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【2004年5月】

5月28日(金)  「鬼哭街」、心の解離、ハートマン軍曹。

 「鬼哭街」のことについて少し書いてみる。ネタバレ注意。つーか、プレイしたひとしか分からない書き方をしてます。


 エピローグ。濤羅の魂を瑞麗へと移植する電脳手術は(低い成功率にも関わらず)成功する。
 ところで、クライマックスの戦闘において内家武技の究極の境地に達した濤羅は、ひょっとすると「心と身体とが乖離した」「心が解離した」状態にあったのではないだろうか? 移植手術が成功したのは、濤羅が(手術の成功率を高める)心身の乖離状態にあったからではないか。
 そのように考えてみると、少し面白いのではないかしら。

 「内家の剣は意よりも速い」こと。クライマックスで悲惨な真相を知らされた濤羅が、「にも関わらず」剣の構えをとることによって心が澄み渡っていくこと(←ここは僕が一等好きな場面なんですが)。
 でも、ここにおいて、武技の奥義は心と身体を一つのものとする全人的な境地のことではなく、むしろその逆ではないのだろうか。効率良く「心と身体とを切り離し」「心そのものを解離させる」技術のことではなかろうか。

 もう片方の瑞麗。「性的暴力によって心を壊され、心と身体とを乖離させられた」と思われていた彼女は、実のところ、濤羅への禁じられた思いに苦しんだ結果「自ら性的暴力を望み、自らの心を壊した」ことが明らかにされる。

 …深く考えないで書き始めたので、この先が続きません。



 関係有るのかどうか分からないけど、永井均氏がどこかの本で、
「自分が示したい倫理というのは、『うまく自暴自棄になる』ことのやり方を示すことかもしれない」
みたいなことを書いていたよーな。何となく言いたいことは分からなくはないのだけど。

 ところで、永井氏の言いたいこととは正反対だと思うのだけど、例えば軍隊での過酷な訓練、シゴキ、イジメというのは、あれはある意味「自暴自棄になること」「心を解離すること」のやりかたを教えているのではなかろうか。(見たことがないから分からないけれど)戦場というまさしく非人間的な環境においては、「ほどよく」自暴自棄になることによって軍務を遂行できるわけで。

 そういえば、「声に出して読みたい日本語」とかいうのを書いたひと(名前忘れた)は、「フルメタル・ジャケット」のハートマン軍曹について絶賛していたそーな。そういう話を聴くと、一昔前、新人社員への教育と称して、人通りの多い駅前に社員を立たせ、むりやり大声を出させるということを行っていた会社のことを思い出すわけで。羞恥心が消えることでセールスが得意になるんだってさ。



 つまりアレだ。陸に上がったら、斎藤環「解離のポップ・スキル」を読んでみると良いんじゃないかな>俺。


5月27日(木)  (無題)

 ONE。長森。ただならぬ雰囲気が漂ってるひと。初プレイの最初の時点から、僕にとっては怖い存在で。やたらと他の女とくっつけたがる辺りが、その、実にヤバい。毎朝の長森とのイベントは僕にとっては苦痛でした。
 常に「待ち受けているかもしれない喪失」と共に生きていたひとなのだと思う。たぶん浩平との共依存的な?関係のせいでそうなってしまったわけで、だから浩平が悪いっちゃあ悪いんだが。

 長森との緊張感に満ちた関係のせいで、ONEの前半部は「待ち受けている喪失」の予感でピリピリしてしまってるわけで。そりゃ、里村に逃避したくもなるってもんだ。ONEの前半部を「幸せな日常のモデルケース」扱いしてしまう文章には、だからその、困ってしまいます。


 あー、でも、寒い屋上で弁当を広げようとする長森は可愛いなあ。こっちの言葉に、まるで耳を傾けない辺りが、その。


5月26日(水)  (無題)

 ONEの続き。12月2日、雨。
 可愛いなあ、里村。喪とメランコリー?



 ところで、「あの人」の名前というのは浩平とプレイヤーには明らかにされないわけなのだけど(なんかCDドラマとかだと「あの人」の名前が出てくるらしいのだけど。でも、そんな無粋な話のことは知らん)、彼女自身は「あの人」の名前を覚えていたのだろうか? 彼女のモノローグを読む限りでは浩平の名前を覚えていたみたいなのだけど、それがそのまま「あの人」にも当てはまるわけでも無いだろうし。

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a) もちろん覚えている。彼女が「あの人」の名前を出さないのは、世界から消えてしまった人の名前を口に出したとしても、それは決して相手に理解されることがないのを彼女自身が知っているため。あるいは、彼女が名前を口にしているのに、浩平(プレイヤー)には「あの人」としか聴こえていないとか。

b) 実は彼女自身も覚えていない。「あの人」との記憶はあるのに、なぜか名前だけがすっぽりと抜け落ちている。彼女を苦しめているのは、実はそのことだったりする。
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 いやまあ、これも無粋というか、「誰も居ないところで倒れた木の音」みたいな問いかもしれないんですが。a)とb)のどちらをとるかで、随分と話の意味合いが変わってくると思ったですよ。たとえば、モノローグで描かれる彼女の内面を、僕らが見た「雨の中の彼女」に当てはめることが果たして適切なのかどうか、ということとか。
 個人的にはb)を推奨したい気分も。世界にぽっかりと開いた穴を具体的な誰かに置き換えちゃうなんて、ねえ。

