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【2004年2月】

2月29日(日)  広告。永井均「これがニーチェだ」(続)、「わが子を殺したい」

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From: iceberg@mint.freemail.ne.jp
Subject: 【未承諾広告※】 久しぶりだね。

 やあ久しぶり。この間会ったのは、いつの事だったかな。

 情報通の貴方はもう知っているかもしれないけれど、僕の友人である北守くんが現在、"ザ・正字正かな"野嵜健秀氏を相手にして、歴史と歴史学、具体的には西欧の歴史に占めるキリスト教の立場に関する論戦?を繰り広げている。北守くんの日記の2月分あたりを2月3日あたりから読んでいくと、流れが判りやすいかな。

 「何だかこの論争、筋がごちゃごちゃしていて読みにくいのだけど? あと本筋と関係ない罵倒が多くない?」
 確かにそれは否定しないよ。論争それ自体ははっきり言って相当に不毛だと思うので、議論を律儀に追いかけていくことはお勧めできない。でも、間接的に生み出された副産物には見るべきものは多いと思う。主に北守君の側にだけどね。
 歴史について書いてある本を読むことは僕も結構あるのけど、歴史学という学問分野――すなわち、歴史を「学問的に」扱うこととは、歴史について研究するということとは、一体どういうことか――については僕は全然知らなくて、いつも知りたいと思っていたんだ。様々なレベルの歴史的証拠の中から、過去の歴史を検証するとはどのようなことなのか。だから北守くんの、
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040210#p1
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040224#p2
辺りは僕にはとても楽しく読めた。貴方も読んでみるといいと思うよ。

 あ、忘れてた。もう一つ、ささやかなお願いなんだけど、確か物好きな貴方は僕のページをはてなアンテナに登録してくれてたよね。一緒に北守君のサイトもアンテナに登録してあげてほしいのだ。
 もし、貴方のアンテナのサイト登録数が199件で、僕のサイトか彼のサイトかを選ばなければならない、という過酷な二者択一を貴方が迫られていたとしたら、そのときは是非、僕のかわりに彼のサイトを登録してほしい。僕のサイトのことなら、時々思い出してくれるだけで構わない。それだけで僕には余るほど十分なんだよ。

flurry
iceberg@mint.freemail.ne.jp
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永井均「これがニーチェだ」を、また少しだけ読んだ。永井氏の論の進め方は僕と相性が悪いのか、読むのに非常に時間がかかってしまう。
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 いじめの場合を考えよう。人生が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった子供が、あるとき友達をいじめることで、はじめて生の悦びを感じることができたとしよう。それはよいことだ、とは誰も言わない。だが、それでも、それはよいことなのではあるまいか。その子は、以前よりもよい人生を生きているのではあるまいか。共存の原理に反しているからといって、そのよろこびは偽物だとか、ほんとうのよろこびは友達と仲良くすることにあるのだ、といった道徳イデオロギーによって、その子を断罪すべきではないと私は思う。その子は、そういう言説が<嘘>であることを、身に染みて知っているはずなのだ。
 もしその子供に対して、世の中が、つまり大人がなしうることがあるとすれば、それはむしろ政治的力量を身につける可能性を教えることだろう。自分の固有の生の悦びを社会の構成原理と矛盾しないものに(できるならその発展に役立つようなものに)鍛え上げるための政治的な力を身につけることを、教えるべきだろう。どんな奇異な悦びも、世の中と折り合いをつける道はどこかに残されている。

(永井均 「これがニーチェだ」 p. 30-31 強調部は引用者による)
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 その子が、過去の経験において「生の悦びを感じることができた」のは、まあ良いんじゃないのでしょうか。問題なのは「で、これからどうするの?」であって。
 当たり前のことを言うと、人間は「自らを作り変えてしまうことができる」のが難儀なところなわけで。ついでに言うなら、だからといって「何にでもなれるわけではない」のが、これまた難儀なのだ。
 昔は友達をいじめて生の悦びを得ていた人間が、あるときいきなり方針転換して、友達と仲良くすることに生の悦びを見出した、ということも十分ありそうだ。その逆のケースも。首尾一貫性? 「それはそれ、これはこれ」 生の悦びの前ではそんなものどうだってよいのではなかろうか。
 …オーケー、生の悦びを追及するために、自らを作り変えることも厭わないことにしよう。でも、どんな自分に作り変えようか?

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 ラカンのいう主体の分裂がどのようなものであるかを理解するには、ルイス・キャロルの有名な逆説を思い出してみればいい。「あたし、アスパラガスが好きでなくてよかった」と少女は仲のよい友達に言う。「だってもし好きだったら、食べなくちゃならないでしょう。そんなの耐えられない!」ここには欲望の再帰性というラカンの問題がまるごと含まれている。欲望はつねに欲望の欲望である。問題は直接に、「私は何を欲望すべきか」ではなく、「私には欲しいものがたくさんある。私には欲望がたくさんある。そのうちのどれが、私の欲望の対象としての価値があるだろうか。私はどの欲望を欲望すべきだろうか」である。

(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」 p. 264)
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 永井均と内田樹とジジェクを、かわるがわる読んでいると、ものすごく愉快な気分になるなあ。


メモ。
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 敵は私を理解しようなどとはしない。だから、私の固有性は敵からはいつも守られている。だが、同情者はちがう。彼らはいつも自分自身の知性と感性を携えて私の内面深く入り込んで来て、私を理解という名の暴力でずたずたにしてしまう。同情されたとたん、私はそのことで殺されるのだ。だが、言葉を持つ以上、原理的にはそこから逃れるすべはないだろう。だから、ニーチェの最も根底には言葉を語る主体にさせられることへの屈辱感があるに違いない。

