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【2004年6月】

6月28日(月)  演劇に疎いひとがシェイクスピアを読んだ顛末(中間総括)、無/鏡/穴。

 実家に置きっぱなしになってた「ハムレット」(岩波文庫版)を回収した。ついでに、福田恆存氏の解説を読むために「ハムレット」(新潮文庫版)を買ってきた。両者の解説を読み比べながら考えてるうちに考えがなんとなく定まってきたよーな。

 とりあえず、3つの立場について書いてみる。シェイクスピアの話というだけではなくて、たとえば「人間の知能の発達」とか、そういうテーマでも出てくるよーな図式ではないかしら。

a) 「無」
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 前にも度々言ったことだが、ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演戯しているということにある。既にハムレットという一個の人物が存在していて、それが自己の内心を語るのではない。まず最初にハムレットは無である。彼の自己は、彼の内心は、全くの無である。ハムレットは自己のために、あるいは自己実現のために、語ったり動いたりはしない。自己に忠実という概念は、ハムレットにもシェイクスピアにもない。あるのはただ語り動きたいという欲望、すなわち演戯したいという欲望だけだ。この無目的、無償の欲望はつねに目的を求めている。その目的は復讐である。決して自己実現などという空疎な自慰ではない。欲望の火はそんなものには燃えつかないのだ。

(福田恆存「解題」 「ハムレット」新潮文庫版 p. 209)
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 「語り動きたいという欲望」までは分からなくはないのだけど、それをどうして「演戯したいという欲望」という言葉に置き換えてしまうのだろう。
 「演戯」というのは、福田氏の思想のそれこそ中核にある言葉なのだろうけど、その言葉がいったい何を指しているのか僕には良く分からない。でも、「演じる」「戯れる」からなるこの言葉から僕が受け取ってしまう語感というのは、どうしても「視点の二重化」とか「本性を偽る」とか「ネタ/マジ」とか、そういうものになってしまうのだが。

 あー、なるほど。ハムレットの内心が「全くの無」ということは、単に、
「 何か外界のものを見よう見まねで真似してみることでしか、ハムレットは語り動くことが出来ない 」
ってことを意味するのか。そして、内心が無である以上、「 表面的な態度/内に秘めた自意識 」というような態度の二重化も成立しようがないのか。なにせ、内側が無いんだもの。


b) 「鏡」
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 一幕二場、王と王妃のきらびやかな祝婚の場に、ハムレット一人黒衣で登場する。黒衣は無論、亡き父を悼む喪服にはちがいないが、それは当時の芝居の人物類型の一つ、”憂鬱型(メランコリー・タイプ)”の決まった服装でもある。この衣装を見れば、観客はすぐにそれと察するのが当時の劇場の習いであった。ハムレットもこの型を踏まえている。と同時に、その型を「超越」している。
(中略)
 憂鬱はシェイクスピアが生きた時代、すなわち十六世紀の末から十七世紀の初めにかけての、いわば世紀末の病、時代病であった。

(野島秀勝「解説」 「ハムレット」岩波文庫版 p. 396)
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 ま た メ ラ ン コ リ ー か 。
 それはさておき。
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いかに絶え間なく焦点・視点を転換しようと、道化は迅速に回転する独楽(こま)が静止するように、静止している。そういう「静止点」に立って彼が掲げる”鏡”の面に、主人公も世界も、それらがいかに複雑なものであれ、明確な像を結び得る。
(中略)
 しかし、道化ハムレットは主人公(ヒーロー)ハムレットの内部にいる。”ヒーロー”は”道化”でもあるのだ。ということは、主人公は身内に住む道化の「自由な精神」、いいかえれば自意識の自由によって、刻々と蝕まれずにはいないということである。この復讐の英雄たるべき主人公が復讐をとめどなく遅延し、本来戦略であるべき狂気の装いが真の狂気と区別がつかなくなるいわれも、そこにある。

(野島秀勝「解説」 「ハムレット」岩波文庫版 400-401)
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 ここでのハムレットは、a)とは反対に、過剰な自意識や「視点の二重化」に悩む存在として描かれる。
 ハムレットは自らを「世界を映す鏡」に化そうとする。この点ではa)と類似に見える。問題は、ハムレットは世界を映す鏡としての道化であると同時に、復讐を志すヒーローでもあるということで。つまり、鏡に映すべき世界の中に、ハムレット自身も含まれてしまうのだ。
 そのためハムレットは、まるで合わせ鏡のように、自己言及的な牢獄に閉じ込められてしまうことになる。それは、自意識の牢獄と言ってもいいかもしれない。


