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【2004年4月】

4月29日(木)  鳥はむ。マンガ。黄金週間。
忙しい、はずなんだけど。


 休日なので、仕込んでおいた鳥はむを茹でた。おお、ハムとケンタッキーフライドチキンの中間の味というか。おいしい。しっとりして弾力のある肉質。初挑戦で成功したのかも。「正解」を知らないので、良く分からないけど。
 同じ製法で2つ仕込んだはずなのに、出来が全く異なるのはなぜだろう。塩加減が違うんだろうか。肉にハチミツと岩塩を塗り込んだときに、肉から水分が出てきて岩塩が流れてしまったので、水分を拭き取って岩塩を追加したのだけど、その際に追加した岩塩の量が両者で違った気がする。
 岩塩は粒が粗いし溶解するしで、水分で流れやすい。今後の改良点としては、ペーパータオルを準備して、事前に肉の水分を十分取っておくようにしよう。あと、コショウは水を吸収するが溶解しないので、岩塩とコショウを同時に塗りこむのが効果的かも。ハチミツは最初に塗るのではなく最後に全体をコーティングするように使ってみよう。



 fairaさんから電波が届いたので、よしながふみ「フラワーズ・オブ・ライフ」を買うべく、1時間かけて市街部の大きな書店に行った。気がついたら12000円ぐらい本を買っていた。何でルイ・アルチュセール「アルチュセールの<イデオロギー>論」(三交社)を買っているんだろう俺。つうか、在庫切れのはずの本が置いてあるこの書店は素晴らしい。
 というわけで、1日で立て続けに

・志村貴子「どうにかなる日々」(1,2巻)(太田出版:F×COMICS)
・坂本眞一/荒仁「にらぎ鬼王丸」(集英社:ヤングジャンプコミックス)
・ひぐちアサ「おおきく振りかぶって」(講談社:アフタヌーンコミックス)
・広江礼威「BLACK LAGOON」(3巻)(小学館:サンデーGXコミックス)
・よしながふみ「フラワーズ・オブ・ライフ」(1巻)(新書館:ウィングスコミックス)
・福島聡「少年少女」(1巻)(エンターブレイン:ビームコミックス)

を読んだ。…出版社がバラバラだなあ。どれも面白くて、連続して読むと相乗効果で頭がくらくらとした。幸せ。


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 『フラワー・オブ・ライフ』は、flurryさんであれば、主要登場人物で男性の登場人物に女性に対する関心がないことを指摘されると思います。つまるところ、見方を変えればいつもどおりの「よしながふみ」なのかもしれません。でも、そうだとしたって、作者が高校生が「中学生日記」をしている物語と述べた作品は、やっぱり面白いですし、ハードコア・オタクであるところの真島海のような人物は高校生時代に遭遇していたことがあって、あのような人物描写は、傍目からは授業中にエロゲーの設定および魅力をとくとくと語られるのには勘弁ならなかった記憶を呼び覚まされて爆笑せざるを得ませんでした。
 このオタクに対する呆れるほどのリアリティはどうしようもなく笑えてしまいますし、『げんしけん』のようなオタクであることがユートピアに近づけているような作品と比べてドライであることを思い出したりしながら、まあ、どうだっていいけど、面白いや、と思うのでした。
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…えーと、なぜに僕がそのようなことを指摘すると? 真面目に分かりませぬ。「そーいうこと」を言いそうな人だと思われてるのかしらん。ううう。

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・どーでもいい話をすると、僕は「中学生日記」を観るのが耐えられない人です。「のど自慢」や「(笑点の)大喜利」や「ものまねバラエティ」と同様に、画面の前から必死で逃亡を図ります。
・更にどーでもいい話。主人公のマンガ絵が上手いことを知ったときに、「ねー、エロ絵を描いてよ。兄妹ものとか、触手とか」みたいなことを言い出すクラスメイトたちは、真島君とは別の方向でハードコアなわけで。真島君が天文部に入らなかったのは何故なんでしょうね。
・ところで、「フラワーズ・オブ・ライフ」が「げんしけん」と比べて、オタクに対してドライですって? 本気で言ってますか?
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 5/1のSFセミナー夜の部に行く「かも」。あと、身内の話だけど、3日は先約が入っているので行けず。