(永井均 「これがニーチェだ」 p. 47 強調部は引用者による)
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 うわあ。なんつーか、まんまやん。



 生まれたばかりの乳児の面倒を見るというのは、それを行う人間に非常にストレスをかけるようだ。核家族化が進む一方で、父親の育児参加に対する社会的保障があまり十分ではない現在、育児のストレスは母親に集中してしまうことが多い。よろしくない事態だが。
 自分が育児に疲れきっているのに、そんな状況に関係なく子どもがうるさく泣きはじめる。ふとそんなとき、自分の子どもに対して殺意を抱いてしまう。そのような経験のある母親は相当な割合にのぼる、というか大多数らしい。
 ここで、「愛しいはずの子どもを殺したいと思ってしまった」「そんなことがあっていいはずがないし、許されるわけもない」「私は人でなしだ」と、母親が自らの気持ちを責め、まるごと否定しようとしてしまうことで、状況が悪循環してしまうことがしばしばある。

「子どもなんてねー、そりゃ、うるさいときなんかは、憎さのあまりに本気で殺したくもなるもんさね。あたしもそうだったわ」
「あら、それ私もだわ」
 身近な育児経験者たちからのこのような言葉は、母親が自らの心の中の「殺意」を受容することを助けてくれる。そして、あら不思議。自らの中の「殺意」を受容した瞬間、今まではあんなに憎らしげに見えた子どもの顔が、急に愛しく見えはじめる(←伝聞)。

 問題は、核家族化が進む中で母親が孤立してしまって、そのようなアドバイス?を受けるチャンスが減少していることだ。そのような母親たちの交流場所としてインターネットは割合有効に機能しているそうな。また、書店に行くと、「子育てコミック」なんてものに出くわすことがあるが、これなんかも「漫画家自身が子どもを虐待しそうになった経験」が描かれることによって、「殺意」の受容を助ける効用があるようだ。
(⇒http://www.webpoplar.com/beech/041/041040206.htmlあたりも参照。ここで内田春菊は、怖い目でキレた直後にはじめて、子どもの身勝手な態度を受け入れることが出来る)

 さてここに、あくまで自らの中の「殺意」を受け入れようとせず、結果として悪循環に陥って子どもに虐待を繰り返す母親(父親)がいたとする。僕らは彼女(彼)に、
「あー、子どもを殺してしまわないために、自らの殺意を受け入れなさいー」
とメガホンで説教する羽目になるのだろうか。まあ、そんなことをしても、まったくの逆効果なんだが。

(続くかも)


全然、別の話。
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http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040229#p1
最近の高校生は一次変換を習わないらしい。行列演算だけ習っても、何に使うか分からなくて学生さんも困るのでは。どう教えてるんだろう。
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 家庭教師で、高校2年生に数学を教えていたりするのですが、彼ら、一次変換を教わってないのに「複素数同士の演算結果を、複素平面上の写像として理解する」なんてことを授業でやらされているんですね。あまりに愉快な事態に笑い出してしまいました。他にも、
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・微積分を用いずに、物体の運動について教える。
・連立方程式を用いずに、鶴亀算について教える。
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 家庭教師って難しいなあ。


2月28日(土)  永井均「これがニーチェだ」、お返事。
先日、永井均氏の文章に関して僕が疑問に思ったことについて、それは永井均「これがニーチェだ」(講談社現代新書)に書いてあるよ、と知人に教わった。おーおー、なるほど。ものを知らんなあ、俺。

 で、この本なんだけど、冒頭部分は、<子ども力>がMAX! てな感じで、読んでいて微笑を誘われる。とくに、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いを巡って、大江健三郎の文章に反発する部分とか。
(⇒http://www.geocities.jp/okegawax/text-modernZ.htm#【資料3】 2001後 現代社会講義

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 大江はここで、なぜ悪いことをしてはいけないかという問いを立てることは悪いことだと主張している。だからよい人はそういう問いを立てないのだ、と。だが、じつはこれは答えにならない。なぜなら、まさにそういう種類の答えに対する不満こそが、このような問いを立てさせる当のものであるからだ。
「どうして人を殺してはいけないのか」というのは、本来、素朴で単純な問いだと私は思う。「なぜ動物は殺して食べてもいいのか」とか、「なぜ勉強はしなくてはいけないのか」とか、あるいはまた「宇宙の果てはどこか」とか「私はなぜ存在するのか」といった問いと同じように、率直で素朴な問いである。
 ところが、ある種の人は、それをすなおに受けとることができないらしいのだ。問い自体に何か不穏なものを感じるようだ。何の気なしにそういう疑問を感じた者は、答える者のその態度と口ぶりのうちに、何か不穏なものを感じとってしまう。力で問いをねじ伏せようとするある種の威圧感を感じとり、何か秘密があるなと直観する。問い自体は、素直で素朴な疑問だったのに、その答えに<嘘>を感じ取ったとたんに、問い自体が不穏なものに変じる。問いに不穏さを感じとる大江健三郎のような「聖人」たちの心の動揺が、問い自体を不穏なものに変質させる。――少なくとも私の場合はそうであった。

