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はてなダイアリー(メモ・一行掲示板)


【2004年7月】

7月31日(土)  「師匠とぼく」。風の通り道。電波。古川日出男「沈黙/アビシニアン」

 そういえば、思い出したこと。
 先週の土曜日に、師匠のところに遊びに行ったのでした。まず電車で延々揺られて、それから師匠が運転する車の助手席に座って、行き当たりばったりな往き道。城跡などを見学しつつ100kmほど車を走らせて、岬の近くで晩御飯。

 ここで、そのひとのことを師匠と書くのは、そのひとと僕との会話が、ときどき、師匠と弟子のそれになってしまうことがあるからで。
 たとえば助手席に座った僕が益体もない思い付きをぼつぼつと喋っていると、突然に師匠の言葉が。
「 あなたが今言った○○って、いったいどういう意味で使ってますか? 」
その言葉に微妙な鋭さを感じて、僕の心にアラームが鳴り響く。口頭試問スタート。僅かに緊張しながら説明を始める僕。そして、どうにか説明を終えた僕は、一息ついて師匠の講評に耳を澄ます。
「 まあ、それで良いと思うんですけど、それだけではないんです。つまり―― 」
良かった。とりあえず「可」ぐらいは貰えたらしい。
 ――しまった。いま思ったのだけどこれ、師匠と弟子というよりも先生と生徒って感じだな。でもそれだとまるで、漱石の「こころ」みたいな響きだ。それはちょっとどうか。

 久しぶりに会った師匠は、あいかわらず面白いひとだった。僕に関して、見た目が体育会系っぽい、なんてことを言うひとを僕は師匠以外に知らない。師匠、とりあえず眼鏡を代えたほうが良いと思うよ。面白いのはいいんだけどさ、それはさすがに心配だよ。

 岬のそばを散々うろうろした挙句に遅い夕食。刺身定食と、あと、この地方名物の「氷入り味噌汁」みたいなやつ。冷水で味噌を溶いて魚の刺身や夏野菜を入れる。元々は漁師料理だとか。紫蘇や茗荷が効いていて美味しい。
 もごもご食べつつ師匠に質問をしてみた。昼間の師匠は美術館の開催案内をやたらと熱心に眺めていた。師匠ってそんなに美術が好きだったっけ? 少し考え込んだ師匠の言葉はこうだ。
「 文化的なものに触れていたいというのがあって。もちろん、家の近くに三省堂書店本店があるんだったら、それに越したことはないんですが。 」
「 師匠にとって、美術館に行くことは三省堂に行くことの代わりになるの? 」
「 メディアの種類は様々でも同じところに源流を持っているなら、美術品を見ることによってもその源流について知ることが出来ると思うんです。 」

 ふうん、と僕はつぶやいて氷入りの味噌汁を、ずずずと啜った。師匠の言ってる「文化」って、どういう意味なんだろう。


 そのときに師匠に言えなかったこと。
 さっき、師匠と岬の遊歩道を登って展望台に上がったときに書いてあった能書き。この岬というのは、生えている植物が一方向にしか成長しないほど海からの風が強いのだけど、岩の隙間に位置するこの展望台は風の通り道になっているとか、うんぬんかんぬん。
 たしかに展望台には涼しい風が吹き込んできていた。柵から身を乗り出してみると、一面、低く生い茂る樹木が目に入ってきた。ある地点での樹木の流れる方向は風によって決まるとすると、つまり、この一面の樹木が見せるパターンは。その一瞬、僕はこの岬の斜面に吹き寄せる風の流れをすべて理解したような気がした。
 僕にとって、このことと、ジュンク堂池袋店に行くこととは同じような意味を持つんだよ、師匠。

 もちろん、展望台の時点でそこまで考えていたわけではない。夕食時に氷入り味噌汁を啜りながら考えたことでもない。これは電車でえんえん揺られる帰り道に思いついたことで、たぶんフィクションなのだと思う。



 少し別のはなし。
 たとえ話をするなら、「電波」というキーワードに関して、片方に「いえー!毒電波びびびび!エロ・グロ・ナンセンス!頭にアルミホイルを巻く!」と楽しそうに遊んでいるひとたちが居て、もう片方に、アマチュア無線をやっていて素子の特性について真面目に語っているひとたちが居るとするなら(もちろん、この両方を兼ねているひとも居る)、僕はその二つのあいだに宙ぶらりんで、ぼけーと高圧電線を眺めては、「電場とか磁場とか、距離の逆二乗なんだよな」などと思いつつ、高圧電線の周りに形成されて僕をも取り囲む、目に見えない電磁場の形状について想いを馳せていたような気がする。
 だからといって当然、物理の成績が良くはならないわけでさ。