4月25日(日)  料理。

 休日なので、いつもより真面目に料理を作ってみた。
・小アジの刺身(自分で三枚おろしにした)
・豚肉とダイコンの煮物(生姜のせん切り、砂糖、醤油、みりん)
・ニラのお浸し(熱湯で茹でたあとに、冷水にさらしただけ)。
 どれもそれなりに上手く出来たのは良いんだけど(つーか、どれも間違えようがない料理だ)、一体どれだけ時間をかけてますか>俺。
 もっと効率よく作業ができるように、前もって頭を使うようにしよう。


4月24日(土)  証言の不可能性、メランコリー。SF読書案内。

 たとえば、「ホロコーストをどのように語るか」とか「グローバル化によって破壊される、民族固有の文化」といったものを巡る問題について考えてみる。両者に共通する要素というのがあるのだと思う。
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・ホロコーストはまさしくトラウマ的な経験であり、当事者がホロコーストそのものについて語ることは困難である。ここに第一の断絶がある。そしてもう一つ。当事者ではない人間がホロコースト論を書き、被害者を支援するという第二の断絶がある。

・滅びつつある民族伝統文化の担い手たちは、自らを(グローバル時代にふさわしいやりかたで)語ることができない。一方で、その民族出身の若い研究者たちにとっては、伝統文化は直接経験したことのないものとなりつつある。また、彼らはしばしば留学による西洋的な高等教育を受けていて、それを前提とした物の考え方をせざるを得ない。
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 ここでは、当事者⇔聞き手との二重の断絶が問題となっている。んで、一般的に、聞き手の側は「断絶があるから分かんねえしさ、そんな過去の出来事は俺には関係ねえよ」ということも、「あなたは○○という事情を抱えているのですね!なるほど!良くわかりました!」ということも、よろしくないとされているようだ。あくまでも、当事者を取り巻く「表象不可能性」と「伝達不可能性」、そして、その両者の外にさらに取り巻いている「幽霊のような何か」と向き合うことが求められている、のだと思う。

 10時間近くに渡ってホロコースト当事者たちのインタビューを映し続ける、「ショアー」というドキュメンタリー映画がある。その「ショアー」についての次の文章。
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 さて、それではこの「証言の不可能性」は、出来事についての絶対的沈黙を要求するのだろうか。語りえぬものは歴史的に無であるとして沈黙しなければならないのだろうか。決してそうではあるまい。
(略)
「すべてがわたしには理解不可能だった」というミュラー(ユダヤ人特務班の生存者)、「まったく理性を失い、茫然自失として」「自分がどこにいるのかもわたしにはわからなかった」というミュラーに、いつどこでなにがあったかについての、理性の秩序に従った(正常な)説明的叙述を求めることはやはり無理なのである。ところが、ここに一つの逆説がある。それはランズマン(「ショアー」の製作者)が、それでもなお<不可能な>証言を証人たちに要求していくとき、証人たちが断片的に発するいくつかの言葉が、物語=叙述としては挫折するまさにそのことを通じて、語りえぬものをかろうじて示唆しているように思われることである。(シャショーナ・)フェルマンも言うように「証言は物語ることの不可能性にぶつかってつまづくが、同時にわれわれにこの不可能性を言う」のである。それらの言葉がたえず寸断され、際限なく分裂し、極度に断片化することは避けられない。「映画はもろもろの証言の諸断片を結集しようとするが、諸証言の集合は一〇時間の映写の後でも全体性や全体化のどんな可能性をも許さないし、共約不可能な諸証言の積み重ねは、普遍化可能な理論的主張にも一義的物語の総体にも到達しない」。むしろこの出来事は、「証言そのものの解体を遂行するこうした断片化によってこそ」その語りえぬものを示唆される。

(高橋哲哉「記憶のエチカ」 p.28-29。幾つか細部を補ったり削ったりしました)
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 ホロコーストの当事者たちがまさしくトラウマ的な困難のなかに居るとするならば、聞き手側が抱えている問題は逆に、「トラウマの不在」みたいなものなのかもしれない。両者の関係は複雑にねじれている、のかも。

 当事者たちにとって、言語化できない「出来事」のトラウマ性は、ときに彼らの自死をも招くようなそんな実際的な問題だったりする。その一方で聞き手にとって、他人の出来事の言語化不可能性というのは、時に(非常に不適切な表現かもしれないが)何やらロマンチックな、憧憬的なものとなってしまう可能性があるのではないだろうか。
 「ショアー」で描かれた諸証言の集合は普遍的な主張を語ろうとするものではないかもしれない。けれど、観客=聞き手の僕らが「ショアー」を「証言不可能性を主題とした」一つのドキュメンタリー作品として観ていたとしたら。観客=聞き手は「証言不能性」を不思議な形で「総体として」獲得してしまってはいないだろうか。
 それは当事者にとってのトラウマ性、出来事をまさしく総体として捉えることの困難とは対極に位置するのではないかしら。