(永井均 「これがニーチェだ」 p. 20-21)
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a)
 大江健三郎は「問いを口にする」ことを悪いと書いているのだけど(…微妙なんだけどさ)、永井氏は大江氏の発言を「問いを立てることが悪い」というように読んでしまう。その両者の違いは重要かもしれない。

b-1)
「なぜ悪いことをしてはいけないか」という問いは、
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・「よい人はそういう問いを立てないのだ」という種類の答えに対する不満によって生成される。
 と同時に
本来は、率直で素朴な問いである。
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のだそうな。んー、不満によって問いが生成される時点で、その問いは既に率直でも素朴でもないような。とすると、「本来」というのは一体どこを指しているんだろうか。僕には良く分からない。

b-2)
 たとえば、「なぜ動物は殺して食べてもいいのか」という問いに、僕は不穏さを感じてしまう。僕にとってこの問いは、率直なものでも素朴なものでもない。
 一方、永井均は、「僕の中にある、ある種のうしろめたさ」こそが、せっかく「本来は」率直で素朴だったはずの問い、というものを汚してしまったのだ。その責任は僕の側にある、と言っているように僕には読めてしまう。
 もちろん、「お前の中には、うしろめたさがあるのではないか?」という永井氏の問いかけは、ふたたび、僕に「不穏さ」を感じさせてしまうわけで。妙な「うしろめたさゲーム」を延々とやっているような気分になる。


 どうも永井均氏の言ってることって、僕には良く分からない。誰か教えてくださいまし。


お返事のコーナー。
http://d.hatena.ne.jp/hatene/20040227#p1
の「もうお一方の反応ってとこ」なのだけど、僕の文章のどこに対してそんなに怒っていらっしゃるのか、良く分からない。どうお返事したものか。
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・・・。なんか元の文章でこれっぽちも書いてなかった事を持ちだして言い訳してらっしゃるような。しかもTskkさんの話通じてないみたいだし。
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 僕の元の文章では全然言葉が足りてなかったような気がしたので、追加して書いてみたのだけど。それは「言い訳」になるのか。ふうん。なるほどねえ。
 Tskkさんが示したような常識的な解釈に関しては、一応最初から僕の念頭にはあって。その上で、「親や先生たちの権力によって学校に行かされていると思った」と、「楽しく学校に通い、楽しく勉強できるようになった」とが繋がってしまうということの面白さについて、僕は考えてみたかったのですよ。

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たくさん本を読んでらして知識(コピペの蓄え)がいぱーいあるんでつね。羅漢!
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 いや、せめて「たくさん本を読んでいた」のなら、まだよかったのですが。そうでないので困ってます。
 あと言わずもがなのことを言っておくと、古来より、コピペばかりしている奴が賢かったためしなんぞ無いのですが。

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うしろめたさがあるのでは。
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 自分の専門外の本を読んでいることに対するうしろめたさが、僕にあると? あるでしょうね。
 で、それがどうかしましたか?


2月26日(木)  府川源一郎「『ごんぎつね』をめぐる謎」、お返事。

 新見南吉の「ごんぎつね」という作品、多くのひとは小学校の教科書で読んだという記憶があると思うのだけど、この「ごんぎつね」という作品、1980年からこのかた、全ての国語教科書(小学4学年)に載っているのだそうな。
 しかも、これは文部省からの押し付けとか、そういう動きによるものではないらしい。

 ところで、このページを何度かご覧になった方なら何となく想像つくと思われるのだけど、小さい頃の僕は「ごんぎつね」という作品を憎んでいた――いや、たぶん、現在でもまだ憎んでいるんじゃないかな。

 それはさておき。
 府川源一郎「『ごんぎつね』をめぐる謎――子ども・文学・教科書――」(教育出版センター:2000年発行)を、パラパラと読んでいる。この「ごんぎつね」現象とも言うべき事態が成立していった過程について総合的に扱った本、らしい。
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・新見南吉の投稿作品「権狐」が鈴木三重吉によって大幅に手を入れられて「ごん狐」になり、児童文学雑誌「赤い鳥」に載るに至った過程。
・戦後における新見南吉作品の(再)評価。
・国語教科書に載せられていった過程。さらに教科書に載せるさいの「改作」問題。
・「ごんぎつね」という作品はどのように読まれたか。そして、教室でどのように教えられたか。
・筆者は「ごんぎつね」をどのように読んだか。
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などなどについて書いてあるようだ。

 では、いつものごとく、著作権の影におびえながら、本の中の素敵フレーズを抜き出してみることに。
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国語教科書に最初に「ごんぎつね」を採用した大日本図書の教師用指導書(引用者註:1965年発行)にある教材観を見てみよう。

> 兵十は善人である。ごんも善人である。加助も兵十のおかみさんも、きっと善人であったであろう。
>善人たち同志が、その善意を交わし合っていながら、わずかの行き違いのためにおたがいの真意
>が通じず、わずかの誤解がおおきなにくしみと悪意に変わる人の心の不条理を鋭くついたこの作品
>は、これを読む子どもたちの心にも強く何ものかを与えるのである。いまこれを読む第四学年の子ど
>もたちには、まだこの作品のテーマはとらえられないかもしれない。しかし、この作品を読んだ子ども
>たちは、みな、その心の中に不思議なショックを感じている。ある子は単なる感傷を、またある子は
>美しい詩情を、そしてまたある子は人間社会の疑問を。筆者はこの南吉の作品の授業を行うたびに、
>文学教育のすばらしさをしみじみと感じるのである。

「不思議なショック」これこそが「ごんぎつね」が教材として与えてくれる「感動」であり、「人生へのインタレスト」である。この解説では、それをめぐって、学習者たちが、共感的な理解をし合うこと、そこに文学教材を読むことの意義を見いだしている。おそらくこれは、戦後の文学教育を推進してきた代表的な意見だといってもいいかもしれない。作品の「テーマ」を要約的に抜き出すよりも、そうした「感動」を各自が切実に経験すること、そしてそれを交流することこそが、大事なのだという考え方は、教育現場でも強く支持されてきた。

(府川源一郎「『ごんぎつね』をめぐる謎」 p.129-130 強調部は引用者による)
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 うわあ。
 国語教育、怖ええEEEEEeeeeeeeeeeeeee! 