 もちろん「浩平とプレイヤーには、a)とb)のどちらなのか分からない」ことも含めて、シナリオの一部ではあるわけで。「あの人」の存在を知ったときの浩平の心の痛みは、一体どーいうことなのか。
 「『あの人』と張り合うために、俺も消えてやるぜ!」という解釈は、下世話だけどそれなりに説得力がある気もする。名前を持つ具体的な誰かと競うのだったら、他にやりようがあるのかもしれないんだけど。「あの人」じゃあねえ。

 あーそうか。a)だけを採用すると「めぞん一刻」みたいになってしまうのか。それはイヤだなあ。惣一郎さんの場合だと、顔が分からないせいで名前が一人歩きしてしまうようなところがあるわけですが。


5月25日(火)  オメラス再訪。

 ル=グィンの「オメラスから歩み去る人々」(ハヤカワ文庫「風の十二方位」に所収)を原語で再読したので感想を。
 日本語訳よりも、語り手の口調が前に出た感じの話だと思った。しかし、イヤな性格だなあ、この語り手。


 「オメラス」というのは、少なくとも3つの階層が入り混じっているような話なのだと思った。

1) まず第一に、
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一人の子供の犠牲によって、共同体の繁栄が成立しているという構造
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とゆーのがある。ところが、犠牲によって共同体が支えられている仕組みに関して、作品中では明示されない。むしろ、「仕組みの詳細なんてどうだっていいじゃない。形は様々だけど、とにかく世の中にはそういうことがあるってことを、貴方も知ってるでしょ?」とでも言いたげな感じで語られてしまう。

2) 次に、
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通過儀礼としての「犠牲」
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とゆーのがある。オメラスシティーの少年少女たちは、ある年頃になると、そのような「一人の子供の犠牲によって、オメラスの繁栄が成立している」という事情について知らされる。それを知らされた少年少女たちは苦悩するが、やがて「現実を受け入れる」ようになり、そして「幸せに」暮らしていく。
 しかし、少数の人たちは――年齢は各自様々であるけれど――、ある日、無言のままオメラスの町を一人で離れ、どこかへと旅立っていく。

 さて、逆説的ではあるけれど、まさに、この通過儀礼こそがオメラスの繁栄を支えているのではないかという見方を、語り手は述べている。
 どういうことか。つまり、子供の犠牲の上に自分たちの繁栄が成立していることを知ることによって、オメラス住民は自らのありかたに対してある種の謙虚さとでも呼ぶべきものを身に付けるのではなかろうか。
 そして、オメラスシティーの(慎ましいと言っていい)ユートピアは、まさしく、オメラス住民のその謙虚さによって成立しているのではないのだろうか?

 オメラスにおける通過儀礼の効果は、非常に強力なのだと思う。オメラスの少年少女にとって通過儀礼はトラウマ的なものとなる。彼らは悲惨な子供のことについて、一人で考え一人で悩み苦しむ。
 通過儀礼が少年少女たちから奪うのは、他者と交流するための言葉だと言ってもいい。そして、オメラスを出る人々は複数ではなく常に一人で町を出る。旅立ちを誰かに告げることは無い。無言のままで旅立っていく。
 だから、オメラスから旅立つ人々が制度から逃れられたと考えるのは間違っているのかも。彼らから言葉は奪われたままなんだし。

3) そして最後に、
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語り手の事情
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がある。この語り手の立ち位置は面白い。
 言葉を失ってしまったオメラス住民のことについて語り手は語る。もちろん言葉を使って。
 オメラス住民は常に一人きりで町を離れるのだけど、語り手はどこからかそれを数えている。語り手だけが彼らが一人ではないことを知っている。
 オメラス住民の内面に関して語り手は述べようとしない。むしろ逆に、彼らの内面は窺い知れないものだということを語り手は強調しようとする。

 この語り手、なかなか押し付けがましい性格で。「いいから、とりあえず信じてくれよ」とか「そういうのってあるよね。分かるだろ、ほら?」「理由なんて、後から幾らだっておもいつくだろ?」というような響きが、語り手の言葉の端々から(あからさまなまでに)聴き取れてしまう。

 うがった見方をしてみるならば、語り手が述べているのは、つまり自分のことではなかろうか。
「私の心の奥底にも、悲惨な子供が居るのかもしれないよ?
「私もまた、心の奥底で『この町を離れよう』と思っている人間の一人かもしれないよ?
ということを、聞き手に信じてもらいたいのではないのか。
 そして、オメラス住民が一人黙って行動するということは、結局のところ、聞き手によって自分が理解され尽くしてしまうことを拒絶する態度、
「でも、私が本当に、そういう人間なのかどうかは、貴方には決して教えてあげない
ということに対応しているのではないのだろうか?

