【2004年3月】
3月16日(火) 山形浩生訳:マルクス『資本論』
◆あっはっは。↓で書いたことが、山形浩生広報部にチクられてる。ネットって怖いなあ(←何を今更)。
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(3月18日追加:山形浩生広報部からやってきた物好きな皆様へ。一応、下に補足説明と山形さんのコメントに対する反応を追加しておきました)
http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0057.html#kohobu20040316182119
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おう稲葉大人、いいところに。 : やまがた id (reply, thread) - Tue Mar 16 18:21:19 2004
ついこんなの始めたんですけど(アダムスミスはどうした、というつっこみなしね)、
○経方面でこの労働価値説のそもそものインチキぶりって何か言われてるんでしょうか。
http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf
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ふうん。山形浩生氏が訳した、カール・マルクス『資本論』(の冒頭部分)ねえ。
資本論なんて全く読んだことがないので、クセの強い山形訳を読む前に、ネットに転がってる英訳(ドイツ語読めないし)に目を通してみることに。ちなみに、こちら↓を参照。
http://csf.colorado.edu/psn/marx/Archive/1867-C1/German/ch01.htm(原典)
http://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/ch01.htm(英訳)
アクセス独和辞典(オンライン版)
…うわあ。以前、ジジェクや柄谷行人による資本論の解釈を斜め読みしたせいで、頭が汚染されきってる。既に、不純な読み方しか出来ません。
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Let us now consider the residue of each of these products; it consists of the same unsubstantial reality in each, a mere congelation of homogeneous human labour, of labour-power expended without regard to the mode of its expenditure. All that these things now tell us is, that human labour-power has been expended in their production, that human labour is embodied in them. When looked at as crystals of this social substance, common to them all, they are ? --Values.
(http://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/ch01.htm)
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とかいう部分なんて、ジジェクの書いた文章にしか読めない(←順番逆です)。英訳の問題かもしれないけれど。
んで、山形訳を読んでみることに。…うーん。正直どーよ。政治的にフラットとかどーとか以前に、山形氏自身の先入観が入りまくった訳のような気が。
山形訳の大半は英訳からの重訳らしい。僕と山形氏が同じ英訳を参考にしているかどうかは分からないけれど、上に示した文章に対応する部分は、山形訳ではこんな感じ。
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じゃあ労働の産物で何が残ったかを見てやろう。どの場合にも、残っているのは同じお化けじみた客観性だけだ。それは均質な人間労働が集まった量でしかない。つまり、人間の労働力が費やされたものだけど、どれがどういう形で費やされたかはまったく関係がなくなる。これらすべてが物語るのは、人間の労働力がその生産に使われて、人間の労働がその中に蓄積されているということだ。それらすべてに共通する、この(労働という)社会的な中身の結晶として、それらは価値になる――財の価値だ。
(http://cruel.org/books/kapital/kapitalband1.pdf p.11)
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そもそものドイツ語は、
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Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen uebriggeblieben als dieselbe gespenstige Gegenstaendlichkeit, eine blosse Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Ruecksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese Dinge stellen nur noch dar, dass in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehaeuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte.
(http://csf.colorado.edu/psn/marx/Archive/1867-C1/German/ch01.htm)
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「お化けじみた客観性」:
原語では"gespenstige Gegenstaendlichkeit"。辞書的な意味だと「gespenstisch(形容詞):幽霊のような,不気味な」「gegenstaendlich(形容詞):具体的な、(芸術作品などが)具象的な」
英訳だと、"unsubstantial reality"とか"phantomlike objectivity"とか。「幽霊」には「実際は存在しない」というニュアンスもあるわけで、「お化けじみた」としてしまうとそのニュアンスが消えてしまうのではないかしら。"unsubstantial"(実体の無い)は逆にやりすぎか。
「これらすべてが物語るのは」:
原語での"nur noch"(「わずかに…だけ」)、英訳にある"now"(「今や」)に対応する部分が無いのは、かなり問題だと思う。本来この文章、かなり否定的なニュアンスを帯びているような気がするんだが。
「抽象化され、具体的な個別性・有用性を剥ぎ取られてしまった状態での生産物が示すのは、『今や』、人間の労働力が生産過程で消費され、生産物の形で具現化された、ということ『のみ』である」とか、そんな感じ?