 さて、スラヴォイ・ジジェク『全体主義 観念の誤(使)用について』所収「メランコリーと行為」についての話。前回の続きを少しだけ。
 ジジェクによると、様々な学問分野でメランコリー的な態度とゆーのが支配的になっているそうな。たとえば、
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民族集団が資本主義な近代化に突入し、彼らが独自に受け継いできた遺産が新たなグローバル文化に呑み込まれるという脅威にさらされたとき、その民族は自分たちの伝統を喪によって放棄するべきではなく、失われたルーツへのメランコリックな愛着を保ち続けるべきである。
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みたいな感じ。ここで言うメランコリー的ってのは、「正常な喪」(対象の喪失を上手に受け入れること)とは対立する、「失われた対象へのナルシスティックな同一化に固執する」ような態度らしい。こう書いても何のことやら良くわからないけど。

 メランコリー的態度を擁護するひとの言い分はこうだ。喪失の過程には喪の作業(弔いの行為)には回収されない「何か」が残っている。弔いを行うことで「失われたもの」は象徴化され、その「何か」が殺されてしまう。それは失われたものに対する一種の裏切りである。
 もう少し分かりやすく言うと、例えば、葬式とか法事とかいった色々な弔いの儀式を行うことによって、僕たちは故人を「上手に忘れ、上手に思い出す」ことが可能になる。つまり、普段の生活では故人のことを元から居なかったかのように忘れてしまい、「○回忌」のときが近づいたときだけ故人の思い出に浸る。で、そのことを故人に対する裏切りと感じるひとも居るわけです。
 たとえばドラマだと、故人の葬式や法事に出ようとせず、いつものように酒場で馬鹿騒ぎしている登場人物が居たりする。彼は一方で、誰よりも故人の死を引きずり続ける。多分そういう話。

 あるいは、これまたドラマでよく描かれるような、こんな人物について考えてみよう。――色々な女性と情事を行うプレイボーイ。でも本当は、彼の心の中にはいつも一人の女性しか住んでいないのだ。求めようとしても決して手に入らない、ただ一人の女性――。この人物と、先に挙げた人物はどこか似てはいないだろうか。
 このプレイボーイは、「不可能な」プラトニックラブと「現実的な」色事とを、分離した形でエンジョイしている。彼はプラトニックラブから遠ざけられているのではない。逆に、彼にとってのプラトニックラブの定義というのは、まさしくその不可能性によって支えられているのではなかろうか。

 ジジェクがメランコリー的な態度を批判するのは、どうもこのような点であるらしい。
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失われた民族的<対象>とのメランコリックな絆によって、われわれは、自分たちは民族的なルーツにあくまで忠実であり、同時にグローバルな資本主義のゲームにも全面的に参加している、と主張することができる――それがここでいう「客観的なシニシズム」である。ひとは「ポストコロニアル・スタディーズ」のプロジェクト全体がいかにこの客観的シニシズムの論理に支えられているかを問い直すべきである。
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 ところで、今日の文章の前半部分での、出来事の「表象不可能性」と「伝達不可能性」の周囲を漂う「幽霊のような何か」というのは、ジジェクが書いているようなメランコリー的なものなのだろうか?
 続きはまた今度(←えー)。



 ところで、ネットのどこかでこんな文章を見つけた。
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それにしても10代に正しくセイシュンできた人なんていたんだろうか。ぼくが90年代に限りない思慕を寄せるのもまさに90年代をなまで体験できなかったからだと思います。
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 なるほど、これがメランコリー的態度というやつかも。

 ついでに言うと、先日の僕の自分語り(200404.html#19_4)というのは、今回の文章のための伏線だったりもする。あの文章での僕の態度というのはメランコリー的なものなのだろうか?