 ティプトリーの「男たちの知らない女」と比較してみると面白いかも。「男たちの知らない女」では、女たちは降りてきたUFOに乗り込んで、そのまま行ってしまう。内面の窺い知れない、男たちを置き去りにしてしまう女たち。
 一方、「オメラスから歩み去る人々」では、語り手は「彼らの内面は窺い知れないよー。彼らは無言で旅立っていくよー」と大声で語っている。「他者について語ることで、聞き手を誘惑しよう」という語り手の欲望が、むしろ、あからさまに見え過ぎてしまっているといってもいい。
 妙な話だなあ。


5月24日(月)  「猫」に関する宿題。黒猫さんへ。

 昨日の続き。3ヶ月近く前から残していた宿題を少しだけ。以降の文章は、関係者以外は意味が良く分からないと思う。

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http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040319#p2
ただ、作品への不正確な言及は個人的に見過ごし難いし、どんな理由でも正当化されるとは思えない、と言っておきます。まあ海燕氏に文句付けてたころとかわりなく。
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 僕がイケてないのは、いつものことです(←挨拶)。

 ところで、「不正確」という言葉が指しているレベルがどの程度のものを指しているのか悩んでます。これが例えば「事実誤認」と書かれていたら悩まないのですが。
 「どんな理由であれ、事実関係の誤認に基づいて論を立てるのは良くないことだ」
 なるほど、ごもっとも。確かに僕は事実関係に関して間違ってることが多いような気がします。要反省としか言いようがありません。

 でも、事実誤認ではなく、「不正確」と書いてあるわけで。



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http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040319#p3
自分の中にあるお話とは因果じゃなくて、 今この瞬間の自分と共に生まれて来るものだけれど、誰かに語ったら最後、因果として解釈されるしかない語り得ぬ世界だ、という程度の理解は最低限されてよいところではなかろうか。
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 さて、自分が何かを理解しているかどうか、というのは自分自身では検証不可能なので困ります。それでも多分、その理解、むしろ、その点から出発しているのだと思いたいところです。「だからこそ」あんなに反発しているわけで。
 ところですっかり忘れてたのですが、僕が「猫の地球儀」を読もうと思ったきっかけというのは夏町さんの画と文章だったり。

 (邪悪な行為であろうとなかろうと)二項対立的な図式を抽出してくるなら、
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・「自分の中にある、因果には回収されえない語りえぬ世界」
・「自分の外にあり、自分を含んだ全てを因果に回収してしまう世界」
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この二つの対立から生じた二重化された視点が「猫の地球儀」全体を覆っていて、それが僕には気に食わない。
 もっと言うならば、単に二重化されているというだけでなく、その二つの視点の切り替え方のイヤらしさを憎んでいるのですが。
舞台をしつらえその上で役者を歩かせるのみ」のつもりなら、もっとちゃんとやってくれ、というか。が言っている「塩野七生から正しいローマ史を守れ」みたいな話で。

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 俺も秋山瑞人の悪口なら一晩くらいは言える。内省が不足してて他者性欠けてるのが嫌とか。しかもそういうキャラであることを必然化してみせる手つきはこの際口を極めて悪罵されてしかるべきだろう。
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 作品に「他者性欠けてる」のか、それとも登場人物に他者性が欠けているのか、文章からだと良く分からんです。他者性とかいう難しい言葉については、僕は良く分かっていないんですが。
 「自意識ない人間ってのはほぼ100%他者性も欠落してますよ?」ってヤツに従うならば、まさしく、作者が「舞台をしつらえその上で役者を歩かせるのみ」を志すときに、作品から他者性がすっぽりと抜け落ちるのかなあ。それは「作者にとっての」他者性だけなのだろうか。どうだろう(←自問自答)。

(追加)
 さっき夏町さんのを読み返してたら、ナンセンスとか無意識とか他者性とかいう言葉が束になって、頭の中でウロウロしはじめました。訳が分からなくなってきたので寝ます。

 つまるところクリスマスの言葉は、十分にナンセンス、ではないんだと思う。どちらの意味のナンセンスにしても。



 僕が少し気になっているのは、今木さんの「作品への不正確な言及は個人的に見過ごし難いし、どんな理由でも正当化されるとは思えない」という文章と、下段での「自分の中にあるお話とは因果じゃなくて、 今この瞬間の自分と共に生まれて来るものだけれど、誰かに語ったら最後、因果として解釈されるしかない語り得ぬ世界だ」という文章とがリンクしているのではないかということで。

 そうするとあれか。
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つくづく思うんだけど「要約された意味内容」しか読まない人間のセンスの貧困さは圧倒的だ。ただの不勉強なら幾らでも巻き返したり言い訳したり出来るが、こればっかりは手の施しようがない。
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ということを言われているのかしら。それともこういう話なのか。


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http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040314#p1
 夢が反社会的なかたちで叶えられる(ほんと言うと、『猫』における夢とは叶えたり追い求めたりするようなものじゃないんだが)ことは構わないが、ただ最初から夢と不適応が結び付けられるのが気に食わない、という話でしたっけ。
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 いえ、本当は「夢」という言葉自体、使いたくないのですが。(たまたま挙げてしまった)「シャカリキ!」にしろ「め組の大吾」にしろ、あれは「夢を叶えたり追い求めたり」する話ではないですし。ですから「夢を追求しているうちに」という書き方は不適切だったです。