全体を通して、「抽象化」という概念が非常に重要な役割を果たしていると思うのだけど、具体的には良く分からない。ヘーゲルを理解してないとダメなのかも。うーむ。
そこら辺をスルーしてしまっている山形さんは、どうかと思わなくもない。
「この(労働という)社会的な中身の結晶として、それらは価値になる――財の価値だ」:
山形訳、この部分は意味不明。元々の"crystal"の比喩が何を指すのかも謎だが。「結晶」だと多くは「精髄」とかそういうポジティブな意味で使われることが多いのだが、この場合は違う気もする。
あと、"gemeinschaftlichen Substanz"、"social substance"を社会的な「中身」と訳してしまうのはどうか。大事なのは「社会的な」の方じゃないかしら。
「このような社会的実体を結晶化(固定化?)したものとして、商品価値が(われわれによって)見出されてしまう」とか、そんな意味だと思った。「見出される」ってのは恣意的かも。
つまるところアレだ。「マルクス=労働価値説」という先入観に浸かった山形氏は、「経済活動を抽象化して見ていくと、結局、(神聖な?)労働こそが大事だということが分かるんだよー」というように訳したがる。
一方で、別の先入観に浸かった僕は、同じ部分を「社会的な交換関係のなかで個々の産物は抽象化されてしまい、具体的な物質的有用性を剥ぎ取られてしまう。あとに残されたのは、『この産物を生産するには人間の労働力が必要だった』、ということでしかない」というネガティブな感じに読もうとする。
(ところで「人間の」労働力、という辺りがポイントなのかなあ。)
しかしまあ、原語にきちんと当たらずに、しかも、マルクスとかヘーゲルとかのことを全く知らずに、乏しい語学力で、あーだこーだ、他人様の訳にケチをつけるってのは相当に馬鹿な行為ですな。助けて!偉い人!
(注意:誤解するひとがあると困るので書いておくけど、ここで「馬鹿」っていうのは、僕自身のことを指しているんですよ?)
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(3月18日追加)
http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0057.html#kohobu20040318022859
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どうも。 : やまがた id (reply, thread) - Thu Mar 18 02:28:59 2004 [reply to]
ありがとうございます。今回の訳は、まだ読むのに耐えるでしょうか? 一章の終わりあたり、古い英語のだらだら続く文体になっていて、ちょい現代訳のつらいとろこではありますが、なるべくご要望にはお応えいたしますので。
資本論の訳を批判している、下で紹介されているサイトは、現代思想かぶれのマルクスおたくの偏向ぶりがむきだしですが(あの文脈で「いま」とか「だけ」というのが抜けているのがそんなに重要とは思わないし、抽象化というのが重要?) そういうレベルでなくて、何が何のために捨象(ここでは難しい意味じゃなくて、単に端折ってる、というだけの意味よーん)されているかをきちんと見た方がよいかと。それでも、いくつかのコメントは有益だったので反映させときました。
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うわあ。「マルクスおたく」ってそんな。二日前まで資本論なんて一行も読んでなかったのに。
それはさておき。
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あの文脈で「いま」とか「だけ」というのが抜けているのがそんなに重要とは思わないし、
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抜けていることによって文章全体が異なった意味に読めてしまうので、重要だと思うのですが。
「これらすべてが物語るのは、人間の労働力がその生産に使われて、人間の労働がその中に蓄積されているということだ」
だと、あたかも、産物の「本質」というのは人間の労働がその中に蓄積されているということだ、と読めてしまう。実際に、山形さんは後ろの文章で"substance"を、「本質」と似た意味合いを持つ「中身」と訳しています。
でも原典や英訳では、それが「本質」であるかのような書き方はされていないわけです。むしろ、抽象化による"Residuum""residue"「残り、残余」だと書いてあるように僕には読めます。そのことを表すために、「わずかに…だけ」という表現が重要だと思うのです。
あと、もう一つ書いておきます。
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Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenstaendlicht oder materialisiert ist. Wie nun die Groesse seines Werts messen? Durch das Quantum der in ihm enthaltenen "wertbildenden Substanz", der Arbeit. Die Quantitaet der Arbeit selbst misst sich an ihrer Zeitdauer, und die Arbeitszeit besitzt wieder ihren Massstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
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A use-value, or useful article, therefore, has value only because human labour in the abstract has been embodied or materialised in it. How, then, is the magnitude of this value to be measured? Plainly, by the quantity of the value-creating substance, the labour, contained in the article. The quantity of labour, however, is measured by its duration, and labour-time in its turn finds its standard in weeks, days, and hours.