c) 「穴」
 そして3つ目。これは僕の場合、ハムレットよりもリア王のほうに強く感じるのだけど、彼らの心理世界には「ぽっかりと穴が開いてしまっている」。自分の文章を再掲すると、
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200406.html#20_3
「ハムレット」や「リア王」は(「マクベス」はずいぶん前に読んだので忘れた)、主人公の心理に「ぽっかりと開いた穴」とでもいうべきものを扱っているような気がする。明示的な何かが欠けているというのではなく、何が欠けているのかすら分からないような、そんなやつ。心に開いている穴に対応する具体的な存在がないということは、そもそも世界自体にぽっかりと穴が開いているということでもある(←無理な論理展開)。
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 たとえばハムレットの「世界の関節が外れてしまった!」という言葉は、こういう風に読めるのではないかしら。
 ハムレットもリア王も、「回復すべき秩序」なんてものが、そもそも存在しないことに気付いてしまった。リア王は「愛情と義務の間のジレンマ」に気付いてしまったし、ハムレットは祖国デンマークが(元から)「毒蛇の巣」であったことに、そして、自らもまた毒蛇の血を引くものであることに気付いてしまった。

 彼らはそれでも、その「穴」を埋めようと語り動く。もちろん、そんなことで穴が埋まるものでもない。けれど、その過程で彼らは、(観ている僕らにとって)何だか訳の分からない怪物的存在へと化していく。そして劇の終幕、彼らの死と同時に未知なる新時代の幕が開くことになる。




 別の話。一行掲示板で、たきのはらさんと「シェイクスピアをどう演じるか」についてやりとりする中で考えたのだけど、つまり僕にとっての問題は
「 実際の演劇では、舞台の上では、すべてが『ある』ということになってしまうこと、『ある』という形でしか表現できないこと 」
だったりするのかもしれない。この辺、「絵画には否定機能がない」という話を思い出してみたりする。
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かくして否定や欠如は、それを意識化するや否や、なんらかの代理表象によって充填されてしまう。いくら主体に斜線を引いたところで、われわれは反射的に、そこに誰かの気の毒な主体(の死体)が「在る」と表象してしまう。
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 少しまた別の話。
「 『否定』が無いところが絵画の素晴らしいところだ 」みたいなことを言うひとは結構居るような気がする。言葉が介在しないことで、「価値判断を離れた何か」「理屈抜きの何か」「あるがまま」「プリミティブでダイレクトな衝動」を表現している、とか多分そんな感じのことを言っているのではないだろうか。
 でも、本当に僕らは価値判断から、理屈から逃れているのだろうか。ひょっとすると、心の奥底で価値判断をした上で、それに気付かないふりをしているだけなのではあるまいか。それは「主観と客観との区別以前の境地」なんかではなくて、「主観と客観を巧妙に都合よく混ぜこぜにしてしまうような何か」ではないのだろうか。
 さらに言うと、絵画と言葉とが平行するようなジャンル、演劇、ドラマ、マンガ、イラスト付き物語、その他たくさん、では一体どういうことが起こっているのだろうか。
 …何が言いたいか分からなくなってきたので、この項は後日に続く、かも。

 少しだけ先に書いておくと、もともと僕は「演劇的なもの」に対して身構えてしまうところがある。その理由の一つとしては、演劇の一部のひとに「身体性の称揚」みたいなものが見受けられることがあるからだったりする。
 で、それは僕が、養老孟司氏や内田樹氏に感じている疑念と同種のものなのだと思う。


 さらに明後日のほうへと話がずれる。「CROSS † CHANNEL」とかいうゲーム(18禁)の主人公の紹介を読んだ。…なんだか、それはそれは素晴らしく強烈な敵性電波を感じるのですが。つまり、
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もの凄い美形だが、自分では不細工の極地だと思いこんでいる。容姿についてコンプレックスを持っていて、本気で落ち込んだりする。
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という言葉の後ろに、主人公のイラストが重なってしまうことについて。


6月22日(火)  切なさ炸裂サッカー。

 全員同年代なので、妹サッカーと比べて考えるのが楽。何だかスタンダードな編成かも。

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    遠藤 七瀬

星野         沢渡

    山本 杉原

安達 松岡 森井 永倉

      綾崎

遠藤:優等生的万能型。シュートよりも「流し」の精度が高いのはどうしたものか。泥臭いプレーもそれなりにできるのだが。
七瀬:シャドウです。消えてます。ゴールセンスが優れている「だけ」と思われがちだが、土台となるのは豊富な運動量。

星野:沢渡とは逆に縦に入ることが多い。ショートクロスの精度が結構高い。あとは落ち着いてキープが出来れば。
沢渡:バランス型だが本人はドリブルとキープにこだわる。中に切り込むことが多いのは良いが、真正直に突っ込みすぎ。
山本:ショートパスで繋いで回していくバランサー。真っ先にディフェンシブハーフに決まってしまう境遇は、ある意味で不幸。
杉原:ダイナミックなフィードとサイドチェンジ。実は司令塔? 視野が狭いんだか広いんだか正直分からん。頻繁に痛んでいる。