 そういえば、久しぶりに小説を読んだのでした。古川日出男「沈黙/アビシニアン」(角川文庫)。
 あわわ、どうしよう、これ。気恥ずかしさとラブとが入り混じった、僕のこの気持ち。
 僕が最近読んだ本のなかで、この本に似ているなと思ったのはレヴィ=ストロース「悲しき熱帯」でしたよ。記憶と想起のなかに、ふと、浮かび上がってくるパターンのような何かについて。

 ところで、僕にこの本を貸してくれたひとが何と言っていたか、読んでみた。
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http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20030913#p2
この作品も、「アラビアの夜の種族」と同様、<物語の誕生/死>に徹底的にこだわってます。
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 うあー。押し寄せる違和感。なんだろね。
 たぶん僕は「物語」という言葉が嫌いなのだと思う。もっと言うなら、見る、聴く、話す、気付く、思い出す、といったこと(そして、それらの相互作用やズレと)を「語り/物語」の名の下にひとまとめに乱暴にくくって回収してしまう、その問題系のありかたこそが僕には耐え難いのではないかしら。……ナイーブなこと言ってますか?


7月28日(水)  じぶんでかんがえる、ぼくのぶんしょうについて、じこひはん、いさぎよさ。

 今日のスタートは、よくあるたぐいのジョークから。
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「 先生! 『自分で考える』って、いったいどういうことですか? 」
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 どういうことなんだろう。真面目な話、僕には分からないわけですが。

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http://blog.tatsuru.com/archives/000239.php
 前に養老孟司先生から伺った話。
 ある講演で、「これからはマニュアルなき時代であるから、自分で判断してゆかなければならないのです」ということを先生が2時間講演された。
 そのあと、質疑応答の時間になったら、フロアから「先生、『マニュアルなき時代』を生きるにはどうしたらいいんでしょう?」という質問があったそうである。
 養老先生は演壇から滑り落ちそうになったらしい。
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 昔の僕なら、この文章を読んで、「あはは、この質問者はアホだなあ」なんて単純に笑っていたのではなかろうか。まったくもって、何を考えていたのかと問い詰めたいところだ>昔の俺。



 みつきさんからコメントをもらったので、返事をはてなダイアリーに書いたよ。そうしたら、みつきさんから再びあっというまに返事が返ってきたよ。どうやったらそんなに速く書けるんだろう。
 さて、はてなダイアリーに書いた「罠」のはなしの続きだけど、あっちを読まなくても理解できる話だよ。

 ネット上で、僕と他のひととが意見のやりとりをしたときに、僕の語り口に関して、
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・「隠し球を持ってますよ、って感じの喋り方をするのはどうか」
・「最初の文章では全然触れていなかったことについて、後の文章で『実は最初の文章では○○ということを言いたかったのだけど…』みたいなことを書くのはどうか」
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なんていう感想を、知人から寄せられることがある。
 自分ではあまり自覚していないのが困ったところなのだけど、どうして、そのような書き方をしてしまうのだろうか。たぶん、理由は二つある。
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1) 書いた文章に僕自身の「残留思念」とでも言うべきものが残ってしまっている。
2) 僕は返事を書くのが(世間基準からすると)やたらと遅い。
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 以下少し解説。

1) 『残留思念』
 僕は僕自身の心の中にある「もにょもにょ考えていること」をどうにかして文章に落とそうとする。ところが当然というか、書いた文章を読み返してみると、どう見てもショボい。しかも、もにょもにょ考えた部分の大半が消えてしまっている気がする(←ここで例えば、「最初からショボいことしか考えていなかった」という可能性も考えられるんだけど、そのことはさておく)。
 そこで僕は、上手く文章にならなかった思考の痕跡がそのまま消えてしまわないように、文章中にその痕跡を残しておこうとする。「少なくとも何かしらを考えていた」ということを覚えておこうとする。
 …こう書くと、なんだか格好良さそうに読めてしまうかもしれないけれど、つまるところ、文章内に意味不明の「言い訳」を散りばめておこうとするわけです。

