上下関係や点数を割り振ってはいけないんですか」ですって? うーん、それって結構難しいから、頭悪いひとには理解できないと思うよ。



 と、これだけで終わるのは何なので、お茶濁しとして、また少し別の話をする。
 佐々木俊尚の「ITジャーナル」: ひろゆきとライブドア社長の共通項って? というのを読んだ。

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 その心持ちは、どう言葉で説明すればいいのだろう。人間性が単純というのではない。それは言ってみれば、「身も蓋もない」のである。それが証拠に、「どうしてそんなにひどい扱いをするんですか?」と聞くと、「だってバカですよ?」と答える。その時の堀江社長の表情には、「どうしてそんなことを聞くんだ?」という驚きがあるのである。バカだ、低能だと思えば相手にしないし、そうでなければきちんと相対する。そんなのは当たり前だ、ということなのだろう。
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そして、そうした「身も蓋もなさ」「四の五の言わない」感じというのは、古いメディアの記者にはなかなか伝わらない。オールドメディアは身も蓋もないことは好きじゃないし、四の五の言うのが大好きだからだ。人間のさまざまな行動の背景には、必ず高邁な精神や深い人情などがなければならないし、記事にそういう部分を盛り込まないと、必ずデスクに怒られる。

 「人間が書けてないぞ!」というのである。
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 「人間が書けていない」って、どこかで聞いた気がするなあ。
 そてはさておき。ここで描かれるライブドア堀江氏にしろ2chひろゆき氏にしろ、何かが欠落しているという印象を僕は受けてしまう。
 (その欠落しているものを「人間性」と呼ぶかどうか、とかそういう話は後回しにしよう)

 彼らの、その欠落した部分を埋めているのが何かというと、それはまさしく「だってバカですよ?」という感覚というか確信なのだろうと思う。つまり、彼らの中にありつつも、彼ら自身のコントロールを超えたところにある「人間能力の序列判定基準」。それが彼らを動かしている。
 それゆえに、彼らはどこか操り人形のように見えてしまうわけでさ。

 オチが無いままに、終わる。


10月5日(火)  オライリー本とD&D。該当文書を翻訳したよ。

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 ところで本家 O'Reillyの本の表紙が動物だというのにD&Dが関係している、というのはご存知だろうか?詳しくはAnimal Magnetism: Making O'Reilly Animals @ O'Reillyを読まれたし。

(from Deck of Many Things
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 な、なんだってー。
 というわけで、該当文書の前半部分を翻訳してみたよ。もうどこかで既に訳されているかも。
 アバウトかつ俺様翻訳なんだけど、まあ気にするな。お暇な方はどうぞ。

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Animal Magnetism: Making O'Reilly Animals(http://www.oreilly.com/news/lejeune_0400.html

動物どもの魅力: オライリー印の動物の作り方
by ローリ・ヒューストン
09/01/2000

 オライリー本の表紙を飾っている動物たちは、オライリーブランドの認印です。世界中のどこの本棚であっても、この表紙のおかげでオライリー本はすぐに判別できます。
 オライリー社には長年にわたって、無数の読者から動物たちに関する質問が送られてきました:

「…の表紙の動物はどういう種類なのですか?」
「それはあなたのウェブサイト上に載っているキツネザルやメガネザルなのですか?」(訳注:文意が良く分からない。オライリー社のサイトに実物のキツネザルやメガネザルの写真が置かれていたことがあるのかもしれない)
「表紙の動物と本の中身とは関係しているのでしょうか?」
「表紙画像をポスターとして販売することを考えたことがありますか?」
「これらの動物のイラストをどうやって描いているのですか? CGですか?」

「なぜオライリー社は、コンピューター言語に関する本の表紙に動物のイラストを使うのですか?」


どのようにして、動物たちが私たちの本の表紙を飾ることになったか

 先ほどの最後の質問に答えるには、オライリーの初期の歴史に少しばかり触れる必要があるでしょう。イーディー・フリードマン(現在、オライリー社クリエイティブ・ディレクター)は、最初のオライリー本の表紙をデザインするために雇われました。彼女は本のタイトルが非常に奇妙なものだと考えました。
 ――「sedとawk」 (sed and awk)だって?
 彼女にとってこの題名は、非常に人気のあるRPG、そう「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」(Dungeons and Dragons)のイメージを呼び起こさせるものでした。

 イメージに合った画像を探しているときに、彼女はドーバー・ピクトリアル・アーカイブ――動物を描いた18〜19世紀の木版画や銅版画で、既に著作権が消滅しているものをコレクションした資料集(現在ではこれらはCD-ROMになっています)――に出会いました。そして、二匹のホソロリスを描いた版画(スレンダーロリス)を目にしたときに、彼女はひらめいたのです。「こいつらって、sedちゃんとawkちゃん、なんじゃねーの?」