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http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040319#p1
 個人的には秋山瑞人がインタビューとかあとがきとかで他人に対して語る説明ってのは信用しない主義です。ガリレオだの難病の少女だの、ぶっちゃけ幽の『はぁーい! それは、ぼくの胸の中には夢とロマンがあふれているからでーす!』並に信用できねえ。まるきりの嘘でないにしろ本気かと思う。真面目に受け取って反応する方もする方だ、何か目標があるのだろうけど。そういえば『猫の地球儀』はまんま『餓狼伝』なんだってさ。『ぱふ』のインタビューでは確か。
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 同人誌「Kluster3号」での秋山瑞人インタビューでは、
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秋山: この作品は、夢枕獏さんの『餓狼伝』みたいな話なんですよね。『餓狼伝』の場合は格闘家二人で、『猫』はジャンルは違えど同じような天才二人なんですが、その間に同性愛くさい妙な友情が芽生えつつ、最後はケンカ別れする。
 片や焔がいて、片や幽がいて、お互いのことが気に食わないんだけど、一目置かざるを得ない。この二人をそのまま放っておくと、くっつかないまま終わってしまうので、途中で楽という接着剤を入れる。で、この二人がくっついて別れるという話なのだから、別れるときには、接着剤をなくす必要がある。
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なんて書いてあったり。少しばかり夢枕獏の叙情について考えなきゃならない気もするのだけど、そんな難儀なことは避けたいのが本音です。
 まあ、作家のインタビューなんて大概が信用できないものですが、自分の考えと部分的に一致しているところがあると、「めんどくさいから作家のインタビューをコピペして済ませちゃえ」と、つい思ってしまったり。



 なんとなくメモ。
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http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/Psychopathology.html
無意識は、発見されるや否や、すぐさま表象化された。それが意識の欠如以上のものを意味し得ない領域であることを知りつつも、その図式化に際しては、フロイトみずから、意識があたかも氷山の一角のように見える例の図を示している。その結果としてわれわれは、心的装置をいっそう完全な形態において獲得し得たのである。人格をその同一性と成熟において完全な実体としてイメージする「自我心理学」の起源は、無意識を実体的に表象してしまったこの時点に遡ることができるだろう。
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 「猫の地球儀」の話をしているときに、僕の掲示板に「黒猫」さんから次のような書き込みを頂いた。
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http://d.hatena.ne.jp/flurry/20040301#p1
# Kuroneko 『どうも八つ当たりされてしまったようなので、これは意趣返しを期待されている、と心得ました。以下はおおよそネタですので余り本気にしないように。/いつまでも「終わっちまった作り話」につまらねぇ文句を言ってるんじゃねえよ、大の男がみっともねぇ。あまつさえ読者の鑑賞態度に文句たれるたぁ、一体どういう了見だ?あんたが、この物語を気に入らねぇのは良く分かった。で、だから何なんだ?気にいらねぇ物語なんか鼻で笑い飛ばして、あんたはあんたの好きな物語について語るか、「ただの作り話」なんかさっさと放り捨てて、「あんた自身の気にいらねえ物語」をなんとかすべきなんじゃねぇのか?あんたが物語から何を読み取るかも、あんたがどんな物語を語れるのかも、全てあんた次第なんだぜ。/…俺から言うことはもう何もねぇや。ご要望通り、俺はあっちへ行く事にするよ。じゃあな。』
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 さて、僕は返事に困ってしまった。僕が思いつく返事といったら「黙って親指を上げるポーズ」しかなくて、でもそれはweb上で表現することは出来ない類のメッセージだったからで。
 ついでに言うと、その当時の僕は進路的に大変煮詰まっていて(今だって、まあ、煮詰まってるんだけどさ)、カッコをつける気力すらなかったのでした。

 で、あれから3ヶ月。やっと返事が返せそうな気がしてきました。

「あー、うん。まあなんとか、ぼちぼちやってますよ」
 何を?ってのは訊かないでください。


5月23日(日)  トルク再訪(「猫の地球儀」のこと)、異種格闘技戦、他者。

 「猫の地球儀」のこと。3月中に買い直して再読していたのでした。きちんとした形で書けないので、メモ的に。

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 プロローグ。朧の死が明かされるとこの文章に思わず笑ってしまった。朧には悪いと思うけど。
 どこが可笑しかったって、文の前が「わざわざ一行ほど空けて」あったから。最初の時点から、淡々と書くふりをしつつ叙述の配置などで(無闇に)凝らした演出をしようとする雰囲気が漂っていたのだけど、この空白がダメ押しになった。
 「賢しいわ、小童が!」と、笑いながら本を壁に叩きつけてしまいましたよ。
 んで、思い出したのだけど、最初に読んだときにも、この部分を読んで同じように笑っていたよーな。

 上巻中盤。どうも感情移入できない。文章を工夫しようという気配が見えすぎているせいかなあ。
 上巻後半。ここら辺から、作品中に浸かり始めたようだ。何か考えることなく、ただ読む。
 下巻前半。再読ゆえに見えてきたものが色々。あうあう言う。
 
 幽と焔とのスパイラルダイブ。楽のシーンが挿入されるせいで、僕としてはスパイラルダイブへの没入が妨げられてしまうんだけど、これは作者の意図的なものか。
 焔が幽に一度は追いついたスパイラルダイブが、焔と幽との目が合った瞬間、その頂点において、外部からの介入、楽の死によって中断されてしまうこと。通過儀礼の中断ではなく、まさしく、外部からもたらされる中断と喪失(しかも「他人でありながら他人以上、あるいは自分の中にあって自分以外の」生命の喪失)によって通過儀礼が完了するということ?
 今木さんが言っていることって、ひょっとすると、楽の死による中断が無ければ、焔は幽を殺してたって解釈なんだろうか。ふうん。それでも構わないと思ったりすることもありますが。

 楽の死に荒れ狂う焔が、よりによって坊主の一喝で静まってしまうので、相当にあきれた気分になる。せめて焔を止めるのは幽であってほしかったりもする、なんて言うのはピュアですか?