 僕がこのページで書いている文章というのは、たぶん、とても分かりにくいとゆーか、読みにくい類のもので。論理が矛盾してる、飛躍してるとか、単にそういうものもあるのだけど、それ以前の問題として、たとえば「たぶん」とか「かしら」とか、推測を意味する言葉が必要以上に大盤振る舞いだったりする。「えーと」「まあ」「ほら」といった間投詞もやたらと多い。
 これには上のような事情が幾分あるように思われます。

2) 『返事が遅い』
 …つーか、どうして皆様、あんなに速く返事が書けるんだろう。日頃からの思考の蓄積量が(圧倒的に)違うのかしらん。僕はというと、誰かからコメントを寄せられると返事を返すのには、少なくとも1日はかかってしまうのに。
 あ、といっても、返事を考えるのに1日まるまる使っているというのではないわけです。
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コメントを貰う⇒返事が上手く思いつかない。凹む⇒(1日経つ)⇒ふと、「俺はこういうことを言いたかったのか」と気付く
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というルートをたどっているわけですね。

 どうでもいいことなのだけど、オフラインで会って話をしたことのあるひとは分かると思うけど、僕は大変に論戦に弱いとゆーか、すぐ言い負かされて口ごもってしまいます。僕の意識の中では勝率二割以下。


 さて、1)と2)とを考え合わせると、こういうことになります。
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最初の(もにょもにょした)文章を僕が書く。
⇒誰かがそれに関して、違った意見をコメントする。
⇒上手く返事が思いつかない。相手の意見のほうがシンプルだし説得力がある気がする。凹む。
⇒しばらく放置。折にふれて、思い出して考えてはみるけど上手くいかない。
⇒長いこと考えているうちに、僕の記憶のなかでは、すでに思考の順序がごちゃ混ぜになってしまっている。
⇒ある日、反論のアイデアが訪れる。けど、それはこんな形だ。「そうか。僕が最初の文章で書こうとしたことは、こういうことだったんだ! おまけにこれって、既にコメントへの反論にもなっているぞ。始めから気付いていたんだなあ。頭いいなあ、俺!!」
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 ひどい話である。コメントを頂いてる相手のかたは「僕の言いたかったこと」なんて分かるわけはない。けれど、「既に気付いてしまった」あとの僕が最初の文章を読み返しても、「そういうことが書いてある」としか読めないのでしたよ。うーむ。

 文章を書いているときの僕は、正直、自分の書いていることの意味が良く分かっていない。文章を書き、あとで自分の文章を読み返すことによって考えているわけだけど、それは「以前には○○○のように考えていたけど、でもそれは××の理由で間違っていた。いまは△△△のように考えている」という形ではなくて、突然「そうか、僕の考えていたことは△△△だったのか」と気付いてしまうというたぐいのもので。
 ところで、誰かと議論を成立させるためには一定のルールを守ることが必要だと思うのだけど、そのルールのなかに「自己の首尾一貫性」というのは、どのような形で折り込まれるべきなんだろうか。


 …ところで、自分語りって、あんまり面白くないな。



 こういう僕の態度は「いさぎよくない」と受け取られる気もするけど、そもそもが僕は「いさぎよさ」とは縁遠い人間なわけで。「いさぎよさ」が大好きなひとは、こんなとこ読んでないで他所様のページに行ったほうが良いんじゃないかしらと思ってみたりするわけですが。…いや、これは嘘だ。本音を言おう。俺の文章を読み続けて「いさぎよくなさ」に腹を立て続けろ。憤りに悶え苦しんで、夜も眠れなくなるといい。あはははは。
 …えーと、何の話だっけ?

 問題。つまり、「いさぎよさ」とは何だろう? 僕らが誰かのことを「いさぎよい」と賞賛するとき、そこでは何が起こっているのだろう。誰かのことが理解可能であることと「いさぎよさ」との関係は。「いさぎよさ」と「わたし」との関係は。
 そして。芸事と「いさぎよさ」との関係とは? たとえば、武道における「いさぎよさ」と、舞踏や演劇のそれとは同じものなのか。エンターテインメントとしての「いさぎよさ」とは?