 彼女はアーカイブから何匹かの動物をスキャンして、実物大の表紙模型に置きました。それから彼女はオライリー社の全員にそれを見せました。その時点でのオライリー社には10人ほどの従業員がいましたが、皆は動物のイラストが適切なのかどうか疑問に思いました。けれどイーディーは、彼女の直感に従うように皆を説得したのです。結局、読者はその表紙を気に入りました。そうして一つのブランドが生まれたのです。
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10月3日(日)  「アラビアの夜の種族」(続)、グレッグ・イーガン。お返事。「教養」。10/4再追記。
 贋・SF系日記更新時刻あるいは同様のアンテナから見にいらっしゃるひとが結構多いようなのだけど、困ったことに最近、「実際には更新されてないのに、更新されたようにアンテナに表示される」状態が頻繁に続いているみたい。
 「更新されているのにアンテナに反映されない」のであれば、単にアンテナに対する信頼度が低下するだけなのけど、「更新していると思って見にきたのに、がっかり」ということになると、閲覧者のこのサイトに対する印象が悪くなってしまうのではないだろうか。それに狼少年効果というか、実際に更新しても見に来てくれなくなるよーな。うーむ。



 ところで今更何だが、「アラビアの夜の種族」において、アイユーヴの主人が「バラバラに切り離された究極の物語」を(バラバラに切り離されているがゆえに)熱心に読みふけるシーンというのがある。
 あのシーンの描写に関して、一瞬でも

塵理論キタワァー!!! (n‘∀‘)η゚・*:.。゜」

と興奮してしまったひと、そしてその後ガッカリしてしまったひとというのはどれくらい居るのだろうか。
 そういう方がいらっしゃいましたら、よろしければ一行掲示板のほうに書いていただけると幸いです。

 坂村健によるグレッグ・イーガン「しあわせの理由」解説では、
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 数学をちょっとかじった人間なら、たいてい魅了されるこの不思議さが、イーガンの執筆の出発点なのではないだろうか。「記述により、畳み込まれる無限」という概念。さらにはそれを可能にする「記述」自体に対する興味。アイデンティティの問題も、結局この「記述」に関する興味の一部となる。
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なんて書かれている。この文章を、たとえば物語論のほうに引きつけて考えてしまうことも出来るのだけど、それってどうなんだろうね。




 そういえば、どこぞへのお返事のこと。素で忘れてましたよ。1ヶ月遅れかよ。

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http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200408.html#28
ところでなんでこの人は僕のサイトにだけはリンクを張って「どこで誰から言われている
のか」を明示しようとしないんだろう? 張ると穢れる?
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 今回は直接リンクを張った記憶はないんですけど。張らなかった理由は忘れてしまったけど、「でも、過去ログが残らないサイトにリンクを張ってもなあ」と思って萎えたとか、そんなんじゃなかったかしら。
 ところで、相手のサイトにリンクを張った上で「どこで誰から言われているのか」を明示しないって、どうやれば出来るんですか?
(10/4 再追記)
 一行掲示板にてありがたいご指摘を受けたので、アホな読み違えをしていた部分を修正。

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> どこがどう「この一文はよく示している」のか良く分からないのですが、それ以外の部
> 分は良くまとまっていて大変に勉強になります。
皮肉キター。内的狂気に撞き動かされて書くロマン主義的芸術家像に未だ憧れちゃうけど
ストレートに言うのはちょっと恥ずかしいカナ、という人がバルトだかデリダだかを齧る
と、足して 2 で割って「文章それ自体によって動かされ書かされている」「憑かれる」
と言いたくなるんでしょ。わかれ。
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 はあ。書いてるほうとしては、一番皮肉っぽくない文章だと思ってたんですけど。
 僕は自分のことを全然「内的狂気に撞き動かされる芸術家像に憧れてる」とは思ってなかったし現在でもそのようには思ってないものですから。何が書いてあるか理解できなかったというのが正直なところで。
 ところでバルトだかデリダだか、そんな難しそうなものは僕は齧ってませんけど。齧ってるとしたら、もっと卑近なものじゃないかしら。

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> ところで「ただいわないだけ」のひとは、「いってみた」ひとに対しても何も思うとこ
> ろは無いんじゃないですかね。「思うところがあって、いわないことにした」ひとなら
> ともかく。
「ただいわないだけ」のひとと「思うところがあって、いわないことにした」ひとが違う
と言い張るその心根が気に喰わないんですよ。もっとはっきり言うなら、ものを言うか言
わないかに関しては言うか言わないかの 2 通りしかないのに、そこでありもしない「こ
の文章で作者の言いたいこと」を持ち出して逃げ道を確保する遣り口にヘドが出るんです
よ。あと少なくとも僕は件の柄谷の一文を、「この程度の自意識はだれでも多少はもって
いる、ということに普通の人なら気付くので馬鹿らしくて言う気がなくなる」の意で引用
してます。
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 いや、それだったら、柄谷の引用などせずに最初からそう書けばいいのに。あとで「僕はこの文を○○という意味で引用していたつもりです」なんて書かなくても済むし。

 ギャラリーの皆様におかれましては、たとえば「ものを言うか言わないかに関しては言うか言わないかの 2 通りしかない」とかそういうことに関して、北田暁大さんのhttp://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040127辺りを読まれると面白いかもしれません。