 あれだ。秋山のロケットの燃料は確かに夢やロマンではないかもしれないけど、やっぱりそれは似たよーな何かだ。間違っても四酸化ヒドラジンではあるまい。

 クライマックスのアレ。 「賢しいわ、小童が!」 げらげら笑いながら、再び本を壁に叩きつける。
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 3月に、うろ覚えのまま実に適当な要約を書いたときには「さすがに、これはあんまりだ」と思ったのですが(←えー?)、再読したところ、むしろ思ったよりも間違ってなかった気がしてきました。



 はるか昔、僕の友人の格闘技ファンが(プロレス対ボクシングといった)異種格闘技戦の魅力について、こういう風に言ったことがあると思いねえ。

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 それぞれ格闘技には、想定している敵や闘い方というのがある。相手が上段で突いてきたらこのように避けて反撃、とかね。競技系の格闘技の場合は「ルールが常識を生む」こともある。例えば、ボクシングなんてのは基本的に相手が寝転ぶことを想定していない。(日本の)相撲なんてのもそう。
 異種格闘技戦で自分の全く知らない相手と闘う、その『最初の一回』。普段想定している戦いのルールを相手は全く考慮してくれない。自分自身も普段のルールに囚われる必要がない。

 じゃあ、どうしよう?

 その「最初の一回」における、対戦者の戸惑い。そして試行錯誤。これこそが異種格闘技戦を観戦する醍醐味ってもんだ。
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 彼の言葉を聴いたときに、何かしらイヤなものを感じたことを覚えている。
 んで、格闘技ファンとしての秋山瑞人。彼も同じような意味で異種格闘技戦のファンかもしれない。焔の「最初の一回以外は…」ということ。

 ところで僕は、板垣恵介は好きですが秋山瑞人は嫌いです。夢枕獏は微妙。



 柄谷行人というひとが居て、「探求 I」という本の中で、
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 言語のルールに関して、「語る/聞く」という視点で考えていては見落としてしまうものがある。そこでは暗黙のうちに、そもそもそのルール自体が成立していることを前提にしているからだ。(われわれと)共通の規則を持たない外国人や子供に言語を教えるという視点から、つまり「教える/学ぶ」という視点から言語を捉えなければダメなのではないか。
 ここでの「教える側」は、学ぶ側に対して立場的には弱い。「教える/学ぶ」関係においては、常に学ぶ側に主導権がある。われわれが乳幼児に対して、主人であるよりもむしろ奴隷であるのと同様である。
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とか、そんなかんじのことを書いた。で、柄谷氏にとってこれは「内省と遡行」と同様に、観客的立場に立つことを否定した流れの上にあるものなのだと思う。
 けれど(当然というか)、これを
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「ねるとん紅鯨団」「フィーリングカップル」を見るがごとく、誰かが別の誰かにルールを教えようとするところを「成功するかな〜、それとも無残に失敗するかな〜」とニヤニヤしながら覗き見する。
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てな感じに読んでしまうひとというのが居て。
 そういうひとはもちろん、たとえば柄谷氏の
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 マルクスがいったように、商品はもし売れなければ(交換されなければ)、価値ではないし、したがって、使用価値ですらもない。そして、商品が売れるかどうかは「命がけの飛躍」である。商品の価値は、前もって内在するのではなく、交換された結果として与えられる。前もって内在した価値が交換によって実現されるのではまったくない。
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という文章も、
「 誰かが商品を売ろうとしているところを、『命がけの飛躍』をしようとしているところを、僕はニヤニヤして眺める。 」
という風に置き換えてしまう。そうじゃねえだろうがよ。

 んで、そういうひとに限って「他者性ってのは大事だよ〜」みたいなことを簡単に口走る。勘弁してくれと思う。


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自分の話は、自分だけのものだ。
(秋山瑞人「猫の地球儀」)
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 オーケイ。まったくもって、その通り。でも自分って、いったい誰のことなんだろう。


5月22日(土)  自由意志とか決定論とか、客観性とか物語とか。

 「人間の自由意志は存在するか?」とか「歴史は必然的か?」といった(良くある)論点に対しての(良くある)意見の一つに、「自由意志の問題と決定論の問題はカテゴリーが違うんじゃ? 決定論的に未来は決まっているのだけど、人はそれを知ることができない。だから自由意志と決定論は両立するんだよ」というのがある。かなり多数派の意見ではないかしら。

 ところで、これの文面を少し変更してみると「あなたの未来は決まっている。けれど、あなたは『決まっていないがごとく』生きるべきである」という風になるんじゃなかろうか。
 あなたは、「知らない私」と「知っている誰か」との二重化された視点で世界を見ているのではないだろうか。

 同じような流れとして、「遺伝子によって人間の能力が決められているかどうか?」という論点に関しても、「確かに遺伝子によって『部分的に』能力は決められているけれど、でも実際には環境などの不確定要素も多いんだから、貴方はそれを『まるで決められていないかのように』振舞え」という意見が結構支配的だったりしますね。