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利用価値、あるいは便利なモノが価値を持つのは、抽象的な人間労働がそこに客体化されている、あるいはそれがそこに物質化されているからだ。では、この価値の量はどうやって量ればいいだろうか? それはそのモノに含まれている「価値を作る中身」、つまり労働の量を使えばいい。この労働の量は労働期間によって計測され、そしてその労働期間は、時間とか日とかいった具体的な尺度で測られる。
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原典の"Wie nun die Groesse seines Werts messen?"って、「じゃあ、価値の量ってどうやって量られるのだろう?」ぐらいの意味だと思うのだけど(ドイツ語良く分からないんで、間違いがあったら教えてください>ギャラリー)、山形さんはこの部分を「どうやって量ればいいだろうか?」と訳してしまう。いつの間にか、「べき」とか価値判断の要素が訳文に滑り込んでいるのだ。参考として、他の方の訳文を挙げておきます。
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さて、使用価値あるいは富としての商品が「価値」を持っているのは、ひとえに抽象的な「人間の労働」が商品という形に具体化されているからに他ならない。では、商品の価値の量はどのようにして計るのだろうか。それは、その商品に含まれる「価値を形作る実体」つまり労働の量によって計られる。そしてこの労働の量は時間の長さによって計られる。さらに、この労働時間は何日とか何時間とかの単位で計られる。
(http://www.geocities.jp/hgonzaemon/capital.html)
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この部分に限らず、山形訳資本論の全般にこの置き換えが見受けられます。マルクスが現状分析を行っているとおぼしき部分に関して、山形さんは「べき」とか価値判断を含んだ形で訳してしまう。そのため、文章の意味が大きく変わってしまっている。
えーと、これが「本筋と関係ないところでグダグダ言ってる」ことになるのでしたら、もはや僕の言うことは何もありません。
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3月14日(日) 当為/恫喝/説得/罵倒。過去編。
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http://d.hatena.ne.jp/Ririka/20040309#p2
経由で、内田樹氏の「とほほの日々」の6月20、28日を読む。うあー、やな文章だなあ。特に28日。
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政治的意見を述べるときは、「説得」するか、「罵倒」するか、どちらかの語法を選ぶのがいい、と私は思っている。
「説得」というのは、めざす政治的成果を獲得するために、自分の言葉を捨てても「他者」の価値観や経験の仕方のうちに身をすり寄せていくことである。
「罵倒」というのは個人的な好悪の感情の発露であり、真偽や適否を論ずる水準ではない。「バカというやつがバカなんだよ」という小学生の真理が語っているとおり、罵倒は普遍的妥当性をあらかじめ断念しており、その断念(「どーせ、おじさんの繰り言なんですけどねー」)を経由してはじめてその戦闘性を獲得する。
私は政治的言説は、このどちらかに徹すべきだというふうに考えている。
政治について「真理の審級」「当為の語法」では語らない方がいい、と私は思う。
(6月28日分。強調部は引用者)
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内田氏は自身の文章で、「当為」(「〜べきだ」みたいなやつ)や「恫喝」の語法をできるだけ使わないように頑張っていらっしゃるようだ。でも、当然というか、当為や恫喝の語法を避けるのは困難だし、内田氏の文章を当為や恫喝だと受け取ってしまうひとたちもそれなりに居るだろう。
んで、僕は内田樹氏の文章のなかに、内田氏自身が批判するところの「採点者の意図を汲んで、喜びそうな答えを書くずるさ」を感じてしまうわけで。ひそやかに当為や恫喝の語法を忍び込ませてくるような感じの。
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内田氏の文章を読んで思ったのだが、この場合、個人的な領域と政治の領域の両方に跨っているのが「罵倒」しか存在しないよーな。それって、どういうことだろう。以下妄想。
ひとは「罵倒」することで、すなわち、自らの個人的な好悪の感情を発露することによって、自らの主張の普遍的妥当性を断念するのだ。そして、この「断念」を経由することによって、そのひとは個人的な領域と政治の領域とを切り離した「よい政治的人格」を立ち上げることが可能になるのだ。
…何だかこれって、とても寒々しい情景なんですが。
補足:
一応、内田氏は「罵倒は普遍的妥当性を『あらかじめ』断念して」と書いているんですが。そこを「罵倒によって(遡及的に?)断念が行われる」と置き換えると、こういう妄想になるのかも。
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上とは別の話、じゃないかな。
あー、つまるところ僕は、フィクションにおける「長い過去編」というのが嫌いなのか。タイムトラベルもの(の大半)や、レトロフューチャー風味の作品も嫌いだったりするし。分かりやすいなあ俺。
⇒(200302.html#25_3)
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http://www.asahi.com/business/update/0314/006.html
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ロボット技術だけでなく、脳科学の最新成果もつぎ込んだ次世代ロボットの研究所を、ソニーが6月までに設立する。所長はアイボなど独創的なロボット作りを主導してきた上席常務の土井利忠さん。状況の変化に柔軟に対応し、人との自然なコミュニケーションができる知的ロボットの開発をめざす。
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うあー。やな感じ。(ソニー的には当然なこととはいえ)所長が天外伺朗っつーのはなあ。飛鳥新社とサンマーク出版から本を出しているソニーの上席常務ってどうよ。
