【2004年8月】
8月28日(土) 「みんなの心に浮かんだことをそのまま…」(続)。手法は動機に影響を与えるか。
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えーと、予定を変更して前回の補足を少し。ところで一応言っておくと、僕は「あの少年は僕だー!」とか、そういうことを言いたいわけではないですよ?
さて、あのCM。少年および彼の描いた絵は正直コワい。CMの終盤で絵が完成したときの僕の印象というのは、絵を見ているというよりも「何かに僕が見られてるよー」というもので、たとえばそれはこういう絵(Googleイメージ検索)を見たときの感覚に近い。ただし、正面から見返されているのではなく、背後から、あるいははるか未知の上方の視点から見られているような感じ。つまり、絵を描いている彼のなかにはそういう視点があるんじゃないかということを僕は感じたわけで。
更に言うと、いったん描きはじめたら躊躇することなく最後まで描き終えてしまうという彼の姿勢を見るに、空間的にだけでなく時間的にも「どこか離れたところから自分自身と対象とを見下ろしている視点」を彼は持っているのではないかしらん。
このような「視点」を自分のなかに飼っている(と思われる)ひとが近くに居た場合、ときどき、ある種の「付き合いづらさ」をそのひとに感じることがあったりする。
僕はそういうひとのことを「自分の内部に、強烈な『正しさ』を住まわせているひとだ」という言葉で表現するのだけど、そのひと自体は往々にして「正しさ」という言葉が嫌いだったりするのが面白いと思う。
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前回の文章をsivadさんに紹介していただいたのですが、少し気になった記述が。
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(http://d.hatena.ne.jp/sivad/20040822#p2)
僕はバイオ系にしては珍しく脳科学があまり好きではないんですが、それは脳科学者の多くが他人の意識や感情を「理解」できるとあまりに無邪気に考えているように映るからです。
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最近は脳の研究には研究費が付き易いため、バイオ系のひとたちが大挙して脳研究に参入してきているという話は聞いたことはあります。そういう「研究のやり易さ」とは違ったところで、バイオ系のひとたちというのは脳研究に惹かれているのでしょうか? お伺いしてみたいところです。
各学問分野ごとの研究手法の違い、たとえば実験が可能か、観察が侵襲的かそうでないか、などが、脳研究への動機とどのように結びつくのかに関しては気になるところです。
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我ながら訳の分からない文章書いたときに限ってアクセス数が多いのはどうしたものかと思ってたら、どこぞから言及されていたのでした。まだ読んでいらっしゃったんですか。正直びっくりですよ。惚れられるのは正直なところ大歓迎なので、どうぞ存分に惚れちゃってください。
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> 忙しいのにこんな文章を書いている僕も、まあ、文章それ自体によって動かされ書かされていると言えなくもない。
言えない言えない(笑)。「忙しいけど更新する程度の暇はある程度の忙しさ」なんだって素直に認めるべきだと思う。
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あ、やっぱりダメ?(笑) まあ、「忙しさのあまりに現実逃避してたら、本業の方がやばくなりかけた」って書いてもいい話なんですけど。というか、そこにツッコミを入れてきますか、あはは。
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> 「憑かれる」という表現がふさわしいかも。
内的な衝迫・狂気によって創作へと促される、謂わば「ダイモーンの声」を聞く者としての芸術家像は、ロマン主義に始まり例えば『トニオ・クレーゲル』辺りまで続いている。これに対し 20 世紀には「作者の死」と言語の自律的な運動としての作品観が主張されたが、実のところそれが前者の素朴な転倒に過ぎずややともすればロマン主義に逆行するものであることを、この一文はよく示していると思う。或いは、やはりロマン主義の呪縛の根強さと言うべきか。近代がロマン主義の時代である以上、それを超克することはできないらしい。
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どこがどう「この一文はよく示している」のか良く分からないのですが、それ以外の部分は良くまとまっていて大変に勉強になります。良いことです。できたら、過去との断絶の意識とロマン主義の誕生とか、そーゆー話を絡めてもう少し書いていただけると、さらに勉強になって助かります。
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> むかし知人が僕のことを評して曰く、
村上春樹の小説で主人公が女に「あなたって本当に変わってるわね」とか言われるアレですね。「俺って変わり者、超ヤバイ、マジ狂ってる」と「よく変わってるって言われるんですよ(笑)」と「知人が僕のことを評して曰く」は、どこがどう違うのか説明してください先生。