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なぜ僕がこの人に喧嘩を売らずにはいられないのかと言うと、要するに「昨日読んだもの
のことを今日書く」という浅薄な態度が徹底していて、別言すると教養と恥が両つながら
見事に欠落していて、その上運の悪いことに僕の関心領域とそこそこ重なることについて
それをやっているからです。
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 いやその。僕に教養が無いのは、全くその通りというか、それこそ「みんな知ってるけど、でも単に言わない」だけじゃないかしら。
 「恥」はどうなんでしょう。貴方と僕とで何を恥と思うかが違うだけなのか、それとも僕には恥というもの自体が存在しないんでしょうか。日頃から素裸で過ごしている未開部族の人間に関する話というか。

 ところで、貴方と僕の関心領域というのは重なっているのですか。それは貴方にとっては本当に運が悪いというか、まったくもってつくづくとお悼み申し上げます。ご愁傷様です。
 「喧嘩を売らずにはいられない」のって大変ですね。


(追記)
 あー、気付いたのだけど、↑上の文章の「教養」に関する部分を僕は読み違えていた(というかそもそもまともに読んでなかった)らしい。「お前には教養が欠如している」と言われたときに、反射的に「はあ。確かに僕には知識も読書量も思考の深みも足りませんなあ」と即座に納得してしまったのだけど、多分あの文章が書いていることはそういうことではない。
 ここでの教養というのは「態度」に近いもので。昨日読んだもののことを今日書く、つまり、(仮に)「昨日○○という本を読み終えました。××ということが書いてありました。役に立つかもしれないのでメモメモ!」という過程で得られるのがマニュアル的でexplicitな知識だとすると、教養とはそのような知識とは対立するような、何かimplicitなもので同時に態度でもある、ということなのだろう。たぶん。
 でもここで仮に、「なるほど! マニュアル的で表層的な知識ばっかりでは教養とは言えないんですね! 自分の中に蓄積していくこと、そうして深く思考することこそが教養への道なんですね!」とかexplicitに叫んで納得してしまうと、余計に教養というのは遠ざかってしまう気もする。
 教養への道程は遠い。

(↓昨日読んだもののことを今日書くような態度の一環として)
内田樹の研究室:「話は分かったみなまで言うな―2004年1月」1月21日分から。
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 文化資本はむしろ不可逆的に、より狭隘な社会集団に排他的に蓄積される傾向にある。 というのは、生産手段である経済資本については「オレにもそれわけてくれよ」と言ってくる人がいるが、文化資本については、「オレにも教養と感受性をくれよ」と望む人はいないからである。
 そんなこと言っても無理だからである。文化資本は分割頒布できないんだから。
 それは先程述べたように、「気がついたら、もう身に付いていた」ものであり、「気がついたら、身に付いていなかった」人は、もうどうしようもないのである。 「私は・・・になりたい」というような社会的自覚が生まれてきたときには、「もう文化資本が蓄積されていた人」と「文化資本がゼロだった人」のあいだに乗り越えがたい「壁」が構築されてしまう。

「え、そうなの? わ、たいへん。じゃ、うちの子はアメリカン・スクールに通わせてバイリンガルにして、ピアノのお稽古にいかせて、日舞とバレーと茶の湯と能楽と合気道も習わせることにしましょ。ね、あなたのお小遣い削るわよ。教育投資にあたし命をかけるわ」

 勘違いしちゃダメだって、言ってるでしょ。「文化資本を金で買う」というこの発想そのものが文化資本の価値に対する根本的な無理解を露呈しているんだから。 この人は「要するに金でしょ? 文化資本もってるとお金もちになれるんでしょ? だから先行投資をして文化資本を安いうちに買いだめすればいいんじゃない」と考えている。
 でもね、「豊かな文化資本に浴した人」というのは、ひとことでいえば「教養を貨幣よりも当然のように上位に置く感性」の持ち主のことである。 「ほんとうにたいせつなものは金では買えない」という感性が「金で買える」はずがないでしょ?
 文化資本について言えることは「それを身につけよう」という発想そのものが(つまり、資本を手にして社会階層を上昇しようという「欲望」そのものが)、(触れるものすべてを黄金に換えるミダス王のように)、触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうということである。 「文化資本を獲得するために努力する」というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では、「文化的プロレタリアート」への墜落を宿命づけるのである。
 ひどい話だ。「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会の原理である。
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(10/4 再追記)
 それはそうとして、僕は教養を求めているんだろうか。どうなんだろう。
 教養というのがマニュアル的な知識とは対立するような、なにかimplicitなものだとするなら、僕は「ひとが教養を身につける過程」に興味があるわけで。教養それ自体の中に入り込みたいのかというと、良く分からない。

 つーか、仮に僕が教養とやらの中に入り込んでしまったとしたら、そのときの僕は「ひとが教養を身につける過程」について語るのなんて野暮だと感じるのではなかろーか。そして、そのときの僕は、「この無教養な田舎者が!」と他の誰かを罵倒することでしか、教養という言葉を使わなくなるのかもしれない。