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http://d.hatena.ne.jp/flurry/comment?date=20040628#c
# hokusyu 『たとえば、シスレーの哲学は「諦観@美の巨人たち」だったわけやん。諦めることで得られる、風景のありのままの姿ってやつ。ある意味でセカイ系みたいな。「諦観」ってソレ系の芸術において結構大事なんじゃないかなあと思うんだけど、あなた「諦観」嫌いそうですよね。』
(中略)
# flurry 『テレビ東京のページを見たですよ。絵に関しては実地で見ないと分からないから何も言えないけど、文章に大変むかつきましたよ。』
# flurry 『葉隠的諦観は、実はそんなに嫌いではなかったり。』
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 みつきさんが「マジで」と書いているのでマジで受け取るのだけど、みつきさんが僕が言ってることの何に対して「怖い」と言っているのかさっぱり分からない。それこそ、マジで分からない。罠だと言いたいのはこっちのほうだよジョニー。
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http://d.hatena.ne.jp/sayume/20040727
 そのままマジレスしても罠が深くなるだけので、物語の話をしましょう。物語で答えがでる瞬間っていうのは、カード(切札)を切る瞬間なわけです。
 ひとつの見方はこうです。切札ってものは切ってしまっては何もならないので、切札を切ったのなら終わりです。終わりです、というのは終わらなければならないし、どの道終わるということでもあります。
 もうひとつの見方はこう。切札だからこそ、使い惜しみせずにさっさと切りなさい。さっさと切ってしまえば、次の切札に確率的につなげることができる。高速で世界(山札)を舞わして、切札を放ち続けて花と散りなさい。
 マシュウお兄ちゃんは札を相手に見せないまま捨て続けているので、前者です。ってことは見せちゃダメじゃん。というわけで答えは出さないのが正解。
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 いや僕、物語嫌いだし
 というのはさておき、僕はこうやって文章を書いていることで、もう取り返しがつかないほどに僕自身の阿呆ぶりを世間様に晒してしまっているわけで。だから、僕自身のありかたとしては、どちらかというと「使い惜しみせずに自分の考えをさっさと晒して、そうすることで次の考えにつなげる」ことを志向したいと思っているんですけど。
 もちろんこれは物語の話じゃないから、花と散るつもりはないんだけどな。

 ところで、「その札はなに?」って訊かれたら答える準備はあるんだけど、誰も訊ねてくれないのはどうしたものでしょう。


7月22日(木)  仮想敵見つけた、芸談と評論、「世界劇場」と「わたし」

 このところずっと、(演劇知らないのに)シェイクスピアと演劇について阿呆なことを書いていたせいか、気がつくとGoogleの「リア王 感想」とかで上位15位ぐらいに入っていたのでした。大変におそろしいことです。


 そういえば、僕の「仮想敵」に関して、そこそこ適当な例を見つけたのでした。少々抹香くさい雰囲気が漂っている文章なのですが。
 こちらをどうぞ⇒「世界劇場問答」(http://www.gpwu.ac.jp/door/todokoro/mondo.html

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○そうやってなんでもかんでも「劇」に見立てて何の意味があるのでしょうか?
 表層的には、惰性的な生き方から抜け出せます。自分の生活(人生)を作品として意識することによって、自分自身、自分の行為、そして、自分を取り巻くあらゆるものごとに意識を向けることができます。そうやって向けられた意識は新たな発見をもたらしてくれるでしょう。
 また、本質的には、無に徹することにより「自分」から抜け出し、自分を超えた豊かなものに繋がることができます。劇場では、凝り固まった「自分」自身を、役柄になること、繰り返し同じ生を生きることが解いてくれます。
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 うあー。読んでいるうちに湧き上がってくる、この違和感は何なのだろう?
 もちろん僕が言いたいのは「自分は自分に過ぎない」なんてことでは、まったくないわけでさ。

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そして、私の身体は決して私だけのものではなく、意識を超えた所で様々な「他なるもの」と繋がり合っている何ものかなのです。
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 この文章が言っていること自体は「まー、そうなんじゃないの?」ってな感じではある。けれど。
 問題は「他なるもの」がどのように導入されるか、そして、どのように意識されるか、なわけで。うーむ。



 そーいえば昔、演劇の話とは違うんだけど、似たよーなことを考えていた気がするのでした。
 こちら(⇒200402.html#22)。
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まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するようなメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。
( 内田樹「女は何を欲望するか?」 )
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 内田氏はここで、高橋源一郎氏が「文学」に関して持っている問題意識を映画に当てはめているようなのだけど、そのことで見落としてしまうことはないのだろうか。
 「ひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するようなメッセージを非言語的に発信することのできる」、そんな映画というメディアによって近づける「世界の基底」と、ただただ言語的であるしかない文学によって近づけるそれとは同じなのだろうか? そして、両者が持っている深さと広さとは?

 そもそもさー、「映画の狡知」って、「正しさ」よりも深くて広いものなの? 狡知はしょせん狡知にすぎないんじゃないの?