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あんまり違わないんじゃないんですかね。うん。
ギャラリーのために一応補足しておくと、元の文章での「曰く」の後に続く言葉は、今から半年〜一年前ぐらいにこの人から言われたよーな記憶が。
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「この程度の自意識はだれでも多少はもっている。ただいわないだけのことだ。」(柄谷行人『反文学論』)
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そうなんじゃないすか。ところで「ただいわないだけ」のひとは、「いってみた」ひとに対しても何も思うところは無いんじゃないですかね。「思うところがあって、いわないことにした」ひとならともかく。
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8月23日(月) 「みんなの心に浮かんだことをそのまま描けばいいんだからね」、憑かれる。
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というわけで、あちこちで紹介されているCM(http://pya.cc/pyaimg/img/2003121112.wmv)の感想。
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このCMは公共広告機構のもので、CMというよりむしろ短いドラマとでもいうべき仕上がりだ。私が説明するより見てもらったほうが早いと思うが、一応説明をば。
(http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20040822)
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まったくもってネタバレ無しで観たほうが面白いと思うので、未見の方は今すぐダウンロードだ。1.5MB程度のファイルサイズなので、時間かかんないし。
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んで、観ていることを前提にして続き。上手く文章がまとまらなくて、かなり意味不明。
1)
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つまり、大人が、上からでなくて子供と同じ視座で物事を捉えたときに初めて子供の気持ちが理解できるのだということが、モチーフになっている。
(http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20040823)
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僕がこのCMを知ったサイトでこのようなことが書かれていたのが面白かったのですよ。
言葉遊びみたいなことを言うと、「でも、体育館の上から見ないと、絵があることは分からない」のですね。この少年と物理的に同じ視点に立ってしまったら、そこには単に黒く塗られた紙しか見えないわけで。「子供の目線で〜」とか言って大人がわざわざ屈んで子供の低い身長に合わせてしまったら、大人の身長の高さでいるときよりも余計に見えなくなってしまう。
先生が「みんなの心に浮かんだことをそのまま描けばいいんだからね」と言ったときに先生が期待したのは何なのだろう。たぶん「子供たち自身の視点から見た日々の光景」を主観的?に描くことではないかしら。そこでの「子供たちの視点」とは、先生がその子の日々の暮らしについて知り、そして「背を屈めて」その子の目線に自らの目線を合わせることで容易に獲得できるようなものだったりする。
ところがこの子の場合、どことも知れない遥か上の地点(超越的なと言ってもいい)から見た絵を描いてしまったわけで。このときに子供を「理解」するということはどういうことなのだろう。同じような超越的な視点を確保することだったりするのだろうか。
2)
この少年を突き動かしていたのは、おそらくはこの超越的な視点そのもので。というか少年はその視点に絵を「描かされていた」と言っても良いと思う。やねうらおさんは、自らの少年時代にコンピュータをいじっていたために白眼視されていたことを持ち出しているのだけど、夢中になってコンピュータをいじっていた彼もまた、コンピュータというものの道理によって動かされていたのかもしれない。
これらの例とは比べるのはどうかと思うけど、忙しいのにこんな文章を書いている僕も、まあ、文章それ自体によって動かされ書かされていると言えなくもない。「憑かれる」という表現がふさわしいかも。
で、あれだ。「憑かれている」人間の主体性とか責任とかはどうなのよ、ってことが問題になるわけで。この辺、芸術と倫理の話にもつながってくるかもしれない。
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a) 芸術は人間の倫理に奉仕すべきだ。
b) 人間の倫理なんてちっぽけなところに芸術は留まらないし、そこが素晴らしいんだよ。
c) 「芸術性は人間の倫理を超えたところにある」とか言ってるけど、結局のところ、倫理を踏み越える楽しみを味わいたいだけじゃないの? そのうえ「芸術だから僕悪くない」って責任逃れできるのは楽しいわよねえ?