安達:堅実な動きのレフティ。強いが粘りに欠けるCB2人のフォローや、山本とのパス交換で最後列からの組み立て。
松岡:ストロングスタイル。全身のバネを利かせたジャンプはチーム随一。ダイナミックな空中戦は一見の価値が。
森井:身体能力に優れたスピードスター。ボールを持ってないとき限定だが。オーバーラップ時にタメを作ることを覚えてくれ。
永倉:沢渡が中に入った後のスペースにものすごい勢いで走りこんできて、観客に(一瞬の)夢を見させてくれる。

綾崎:凄みのあるキーパーって良いよね。安定感があるというよりも、集中力を自ら高めていくタイプ。当たったときは神。


ダイヤモンド型。

    遠藤  七瀬

      沢渡
  星野     杉原
      山本

安達 松岡 森井 永倉

      綾崎

偽ミラン風味?

    遠藤  七瀬
      沢渡

  安達     山本
      杉原

星野 松岡 森井 永倉

      綾崎
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 …なんだか、結構良いチームに思えてきた。


6月21日(月)  四葉、誕生日おめでとう。

6月20日(日)  やっぱり「オセロー」について。黙っているイアーゴー。世界に開いた穴。

 シェイクスピア「夏の夜の夢・あらし」の「夏の夜の夢」を読んだ。
 激しく面白いんだが、その、人間の主体性とかそういうものは一体どこへいったとか、少しは言いたくなるなあ。

 ついでに「ロミオとジュリエット」を読み返していて気付いたんだけど、「夏の夜の夢」もロミジュリも「オセロー」も「リア王」も、どれも「親に定められた望まぬ結婚」シチュエーションではないか。…今頃になって気付くなよ、というか。

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つまりロミオにも、ジュリエットにも悲劇への責任はない。要するに彼等もまた「運命に玩ばれる馬鹿」だったにすぎないからである。しかも原因が内になくて、外なる運命の狂いにある以上、それさえなければ悲劇は一転して喜劇に終って少しも差し支えない。そういえばシェイクスピアは、この悲劇とほとんど同時期に最初の円熟した喜劇「夏の夜の夢」を書いているが、訳者は「ロミオとジュリエット」の裏返しが「夏の夜の夢」であり、「夏の夜の夢」の裏返しが「ロミオとジュリエット」であると信じている。
(中野好夫「ロミオとジュリエット」新潮文庫版解説 p. 257)
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 悲劇の原因を「外なる運命」と「内なる性格」とに分けてしまうのは、あんまり良く分からないなあ。

 「ロミオとジュリエット」や「夏の夜の夢」だと、父親の決めた結婚と娘の恋愛とが対立してて、その対立は調和的なハッピーエンドに統合されるときもあるし、はたまた劇的な破局に終わるときもある。
 一方「リア王」だと、そのような対立がそもそも成立しないようになってる。娘は他の男性に恋をしているわけではなく、父親に対する思慕ゆえに結婚を拒絶する。対立物が存在しないため、リア王の苦悩は「対立に煽られた激情」というよりも、「心にぽっかりと開いた空虚」みたいなものになる。
(ところで、これをリア王とコーディリアが近親相姦的にどーとか、という風に読んでしまうのは好きではないです。センス悪い)

 たぶん、当たり前のことについて書いてます。



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イアーゴー: 何もおれから訊こうとするな。ごぞんじのとおり、ごぞんじのはずだ。この今を限りに、おれはもう一言も口をきかぬぞ。
(シェイクスピア「オセロー」新潮文庫版 p. 180)
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 悪人イアーゴーはクライマックスでこのような台詞を吐くと、実際に終幕まで口を閉ざしてしまう。この沈黙は何だろう。あなたがイアーゴー役を演じるとしたら、どのように「黙っているイアーゴー」を演じます?

 ところで、シェイクスピアが元にしたらしいツィンツィオの「百物語」では、黙っていたのはオセローのほうであるらしい。
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 旗手(イアーゴーに相当する登場人物)はムーア(オセローに相当する)に妻の貞節に関する疑念を吹き込む。そして二人は共謀して妻デズデモーナを殺してしまう。この後、ムーアは妻の死を悼むあまりに旗手を免職する。旗手は恨みに思い、「ムーアが妻を殺し自分の足を傷つけた」と政府に訴え出る。ムーアは逮捕され尋問されるが、彼は黙して語らない。やむなく政府は彼を追放処分にする。その後、ムーアはデズデモーナの親族に殺される。旗手もまた事実が露見して、拷問を受け命を落とす。
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とかそんな感じ。こちらの筋の場合、「黙っているムーア」を演じるのは比較的に楽な気がする。テンプレート的な「沈黙せる異邦人」「他者」として舞台の中心に立ち、他の登場人物が彼の意図を推し量ろうと右往左往するところを冷ややかな視線ででも見つめていれば、(たぶん)それで良い。空虚な中心だか何だか、たぶんそんな感じ。
 でも「オセロー」のイアーゴーの場合には、そうもいかない。オセローがイアーゴーの「真意」を問い、イアーゴーが返答を拒絶して沈黙すると、すぐに場の関心はオセローに完全に移ってしまう。イアーゴーは舞台の端に取り残される。その状態でイアーゴー役は沈黙し続ける羽目になる。
 妙な話だなあ。