 …いやまあ、これって多数派(らしい)とは言え一つの立場に過ぎないわけで、これだけで「国語教育」を代表するのはまずいんだろうけど。
 この他にも、この本には、
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・「銃弾はごんの脚に当たったので、ごんは死にませんでした」という改作を行った教科書会社。
・「ごんは幸せでしたか」という論題で、小学4年生にディベートを行わせた教師。
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とか、素敵なことが色々書いてあったり。


「ごん狐」という作品は、新見南吉(当時18歳!)の投稿作品「権狐」に、「赤い鳥」編集長の鈴木三重吉が大幅に手を入れた作品であるそうな。児童向けとしては文章が長大かつ難解な「権狐」は、三重吉が手を入れたことにより非常にシャープな作品となった。

 府川氏は「権狐」と「ごん狐」を比較して、次のように書く。
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 冒頭部に限って両者を比較すると、「権狐」では茂助爺という元猟師が登場し、彼が「私たち」に「権狐」の話をしたことになっている。ここには、「私」は、茂助爺の顔は記憶していないが、「夏みかんの皮をむく手の大きかった」ことだけは覚えているという、きわめて印象的な記述がある。南吉の書いたこの二二〇字ほどある前書きを、三重吉は「これは、私が小さいときに、村の茂平というおぢいさんからきいたお話です。」という、たった一行に縮めてしまった。すっきりとして、無駄のない、それでいて原作を生かした改稿だといわれるゆえんであるが、しかし「権狐」に存在した重要な要素が、抜け落ちではいないだろうか。

(引用者による中略)

 三重吉が手を入れた「ごん狐」の場合には、語り手の「私」は初めから個人として登場する。背後にいたはずの固有性をもった共同体の人々の声は後ろに遠のき、「私」は語り手として、むき出しの姿のまま舞台の上に押し上げられる。そしてその独語は、無名の個人ないしは不特定多数の見知らぬ聞き手にむかって語られることになる。
 とすると、この話がどのように閉じられるのかが、気になってくる。というのは、、悲劇の結末をだれが引き受けるのかが問題になるからである。「ごん狐」の聞き手は、共通の場と目的を持っているわけではなく、それぞれ独立した個別の聞き手でしかない。したがって、そこで語られた物語内容は、結局のところ、聞き手たち個々人の内部に閉じ込められてしまいかねない。「筒口から出た青い煙」は、確かに読み手一人一人の胸の中に届けられはする。しかし、それは読む手が置かれた都会の砂漠の砂のなかに染み込んで、影も形もなくなってしまう。兵十の前に出現した<他者>は、そのまま個々の聞き手に向かって投げ出され、行き場を失ってしまうのだ。

(府川源一郎「『ごんぎつね』をめぐる謎」 p.166-167 強調部は引用者による)
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 …えー、つまり、府川氏はここで、「ごんぎつね」はセカイ系だ、と言ってますか?(←いや違うだろ)

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 こう見てくると、「ごん狐」における「他者」は人々をつなぐような機能を持っていないが、「権狐」においては共同体という後ろ盾がそれを包み込み、解消してくれる、つまり「権狐」の方が「心の交流」が濃密である、というような結論になりそうであるが、それは必ずしも筆者の真意ではない。問題は、まだ先にある。
 というのは、「権狐」の語り手の声が回帰する共同体の質が問題になるからだ。南吉が主として舞台にするのは、のちに『ごんごろ鐘』や『牛をつないだ椿の木』につながっていくような牧歌的な村落の世界である。すべてを溶解し、単一的な価値観のなかに投げ込んでしまうような農村社会の中では、「他者」は本来の姿では扱われない。予定調和的な収束を至上のものとする社会において、了解不能な「他者」は、排除されるか無視される。テキスト「権狐」では、「ごん狐」とは違って、兵十に撃たれた「狐」は「ぐったり」なるだけでなく、「うれしくな」る。ここには、死を前提とすることで思いが通じ、わかりあえていく様子がうかがえる。しかし、兵十と「権狐」とは自律した「他者」同士として、同じ世界を共有しあえたわけではない。「権狐」の世界は、一見、対立する二つのものがつながった世界を書いたようではあるが、実は一方的な甘えによって、無限定に両者が溶解していく姿が書かれていたのではないか。

(府川源一郎「『ごんぎつね』をめぐる謎」 p.168)
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 いやまあ、どこでも似たような話をしていますね、というか。 
 ところで、『ごんごろ鐘』や『牛をつないだ椿の木』で描かれる村落を「牧歌的」と評するのは全然違う気がするんだが。府川氏が言いたいのは、戦争に向けた挙国一致体制がどうたら、とかそういう話じゃないのか。
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「ごんごろ鐘もあの爆弾になるんだねえ。あの古ぼけた鐘が、むくりむくりとした、ぴかぴかひかった、新しい爆弾になるんだね。」
と僕がいうと、休暇で帰って来ている兄さんが、
「うん、そうだ。何でもそうだよ。古いものはむくりむくりと新しいものに生まれかわって、はじめて活動するのだ。」
といった。兄さんはいつもむつかしいことをいうので、たいてい僕にはよくわからないのだが、この言葉は半分ぐらいはわかるような気がした。古いものは新しいものに生まれかわって、はじめて役立つということに違いない。
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つーのを「牧歌的」というのは、いささか無理がありはしないか。



話変わって、お返事のコーナー。
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040223
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「なぜ学校に行かなければならないのか」という疑問が存在することが障害なのだから、疑問に答が見つかって疑問が解消したので障害は無くなったと言うことだと思います。