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別の話。皆さんに習って全然関係ない自分語りをしてしまうと、むかし知人が僕のことを評して曰く、「貴方、心に浮かんだことをそのまま描いて、って先生に言われても、何描いていいか分からなくて呆然としてるか、あるいは画用紙に地平線を一本描いてそれで終わりか、多分そんな感じでしょ?」と言われたことがあって、なるほど、上手いことを言うなあと思ったものでしたよ。
実際には「心に浮かんだことをそのまま描いて」なんていう指導を受けた記憶がないので、良くは分からないんですけど。
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ところで次回は、古川日出男「アラビアの夜の種族」(角川書店)の話をするよ。ある意味では今回の話の続きかもしれないよ。
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8月16日(月) 京都滞在。天野こずえ「ARIA」5巻。
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14日(土)
昼頃に京都に到着。京都タワー前でKaolu氏と待ち合わせ。調子に乗って、タワーの展望レストランで昼食。それから、二人で修学旅行状態。烏丸御池⇒河原町⇒新京極⇒清水寺と歩く。途中では本能寺に立ち寄ってみたり、Kaolu氏が京都アニメイトに入っていくのを呆れて眺めたり。『ほら、旅先なのに、なぜかソレ系のお店に入ってしまって、自宅の近所でも買えるようなものを買ってしまうのって妙に楽しくないですか?』 確かに否定はしませんが。
道中はセンチメンタルグラフティとか、「ARIA」5巻への違和感とか、そんな感じの話。つまり「風景」について。
17時に京都駅で待ち合わせ。DALさん、今木さん、曽我さんと会食。楽しゅうございました。
1泊2000円の宿に泊まることにしたのだけど、大部屋に二段ベッドや畳が置かれてる、海外のユースホステルをもーっとチープでルーズにしたよーなところでした。部屋の出入りチェックが無かったり、男女が同フロアだったり。防火基準とかどう考えても満たしてない気がする。僕のベッドの上段に寝てたひとは海外からの女性っぽい。
雑踏の中の孤独が大好きなので、ものすごくリラックスできたですよ。また利用するかも。
15日(日)
のろのろと起き出す。南禅寺水路閣(琵琶湖疏水の水道橋)⇒琵琶湖疏水記念館⇒哲学の道⇒銀閣寺 と、一人修学旅行状態でうろうろ。水路閣は素敵すぎる。
宿に戻って銭湯に。半年ぶりに体重計に乗る。前回の記憶から5kgぐらい減ってた。
部屋に戻って、なぜかノートPCで仕事をしてしまう。仕事と休みとを、きちんと切り分けられるようになりたいところ。
16日(月)
昼頃まで宿でだらだら。仕事したり読書したり。祇園に寄って土産物(原了郭の「黒七味」と、鍵善なんたら――正確な名前は忘れてしまった――の和菓子)を買ったのちに、叡山電鉄で鞍馬へ。
土曜日に清水寺に行ったとき、大したことない坂道に結構しんどい思いをしたのでした。そんな、だらしのない僕の両足におしおきをするべく、山登りを決意したわけで。んで、鞍馬山の石段を一段飛ばしで駆け上がる(←危険なので止めましょう)。さすがに太ももが悲鳴を上げる。鞍馬寺の境内で古川日出男の「13」を読了。
奥の院魔王殿とやらにも行ってみた。「650万年前、金星より地球の霊王として天下り、地上の創造と破壊を司る護法魔王尊"サナート・クラマ"」を祀ってるそうですよ。魔王尊の御姿は葉団扇を持って翼を生やした天狗さまでありました。その翼を見ているうちに、…ルシファー?とかいう言葉が頭に浮かんだりしたんですが。
貴船経由で出町柳駅に戻ったところで、ふと思いだしてDALさんに連絡をとったところ、ちょうどDALさんは橋を挟んで川の反対側に居たのでした。愉快。そのまま二人で大文字の送り火を見物。30分ぐらいでさっさと火が消えてしまうのは予想外。僕のイメージだと、あれは一晩中燃えているものだと思ってたんですが。
深夜バスが出る23:55まで、そのままDALさんとうろうろしながら雑談。わざわざつきあっていただいて、本当ありがとうございました。楽しかったです。
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天野こずえ「ARIA」5巻のこと。いや、琵琶湖疏水の周りをうろついているとARIAのことを思い出して仕方がなかったのですよ。水道橋とか。
藍華とアルが流星群を眺める話。流星群を見るアル、を見る藍華という構図が好き。アルの視線を通して流星群を見る藍華。