詳しくは斎藤貴男「カルト資本主義」あたりを参照のこと。
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土井利忠講師
概要 「深美意識の時代へ」:
なぜ社会はこれほどまでに混迷してしまったのだろう。それでも、人はエゴをむきだしにして富や名誉や地位を追い求めるよりも、謙虚でつつしみ深い生き方に美を感じる。
人間なら誰しもが持つこの美意識の、さらに奥にひそむものを「深美意識」と呼ぶことができる。社会は人類の意識の成長に対応して進化するものであるから、社会変革のヒントはこうした人間の深層心理にひそんでいるように思える。人間は、いまだ進化の過程にあり、トランス・パーソナル心理学によると、しだいにエゴよりもこうした「深美意識」のほうが優勢になっていく。
そうなれば、人々は競争原理から解放され、流れゆく時間に人生の意義を見出し、他者を受容するようになるだろう。このようにひとりひとりの意識が成長していくことで、いつか希望の光に満ちた新しい「深層民主主義社会」の時代がやってくるのだ。
国際大学GLOCOM公開シンポジウムのご案内
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うあー。GLOCOMねえ…。
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3月11日(木) 山本弘「神は沈黙せず」(ちゃんと読んだ)。また、お返事。
前回の更新から、少し間が空いた。先週土曜日から旅行に行っていて、帰ってきたら書きたいことを全て忘れてしまっていたのが大きいかも。
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サークルの冊子に書評を書くために、山本弘「神は沈黙せず」(角川書店)を読んだ。
結局、いつもの山本弘だった。昔、読まずに書いた(200311.html#07_2)での文章がそのまま書評に転用できそうな気がした。鬱。
ところで、野尻抱介(「太陽の簒奪者」)といい山本弘といい、遺伝子アルゴリズムを表層的に理解した挙句、無条件に賛美してしまうあたりが気になる。「仕組みは分からないけれど、シミュレーションするとなぜか上手く行ってしまった」的な要素というのが、ある種の「気分」や価値観を正当化するための装置として使われているよーな。
◆お返事のコーナー。
http://d.hatena.ne.jp/flurry/20040305#p1でのsivadさんの書き込みへ。
前回からの続き。
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c)それは全くその通りです。フェアではない。で、世の中をフェアにして行こうとする姿勢や努力は維持しつつ、今現在フェアでない状況でできるだけハッピーに暮らそうとする努力もしていいのではないかと思うわけです。少なくとも僕ならそうします。
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僕は自分の「ハッピー」がどういうものか、時々分からなくなります。ましてや自分と違う他人がハッピーなのかどうかは分からないのです。
ついでに言うと、世の中と切り離した形で「自分だけのハッピー」があるのかどうかも良く分かりません。
sivadさんは「マイノリティのひとたちは、自らの損得を冷静に考慮して、世間に対する適切なアピール方法を選んだほうがよいと思う」(少なくとも自分ならそうする)と、ある意味すごく常識的なことを言っている。
で一方、僕は、ひとが「冷静沈着に損得を勘定して、まじめに努力する運動主体」であるとき、そこには一体どれだけの前提があるのだろうか、ということを考えて溜め息をついているわけです。あまり生産的な行為ではないかもしれません。
差別は、そもそもが、その「前提」をも破壊する現象であって、そして、前提が欠如しているということそれ自体によって再差別が行われてしまうわけで。
元ハンセン病患者たちが抱える問題というのは、過去の強制隔離や断種だけではないわけで。強制隔離制度の終了後も、「様々な」理由によって『自発的に』療養所に滞在し続け、自らを隔離し続ける患者たちの存在、という事情があるわけです。この場合の『自発的』って、いったい何なのでしょう? …いやまあ簡単に答えが出る問題ではないのですが。
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上とは全然別の話、でもないのが困ったところなんだけど、とりあえず全然別の話だとしておく。読者層はたぶん別だし。
http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040302#p2
考えてたらキリがなくなってきたんで、少しだけ局地戦するよー。
観鈴?彼女の話はまだしたくない。コーディリアのことをなぜかオフィーリアと勘違いしてた。ハムレットってどこが悲劇なのかよく分からない。あとマクベスも。リア王はオセローと合わせてこれから読むとこ。嵐が丘は読んでない。エイハブ船長、格好良いよね。堂島コウって誰?
浩平。別にー。永遠の世界に行っちゃう展開は大好きだし。でも、婦女暴行がどうたらは、まったくもって余計だと思うけどな。
ところで、猫の話してたはずなのに、どうして他作品の登場人物たちの運命について見解を述べなければならないのでしょーか。一緒くたにしていいものなんですかね。
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幽が地球儀に行ったのが間違っていて、反社会的であってはどうあってもいけないとでもいうのか?
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そんなこと元から言ってませんけど。ついでに言うと、大集会に対して革命を起こすべきとか、そういうことも言ってませんが。
というか、「幽が地球儀に行ったのが、反社会的であってはどうあってもいけないとでもいうのか?」という文章、仮想とか全称量化子とか当為とか価値判断とか疑問/反語とかが入り混じっているように見えて、一体どのように解釈するべきか悩んでしまうんですが。
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他の可能性を想像し現実と置き換える(つまり可能性と現実と等価とみなす)、それで? 一体どうしようって言うんだい?