〈子供〉の哲学には価値観は存在しないので、「『行かされる』ことは良くない」という価値判断はありえない。そこを価値観が存在する〈青年〉や〈大人〉の視点で読んでしまうと誤解してしまうのだと思います。

ということで、ボーデンハイマーの説明も永井均の子供時代の問いには間違った説明でしょう。永井均の問いは大人に発せられたのではなくて自問自答だし。
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 僕が笑い出してしまった理由をもう少し説明すると、子供時代の永井均が実際に価値判断から離れた意識で「哲学」してたかどうかは知りませんが(なにしろ検証しようがないし)、結果としての彼の行動というのが、非常にある種の価値判断的なものにしか見えないというのが非常に面白かったのです。
 立場は正反対ではあるけれど、「王様は裸だ!」と公衆の面前で叫んだ少年の行動というのは、少年自身が自らの行動をどう思っていたかはともかく、結果として価値判断的に機能してしまう。それと似たような感じです。

 ついでに言うと、僕はそもそも「〈子供〉の哲学には価値観は存在しない」という前提に対してきわめて懐疑的なんですが、それはさておくことにします(←するのかよ)。

 んで、「他人に問うのと、自問自答は違うんじゃないか」の話なのですが、「ボーデンハイマーの説明」ではなく、素直にこっちをコピペしたほうが良かったかしら。
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 では、この主体化以前の主体の地位は何か。ラカン派の答えは、大雑把に言えば、同一化としての主体化以前、イデオロギー的質問以前、主体の立場を引き受ける以前の主体は、問いの主体である。表面的には、われわれはふたたび伝統的・哲学的問題群の真ん中にいるように見える。事物の与えられた客観的状態すべてを問題視することができ、積極性の中に問いの開放性を導入する、否定性の力としての主体。要するに、主体は問いなのだ、と。だがラカン派の立場は正反対である。主体は問いではない。主体とは、大文字の<他者>――象徴的秩序――が発した問いに対する、<現実界>からの応答である(Miller,1987)。問いを発しているのは主体ではない。主体は、<他者>の問いに答えられないという不可能性の空無である。

(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」 p. 271)
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でも、<象徴界>とか<現実界>とか、僕自身、良く分かってないしなあ。
 「他人に問いを投げかける」ことと「自問自答」とが主体化の過程において果たしている役割というのは同じではないと思うけれど、両者の役割は表裏の関係なのではないかという気がするのですよ。


 そういえば、元の話が妙なところに波及してて「なぜ学校に行くのか」ということに関して、色々なひとが意見を述べているそーな。
http://d.hatena.ne.jp/hatene/20040226#p8
に纏めてありました。


2月23日(月)  内田樹「女は何を欲望するか?」(続)、オタク第一世代と女性嫌悪、お返事。
昨日の続き。散漫に。

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 アメリカの古典文学を読むということは、フェッタリーによれば、アメリカ男性に同一化して、女を欲望し、女によって自己実現を妨害され、女によってかけがえのないものを破壊され、女によって裏切られ、ついには女を憎み、排除し、殺してしまう男性主人公の視点に同調することに他ならない。というのも、アメリカの古典的恋愛小説のすべてに伏流している原則は、「唯一のいい女とは死んだ女である」ということだからなのである。
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 そして、フェッタリーの読みかたもまた、対象となる小説を解体して『殺して』しまうことなのかもしれない。問題は、殺して解体してしまった残骸を、剥製にしていつまでも飾っておくのか、それともさっさと打ち捨ててしまうか、だったりするのだろうけれど。


メモ。
 どこで読んだのか忘れたけど、岡田斗司夫、唐沢俊一といった、いわゆる「オタク第一世代」にはクリエイターに対するアンビバレンツな感情があって、それはミソジニー(上に書いたようなタイプの『女性嫌悪』のこと?)に近い、という指摘があったことを思い出した。
 「オタクの眼」によって作品を解体し、解体物をコレクションに収納する。あるいは「よいクリエイターは死んだクリエイター」ゆえに、作品に対して相対的に過去に位置する「ネタ元」を追い求めようとする。そんな態度のことらしい。

 ついでに言うと、一部のジェンダー論のひとが、いわゆる「男性オタクの要素萌え」とやらを非難するとき、彼ら彼女らには男性オタクの振る舞いが、女性キャラクターを「萌え要素」に解体することでキャラクターを『殺して』、そうしてその解体された要素を愛でているように映っているのかもしれない。
 彼ら彼女らのその認識が正しいのかどうなのかはさておき。


昨日書いたことに対する、某所へのお返事。私信めく。
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 観鈴の死を受け入れられないからAIRの技術的なあり方を見ようとかそーゆーことをしてる僕はきっと180度逆の立場なんだろう。起きてしまったことを起きてしまったと、観鈴と向かい合っていた時間を捨てることは出来ないというところからスタートしてしまった僕と、絵空事の小娘ごときに自分が弄くられることが耐えられないから小娘は最初からいなかったとする人と。
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 "Air"という個別の作品についてではなく、あくまで、一般的な作品に対しての類型的な態度のことだと受け取って返事を書くことにします。
 「最初からいなかった」ことにするとは言ってません。ある意味で僕は、「暴力的な恋人に自分が依存状態にあるときに、そこからいかに逃れるか」というような話をしているわけで。そこで必要なのは、相手の存在を最初からゼロにしてしまうのではなく、「相手に対して優位に立ち」、それから相手のことを忘れ去ってしまうこと、なのかもしれない。
 ところで、180度逆の立場かどうか良く分からないんですが。