前にもこれ書いた気はするけれど、ゴンドラ漕ぎの技量というのは単純に肉体的なものだけではないわけで。自動車の運転がそうであるように、先読みの能力――つまり、様々な雑多な情報の中から「出来事」の徴候を読み取る能力――が重要だと思うわけです。なのに灯里ときたら、ゴンドラを漕いでるアリシアさんの姿に魅せられてばかりで、「アリシアさんは何を見て、何を読み取っているのだろう」ということには、ちっとも頭が向かわない。
「師を見るのではなく、師が見ているものを見よ」
でもね灯里、それは単に、師と同じ風景を見るということではないんだよ。「師の視点を通して」風景を見るということ。
三人が晃さんの指導を受ける話のなかで、アリスが「ゴンドラ、通りまーす」の声を出しているときに、カメラが上に向いて空を映すシーンも好き。石造りの町並みと細い水路の中をアリスの声が反響していくさまが僕の頭のなかに浮かぶ。ただ、これに関しても、三人以外のゴンドラ漕ぎが出している「通りまーす」の声についても描写してくれてもいいのになと思ってしまう。
遠くの見知らぬひとが出した「通りまーす」の声がアリスの耳に届くとき、声を出すことの重要性とかあるいはそれ以上の何かがアリスに伝わるのではないのだろうか。そういうことを考える。
つまりさー、最近のARIAって、ぶっちゃけ風景なんかどうでも良くて、話をすべて具体的な人間関係のみに回収しようとしている気がするの。でも、それってすごくもったいないと思うのだ。
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8月14日(土) 保坂和志「あぐね」、ジャンルSF、ノベルゲー、サイバーパンク。
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なぜか旅先更新。保坂和志「書きあぐねている人のための小説入門」(草思社)のこと。昨日買ってきて、すぐに読了。なんだか妙な本で評価に困ってしまうのだけど、色々と示唆してくれるような内容ではありました。
保坂氏は小説という言葉に、とても重い意味を背負わせているようだ。保坂氏にとって小説とは、ストーリーに還元されてしまわないようなものであり、人間の社会化されていない部分を言語化するもの(←とりあえず「言語というのはそもそも社会化されたもので…」みたいなツッコミは後回しにしてください)であり、「個」が立ち上がる瞬間を描き出すものであるらしい。この本のなかでは、基本的に小説とストーリーとが対立関係にあるように書かれているっぽい。
たとえばこんな文章。
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私たちはふだん生活しているときに不意に、(1)「あのときいまの部屋じゃなくて、その前に見た部屋を借りていたら、違う人生になったんだろうな」とか、(2)「交通事故で死んだ人が一週間だけこの世に戻ってくるチャンスが与えられたら、何をするだろう」というようなことを、ものすごくリアルに(切実に)感じる瞬間がある。
そういう思いが、(1)は分身の話になり、(2)はあの世からのよみがえりの話のもとになったはずで、(念のために言っておくが、こういう不意に感じる気持ちは(1)(2)だけでなく他にもいろいろある)、どちらも一冊のアンソロジーが編めるどころか数巻の全集本を作れるほどたくさん話が書かれている。しかし、どちらの話も注意して読めばすぐに気がつくことだが、「分身」や「よみがえり」を話の発端としているだけで、それから先はどんどんありきたりのストーリーになっていく。
たとえば(1)では(A)”従”であるはずの分身のほうが”主”である私の地位や名声やひいては存在自体を奪っていったり、(B)分身が私の知らないところで、”私”というアリバイがあるのをいいことにして犯罪をくり返していたり、(C)私ともう一人の私は一〇年前から別々に存在し続けて、もう一人の私が恋人といるところを私のいまの恋人が目撃して恋愛がドツボにはまっていったり、(D)分身は私と違って時間と場所にしばられることがなく、いろいろなところに自由に行き来することができて、未来の私の姿を見てきて忠告してくれるのだが、じつはそれは嘘で……。
などなどいくらでもストーリーは考えられるが、どれも最初に書いた(1)の不意に感じたリアルな気持ちに踏みとどまっていない。ストーリーとは、最初に感じたリアルなものを強めるのではなく、むしろ忘れさせるように機能しているのではないか。――それでもやっぱりストーリーがしっかりしている話のほうが面白いと感じる人は、小説にこだわらずストーリーのほうを目指すべきだ。
(p.144-146)
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この文章は本の中盤以降に出てくるのだけど、たとえば、ストーリーテラーになりたくて小説を書いているひとがこの本を買ってしまったら、ここまで読んで「だまされたー」と思うのではないかしら。