 読書案内。今日書いたことに関係する本として、マイク・レズニック「キリンヤガ」(ハヤカワ文庫SF)(⇒200212.html#23_1)を。僕としては色々言いたいことがあるけれど、まあ、とりあえず読んでくれと。


4月21日(水)  アンティゴネ。蚊。

 ソフォクレス「オイディプス王・アンティゴネ」(新潮文庫)の「アンティゴネ」を読み返した。以前読んだときにはあまり感心しなかったんだけど、再読すると色々と見えてきた。ヘンな話でとても面白い。
 恐ろしいくらいにクレオンに萌えて困った。民衆の支持という妖怪みたいなもの(ある意味、神の意志ともいえるような何かだ)に翻弄される、王としてのクレオン。王となることを自ら選んだわけでもないのにね。
 一方、誰が一番ムカつくかっていうと、預言者テイレシアスですな。

 ところで、
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http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/theatre/antigone2.html
「アンティゴネは最初から正しく、クレオンは最初から間違っている」と述べたのはイギリスの古典学者マルコム・ヒースだが、国の掟と神の法との対比と言われても、その国の掟なるものがクレオンの布告であり、その遵守にこだわっているのがクレオンだけであるというソフォクレスの悲劇の状況のもとでは国の掟に何の権威も説得力もあるまい。すでに書いたように、エテオクレスの死によって予期せず王権についたクレオンの王としての最初の布告であり、それが守られるかどうかで問われるのは彼の権力でしかない。コロスを含め、彼以外のすべての登場人物が、アンティゴネに同情的でありクレオンの布告に批判的なのである。
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とのことなのだけど、これってどうなのだろう。よく分からない。人々の意見が明確に変化するのは、やはりアンティゴネの行動後であるようにも見える。アンティゴネは民衆の態度を(無意識的に?)感じ取っていたのだろうか。それとも、アンティゴネの行動こそが民衆の態度を変えたのだろうか。

 洞窟へと追放されるときのアンティゴネの嘆きは、いったい何なのだろう。
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他方、アンティゴネには悲劇は全くないように見える。芝居が始まって五分もたたないうちに「美しき死」を声高に宣言する姿は、戦士・殉教者ではあっても悲劇のヒロインではない。彼女の目的は最初から象徴的な埋葬によって死刑になることにある。彼女の立場で、兄弟を弔うという「神の掟」に従うには他に方法はない。彼女が語りかけている相手は歴史だ。そしてアンティゴネの悲劇は、実はこのもくろみが挫折すること、クレオンが彼女を殺さないことにある。その代わりにクレオンは彼女を地中の洞窟に放り込む。生者と死者の境界が彼女の住まいになるのである。アンティゴネはもはやどちらの側の住人にとっても「異界」の人だ。このクレオンの措置によって彼女は「奪冠」される。恥ずべき死としての「首くくり」しか彼女には残されていない
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 彼女は「華々しい死刑」だけを望んでいたのだろうか。英雄的行為を行うことによってクレオンや民衆の態度が変わり、彼女の行動は賞賛され無罪放免、という可能性についてアンティゴネは想定していなかったのだろうか。あるいは彼女にとって、両者の可能性は渾然一体となっていたのかもしれない。「どちらであろうとも、(埋葬を)しなければならない」ということ。
 けれど、彼女に与えられた罰は「生きながらの冥界送り」という宙ぶらりんなもので、それは彼女にとって耐え難いものだった。その辺、クレオンは良く分かっていると言えなくもない。


 「オイディプス王」といい「アンティゴネ」といい、具体的な行為が直接描かれることなく、常に報告・伝聞という形で示されるのが気になるところ。アンティゴネがポリュネイケスを弔う場面は番卒による報告でしか描かれない。また、クレオンはアンティゴネの自死に間に合わず、もはや手遅れとなった後に彼女の亡骸を発見するのだけど、その場面全体は、従者がクレオンの后エウリュディケへと報告するという形で語られる。うーむ。
 クレオンにとってアンティゴネは謎として現れる。クレオンはアンティゴネの行動を直接見ることができない。彼女を理解しようとする彼の行動は常に一歩遅すぎる。彼女は彼の一歩先を行き、ついには(本当に)冥界へと去ってしまう。



 アンティゴネの「行為」を題材にした、スラヴォイ・ジジェク『全体主義 観念の誤(使)用について』所収「メランコリーと行為」を読んだ。もごもごと少し考えたんだけど、その話は今度ということで(←えー)。
 とりあえず参考として、
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040322#p2
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040329#p2
での北田暁大さんの文章とか、
っつーか俺非モテだから分からないけど
とか。



 暑いので窓を開けていたら、網戸の隙間から侵入したとおぼしき蚊にあちこち刺された。ううう。この地方は「気候が温暖で冬でも過ごし易い」そうなのだけど、その分、奴等が出現する時期も長かったとしたらイヤだなあ。
 たぶん、近所の防風林や神社境内の常緑樹が奴等の孵化場として機能しているんじゃないだろうか。





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