 …えーと、僕は、高橋源一郎氏の元の文章を読まないで適当なことを言っているだけなので、注意してくださいまし。



 一行掲示板(⇒http://d.hatena.ne.jp/flurry/20040628)のほうで、たきのはらさんと演劇に関するやりとりをしているうちに出てきた、「芸談」と「評論」との違いの話。いつもにも増して、まとまりが無い文章なので注意だ。
 とりあえず、たきのはらさんのコメントをピックアップして、こちらに転載するですよ。

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# たきのはら 『それはそうと、1日の日記を読む限り、どうもここでやるべき議論に対して、私は芸談で噛みついてる気がした……よくないなぁ。』
(中略)
# たきのはら 『いやね、私、芸談というのは、『芸のやり方』なのであり、もう既に芸事の世界の中で完結しているものであると考えているのです。だから、お能の芸談はお能をやっているひと、お能に興味のある(insideしようとする)ひとに向けられるものであり、ある程度「外部から見た者を外部に解釈して見せる」評論とは別物というふうに考えるのです。』
(中略)
# たきのはら 『芸談は「私は○○が××であると知っている」から始まるものであり、評論は「私は○○が××であると考える」から始まるもので、両者は別物です。発信者がこれをごっちゃにすると、えらい独善的な物言いをする羽目になり、時としてみっともなくなります。受け手からすると、その独善っぷりに何やら腹が立つんじゃないでしょうか。でも、芸談やってる側としては「事実」に基づいた発言をしているわけだからどうしようもない、ってことに。』
(中略)
# たきのはら 『それはそうと、外のヒトが芸事世界に入るためのチューナーとしての芸談、という認識は、全く正しいと思います。えーと、そうですね、芸談を聞くというのも稽古の一部なのかも。弟子も師匠の芸談を聞き、それを自分の実際の稽古に重ねていくことによって自分の芸を作っていくわけですから。』

# たきのはら 『ちなみに私は既に舞台屋で役者崩れの舞踊手の端くれなので、舞台関係の話題に対しては、自分の体験、自分の身体から離れてモノをいうことが非常に難しいのです。評論はできないの。芸談になっちゃう。で、最初は舞台関係の話題だけだったので、芸談的な情報提供もアリかと思ったのですが、先に進んでみると、これはつまりどちらに対しても外部の人間がそれを解釈する目線で語られている評論的な話題であって、芸談はちとよくないかなぁ、と。』
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 ここでの、「外のヒトが芸事世界に入るためのチューナーとしての芸談」の仕組みというのは、いったい何なのだろう。実はそれは物語への「感情移入」(←ずいぶんとアバウトな言葉なので、出来れば使いたくないのだけど)の仕組みと近かったりするのだろうか。

 ものすごくルーズな言い方になっちゃうのだけど、能や歌舞伎といった伝統芸能にしても、演劇にしても、あるいは小説にしても、そもそも、「外部のヒトを内側に引き込む」ことを、その目的としているのではないのだろうか。
 だとすると、「外部のヒトを内側に引き込む」こと、「外部に居た自分が、内側へと引き込まれてしまう」こと、そのこと自体について語るということは、どのようにしたら可能になるのだろうか。
 たとえば、芸事世界外部の人間が芸談を聴き、芸事世界へのチューニングを行う。そこで起こっているのは、「考える⇒知っている」への移行なのだろうか。だとすると、「考える⇒知っている」あるいは「知っている⇒考える」の移行自体について語るというのは、どういうことなのか。

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仮説1:
 その移行について語るのは不可能である。その不可侵の領域こそがまさに芸の本質であって、他の言葉には置き換え不能である。
 たとえば、「芸談」は内部の人間が内部に向けて語るもので、「評論」は外部の人間が外部へと向けて語るものである。どちらも、その領域にはたどり着けない。
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 …そーなの?