 ところで、賢いあなたはもちろん、ここで疑問を発する。「ちょっと待てや。知っている誰かなんて、実際には居ねえんだってば。完全に決定的な未来なんて誰も観測できねえんだからさ。それとも神が観測? んなアホな」
 ここで問題なのは、だからといって、あなたがそのような疑問を発したからといって、あなたの中の「決定論的に未来は決まっているのだけど、人はそれを知ることができない。だから自由意志と決定論は両立する」という信念が変わってしまうことは少ない、ということだったりする。



 ひとは主観性から逃れるのが困難であるのと同じくらいには、客観性から逃れるのも困難なんだろう。そしてまた、説教くささから逃れるのも大変なのではないかしら。
 このことは何度も何度も言ってるけど、
「俺はお前に説教がしたいわけではない。俺は端的に事実を述べているだけだ」
って台詞は説教くさいわけでさ。
 ついでに言うなら、ある物語に関して、「この物語に教訓やメッセージは無い」という台詞の説教くささというのも。

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http://www.meijigakuin.ac.jp/~katos/FUJIKO.htm
 初めにはっきりさせておかなければならない。藤子・F・不二雄は一度だって、読者に夢を与えたことなどなかったし、そのことに誰よりも自覚的だった。青年向けであれ子供向けであれ、どんな作品においても彼が読者に教えようとしたこと――彼は本質的に教育者的な作家であった――それは、この世界が存在すること、ましてこのように在るということは全くの偶然であり、それゆえ可能性としては他のようにもありうるが、しかし現実にはこの世界しかないということ、ただそれだけであった(そこから、われわれはそれでも生きて行かねばならないといった教訓を引きだすかどうかは読者の勝手だ)。
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 物語を語るというのは、本質的に教育的なものではないのだろうか。
 さらに言うなら、教育的効果を含んでいないコミュニケーション行為なんて存在し得るのだろうか?

 「そもそも、教育って何なの? コミュニケーションって何なの?」ってのは訊かないでください。



 オフラインで保存しておいた、「バーリン自由論における自由と責任の構成条件――『歴史の不可避性』を中心に――」を読む。
 面白いなあ。自由意志と決定論、消極的自由と積極的自由、トレードオフと犠牲、隠喩と世界観、というような(どこかで聞いたような)話題がクロスオーバーする地点。アイザイア・バーリン「自由論」を読んでみたくなりました。

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バーリンによれば、道徳的責任は自分が別様にも行為し得る(し得た)という、他行為可能性に対する信念から生じます。このような信念は、選択が別様でもありえたと行為者が反省する可能性を前提としています。選択による犠牲や価値の喪失は、別様にも行為し得たことへの反省とあいまって、犠牲に対するまなざし――たとえば後悔の感情――を発生させます。
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 一口に「選択が別様でもありえた」といっても、選択肢は無数にあり選択の結果も無数にあるわけで。それを考えるなら、「後悔の感情」というのは具体的な一つ一つの「可能だった未来」に関する後悔ではなく、もう少し漠然として、想像が及びそうで及ばない、そんな無数の可能性に対する後悔なのではなかろうか。

 …「ガーンズバック連続体」?


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『歴史の不可避性』をめぐるバーリンの叙述には、しばしば「隠喩(metaphor)」という言葉が登場します。彼によれば、われわれが世界を語る一群のメタファーは、われわれの世界認識を規定するカテゴリー、あるいは「世界観(Weltanschauung)」(1955:510)として機能します。したがって、彼の言う決定論とは、われわれが世界を見、語り、思考する仕方、換言すれば世界観を導くひとつのメタファー体系であると言えます[17]。
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 メモというか。



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ここから、価値多元論を肯定する自由主義が答えるべき問題として、自己の統合性と選択の自由との両立可能性の問題が浮かび上がってきます。価値の多元性とラディカルな選択の契機が完全には除去されないということは、多元論の想定の下では、自己の統合性が完全に達成されることは不可能である、ということを意味します。したがって、価値の多元性と選択の自由を基本的な想定とする多元論的自由主義の下で形成される自己は、常に統合失調症あるいは分裂症(schizophrenia)の傾向をはらんでおり、そしてその傾向は決して除去できないことが帰結します。バーリンはこの神経症的傾向に明示的に言及しています。
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 あれ。分裂症的と神経症的は、全然別のものじゃないかしら。


5月21日(金)  「悲しき熱帯」。『傲慢の「罪」をこえるもの』

 クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」(上・下)(中央公論社)を読み始める。この本の原題って"Tristes Tropiques"なのか。分かっていたんだけどさ、これもひどくメランコリックな地点から出発する本なのかもしれない。

 若き日のレヴィ=ストロースは考える。自分がインディオたちの文化に出会うとしたら、何世紀頃に出会うのが自分にとっては幸せだっただろう? ヨーロッパ文明による破壊が少なければ少ないほど良いとしたら、早く生れれば生れるほど、インディオ文化を正しく理解できていたのだろうか?
 もちろん、それは違う。なぜって、過去の時代に得られた知見を元にヨーロッパ文明が発達させた人類学的視点がなければ、ものの見方自体が違ってしまうから。別の言い方で言うと、もし、レヴィ=ストロースがインディオ先住民の一部族に生まれ育っていたとしたら、彼は彼の望むような民族学的知見を得ることが出来るだろうか?ということ。



