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【2004年9月】

9月23日(木)  古川日出男「アラビアの夜の種族」。イーエスブックス「わたしの書店」。

 古川日出男「アラビアの夜の種族」(角川書店)についてもごもご考えたのだけど、段々とどうでも良くなってきてしまったよ。

 抑圧的な立場におかれた少数民族の、抑圧された女たちは、自らが語る架空の物語を単なるハッピーエンドにはしたくない。ヒロイン格の女性の純潔性が云々とか夫以外の男性の子供をその女性が身ごもったとか、物語にそういう棘を残しておこうとする。んで、語り終えた女たちはこう言う。
「その子供の子孫が私たちです」
 もう正直、頭が悪いというか何というか、色々な意味で泣ける。千夜一夜物語を反転したらこうなっちゃいましたよ。

 追記:クルド人三兄弟は格好良かった。



 浅野智彦「自己への物語論的接近――家族療法から社会学へ」の感想をはてなダイアリーに書いたよ。

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(前略)いずれの場合であれ、自己物語はその信憑性を宙づりにされてしまうであろう。これは、発言そのものとその発言の真偽を支える視点とが同じ語り手に属しているために起ることである。
 このようなパラドクスに対して、アウグスティヌス以来の自伝文学の伝統は、物語の内部に「回心」という独特の体験を組み込むことで対処しようとしてきた。「回心」とは象徴的な死と再生の過程であり、これを経ることによって自己物語の語り手は過去の自分との断絶と連続とを同時に手にいれることができる。
(本文18ページ)
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 あはははは。


 そういえば、買った本のメモ用として、イーエスブックスの「わたしの書店」サービスを申し込んでみたよ。


9月11日(土)  川島レイ「上がれ!空き缶衛星」。山形浩生氏の書評。追記。
忙しい。きゅう。

 川島レイ「上がれ!空き缶衛星」を読んだ。面白かったので皆も読むと良い。どういう本かに関しては山形浩生氏の書評を参考のこと。
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http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=6586
 とはいえ、本書を読んでワタクシずいぶん憤りを感じたものです。やい後輩ども、秋葉原の店のイロハもご存じねぇたぁ何事だ。ハンダづけを留学生の世話になったとか、発光ダイオードの駆動回路ごときを一発でモノにできないとか、情けねえぞ。それが天下の東大工学部か! が、それは本書のいいところでもある。こんな程度の技能でも、ゴール目指して努力するうちにそこそこモノになることも見せてくれるうえ、読者に自分でもやりたい気分にさせてくれるのだもの。「ええいまだるっこしい、オレに貸してみろ」と何度言いたくなることか。
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 「大学院生まで秋月電子の存在を知らなくても」「発光ダイオードの駆動回路ごときを一発でモノにできなくても」それなりのものは作れてしまうという話で。実に勇気付けられることですよ。
 これは別に皮肉で言っているわけではなくて、現在の自分に何か不足しているところ(例えば「ものづくりの経験」とか)があったとしても、必要に迫られて学び始めることでどうにかなってしまうことも多い。このように読めるわけです。素晴らしい。

 こちらの方は、山形氏の書評に関して、
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これまでのが割と全肯定な書評ばかりだったので溜飲が下がる思い。学生には(例え技術的なレベルが低くとも)何らかの経験と達成感は大事だけど、かといってそれだけじゃなぁ…と読んでいて感じたので。
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と書かれている。えーと、山形氏の書評は少しひねくれた書き方をしているけど、事実上の全肯定と思うんですが。「それだけじゃなあ」ってことは、つまり、「学生たちが経験と達成感を得たことを描くのは大事だが、かれらのそもそもの技術的レベルが低かったことは、もっと強調されるべきだ」ってことですか?
 …いや、そんな、ねえ?

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http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=6586
 ホレ高校生諸君、こんな低レベルの連中にでかいツラさせとく法はない。一撃で倒せるぞ! 夏休みももう終わりだけれど、是非本書を読みなさいな。短いし、読みやすいよ。そして感想文に書くのです。「本書を読んで、東大恐るるに足らずと思いましたので、是非来年はあたしも挑戦したいと思います」。そうなったら、日本の工学の未来も明るいんだがなあ。
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 僕が気になるのは、「でもそこで、高校生にしか語りかけないのはどうして?」ってことだったりする。やっぱり山形氏って、頭の良さは生まれつき決まっているとか思ってますか?
 読者を自分でもやりたい気分にさせる本なのだから、パパが(ママが)週末の工作で、本棚を作る代わりに発光ダイオードの駆動回路を作ってみても良いと思うんだけど。「時間の余裕ができた日本の年金生活者が(一念発起して)アマチュア衛星を作ってアメリカに渡り、アメリカの年金生活者が作ったアマチュアロケットで打ち上げる」とかって、素敵じゃない?
 日本の工学の未来とやらを憂えるなら、高校生大学生だけじゃなくて、そーゆー幅広い基盤が大事だと思うのですがー。