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えーと、現実、ねえ。「書かれてしまったものと、いまだ書かれていないもの」つう話なら分からなくもないけど。
昔、テレビドラマを見ていたときに、不快な内容のドラマだったので見るのを止めようとしたら、一緒に見ていた知人に「現実から逃げるなよ」という謎の説教をされたことを思い出した。
ところで、jagarlさんの文章を持ってきた意図が良く分からないのですが。
あと、jagarlさんの文章だけど、オメラスが「社会(世界)の定義をして問いを発する」話ってのは違う気がする。ル・グィンは「○○という光景を想像してみよう」と語るだけで、定義なんてしないわけで。定義をしないくせに超時間的な語り口なので読んでいてムカつくのだけど、なにせル・グィン本人が明言するように「心の神話(サイコミス)」だからなあ。
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「SFが読みたい!2004年度版」座談会から、秋山瑞人の台詞。
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秋山:私はSFを読みはじめた時期が遅くて、高校時代くらいからなんです。ちょうどサイバーパンク・ムーブメントが盛り上がっていた時期で、見事にウィリアム・ギブスンとかブルース・スターリングにはまりました。大学時代はギブスンのデッド・コピーとかばかり書いてましたね。お話どうこうというよりも、あのカッコよさを真似したくて。そのときの尻尾みたいなのはけっこうまだ残っていますね。
(p. 31 強調部は引用者による)
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あー、まったくもってそうだろうね。以前から僕も「尻尾」を感じ取ってたもの。だから苛立つんだよ。
その反対側で、高校時代にブルース・スターリングを読んでこりゃすげえと思い、その勢いでイリヤ・プリゴジンを読み始めてしまったり、進路決定に影響を受けてしまったりした人間がここに居るわけでさ。同じものを読みながらの正反対のルート。
だから僕の秋山瑞人への苛つきは、半ばは(あくまでも「半ば」)内ゲバ的なものだと言えなくもないわけで。
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3月5日(金) お返事のコーナー。
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http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040303#p1
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ただし、「喫煙者を追いつめ」「脊髄反射レベルでの反抗」というのは、あそこで言いたかったこととは違います。複合性負担のひとつのやり方として、「脊髄反射的=動物的な戦略」を選ぶこともありうるだろうと。そしてそういった「複合性負担の戦略」を案出するのはわりかし大変なことであるのに(なにしろややこしいことに対峙しているわけですから)、蓮實や矢部は頭がいいから、冴えたやり方を発明しちゃったなあ、偉いなあ、ということです。
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a)
元の文章(200403.html#02_1)で僕は、「問題の複合性に追い詰められた喫煙者たちが、ほとんどアクティング・アウト的な反抗を強いられている」みたいなことを書いてしまいました。これは僕の先入観もあったけれど、
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(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20030929#p1)
ぼくが気になったのは、彼らが動物的にならざるを得ないほど状況が「ヤバイ」ことになっていて、苦渋に満ちた倫理的抵抗を当為とするような、権力関係の渦にわれわれはすでに巻き込まれている、
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という部分に引きずられてしまった所もあります。
「爽快なアクティヴィズム論」と「アクティング・アウトを強いられている」というのは、同じ状況をポジティブに捉えるかネガティブに捉えるかの違いにすぎないのだろうか。どうだろう(←自問)。
b)
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(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040218#p2)
動物化するとは、したがって、複合性の負担をうっちゃって(貧しくして)、人間達(=ここでは禁煙推進派)の構成した複合性を無視した行為遂行を意味します。
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では、動物化は複合性の負担を放り出すやりかただと書かれていて、
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(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040303#p1)
複合性負担のひとつのやり方として、「脊髄反射的=動物的な戦略」を選ぶこともありうるだろうと。
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では、「複合性負担のひとつのやり方」だと書かれている。
僕なりに考えると、これは
「お前ら(禁煙推進派)が持ち出してくる複合性なんてポイだ。でも、誰も複合性自体を放り出すとは言ってないよ。俺たちは俺たちなりに複合性を負担する。でもそれは俺たちの流儀でやらせてもらう。動物的にな」