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 エリオットは『ハムレット』の中には、主人公の激しい感情の揺れにたいして、それを必然ならしめ、かつそれを受け止めるに足る対応物が欠けていると評した。私はその評をそのまま肯定しようとは思わない。ウィルソンの言うように、それはハムレットという人物を作品『ハムレット』の外に連れ出してしまう試みであろう。が、エリオットの評もある程度までは当っている。それを私流に翻案して言えば、ハムレットは一人相撲の空廻りをしていることになる。それにもかかわらず、ハムレットは行動している。つまり空廻りする感情や心理を内面の世界にだけ止めず、外に向って発散させていくので、無理にも自分の手でそれに相当する対応物を造りあげてしまう。ハムレットの想像力が幻影を生み、行動を導き出し、外界を変える。

(中略)

そのことと関連して指摘しておきたいことが二つある。その一つは、オセローのせりふには、他の悲劇の主人公に較べて詩がないということである。それが詩的に美しくないという意味ではない。リア王やハムレットやマクベスのように、オセローは言葉をまじないとして自己の可能性を喚びだし、自己を行動に追いやるということをしないのだ。唯一の例外は最後のせりふだけである。
(福田恆存による「オセロー」新潮文庫版の解題 p. 200-201)
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 さっきも書いたけど「ハムレット」や「リア王」は(「マクベス」はずいぶん前に読んだので忘れた)、主人公の心理に「ぽっかりと開いた穴」とでもいうべきものを扱っているような気がする。明示的な何かが欠けているというのではなく、何が欠けているのかすら分からないような、そんなやつ。心に開いている穴に対応する具体的な存在がないということは、そもそも世界自体にぽっかりと穴が開いているということでもある(←無理な論理展開)。

「その『世界』ってさ、主人公にとっての世界認識のこと? それとも客観的な現実世界のこと?」
 …阿呆かねキミは。そんな区別がどーでも良くなってしまう辺りが、「ハムレット」や「リア王」の素晴らしいところじゃないのか?

 んで、「オセロー」。この作品においても、石橋を叩いて壊してしまうような、世界に対する根本的な猜疑心が描かれているといえなくもないのだけど、でも、それはすぐさま「ムーア人」とか「妻の不貞」とか、そういうあからさまに具体的なものへと置き換えられてしまう。そのような具体的なものを超えるものは、沈黙の向こうに見えなくなってしまう。
 このような事態こそが「オセロー」が描こうとした悲劇なのかも。つまんないんだけどさ。

 あああああ。また、同じ話をしているよ、俺。



 自分がシェイクスピア作品を読んだ順番について振り返ってみる。
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「オセロー」(途中で挫折)→「ロミオとジュリエット」(ふーん、それで?)→「マクベス」(よくわからん)→「ハムレット」(うわあ面白い)→「リア王」(おおお、何じゃこりゃ。すげえ)→「オセロー」(やっぱダメでした)
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 あああ、何だかものすごく読む順番を間違えているような気がするぞ。
 今度は近松の心中物でも読んでみようかしらん。どの本で読むのが良いかしら。


6月19日(土)  (無題)



6月16日(水)  「コロノスのオイディプス」、jounoさんへのお返事、靖国。

 古書店で購入していたソフォクレス「コロノスのオイディプス」(岩波文庫・絶賛品切中)を読んだ。
 うわあ、変な話。「オイディプス王・アンティゴネ」(新潮文庫)を読んだときには、どうして「コロノス」も一緒に載せてくれないんだと不満に思っていたのだけど、こりゃ載せなくて正解かもしれない。

 「オイディプス王」と「アンティゴネ」の間にあった出来事を描いている作品なのだけど、作品が書かれたのは「オイディプス王」や「アンティゴネ」よりも後で、ソフォクレス最晩年の作品だとか。そのせいなのか「あの二つの作品は、実はこうなってました」的な書かれ方がされていて、読んでいてなんだか居心地が悪いのでしたよ。個人的には「あー、その、読まなかったことにしていいですか?」てな感じなのですが。