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 では、絵空事ではないかのように振舞う絵空事に対し、絵空事の小娘に弄くられるのが嫌いな人はどう対処するんだろう。「ニュース」で報道される難民は。「ワイドショー」で報道される犯罪被害者は。「ノンフィクション」の対象は。「ドキュメンタリー小説」の登場人物は。それらは、どこで明確な一線を引かれて、どこから「存在もしない小娘」になるのだろう。
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 歴史に対する態度。弔うということ。見えないものに対する想像力。
 今のところは、「難しいです」とだけ答えさせてください。

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 好き嫌いと言いたいのなら、最終的には全く単純に「その話は嫌いだ」としか言いようがない。論理と好悪を十把一絡げにまとめようと、そこに「好きな理由」「嫌いな理由」をつけようとすることは、「好き」「嫌い」と思う自分自身の、尊厳か、意思か、そのような何かを損なうことに他ならない。
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 もちろん、それは立派な態度だと思うのだけど。
 でも、いったん「嫌いな理由」を見つけて、その後でその理由を放り捨てる。そのような迂遠なやり方でないと、「全く単純に『その話は嫌いだ』としか言いようがない」状態に辿り着けない。そういう人も居るわけで。
 最初から、完成した自分や自分の尊厳・意思があるわけではなく、嫌いな理由を見つけて、それからその理由を放り捨てることによって、はじめて「自分」を立ち上げることができる。そういう話。


ひょっとして、「主人と奴隷の弁証法」とか、そういう話をしているのか俺。


2月22日(日)  内田樹「女は何を欲望するか?」、あるいは、ある作品を嫌いになるにはどうすればよいか。


 世間の人間が素晴らしいと認める文学作品があったとする。その作品を読んだあなたにも、その作品の深さと広さは十分に判っている。
 でも、あなたの心の奥底のどこかに、この作品に対する灼け付くような、いわく言いがたい違和感がある。あなたはこの作品を嫌いになりたい。あなたの感じている違和感を何とかして言葉にして表明したい。作品の影響下から何とかして逃れたい。
 けれど、作品自体が持つ「深さ」と「広さ」とが(ついでに、この作品の世間的な評価の高さが)、そのことをあなたに許さない。「受け入れて、愛しなさい」と声が語りかけてくる。

 あなたはどうすべきか。


 さて、内田樹「女は何を欲望するか?」(径書房)のこと。フェミニズム評論に対するカウンター的な内容、だそうな。本文中で内田氏は、ジュディス・フェッタリーが主張する「抵抗する読み」を紹介する。
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 アメリカの古典文学を読むということは、フェッタリーによれば、アメリカ男性に同一化して、女を欲望し、女によって自己実現を妨害され、女によってかけがえのないものを破壊され、女によって裏切られ、ついには女を憎み、排除し、殺してしまう男性主人公の視点に同調することに他ならない。というのも、アメリカの古典的恋愛小説のすべてに伏流している原則は、「唯一のいい女とは死んだ女である」ということだからなのである。
 女性読者が無防備にアメリカ文学を読んだ場合、「女性読者は、明らかに彼女たちが排斥されている経験に参加させられることになる。女性読者は、自己に反して定義された自我に同一化するよう、自己に反する自我認識をするよう求められている」。そのように、アメリカ文学を女性が読むことは、自己に反した定義を押し付けられるばかりか、「いい女とは死んだ女である」というような価値観を刷り込まれていくと言うのが事実であるとするならば、アメリカ文学を読むことは、間違いなく女性の生存戦略上不利であるだろう。
 それゆえ、フェッタリーは女性読者が読むことを通じて、「自己に反して定義された自我に同一化するよう、自己に反する自我認識をするように求められ」ることからまぬかれる未知として、テクストに「抵抗する読み」を女性読者に勧めるのである。
 「抵抗する読み」とはテクストの一行一行に批判的なまなざしを送り、行間に隠されたイデオロギーの痕跡を検知しながら読み進むことである。

(内田樹「女は何を欲望するか?」 p. 071-072)
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 この「抵抗する読み」に対して、内田氏は(当然、というか)次のように答える。
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 しかし、フェッタリー流の「抵抗する読み手」であろうとすれば、読み手はテクストの登場人物に感情移入したいという欲望を押さえつけ、つねに自分自身であり続け、自分固有の身体と歴史的条件付けに必死で踏みとどまらねばならない。だが、読むということからいかなる影響も受けないために本を読むという営みから読者がどのような知見や快楽を得ることができるのか、私にはうまく想像ができないのである。

(内田樹「女は何を欲望するか?」 p. 078)
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 でも、ひょっとすると、フェッタリーの「抵抗する読み」とは基本的に、ある本を「再読するための技法」なのではないだろうか? 再読することで知見や快楽を得るのではなく、逆にその本から知見や快楽を得られないことを確認して、そして、その本を窓から投げ捨てるための技法なのではないか。
 その行為は確かに不毛に見えるかもしれない。けれど、単にその本から遠ざかるだけではダメで、そのような不毛に依らないと、その本の影響下から逃れられないひとは確かに居る(僕も割合そういうタイプだと思う)。そういう人たちをあげつらう論調に対して、ときどき僕は懐疑的な気分になるのだ。



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 高橋源一郎は政治と文学の関係について次のように書いている。

> 「政治」は「文学」と対峙する時、必ず敗れる。なぜなら、「文学」は「政治」より「深く」「広い」からだ。
>(…)「政治」の本質が「わたしは正しい、やつは間違っている」なら、「わたしは正しい」と訴える
>「文学」はすでに「政治」に冒されているのである。そして「わたしは正しい」と主張する「文学」は
>「政治」であるが故に、ついにこの世界の「基底」にはなりえないのだ。
> では、世界の「基底」に成り得る、世界を成り立たせることのできる「文学」とは何なのか。