というように読めるのだけど、それでよいのでしょうか。
ところで、動物的戦略によって「複合性」の負担を行うという発想(あいかわらず僕は複合性の概念がよくわかってないんでアレですが)が良く判らないのですが。
c)
いささかぶしつけな質問をさせていただくと、
「でもやっぱり、『路上に吸殻をわざとまき散らす』たぐいの抗議行動の、メリットとか意義とかが良く分からないのですが?」
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(http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20030929#p1)
というわけで、彼らばかりに負担を負わせてはいけない。ぼくたちも、明日から、いや今日から吸殻集めからはじめよう。そして、千代田区に満ちた憎悪のスパイラルを「まき散らし」の儀式で静めるのだ。
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まあ、これは半ばジョークなのかもしれませんが、僕が千代田区の路上を清掃する立場だったとしたら、喫煙者に対して憎悪をもう一段階深めるだけのような気がします。
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http://d.hatena.ne.jp/sivad/20040304
あー、僕自身の問題意識にsivadさんを無理矢理巻き込んだ形になって心苦しく思っているのですが。それはさておき。
a)
「攻撃的な権利行使」って、そりゃいったい何ですか。
あと、「自分が権利を持っている」ことを常に意識させられるような状況っていうのは、ミランダ条項のようなものなわけで。その権利はあくまで名誉白人的なものでしかない。
b)
「善悪というよりは戦略の問題」と言ったとしても、その言葉が引き起こしてしまうのは「お前は戦略的に適切な行動をとらねばならない」という、善悪的ともいえる規範でしかないのでは。
c)
「戦略的に適切な行動」をとるには、「自分と社会とを適切に分析すること」が必要だったりするのですが。しかし、これがまた、苦痛に満ちた、ややこしさを秘めた問題なわけで。
そもそも差別側もまた「お前は、自分と社会とを『適切に』分析せよ」という形で、外在的な差別構造の内面化を被差別者に強いてきた、という事情があることに注意。
いやまあ、答えが簡単に出るようなことについて書いているわけではないのですが。
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「猫」のことについては、もう少しお待ちあれ>関係諸氏。
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3月2日(火) 「ややこしい気分」のエコノミー。
◆
以前(200402.html#29_3)書いたことの、微妙に続き。
育児を行う母親たちが、わが子への殺意を「くぐり抜けて」、わが子を丸ごと愛せるようになる。そんな過程があるらしい。さて、ここで僕ら、つまり男性がこの体験を「よく頑張った! 感動した!」と軽々しく言ってよいものだろうか? 問題は、この過酷な経験、ややこしい気分を丸ごと抱え込むこと、が一方的に女性の側にのみ課せられてきたということではないのか?
たとえば「女は何を欲望するか?」での内田樹は、それについて見ないふりをしているといってもいい。内田樹はここで言っているのは、「みんな、ややこしい気分を抱え込んできたんだ。それは女性だけじゃないんだよ」ということだ。問題はそういうことじゃねえだろうがよ、という気がしなくもない。
すこし違う話。元ハンセン病患者たちが宿泊施設に泊まる、というはなし。
http://d.hatena.ne.jp/sivad/20040219
では次のようなことが書いてある。
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敢えて元暴力団員の例えを使いますが、元インフルエンザ患者と元ハンセン病患者とでは異なり、元ハンセン病患者と元暴力団員とで共通していることが一つあるのです。
言いにくいことですが、それは外見が周囲に不安を与えるということです。もともとハンセン病患者が苛烈な差別にさらされたのは、その外見における病態が大きな原因となっています。元暴力団員も、まず何より入れ墨を含めた威圧的な外見こそが問題なのです。こういう不安は、差別と言うよりはまず反射的なものです。慣れや、事前の準備、説明がなければどうしても生じるのです。
ですから、何の準備も説明もなく元ハンセン病患者の団体が宿泊した場合、何らかのトラブルや風評が発生する可能性は低くないと判断してもおかしくはありません。またもしトラブルが発生した場合、結局ホテル側の責任が問われることになるのは目に見えています。
ただし、宿泊拒否をした場合にも問題になることも分かり切っていますので、最終的にはアイスターの判断ミスであることには違いありません。
もちろん社会的な場面で外見がどうこう、ということ自体が差別的であるのはいうまでもないことですが、人間が外見に大きく反応してしまうのはどうしようもない事実です。ですからそれを考慮した上で、差別を無くしていこうとする努力をすべきなのです。今回は宿泊手配をした県の職員の問題だと思いますが、これからもこういうことは起こりうるでしょう。その時に「権利がある」ということは、「相手に何の配慮もしなくていい」、ということではないという点に注意すべきではないかと思います。
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しかし、事前に連絡の電話を一本入れるということが、そして、それに対する相手の反応を考慮するということが、今までどれだけ元患者たちの外出を心理的に阻んできたことだろう。それは単純な外見上のコンプレックスという問題だけではない。自分の行動が他人にもたらす結果について(過剰に)考えざるをえない「ややこしい気分」もまた彼らを縛っているのだ。