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クレオン: (前略) その娘(アンティゴネ)が、さあ、わたしは、いまこの不仕合せな女(ひと)が陥っているほどに、虐い有様にあろうとは、思いもかけなかった。いつも目の見えぬあなたに、物乞いの暮しのあいだにかしずいて、この年で、夫もなく、出会った者の良い餌食だ。
(p. 47)
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 がーん。ひょっとしてクレオンは、アンティゴネが父親の糧を得るために自らの身体を売っていると言ってますか? …いや、それは変な深読みのし過ぎだろ。
 そのように読んでしまったために、「アンティゴネ」における僕の中のアンティゴネ像が一変してしまいましたよ。「生硬な誇り高さ」(←そう読んでいたらしいですよ)から、もうちょっと苦労性な感じへと。



 「アンティゴネ」(→200404.html#21_1)に関して、掲示板(→http://bbs11.otd.co.jp/flurry/bbs_plain?base=90&range=1)にjounoさんからの書き込みを頂いていました。ずいぶんと遅くなってしまったのですが、お返事を書きたいと思います。
 「コロノスのオイディプス」を読む前に文章の大筋を書いてたので、「コロノス」を前提とした「アンティゴネ」の読みとしては適切でないかもしれない文章なのですが。

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クレオンの布告は、クレオンの恣意というよりはやはり、ある客観的な性格を帯びています。
共同体に敵対したものを共同体にとっては「人=同朋」とは認めない、という「法」は
いかなる共同体にとっても必然性をもつからです。
埋葬しない、ということは、パンテオンから排除するということでしょう。
逆にいえば都市を守って死んだ兄弟のもうひとりは神格化するということでもあります。
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 クレオンの布告は恣意的なものではないとは思いますが、その「客観性」を成立させている前提が問題です。共同体が成立しているかどうかというのは、実際にはそれほど自明なものではないかもしれない。共同体Aに敵対したひとは共同体Aにとっては同朋ではないかもしれないけれど、共同体Bにとっては別かもしれない。
 「アンティゴネ」の舞台となっているテーバイは、都市全体を巻き込む無残な戦争の直後で、おまけに、戦争の首謀者は先王の兄弟です。テーバイでは、その共同体としての前提自体が揺らいでいるのではないでしょうか。戦前のテーバイ、戦争中のテーバイ、戦後のテーバイというのを、同じ共同体とみなすことというのは、住民にとっては必ずしも自明ではないかもしれない。

 クレオンは布告を行うことによって、共同体を立ち上げようとしていると言えます。共同体の必然性に従って「誰を埋葬するか、埋葬しないか」ということが決まるのではなく、逆に「誰を埋葬するか、埋葬しないか」を定めることによって、共同体の範囲が定まってしまう。ひとたび人々がクレオンの「共同体」を受け入れ、それを思考の前提としてしまった瞬間に、クレオンの布告は「明らかに客観的なもの」になってしまうわけです。

 クレオンの布告は(クレオン本人の意図は分かりませんが)、「英雄と反逆者」という形で先の戦争を意味付けることによって、戦後のテーバイ共同体の意味付けを行うと同時に、戦前からテーバイを長らく覆っていた「オイディプス王の束縛」という意味づけを断ち切ろうという方向性があるのかもしれません。
 で、一方、人々がアンティゴネの行いをどのように理解するのかというと、
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・遺族の正当な権利としての「弔い」の要求
・新王クレオンに対する、オイディプス王および彼の血統の伝統と正当性の主張
・二人の兄弟の死に対して格差をつけることの拒否
・死を意味付けすること全般に対する拒否(↑上とは微妙に違う)
・そして、それらには回収できない、言明できなさ、名状し得なさ
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のどれかだったり、あるいはこれら全てだったりするのかもしれません。アンティゴネの行いのことを、「オイディプス王からの正当性を引き継ぐことによって、テーバイの共同体性を回復させようとする試み」として見てしまうこともできるような。

 …なんだか、そのまんま「靖国」って感じの話になってしまいました。


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が、アンティゴネのいう神の掟、無茶であるが、人の正義を超える正義というものの存在を、
たしかに読者は感得する。ではそれは何か、というと、しかしその内容、論理は出てこない。
ぼくはそこが気になります。むしろ、この言明できなさ、名状し得なさこそが、アンティゴネの
論理の本質なのだろうかと。
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 僕自身よく理解していないのですが、この辺りがジジェク「行為とメランコリー」の中核にあるみたいです。
 北田暁大さんがユリイカ2004年5月号の論文でジジェク論文について論じているのですが、北田さんはアンティゴネ(と彼女に関するジジェクの解釈)を「 自らのなかにある(他人には分からない)ルールと、世間のルールとの間にあるズレを認めない『超人』 」と要約してしまっているように僕には読めます。
 アンティゴネの行いの言明できなさ、名状し得なさを、「彼女の内面が分からないこと」「彼女のルールと世間のルールとがズレているかどうか」という形に回収してしまうことが果たして適切なのかどうか、考えているところです。