 ところで、仮説1のバリエーションについて考えてみる。
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仮説1のバリエーション:
 「自分の」その移行について語るのは「自分では」不可能である。もちろん、他人にも不可能だし、語ってほしくはない。
 誰かが、内部の人間が内部に向けて語る「芸談」と、外部の人間が外部へと向けて語る「評論」とを混ぜこぜにして語っていると、あたかも、自分のその移行経験を一般化されてしまうような気がして不愉快に思えてしまう。
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 このバリエーションに関しては、「なるほどそうだ」と思われるかたも居るのではなかろうか。でも、ここでの「自分」って、いったい何だろう。
 たとえば、この「自分」と↑上の文章(⇒200407.html#22_2)で引用した「世界劇場問答」での「自分」とは、いったいどのような関係にあるのだろうか?
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http://www.gpwu.ac.jp/door/todokoro/mondo.html
世界劇場とは、世界=劇場、つまり、この世は舞台で、ひとはみな役者であるという人生観、世界観です。この考え方の根には、「私」や「自己」はそもそも存在せず、仮にあったとしても、それは世界のただ中に置かれたそれ自体としては何ものをも意味しない「もの」にすぎないという徹底的な無の思想があります。私たちは、根源的には空虚な存在で、たまたま与えられた世界の中のなにがしかの役を演じることによって初めて存在のかたどりを得るようになります。
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 「それ自体では何者をも意味しない自分」と、「他人には語ってほしくない自分」と。

 最後の最後で話が演劇に戻ってきたよーな気もするけど(そうか?)、まとまらないままに中断。



 基礎教養が無い状態で、阿呆な思いつきを長々と書いているんだけど、たぶんこれって、「言い表せない/言い表したくない」ことについて、「どのように」言い表せない/言い表したくないのかを(言葉を使って)考える、ということをやっているんだと思う。なんだか面倒な話だ。

 あー、そこ。名前がウィだかヴィだかで始まるひとの例の言葉を持ってきて何事かを言ったような気になるのは、とりあえず禁止な。


7月1日(木)  シェイクスピアを読んで「GUNSLINGER GIRL」のことを考える。

 あああ、だからさ、読者が「リア王」と「GUNSLINGER GIRL」の両方を読んでないと理解できないよーな文章書くのを止めろよ>俺。 一応の理想は、「リア王」と「GUNSLINGER GIRL」のどちらかを読んでいたら理解できる文章を書くことなんだけどねえ。

 それはさておき。何となく、過去の日記を読み返していたところ、去年から今年にかけて僕が「GUNSLINGER GIRL」について書いた文章に出くわした。(200312.html#26_1)とか(200312.html#27_1)とか(200401.html#02_2)とか。
 読み返してみるに相当情けない文章ではあるのだけど、書いているときの自分の切迫感が伝わってきて僕にとっては面白かった。今書いているこの文章も、後から読み返すとそんな感じになるんだろな。
 それはそうとして、分かっていることとはいえ、「リア王」を読もうが「GUNSLINGER GIRL」を読もうが似たよーな話しかしてないなあ>俺。
 たとえば、リア王の「愛情と義務とのジレンマ」(⇒200406.html#04_2)と、義体少女たちの「担当官への純粋な好意というジレンマ」(⇒200312.html#27_1)とかさ。



 12月下旬〜1月上旬あたりに「GUNSLINGER GIRL」について書いたことを繰り返してみる。以下、悪趣味な言い方で悪趣味な話をするので注意だ。

 リコ・ジャン組やトリエラ・ヒルシャー組と違って、ヘンリエッタとジョゼとのフラテッロというのは、アンバランスで不均衡な関係の上に成立してる。他の義体少女たちがそれぞれのやり方で、自らの好意を「葛藤」の中に埋め込むことでコントロールしているのに対し(⇒200401.html#02_3)、ヘンリエッタは自分の好意をまっしぐらに追求してしまう。ところで、改造手術の過程で子宮を失ってしまったヘンリエッタには(シンボル的な意味で)「葛藤が存在しない」とも言えるんではないかしらん。

 ヘンリエッタのラブは真っ向まっしぐらで、留まる所を知らない。そして、まさしくヘンリエッタのノンストップ・ラブの中にこそ、「GUNSLINGER GIRL」の背景世界を、『公社』とテロリストと改造少女たちの悪趣味な世界を、大きく揺らがせる可能性というのがあるのではないかしら。

 …えーと、ところで、前回シェイクスピアについて書いた文章(⇒200406.html#28_1)から、この文章への繋がりというのは理解いただけるんでしょうか?>読者のかた。



 少し問題になってくるのが、ヘンリエッタは義体になる前の(トラウマ的な経験の)記憶を、薬物による洗脳で消し去っているということなのだけど(←しかしまあ、悪趣味な設定だこと)、その辺は以下、次号へと続くってことで(えー?)。次号ではグレッグ・イーガンの「愛撫」(『しあわせの理由』所収)とからめて話をするよ。たぶん。



 あー、だから、つまり、その。はるか昔に読んだ、斎藤環「戦闘美少女の精神分析」を読み返してみるべきじゃないかな>俺。