 高橋はこの「最後の問い」を書きとめたところで筆を擱いている。私たちはこの文章の中の「文学」を「映画」に置き換えて読んでみた。そして高橋と同じ「最後の問い」の前にたたずんでいる。
 「コレクトネス」を求める人々が映画をいくら統御しようと試みても、その勝負は必ず映画の勝利に終わるだろう。映画が二十世紀の生み出したあらゆる物語装置の中でもっとも成功したことの秘密はたぶんそこにある。映画はつねに時代の権威に屈服し、支配的なイデオロギーに迎合し、なりふりかまわず流行を追ってきた。その職業的な変節ぶりは、現政権と反政府ゲリラ組織に同時に献金して「保険」をかけている資本家に良く似ている。まさしく「面従腹背」こそは映画の本性である。映画はひとつのメッセージを言語的に語りながら、それと矛盾するようなメッセージを非言語的に発信することのできる理想的な詐術の装置である。このような映画のあり方はたしかに「正しく」はない。私たちはそれに同意する。けれども映画は「正しい」思想よりもしばしば「広く」「深い」。私たちはこの「映画の狡知」を愛する。おそらく、そこに「世界の基底」に通じる隘路を見出すからである。

(内田樹「女は何を欲望するか?」 p. 199-201)
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 問題は、どうやら僕は「映画の狡知」を愛せそうも無いということで。

 世の中にはそれなりに沢山の映画愛好家が居るらしい。そういう映画愛好家の一人と僕とが、ついうっかり何かの手違いか何かで「オトナの映画」を一緒に見に行ったりしてしまうことが、たまにある。
 そうなると、鑑賞後の喫茶店で、僕は「正しくなさ」「映画の狡知」について熱弁を振るう羽目になり(もちろんバカバカしいことだとは判っているのだけど、人間、止まらないときは止まらないものだ)、向こうはそんな僕を悲しそうな目で見ることになる。

 映画愛好家という人種が、まさしく「映画の狡知」それ自体の中に自らを没入させるような、そんな生き物なのだとしたら。そうだとしたら、彼ら彼女らと僕とは、物事の見方に関する根底的な部分で、実のところ、まったく相容れないのかもしれない。
 自分の親しくしている(そして、今後親しくなるであろう)人間の中での映画愛好家の(極めて高い)割合を考えると、ときどき暗澹たる気分になったりもする。


2月20日(金)  永井均「<子ども>のための哲学」。疑問/反語。「猫の地球儀」。私信。
忙しいんだよ。

永井均「<子ども>のための哲学」(講談社現代新書ジュネス)を買ってきた。
 平易な言葉遣いだからといって問題自体が易しくなるわけではないテーマだということもあって、何が書いてあるのか良く分からない。でも、本の全編にわたってある種の「子ども力」が充満していることは感じ取れた。

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 話をもどせば、ぼくは子どものころ、いまとは逆に、ふつうのことを考えて生きていくのに、努力を必要とした。当時でいえば、学校の成績とか、友だちとのつきあいとか、そういったことだ。子どものころのぼくは、どんなことでも、もっと根本的なことが気になっていた。学校の例でいえば、なぜ成績をよくするようにつとめなければならないのか、そもそもなぜ学校に行かなければならないのか、とか、そういったことだ。先生や親が出す答えは、わかりきっていたから、わざわざ聞いてみることもしなかった。
 この問題についていえば、ぼくはわりあいかんたんに答えを出すことができた。それは(今のぼくの言葉でいえば)権力関係による、というものだった。学校などというものは、よろこんで行っているように見えても、ほんとうは親や先生たちの権力によって行かされているにすぎない、というもので、この答えは当時のぼくを満足させたので、それ以来、ぼくはこの問題を考えなくなった。そして楽しく学校に通い、楽しく勉強できるようになった。いまでも、この答えは正しく、立派な答えだったと思う。
(p.18 強調部は引用者による)
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たとえば、こんなくだりがある。読んだときに思わず笑い出してしまった。
 「親や先生たちの権力によって行かされていると思った」ということと、「楽しく学校に通い、楽しく勉強できるようになった」ということとは、一体どのように繋がっているのだろう。永井氏によれば、
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 子どもの哲学の根本問題は、存在である。森羅万象が現にこうある、というそのことが不思議で、納得がいかないのだ。ここでは問いは、どうしたらよいのか、ではなく、どうなっているのか、というかたちをとる。
(p.24)
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だそうな。でも、だとしたら、「どうなっているのか」のかわりに「なぜ」という疑問詞を使って彼らが考えるというのは、一体どういうことなのだろうか。どうも、もはや<子ども>ではないらしい僕としては、次のような文章を思い出したりしてしまうのですが。

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 ボーデンハイマーはこの点を、父親にたいする子どもの質問を例に挙げて説明している。「お父さん、空はなぜ青いの?」 子どもは本当は空そのものには興味がない。この問いの真の狙いは、父親の不能、つまり空が青いという動かせぬ事実を前にしたときの無力さ、その事実を実証できず、その証明に必要な一連の論証を提示できない無能さを暴露することである。したがって空が青いということは、父親の問題になるだけでなく、父親の落ち度にもなる。「空は青い。なのにあんたはそれについて何ひとつできず、馬鹿みたいにぼんやり眺めているだけだ」。問いは、たとえある特定の事物の状態に言及しているだけであっても、つねに主体に形式的に責任を負わせる。ただし否定的な形で。つまりこの事実を前にしたときの無力さの責任を負わせるのである。
(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」 p.272-273)
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僕の知人に、たとえば僕が何か自分の専門外の本を読んでいるときに、すぐ、「なぜ、その本を読んでるんですか?」ということを言ってくるひとがいる。彼にとって、それは単に「僕がこの本を読んでいる目的や意図」を知りたいという質問なのかもしれない。でも、彼のイントネーションの問題なのかどうなのか、しばしば彼の物言いは疑問というよりも、「なんでアンタ、そんな本なんか読んでるんだよ」という反語形に僕には聞こえてしまって、鬱陶しく感じられてしまうことが多い。たぶん不幸なすれ違いなんだろう。