 上の文章を書きながらつくづくと思ったのだけど、クレオンの行動に関しては、ついつい「クレオンの『意図』は…」とか書いてしまいそうになるくせに、アンティゴネに関しては「彼女の謎に満ちた内面」とか書いてしまいそうになる自分。さすがにどうかと思ったよ。
 内面なんて言葉を簡単に使うなよ、ってのはさておき。

 あれだ、ざっくりした書き方をすると、「男にとって女は謎だ」ということを女性は押し付けられてきたという歴史があるわけで。…その、「押し付けられてきた」って書き方も微妙なんだけど、その辺は勘弁してください。
 んで、例えばその状況が気に入らないから改善したいとする。でもここで、「私たちは謎なんて持ってません」というのはどうなのか。手持ちのカードを全てオープンにして場に晒してしまったら、自分たちの運動の影響力を削いでしまうかもしれない。逆に「私たちは『謎』です」って感じで振舞うことで、ある意味で影響力は増すかもしれないけれど、でもそれは「女という謎」という形で従来からのシステムに組み込まれてしまう危険性があるわけで。

 ほら、定番的な文章、ありますよね。
「キマリとかシキタリとかに縛られたオトコノコたちに比べて、オンナノコたちは軽々と新しい時代に適応していく」
 そんなわけあるかっての。どっちもどっちだよ。


 あ、なんだか今の気分にぴったりの文章を見つけた。
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http://d.hatena.ne.jp/merubook/20040616#p2
 高校生や、大学生で、もし何か文学作品を論じるレポートが課されたら、簡単にだれでも書けるネタがある。
 とにかく、女性が主人公の小説を読んで、論じるときは、たとえば「この女性は男性の価値観に抑圧(疎外)されている」とか「○○という女性登場人物は、男性主人公にとって理解不可能な他者であった」というように論じると、きっと担当教官から優がもらえると思う。たいていの物語には、女性が出てくるのだから、ほぼどんな小説の分析にも使える。とにかく、「女性」に出会ったら、「他者」と思え。
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 あはははははは。
 はじめから「彼女のことは理解不能」と書いてしまうと、手が拡がっていかないので、「その一瞬、彼女は主人公(あるいは『私たち』)の理解をすりぬけてしまう」とか書いてみるのはどうだろう(←引きつった笑い)。


6月12日(土)  「オセロー」ではなく「リア王」のこと。

 シェイクスピア「オセロー」(新潮文庫版)を読んだ。
 激つまんねえ。金返せ。つーか、なんかもう心底どーでもいい感じなんですが。ところで「オセロー」のほうが「リア王」よりページ数が多いってのは、一体どういうことだ。

 思いおこせば僕が小学6年の時分だったかそれとも中学1年だったか、とにかく、父親の本棚でシェイクスピアを何冊か見つけて、何故かその中で「オセロー」を手にとり(たぶん音の響きが一番面白く感じたからだと思う)、「おお、これがシェイクスピアとか言うヤツか。読んでみるべえ」と読み始めたものの、激つまらなくて、中途で挫折してしまったことがあったのでした。
 いま思うに、単にそれは僕が不運だっただけなんじゃないかと。



 というわけで、「オセロー」ではなく「リア王」の感想の続きを書くよ。どうやら、相当「リア王」のことを気に入っているらしいよ。前回(200406.html#04_2)は、おもに序盤について書いたので、今回は終盤について書くよ。

 正気を保っているけれど視力を失ったグロスター伯と、眼は開いているが正気を失っているリア王と。この二人についてどう考えるか、なんだけど。
 どうも、グロスター伯がリア王の受苦を代行しているという見方が一般的だったりするらしいのだけど、自殺を試みたグロスター伯と、心痛によって心臓が破裂した(とは書いてないんだけどさ)リア王とでは、受苦のあり方がずいぶんと違う気がする。

 グロスター伯は途中で、「視力を失ったことで、逆に見えてきた真実がある」みたいな台詞を言う。その一方でグロスター伯は視力を失ったせいでしっかり騙されて、「偽の」崖からダイブすることになる。
 問題はグロスター伯が、この、偽のダイブによって何だか救済されてしまったように見えることで。つーかあれだ。あのダイブの場面って、読んでて幸せになってきませんか? んで、ダイブの後、劇中におけるグロスター伯の存在感は急激に薄れていく。クライマックスから終幕にかけては、舞台に登場すらしない。
 ヘンな話だなあ。