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世の中にはジャンルSFというのがあるそうな。ジャンルSFには更にサブジャンルがあるらしく、タイムスリップもの、歴史改変もの、ファーストコンタクトもの、とかそういうのがあるようだ。
ここで、上に書いた保坂和志の問題意識について考えてみる。つまり「最初に感じたリアルな気持ち」が、たとえば平行世界だのタイムスリップだのというものに落とし込まれるとしたら、そこでは一体どういうことが起こっているかということ。
保坂和志は「あぐね」のなかで、「ここで、僕のいう哲学とか小説とか自然科学(あるいは認知科学とか)といったものは、ある意味で皆似たようなものを指している」みたいなことを書いていた気がする。旅先なので本が手元に無く、確認できないんですけど。このとき、科学とストーリー(「小説」かどうかは知らない)との合いの子であるところのSFとは何なのだろう。
というわけでこの本にはSFのことを書いているとしか僕には読めない場所がいくつかあったのだけど、どうなんでしょう。ネットSF方面の方々がこの本について語っているって話は、あまり聞かないのですが。
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ところで、前回(⇒200408.html#13_2)の「HajouHakagix妄想」の続き。僕は、
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たとえば普通すぎるけど、「拡散する未来」の感覚と「マルチヒロイン⇒マルチエンド」システムの発見とを組み合わせるとか、そんな感じ?
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とか書いたのだけど、それはたとえば「ノベルゲーのマルチエンディング構造は平行世界解釈がほにゃららで、SF的にも面白く…」ということが言いたかったのだろうか? 違う、と言いたいところ。
思いつきで言うなら、そもそもサイバーパンクとかいうのは、そのようなジャンルSFのありかたに、つまり様々な問題意識を類型的なサブジャンルに分類して事足れりとしてしまうことへの反発でもあったのではないかしらん?
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思いつきメモ。たとえばノベルゲーの「システム」とやらを、ストーリーからはみ出るものとしてしまうことはどれほど適切なのだろうか。
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8月13日(金) 京都。HajouHakagix妄想。
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唐突に京都に行くことに決めました。14日の昼に到着、16日の深夜バスで帰宅の予定です。宿は二条城の近くの「大部屋・二段ベッドで1泊2000円」という、何だか良くわからないところを取りました。どうなることやら。
近くにお住まいで僕の顔を見てみようとお考えのかたなどいらっしゃいましたら、メールで是非ご一報くださいませ。
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そういえばHajouHakagixの予約を忘れてしまったので、ぐんにょりです。京都行くから当日購入も出来ないし。仕方がないので脳内で妄想して楽しむことにします。
以下の文章は(いつもにも増して)自分でも意味が良く分かってない文章が頻出するので注意ですよ。
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東浩紀「萌えの手前、不能性にとどまること ――『AIR』について」
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あはは。タイトルだけでお腹一杯です。えーと、ファウストでの連載も波状言論も全然知らないんだけど、「僕らを置き去りにする女」としての裏アンティゴネ論とか? ユリイカ5月号の北田暁大論文なども援用しつつ、後期ジジェク(「メランコリーと行為」とか⇒200404.html#24_3)を批判するよー。
「内面を理解」としての女の子との恋愛は不可能であり、でも、最初からその断絶の向こう側にいるかのように見える(?)「萌え」にも行かない、そのギリギリの地点でとどまるよー、とかそんな感じなんでしょうか。
ここで「僕が他者になる」であるところのONEについても書いてくれたら感動するのですが、多分そんなことなさそうで俺号泣の予感。
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美少女ゲーム運動をサイバーパンクに比し、ジャンル的可能性を抉り出す元長柾木