 多くの先住民部族に見られる「通過儀礼」(イニシエーション)に関すること。
 北アメリカ・インディアンの多くの部族では、成年年齢に達した若者は試練の儀式に参加しなければならない。儀式は危険なものである。例えば、道具も食べ物も持たずに山に入って数週間過ごしたりとか。
 若者は、この危険な儀式の過程において自らが所属している社会を離れ、一人で社会的、あるいは肉体的な意味においても「辺境」に過ごすことになる。この極限的な経験の最中に若者は何らかの生物の幻影を見る。若者はその生物を自らの生涯にわたる「守護霊」とすることになる。
 さて、この辺境での孤独な極限体験を潜り抜けることで、若者は自らの社会を相対的に見ることの出来る力を得るのだろうか?
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 しかしながら、このような解釈はまだ底の浅いものと言わなければならない。なぜなら、これら北アメリカの大平原地帯あるいは高原地帯のインディアン諸族においては、集団の掟に対立するものとしての個人の信念が問題になっているのではないからである。習俗と集団の哲学とのあいだには、完全な弁証法が成り立つ。個人が掟を学ぶのは集団からである。守護霊への信仰は、集団において成り立っている事象である。そして社会はそのすべてをあげて、その成員に対して、社会の秩序の枠の中にある限り、そこから脱出する機会は、無謀で絶望的な試みの犠牲によってしか与えられないということを教える。

(クロード・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」 p. 55-56)
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 稲葉振一郎『傲慢の「罪」をこえるもの』の話。
 「世界一になることの断念」を受け入れて謙虚さを身に付けること。手塚氏が描いたロボットバトルというものは、そのような形での通過儀礼として構造化されている(←こういう言葉を使うと、いきなり頭が悪くなったような気がするなあ)のではないのだろうか。稲葉氏はそのことに対して、ただ、吠えているように見える。
 もちろん「世界一になることを断念しない」ことは出来る。それはプルートウの道だ。そして、プルートウの体内には自爆装置が付けられている。プルートウの与えられた道は「負けて死ぬ」ことでしかない。
 謙虚さか、死か。好きに選びたまえ。

 通過儀礼を経由すること、大人になるということは必要なことなのかもしれない。でもそれは、受動的な経験であるより他はないのだろうか?



 上の文章だと、サルタンとプルートウを一緒くたにしているよーな。あの作品ではあくまでロボット同士が闘っていて、サルタン自らが闘うわけではないわけで。
 稲葉氏の文章は、まさしくその点、闘っているのは「ぼくのロボット」であって「ぼく」ではないこと、について書いている気がする。とはいえ一般的にロボットバトルにおいて、「ぼくのロボット」は「ぼく」にとっては全くの他人ではない。むしろ「ぼくの中にあって、ぼくよりぼくらしいもの」なわけで。
 …去勢?

 ここら辺、ロボットバトルを主題にした作品においての、ロボットと主人公の間の様々な距離(たとえば、鉄人28号とマジンガーZの操縦形態の違いとか)によって、色々と違ってくるんだとは思いますが。とくにアトムの世界だと、ロボットがほぼ完全に自律しているわけで。

 あれだ。一つの幸せなあり方としては、サルタンが精神的成長を遂げ、「自ら」プルートウを手放すというのがあるかもしれない。
 んで、どこか知らない遠くでプルートウは、他の力自慢のロボットたちと延々と力比べをするのだ。
 「そんなのできるのかなあ」とか言うな、そこ。


5月19日(水)  メランコリーのこと。

 スラヴォイ・ジジェク『全体主義 観念の誤(使)用について』を一通り読み終える。第4章「メランコリーと行為」を初めとして、僕にとっては中々にエキサイティングな本でありました。

 で、「メランコリーと行為」のこと。この間(200404.html#24_3)の微妙に続き。

 そもそもメランコリーって何なのだろう(←おい)。メランコリーについては、色々なひとで言っていることが異なってる気がする。最大公約数的な、辞書的な意味を取ると、メランコリーとは「憂鬱、もの悲しさ」のことで、何か具体的な悲しみというよりも、「理由が分からないのに、ふさぎこんでしまう」ような、そんな状態のようだ。

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木村敏は『時間と自己』において、メランコリー者にあっては「過去・現在・未来をまとめた歴史的展開の全体が『とりかえしのつかない』確定性において経験される」と述べている。未来までもがすでに終わってしまったもののように感じられるというのである。
(三浦雅士「メランコリーの水脈」)
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a)
 木村敏「時間と自己」(中公文庫)では「テレンバッハのメランコリー型性格」に沿ってメランコリーが紹介されている。
 ここでのメランコリー型性格というのは、几帳面な性格で決まりきった人生のルートから外れることをひどく嫌うような性格らしい。誕生日などの記念日を非常に大事にするのもその一環。で、このメランコリー的性格は人生の中年期に見られがちで、鬱病と親和性が高いとされている(実際にはそうでもないらしいけど)。

b)
 三浦雅士は一方で、中年期よりもむしろ、ある種の青年期の心理の中に積極的にメランコリーを見出そうとしているようにも見える。
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 メランコリーは、受け入れたくない「現実」の世界へ入っていかなければならないときに発症する病気みたいなものです。「現実」に対して距離を取りたいから、今起こっていることはすでに終わってしまったことなのだと考えるわけ。そういう心の状態のほうが楽だから。ああ、こんなふうにして人生は過ぎていくんだな、と、目の前で起こっていることを、まるで遠い昔のことのように遠くから眺めているような感覚、記憶としての現在。そんなメランコリーを村上春樹は作品化することに成功し、同じ思いを持つ多くの人々の心を捉えたといえます。
(「村上春樹と柴田元幸とアメリカの憂鬱」三浦雅士インタビュー: http://media.excite.co.jp/book/special/miura/p01.html
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 過剰に日常的現実へ沈潜するかに見える中年期の「メランコリー的性格」と、これから待ち受ける現実の日常に対して距離を置こうとする青年期(?)の「メランコリー」と。
 もちろん、というか、日常とか現実という言葉を安易に使ってしまうと、分かるはずのことも分からなくなってしまうわけで。