 あれだ。やっぱりグロスター伯はあのダイブによって、きっちりと救済されてしまったのだと思う。けれど、その救済の可能性は「眼を見開いている」リア王には与えられていないのかも。むしろリア王は、自らの救済の可能性を拒絶していると僕は読みたくもあるんだけど、どうなんだろう。
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グロスター: 始めて肝に銘じた。今後はどんな苦痛にも耐え、苦痛みずから「もう駄目だ」と最後の叫びを挙げて倒れていくのを待とう。
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グロスター伯は自らの境遇に関して、こんな感じに悟ってしまう。で、その一方、自分自身をまさしく苦痛そのものと化して、そして倒れていったリア王は、そんな「悟り」すら拒否しているんじゃないだろうか。
 狂気のリア王の苦しみに満ちた内面を代弁するかに見える、「正気の」グロスター伯の受苦。でも、どこかでその繋がりはフッと途切れてしまう。リア王の狂気は僕らの手からするりと逃れていってしまう。



 グロスター伯がダイブする場面を読みながら、滝本竜彦の「NHKにようこそ!」のクライマックスを思い出してみたり。滝本竜彦は優しいなあ。
 むろん褒めてます。



 どーでもいいけど、「宇宙感覚」なんていうステキ用語を持ち出してきて何か説明した気になってる、翻訳・解題の福田氏は正直どーしたものか。福田氏も中村氏(解説)も仕事に手を抜きすぎじゃありませんか?


6月4日(金)  「リア王」。

 バッグの片隅に放り込んだまま忘れてた、シェイクスピア「リア王」(新潮文庫版)を読んだ。
 すげー。わけわかんねー。超おもしれー。

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・コーディリアが存外と性格が悪かったので驚いた。あと、リア王とコーディリアとの関係を軸に進んでいくのかと思ったら、コーディリアが全然出てこない話だったので、これまた驚いた。

・リア王、道化、エドガーと三人揃っての会話は、やりすぎ風味が漂っていて実に良かった。狂人と、道化と、狂気を装う人間と。「ハムレット」のテーマ再び? 「ハムレット」ではハムレット一人の中に同居していた諸要素が、ここでは各登場人物ごとに割り当てられてる。

・好きな登場人物は、コーンウォール伯を刺す「第一の召使」。唐突に登場して、そのまま壮絶に死んでいく。あまりのことに笑いだしてしまったよ。

・そういえば最初から最後まで、全然コーディリアに同情できなかったのでしたよ。

・ものすごく好きな台詞。

コーンウォール こういう手合いがいるものだ。一度、無遠慮なのを褒められると、それからは故意に身の程知らずの豪放振りを衒い、その自然の美徳とは似も附かぬわざとらしい型を演じ続ける。なるほど阿諛追従の出来ぬ男だ、そいつは! 生来、正直、かつ率直、常に真実を語らずにはおれぬという! 周囲がそれを好むなら、それでよい。また好まぬなら好まぬで、率直な男として通用する。こういう輩は率直になればなるほど、その美徳の内に卻(かえ)って手の混んだ処世術と堕落した目的とを潜ませているものだ。それよりはむしろ、愚かな家鴨よろしくへこへこ頭を下げるばかりで、自分の務めに越度(おちど)の無いようにと、ただそれだけに汲々としている大よその家来共の方がまだしもましであろうな。

(p. 68-69)」

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 ところで、翻訳・解題の福田氏も解説の中村氏も「リア王の愚かさは現代人には納得しがたい」みたいなことを書いているんだけど、そうかなあ。
 あれか。ひょっとして、「リア王は、寡黙な中に真の思慕を示すコーディリアを遠ざけ、能弁で媚びへつらう姉たちを選ぶほどに愚かであった」って解釈だったりするのか?

 冒頭でのコーディリアの台詞って、たとえ思慕の心から出たものだとしても、随分と意地の悪い性質のものだと思うんだけど。あの台詞によって、リア王は愛情と義務との間のジレンマ的関係に直面させられてしまったのではないかしら。
 たとえばO・ヘンリーの「賢者の贈り物」が示したりもするように、愛情というのは時に「適切な義務・責務」を少しばかり越えた、過剰なものであることを要求されるらしい。んで、リア王が愛しい愛しいコーディリアに求めたのはまさしくその過剰さだったのに、コーディリアは「子としての当然の務めですが、何か?」と返してしまう。過剰さすらも「適切な責務」へと呑み込んでしまうかに見える態度。そりゃ、リア王が錯乱するのも無理ないわなあ。
 更に言うならそれは、普段から「王の孤独」――周りの人間が主君として自らに仕えるばかりで、友人と呼べる人間が居なくなる――を感じていたであろうリア王には、余計に痛かったんじゃないだろうか。
(実は、コーディリアの台詞というのは別の意味で過剰だったりもするんだけど、今回は触れません)