もちろん、ある人にとっては、「ホテルにとっては一大事だが、元患者にとっては電話一本」でしかない。両者の負担は全然対等ではない。そして別の人にとっては、天秤は別な傾きを示す。誰がどのように物理的負担と心理的負担とを分担するのか。
もう一つ、別の話。東京は千代田区の路上禁煙条例のこと。
http://d.hatena.ne.jp/churos/20040218#1077065199
で、ページの書き手のかたは、
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千代田区の行き過ぎた喫煙規制の動きに抗議して?、「千代田区で吸ったわけではない吸殻をわざわざ千代田区の歩道に捨ててまわる」(蓮實重彦の例)
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ことについて、なぜそんなことをするのか判らないという疑問を述べられている。それに対して、
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040218#p2
では、禁煙推進側が単に手続き的な正当性を問題にすればよいのに対して、喫煙者側は、一方的に「問題の複合性」――2chでの喫煙者に対するバッシング的な書き込みから、条例に至るまでの様々なレベルでの問題の集合――を負担させられている、という見解を示している。
そしてその複合性の負担が、喫煙者を追いつめ、ほとんど脊髄反射レベルでの反抗をさせているのだ、と。
この「複合性」の意味が僕にはよく判らないので、とりあえず僕なりに「喫煙者は『ややこしさ』を負担させられている」と理解してみることにしたのだけど、うーむ、どうだろう。
おまけ。
http://d.hatena.ne.jp/moyu0/20040226#p3
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さして美人じゃないのに自分を美人だと思っている女に、世辞を言うことほどエネルギーを消費することはほかにない。
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ふーん。でも、それを賢しげに吐露するのも、どーかと思うけどね。
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どうもこういう話が、動物化だの、「解離する自由」だの、「おりる自由」、だのといった話に繋がっていくらしいよ。あと、「児童ポルノ規制法案」周りも、ここら辺が思いっきり問題になってくる領域っぽい。
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3月1日(月) お返事。秋山瑞人「猫の地球儀」、「いいからあっち行け」
◆滅・こぉるさんのところへのお返事。取り急ぎ。
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素朴な疑問、不思議な謎として問いを立てる場合、それは答えられることを予期している。他方、解答が与えられるかどうかに関わらず、単に応えられることを目的として問いを立てることもある。どちらも文法的には疑問文の形で表されるが、後者の場合はむしろ反語文というほうが適切かもしれない。
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すみません。相変わらず僕の文章(と脳)が支離滅裂なせいで判り難いですが、僕ははじめから「疑問/反語」の話をしているつもりです。一応、最初に永井均について書いたときに、そんな感じの話をしてます。
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200402.html#20_1
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200402.html#20_4
で、永井均氏が疑問と反語とか、そのような感じに問いを区別しているのかというと、具体的にそれに当たる文章がどうも僕には見当たらないのです。それゆえに僕は永井均氏の文章を読みつつ、頭を捻っている次第です。該当する部分があったら教えてください>物好きな読者の方々。
ところで、疑問と反語って容易に区別可能なものなのでしょうか。文法的には同じである(良くは知りませんが)以上、区別は至難な気がいたします。
「これは反語のつもりじゃなくて、ただの疑問なんだけどさ。――君は馬鹿なのか?」
とか。ついでに、語調を変えてみましょう。
「ねー、おにいちゃんって、おばかさんなの?」
とか。ついでにもう一つ。
「ところで、疑問と反語って容易に区別可能なものなのでしょうか? 区別は至難な気がするのですが」
ちなみに僕の母親は、近所の人間に「いいお天気ですね」と挨拶したところ、「何が良い天気なものかい。こうも雨が降らんかったら、農家が首を吊る羽目になるわい」と返されたことがあるそうな。
◆別の話。
少し前(200402.html#20_2)に秋山瑞人「猫の地球儀」について少し書いたのだが、それに関して一行掲示板の方でいくつか反応を頂いた。そちらへのお返事を少し。今日のこれ以降は、秋山瑞人作品を読んでいない人にはさっぱり判らないと思う。
ところで、本を読み返して返事を書こうにも、部屋の中から「猫の地球儀」が発掘されないので困る。本来ならば買い直している状況だが、如何せん、秋山瑞人にこれ以上金は払いたくないわけで。さすがに余計に二冊分払うのは剛腹だ。
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(http://d.hatena.ne.jp/flurry/20040220)