 とりあえず「漠然とした憂鬱」に関するイメージを、あと二つほど挙げてみる。

c)
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http://www.faderbyheadz.com/a-Site/column/article/metapop02.html
 前回、僕は、小沢健二とスチャダラパーの「今夜はブギーバック」(94年リリース)について、「終わらないで欲しいものが実はもう終わりつつあることに(無意識に)気付いてしまっている感覚」と書いた。
 ざっと繰り返しておくと、80年代末から世界史的に大きな出来事が次々と起こって、日本ではバブル経済がはじけて、どうやら80年代とは決定的に違う時間が、この先に流れ始めるらしいと皆が気付きはじめて、微温的な不安感が、この国のいろいろな部分に波及しつつあった頃、そのことを直接に語ってはいなくても、そういうことすべてへの返答(そこには受け入れと抵抗とが両方存在している)として、たとえばポップ・ミュージックやサブ・カルチャーといったものからも、さまざまな変容の片鱗が立ち現われてくる。意図的であろうとなかろうと、それはやはりそうなのだと思う。
(中略)
 「終わらないで欲しいものが実はもう終わりつつあること」に気付きながらも、なおもダンスを踊ること。だがしかし、それがけっして希望や未来に繋がりはしないと、一方では完全に分かってしまってもいて、だからそこには明らかに一種のメランコリーが隠されている
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d)
 で、もう一つ。いわゆる、マリッジブルー。
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 あと1ヶ月で、彼との結婚式(⇒新婚旅行⇒麗しの新婚生活)だ。いつも夢に見ていた幸せが現実のものとなろうとしている。でも私の心にはなぜか憂鬱なものが住まっている。
 彼との新生活に不安があるんだろうか? 今まで彼と二人で様々な苦難を乗り越えてきたし、これからだってどんな苦難をも乗り越えていけそうな気がするのに。だいたい、「不安と憂鬱は違う」んじゃないかしら。
 …じゃあ、この憂鬱は何?
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 …良く分かんないけど、想像してみるに多分こんな感じ。
 ドラマとかだと、この後、主人公は自室の片隅に置かれている「思い出の品」に目を留めてしまったりする。どこで手に入れたのかすら記憶があやふやな、でも、なぜか自分の心を捉えて離さない、思い出の品。
 んで、主人公は結婚準備を放ったらかしにして、「思い出を再発見する旅」に出てしまったりする。


 このあたりのイメージを適当に分類することで2つぐらいベクトルを抽出できると嬉しいな、などと思ったけど、上手く頭が回らないので後回し。うあー。



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 ジョルジュ・アガンベンは、喪と対照をなすメランコリーが単なる喪の作業の失敗、対象という<現実的なもの>へのたゆまぬ愛着であるだけでなく、それとは正反対のものであることを強調している。「メランコリーは、対象の喪失に先んじて、またそれを予期して喪の作業を行おうとするパラドクスを示している」。これが、メランコリーの主体の戦略である。すなわち、われわれがこれまで一度も手にしたことのない、はじめから失われていた対象を所有する唯一の方法は、いまなお完全に所有している対象を、あたかもそれがすでに失われているかのように取り扱うことである。したがって、メランコリーの主体が喪の作業を成し遂げることを拒否するとき、彼はそうした拒否とは正反対の身振りをする。つまり、対象が失われる前から、対象に対して過剰な、余分の喪の作業を行うというまやかしの身ぶりをする。

(スラヴォイ・ジジェク『全体主義 観念の誤(使)用について』 p. 176)
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 ややこしさのあまり、なんだか愉快な気分になる文章だなあ。分かるよーな、分からないよーな。


5月1日(土)  SFセミナー。

 SFセミナー夜の部に行く。何となく名札に本名併記でハンドルネームを書いたところ、とある方から「時々読んでます」とのお言葉を頂く。うあー。


 「凹村戦争の部屋」で話を聴く。批評家のひとが「作家というのは天然で無垢な想像力を発揮している、という考え方は問題だと思う。作家はもっと自分の作品について計算していると思う」みたいなことを言ってた。…えーと、だからそれで?

 途中から浅暮三文氏が部屋に入ってきたため、いつものように浅暮三文ショーが開幕。浅暮氏の「でもさー、それならSFの持つ『現実への批評精神』はどこに行ってしまうんよ」という発言を聴いて、「じゃあ、批評って何だろう」ということについて考え込んでしまう。いやまあ、「現実って何だろう」っつー問題もあるんだけどさ。


 Kluster3号を売りに来ていた前島氏が果敢に発言していた。格好良い。