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(⇒200403.html#11_4)
あるいは、
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結局ガジェットやロジックなどというものは、理不尽なロマンスによって崩れ去るべきものだ。その崩壊の一瞬に物語は輝く。
(「SFが読みたい!2004年度版」 p. 83 「涼宮ハルヒの憂鬱」に対する元長柾木氏のコメント)
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超 た の し み ー 。 …いや素直な話。
〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´)
`ヽ._つ⊂ノ
ただ、個々の作品ではなく「美少女ゲーム運動」(…何それ?)なんていうレベルで語るとなると、あんまり具体的な内容が想像できません。困ったものです。
たとえば普通すぎるけど、「拡散する未来」の感覚と「マルチヒロイン⇒マルチエンド」システムの発見とを組み合わせるとか、そんな感じ? 参考文献は西垣通「デジタル・ナルシス」のウィーナーに関する章辺りで(←そうか?)。
瑣末な部分の予想をベタベタにしてみると、出だしは「ガーンズバック連続体」からの引用、締めは岡崎京子「リバーズ・エッジ」にも使われてた「平坦な戦場で僕らが…」なんていうのはどうですか。
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8月11日(水) (好きだけど)読み返したくない本。古川日出男「沈黙」(続)。
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たとえば「好きな本」にも色々あって、何度も読み返してしまう本もあれば、逆に、読み返したくない本もある。読み返してしまう本のほうが好きかというと、そうでもない。
困ったことに僕の場合、読み返したくない本についても感想文を書きたくなってしまうようだ。(止せばいいのに?)曖昧な記憶とぎりぎり最小の再読で書いてしまうから、随分といいかげんな感想文が出来上がってしまう。
たとえば、いわゆる名作については「美しい韻文を何度も読み込んで自分の血肉としたい」とか「何度読み返しても新たな発見がある」みたいな語られ方をすることが多いような気がする。でも、たとえば「ハムレット」や「リア王」を「再読したくない本」の中に入れてしまった僕としては、「そのような読み方では、逆に見えてこないものがあるんじゃないかしら?」なんて妙なことを言ってみたくなったりもするわけで。
ところで、
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a) 何度も読み込んで、自分の血肉としたい
b) 何度読み返しても、新たな発見がある
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この2つは、正反対のことを言っているのだろうか。それとも実は同じことを言っているのだろうか。どうだろう。
先日引用した(200407.html#22_2)「仮想敵」の文章のなかに「劇場では、凝り固まった「自分」自身を、役柄になること、繰り返し同じ生を生きることが解いてくれます」というのがあって、それを読み返しているうちにこういう話を思いついたわけなのですが。
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上の文章を書いたあとにふと気付いたのだけど、僕が読み返したくない本として想定していたのは、すべて、物語だのありはフィクションだのと呼ばれる部類に属するということで。
文学史にはまったくもって詳しくないのだけど、ある時代まではストーリーというのは繰り返し繰り返し受容するものだったのではないかしら。枕元で母親が子供に語る。焚火の傍で長老が若者に神話を語る。繰り返し語り、聴くことで血肉にする。ところがあるとき、たぶん大量印刷時代のあとだと思うのだけど、1回読んだら(基本的に)おしまいというのを前提にした作品が現れる。たとえばミステリなんていうのは最初の一読が大事な作品で、「最初は肌に合わなかったけど、読み返しているうちに気に入ってきた」という要素は少ないのではないかしら(適当に言っているので、異論のあるかたは教えてください)。
小説以外だと、たとえば最近の映画は基本的に一回観たらおしまい、のものとして作られている気がする(もちろん、何回も観直すひとも居るだろうけど)。その一方で、ブロードウェイミュージカルなんてのはやたらとロングランしているものがあるみたいなのだけど、あれはたぶんリピーターによって支えられているのではないかしら。