# Kuroneko 『「楽」についての指摘はガツンと来ました。たぶん私は、「楽」=平穏=日常=適応より、「焔と幽」=夢=男のロマン=不適応のほうに共感的なんでしょう。だから、徹底的に「焔と幽」の物語にしてしまう秋山の周到さが、私には鬱陶しくない。』
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すみません。少しばかり失礼なことを言わせていただきます。
僕にとっては、そのような、夢と不適応とをイコールで結んで鑑賞するような態度こそが鬱陶しいのです。うるせえ。いいからあっち行け、と怒鳴りたいくらいに。
そりゃ、夢を追求しているうちに、社会に適応できなくなっていくこと「も」あるでしょうよ。僕も曽田正人の「シャカリキ!」とか「め組の大吾」とか、そういう話は好きですし。でも、それは「あらかじめ」夢と不適応とをイコールで結んでしまう態度とは、全然別物ですがな。
…激してしまいました。どう考えても八つ当たりです。すみません>Kuronekoさん。
つまるところ、
「よいか、いつの時代でもそうだが、世の中には二種類の猫しかおらん。
不可能なことには興味のないやつと、不可能なことにしか興味のないやつじゃ。」
うるせえな、爺い。あっち行けよ、つうことですか。
焔の「はじめの1回だけが真のバトルで、2回目からはダンスも同然」という態度は確かに不健全で、そのまま行ったら不幸まっしぐら間違い無しなんだけどさ、でも、坊主よ。どう考えてもアンタのその言葉、相手に届かせることを意図してないだろ。それはアンタが自己満足するための台詞だ。
稲葉振一郎氏の「傲慢の罪をこえるもの」を示しておきます。
http://www.sendai-sentyuri.co.jp/sup/inaba.html
◆
うろ覚えな状況で、「猫の地球儀」という作品の構造について思い出してみることにする。
あー、なるほど、判ってきたぞ。僕にとって「猫の地球儀」って、こんな↓構造を持った作品として記憶されているんだ。
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幼い頃、悪の組織に両親と妹を殺された少年。その日から彼の人生は組織への復讐に費やされた。超人的な鍛錬の結果、いまや彼は一個の殺人機械だ。
敵の組織は強大であり、なおかつ、アメーバのように複雑怪奇な多頭統治体制をとっている。だから、目の前に現れる敵を倒しても倒しても、彼の復讐はいまだ果たされることがない。
そんなとき、ふとしたはずみで、彼は一人の少女を組織の手から救い出す。無垢で朗らかな彼女と、復讐と戦いのことしか知らない彼と。はじめは、まったく互いのことを理解できず反目ばかりしていた二人が、次第に打ち解けはじめる。自分のことを不器用に語ろうとする二人。傍からは滑稽に見えるけども、楽しい安息の日々。
野原で摘んだ花を輪に編んでいる彼女を眺めながら、彼は思う。この光景を僕はどこかで見たことがある。そうだ、彼女は妹に似てるんだ。なんで今まで気がつかなかったんだろう。こんなにも僕は復讐に夢中だったのか。
今までの僕の人生において、戦いは、即、復讐と同義語だった。
でも。
ひょっとして、自分には他の戦い方も出来るのではないだろうか。たとえば――
銃声。
脳漿を撒き散らせながら崩れ落ちる彼女の姿が、白黒画像で、スローモーションで、見える。潜んでいた組織のスナイパーが、瞬く間に、彼の神技によって撃ち倒される。
彼は獣のような喚き声を上げながら、オートバイへ飛び乗る。目的地は、敵組織最精鋭部隊駐屯地正門。
自暴自棄のラストダンスが始まった。
(完)
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たぶん、この手のストーリーが好きで好きで仕方のないひとが世の中にはそれなりに居るんだろうが、あいにくと僕は違うのでしたよ。家族を殺され復讐の鬼と化した戦闘機械が、自暴自棄的に敵をブチ殺す話「だけ」なら、それなりに好きなのだけどね。
ついでに言うと、こんな構造の話だというのに、上に被せているのがロケット物のガジェットだったりする辺りが、これがまたムカつくわけでさ。
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結局ガジェットやロジックなどというものは、理不尽なロマンスによって崩れ去るべきものだ。その崩壊の一瞬に物語は輝く。
(「SFが読みたい!2004年度版」 p. 83 「涼宮ハルヒの憂鬱」に対する元長柾木氏のコメント)
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それは違うだろ馬鹿。ロジックとロマンスを二項対立させんな。いいから、あっち行け。
…あれ? これは関係ない文章か?
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子ども: 「ねー、お父さん。なんで、あの娘、死んでしまうんかなあ?」
父親 : 「はっはっは。馬鹿だなあ、おまえ。あの娘にはあんなに沢山、見え見えの『死亡フラグ』が立ってたじゃないか」
子ども: 「…えっ、『死亡フラグ』?」
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子ども、(物語メディアにおける)冷酷な真実に出遭ってしまう、の巻。
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「幽」の地球儀に行きたいという憧れが、当初から「円」の死に対する復讐の念と不可分なものだったというのは事実だと思う。ただ、「楽」との語りの中でそれが変容し、再編されていく可能性はあったはずだ。そして、別に「幽」と「楽」が理解しあうことなんか無くても、二人の語りの場においてその変容は起こり得るのだ。
で、実際には、語りは途中で打ち切られ、最悪の形でのトラウマの再現が起きてしまうわけでさ。鬱陶しいなあ、秋山。あっち行け。
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