(9月12日追記)
 hibikiさんからお返事を頂きました。どうもありがとうございます。
 この本に関してhibikiさんが不満に思われた点については、ある程度は理解しました。確かにこの本には技術的なことはほとんど書かれていません。読んだ人間が「よーし俺も衛星作っちゃうぞー」と思ったとしても、「じゃあ、具体的には何をすればいいの?」という手がかりをこの本自体から得ることは出来ないでしょう(PICって何だろ?ってGoogleしてみる、ぐらいの役には立つでしょうし、そのことは決して軽視できないと思いますが)。その点に関してはこの本はダメダメです。
 けれど、このご不満が山形氏の書評とどのように結びつくのか、というのがいま一つ分からないのです。山形氏の書評には「将来同じようなプロジェクトに参加する人間の参考にならない」とか、そういうことが書いているわけでもないですし。いやまあ、いかにも山形氏が言いそうなことではあるのですが。山形氏は、ある本が和訳されたときに参考文献の項目が削られたことを嘆いて、出版社に無断でその部分を自分で和訳してサイトにアップしてしまうひとですから。

 hibikiさんの書く「ある結果を求められて…」「習作は本人には価値があるが他者には価値がない」「自分の能力に(1)と(2)を照らし合わせた上で」のくだりや、あるいは「素養」や「能力」という言葉の使い分けから僕が勝手に判断するならば、hibikiさんが求めているのはある種の「プロフェッショナルとしての倫理」のようなものに思えます。でもそれは、このプロジェクトに当てはまるものなのでしょうか?
 ここでいう「プロとしての倫理」というのは、例えば「顧客に迷惑をかけないように、自分の能力をきちんと把握して仕事を請け負う」ということだったりもするのだけど、それはしばしば「自分の腕前に値段をつけられることを受け入れろ!」⇒「自分がダメであることを受け入れろ!」というように転化してしまうことが多いわけで。
 つまるところ、とことん意地悪な読み方をしてしまうならば、僕にはhibikiさんの追記というのは「学生たちが『俺は○○する能力が無い!』と自覚して、断念するさまを楽しみたい」と書いてあるようにも読めてしまうのです。


(追記2)
 同じ本について山形氏は「CUT」誌にも書評を載せているそうな。こっちには「技術的なことが書かれていない」とか、そういう不満が書いてあるみたい。
 ところで「発光ダイオードの駆動回路ごときを一発でモノにできなかった」ひとは、博士課程修了後に結構良いポストに就いたと「上がれ!空き缶衛星」には書いてあったような。 つまりこのひと、電子工作は不得意でも他のことにはひどく有能だったのではなかろうか。あるいは、一旦ブレイクスルーを抜けたあとは電子工作も得意になったかもしれない。つまり、例えばハンダ付けの能力「だけ」でエンジニアの適性を問うのというのは、どうかと思うのだけど。
 誰かが何かを出来ないことに関して「××も出来ないのに〜」と責めるのは、いつだって簡単なのだけどね。

(追記3)
 というわけで(←何がだ)、現在進行形で空き缶衛星プロジェクト(CANSAT)に参加しているひとは、世のため人のために、自分がやったことや参考にしたことをサイトにアップしてくれませんか。似たようなことをやりたいと思う全てのひとが目を通せるように。
 こういうところで名前を出すのは悪いとも思うけれど、ね?

(追記4)
 ほかのひとに比べて僕はこの本を最低でも2倍くらいは楽しめたかもしれない。というのも、この本に登場するなかでも一番異彩を放っていた「ヒゲを生やしたプロジェクトリーダー」というのは、僕が個人的に知っているひとだからで。ほんに彼は真面目で優秀なひとでした。
 数年前に久しぶりに彼に出くわしたとき「最近、何やってるの?」と訊ねたら、「学生が自分たちで衛星を作ろうというプロジェクトがあってね」と教えてくれたものでした。双方忙しかったので、そのときは詳しく彼の話を聴けなかったのだけど、彼の姿は僕の目には随分と眩しく映ったものでしたよ。