…えーと、すみません。その、オチが見つからないんで続きは今度ってことで。ストーリー、時間経過、一回性、ってことで少し考えてます。どちらかというと「読み返すことが正義!」とは逆の立場で。
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ところで、古川日出男「沈黙」のことについて、まとまりなく。以下、読んでないひとには意味不明かもしれない。ネタバレかどうかは良くわからないけど、読む前に先入観を植え付ける可能性はあると思う。
主人公がルコのレコードを「聴き直す」ことはあったのだろうか、ということを考えてみてる。主人公はルコを聴いて自分の血肉とする。でも、たとえば「同じレコードを何回聴いても新しい発見がある」みたいな描写は本文中に無い気がするのだ。
「ルコは再現できない」
「ルコはBGMとして聴くことができない」
「再現できない」ルコがレコードに記録されているということを、たとえば、「アナログレコードの損耗によって一回一回の再生はほんの僅かに違った音を発する」ことに回収してしまうという読みはあまり面白くないよーな。主人公はルコのレコードをおのおの一回しか聴いていない、という解釈があるのではないかしら。そちらのほうが僕は好きだ。
「沈黙」の冒頭部から少し引用。
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仏が滅した日から二四八八年目の八月、大瀧鹿爾はビルマからシャムに入った。さらさらという葉ずれの音だけが国境にはあった。かつて受けた訓練のおかげで、食うには困らない。山間部に暮らしていたのはシナ・チベット系の人びとで、ことばも通じた。森には官能があった。ビルマの悪夢とは違った。ここでは追求にさらされず、無時間的な旅をつづけられた。一つめの村で豚を見、二つめの村でも豚を見た。そして三つめの村で音楽を聴いた。
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あるいは、これ。
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その刹那に、寒さを嗅いだ。
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何だか妙な味のする文章かもしれない。回想を通した無時間的な表現とでもゆーか。
ルコが文章で表現されるときもこんな感じで、ルコの一回性、ダイナミズム性については文章中で強調されるのだけど、でもそれは、たとえば「強烈な音楽に直撃されて思わず体が踊りだしてしまった」なんていう感じではない。主人公のルコに関する描写は猥雑さではなく、むしろ、整理され抑制の効いた純度の高さを感じさせるものだ。記憶と想起のなかで発見され、純度を高められていくダイナミズム。
ところで、当然のオチってわけでもないけど、僕にとって「沈黙」は「読み返したくない本」に属してて、だからこの文章も曖昧な記憶とぎりぎり最小の再読で書いてます。ご注意を。>読者のかた。
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今までの部分とはあまり関係ないが、こんな文章を見つけた。
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(http://www.1101.com/hosaka/2003-07-09.html)
保坂 こないだも、高橋源一郎さんと話をして、「小説の中に出てくる言葉」と「小説を説明する言葉」っていうのは、まったく、違うものなんだっていうことで、意見が一致したんです。
音楽は、音で鳴っているものを言葉で説明しようとしても伝わらないってみんな、わかっていますよね。
「小説」と「小説を説明する言葉」って、一見、同じ言葉に見えてしまうから、説明したら小説が伝わると思われがちだけど、まったく、別の言葉なんですよね。
小説の中にある言葉って、小説の中でしか、味わうことができないし、感じることができないんです。
糸井 小説語ってのが、あるわけね。
保坂 そうそう。だから、こうやってしゃべるのも、どだい、無理なことなんですけど……。
糸井 ぼくは、その小説語にいちばん近くいけることは、クチから出た言葉じゃないかなぁ、と思っているんですよ。特に、生でしゃべっている時って、声質から強さから、ぜんぶ入っているから。
保坂 そうそう。身振り手振りも入っているから。
糸井 しゃべり言葉には、「伝わらないかもしれない」っていう、謙遜があるんです。
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僕のなかに湧き上がる殺意に似た何か。関係ないけど、なぜにこんなに俺は糸井重里が嫌いですか。
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