 リア王はコーディリアに余生を世話してもらいたかったがっていたということから考えると、コーディリアの勘当、財産剥奪というのは、あれはコーディリアが嫁ぐことを阻むもので、つまりは王の「コーディリアを我が物にしておきたい」という気持ちの表われでもあるのかもしれない。バーガンディ公とフランス王に対しての、リア王の態度が正反対なのに注意。バーガンディ公を試すような、リア王の態度も。

 ところが、勘当されたコーディリアにフランス王は求婚し、コーディリアはフランスへと去ってしまう。このことがリア王の正気に止めを刺していたのかもしれない。
 以後、傷心のリア王は半ば意図的に、姉たちの忠誠を試すような行動をとるようになる。結果として、姉たちの忠誠は見事なまでに揺らいでしまう。「石橋を叩きすぎて割ってしまう」てな感じでしょうか。姉たちは元から中身が邪悪だったのではなくて、むしろ、リア王の行動によって邪悪さを引き出されてしまったというのが正しいのではなかろうか。
 つーか、上に挙げたコーンウォール伯の台詞を書くよーな人間が、「見かけ(虚飾)と実質」なんていう(ある意味)単純なテーマで書くとは思えないんですが。

 たぶん、当たり前のことについて書いてます。



 今度は逆の方向から書いてみる。こっちも「当たり前」のことだと思うんですが。

 そもそも冒頭、リア王がコーディリアに訊ねる場面というのは、リア王が退位を志し、自らの後継者を定めようとする儀式においてなのでした。んで、当初のリア王のもくろみとしては、コーディリアの愛に溢れた言葉を受け取り、この言葉に包まれつつコーディリアの夫を定めることのなかに、コーディリアが嫁ぐことを祝福しようとしていたのではないだろうか。

 つまり、「娘を嫁がせる父親」のジレンマと、そこからの解放の道筋というか。
 あれだ。世のお父さんたちが娘の結婚式に出る。お父さんは式の直前まで娘の結婚に複雑な感情を抱いている。そして、式のクライマックス。ウェディングドレスで着飾った娘から父親への感謝のスピーチ。それを聴くうちに、お父さんたちの眼からは零れ落ちる雫が。その涙のうちに、「幸せになれよ」とお父さんは呟くのでした。

 ところがリア王にとって、(むしろ皮肉な形によって)その解放、カタルシスは与えられなかったのでした。そして、ほとんど最悪の形でコーディリアはリア王の元を離れていくわけで。


 …なんだか、本当に本当に同じようなことばかり考えてますな>俺。
 だから当然というか、考えが躓くところも同じだし。もう寝ます。



 ふと思い出したのだけど、『マリア様がみてる』の「いとしき歳月」(後編)での、祐巳と聖が教室で行うやりとり。あれは聖にとって、ほとんど完璧なまでの着地の仕方だったと思う。作者は良いひとだなあと思うばかり。


 あ、少し(これまた当たり前のことを)付け加えておくと、上に書いたリア王とコーディリアとのジレンマ的関係というのが、実のところ全然本筋ではないという辺りが「リア王」の面白さかもしれない。コーディリアは早々に舞台の後ろに退いてしまい、話の筋はあっという間にわやくちゃになってしまうわけで。すばらしい。


6月3日(木)  「悲しき熱帯」

 「悲しき熱帯」読了。
 第9部「回帰」。37章「神にされたアウグストゥス」から38章「一杯のラム」への流れが圧巻。フィールドでの苦境の中での煩悶に満ちた内省から、文化人類学者が抱え込む普遍的難題についての思索へと。
 文化人類学者・民族学者は、世のひとがしばしば先住民へと向けるエキゾチックな視線について非難する。しかし、学者本人をフィールドに駆り立てているのもまた、つまるところ、ある種のエキゾチズムではないのだろうか? そして、最初の地点へと話は回帰する。ある文化を、別の異なった文化の視点から理解するということは、一体どういうことなのか?

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一体、これが旅ということなのだろうか? 私を取り巻いていたものよりも、私の記憶の荒れ野を探るということが?

(クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」 p. 296)
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 ところで、引き続く最後の2章は、それまでとはずいぶん毛色が異なる文章で戸惑ってしまった。正直、読み進めるのが苦痛。何とか読み終えたところで、なぜか上巻の冒頭に置かれていた訳者とレヴィ=ストロースとの対談を読む。

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レヴィ=ストロース 私は自分の書いたものを決して読み返しません。興味がないし、うんざりするのです。

(中略)

レヴィ=ストロース それに、後から気づいたことですが、この本の終わりの方の、哲学的、政治的ともいうべき性格をもった考察の幾つかのものは、私にはまったく理解できません。何を言おうとしていたのかさえ解りかねるのです。これは私は放置します。

(クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」 p. xviii - xix)
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 …あ、あれー? そんなあ。