5月25日(火) オメラス再訪。
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ル=グィンの「オメラスから歩み去る人々」(ハヤカワ文庫「風の十二方位」に所収)を原語で再読したので感想を。
日本語訳よりも、語り手の口調が前に出た感じの話だと思った。しかし、イヤな性格だなあ、この語り手。
「オメラス」というのは、少なくとも3つの階層が入り混じっているような話なのだと思った。
1) まず第一に、
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一人の子供の犠牲によって、共同体の繁栄が成立しているという構造
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とゆーのがある。ところが、犠牲によって共同体が支えられている仕組みに関して、作品中では明示されない。むしろ、「仕組みの詳細なんてどうだっていいじゃない。形は様々だけど、とにかく世の中にはそういうことがあるってことを、貴方も知ってるでしょ?」とでも言いたげな感じで語られてしまう。
2) 次に、
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通過儀礼としての「犠牲」
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とゆーのがある。オメラスシティーの少年少女たちは、ある年頃になると、そのような「一人の子供の犠牲によって、オメラスの繁栄が成立している」という事情について知らされる。それを知らされた少年少女たちは苦悩するが、やがて「現実を受け入れる」ようになり、そして「幸せに」暮らしていく。
しかし、少数の人たちは――年齢は各自様々であるけれど――、ある日、無言のままオメラスの町を一人で離れ、どこかへと旅立っていく。
さて、逆説的ではあるけれど、まさに、この通過儀礼こそがオメラスの繁栄を支えているのではないかという見方を、語り手は述べている。
どういうことか。つまり、子供の犠牲の上に自分たちの繁栄が成立していることを知ることによって、オメラス住民は自らのありかたに対してある種の謙虚さとでも呼ぶべきものを身に付けるのではなかろうか。
そして、オメラスシティーの(慎ましいと言っていい)ユートピアは、まさしく、オメラス住民のその謙虚さによって成立しているのではないのだろうか?
オメラスにおける通過儀礼の効果は、非常に強力なのだと思う。オメラスの少年少女にとって通過儀礼はトラウマ的なものとなる。彼らは悲惨な子供のことについて、一人で考え一人で悩み苦しむ。
通過儀礼が少年少女たちから奪うのは、他者と交流するための言葉だと言ってもいい。そして、オメラスを出る人々は複数ではなく常に一人で町を出る。旅立ちを誰かに告げることは無い。無言のままで旅立っていく。
だから、オメラスから旅立つ人々が制度から逃れられたと考えるのは間違っているのかも。彼らから言葉は奪われたままなんだし。
3) そして最後に、
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語り手の事情
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がある。この語り手の立ち位置は面白い。
言葉を失ってしまったオメラス住民のことについて語り手は語る。もちろん言葉を使って。
オメラス住民は常に一人きりで町を離れるのだけど、語り手はどこからかそれを数えている。語り手だけが彼らが一人ではないことを知っている。
オメラス住民の内面に関して語り手は述べようとしない。むしろ逆に、彼らの内面は窺い知れないものだということを語り手は強調しようとする。
この語り手、なかなか押し付けがましい性格で。「いいから、とりあえず信じてくれよ」とか「そういうのってあるよね。分かるだろ、ほら?」「理由なんて、後から幾らだっておもいつくだろ?」というような響きが、語り手の言葉の端々から(あからさまなまでに)聴き取れてしまう。
うがった見方をしてみるならば、語り手が述べているのは、つまり自分のことではなかろうか。
「私の心の奥底にも、悲惨な子供が居るのかもしれないよ?」
「私もまた、心の奥底で『この町を離れよう』と思っている人間の一人かもしれないよ?」
ということを、聞き手に信じてもらいたいのではないのか。
そして、オメラス住民が一人黙って行動するということは、結局のところ、聞き手によって自分が理解され尽くしてしまうことを拒絶する態度、
「でも、私が本当に、そういう人間なのかどうかは、貴方には決して教えてあげない」
ということに対応しているのではないのだろうか?
ティプトリーの「男たちの知らない女」と比較してみると面白いかも。「男たちの知らない女」では、女たちは降りてきたUFOに乗り込んで、そのまま行ってしまう。内面の窺い知れない、男たちを置き去りにしてしまう女たち。
一方、「オメラスから歩み去る人々」では、語り手は「彼らの内面は窺い知れないよー。彼らは無言で旅立っていくよー」と大声で語っている。「他者について語ることで、聞き手を誘惑しよう」という語り手の欲望が、むしろ、あからさまに見え過ぎてしまっているといってもいい。
妙な話だなあ。
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