 僕にしても、軽い気分で他人に「なぜ、その本を読んでるんですか?」と質問を投げかけてしまうことは良くあって、後で少し後悔したりする。他の訊ね方というのがあるんじゃないかと思って、あれこれ考えたり試したりした結果、「その本、どういう本ですか?」「その本、面白そうですか?」(←「面白いですか?」だと反語だと受け取られる危険性が高そう)という質問から相手と話をスタートさせれば、相手は存外と「この本を読んでいる目的や意図」について自分から喋ってくれるものだということが分かったので、出来るだけそのような訊ね方をしようと心がけているところ。

 「なぜ、その本を読んでるんですか?」という質問よりも、「その本、どういう本ですか?」「その本、面白そうですか?」という質問の方がムカつく、という方がいらっしゃいましたら、教えていただけると幸いです。


別の話。秋山瑞人「猫の地球儀」のこと。ネタバレ含む。
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http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040219#p1
 難病もののヒロインなら、もし仮に病気が治ったとしても別に彼女が彼女でなくなるわけじゃない。けれどたとえば『猫』についていえば、それ以外の可能性など、『幽が幽で無く、焔が焔でなかったら』というありえない仮定に等しい。そこが区別されるべき点だ。
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「おお、ロミオ、なぜあなたはロミオなの?」

 黒猫さんも、今木さんも、なぜか「楽」のことに触れてないというのが少し気にかかる。わざわざ「それ以外の可能性」への道しるべたりえた彼女を出しておいて、その上であのような形で殺してしまう辺りのイヤな周到さが、秋山氏の鬱陶しいところなのですが。


私信というか。どこぞのビジュアルノベル論のコメント欄のこと。
 「かつての論争」の参加者である滅・こぉるさんには、はて、そんなこと言ってるひと、どこに居ましたっけ?と訊ねたいところです。「ヒロインによって祐一の失われた『過去』が決定する」という意見はあったのだけど、むしろそれは
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 私たちはあるテクストから「何を読むか」によって、自分が何ものであるかを知る。
 モーリス・ブランショはかつて作家について次のように書いた。

> 作家が自分が誰であるかを知り、自己を実現するのは、その作品を通じてである。
>作品以前に、彼は自分が誰であるかを知らないばかりか、彼はいまだ何ものでもない。
>作家は作品を書きつつ存在し始めるのだ。

「作家」を「読者」に、「作品」を「読み」に書き換えると、これはそのまま読者論として成り立つ。
(内田樹「女は何を欲望するか?」 p.80-81)
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とかそういうたぐいの話であってさ。

 それよりも滅・こぉるさんに言いたいことがあって。
 滅・こぉるさんはご自身のサイトで、ノベルゲームの構造と解釈に関する考察を行うために「選択肢付き文章」(「選択肢AとBとC」)を書かれている。滅・こぉるさんによると、
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 上の文章はシナリオ分岐型ノベルゲームを模したものだ。特に筋立てを考えずに適当に書きとばしたので特に面白くもなければおかしくもないが、そんな事はどうでもいい。私が行おうとしているのは、ノベルゲームの構造と解釈に関する考察であり、上の文章はそのために書いただけなのだから。
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だそうな。
 ところが、僕はこの「選択肢付き文章」はとても楽しく読めてしまったのでした。むしろそのあとの考察が僕にはどうでも良くて(失礼)、蛇足に感じてしまったのですよ。この「楽しさ」を前にしては、「どちらの解釈を選ぶか」なんて問いなんて、正直どうだってよかったのです。


 ちなみに、海燕氏のビジュアルノベル論本体の方なのだけど。かつてこういう文章を書いた人間としては、いささか思うところが無くもないのだが、そもそも海燕氏の前提や現状認識にツッコミどころが多すぎて途方に暮れてしまうのでしたよ。
 とりあえず海燕氏は、「ヒロインが主人公に依存的である」という自らの大前提を疑ってみるところからスタートしたほうが良いんじゃないかしら。


2月9日(月)  よしながふみ「愛すべき娘たち」、容貌。
よしながふみ「愛すべき娘たち」(白泉社ジェッツコミックス)を買った。たぶん、前日に読んだこの書評がサブリミナル的に効いていていたために、手にとってしまったんだと思う。
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 本書のような作品を読むとやはり男と女は違う生き物だなあ、と思わざるを得ない。
(中略)
 なかでも、しがない大学講師に一方的に好意を示す女子学生や、才色兼備で博愛的な優しさを持ちながらなぜか結婚相手に恵まれない女が、最終的にとった行動とその理由には、呆然とするほかない。
 帯の文句にある通り、「女は謎。その愛はもっと謎」。かなわんなーとは思うけれど、だからこそ心惹かれ、”愛すべき存在”たり得るのだろう。
(朝日新聞2004年2月8日書評欄 南信長(ライター) )
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 んで、「女の謎」に胸躍らせワクワクしながら(←ちょっと待てや)読んだのだけど…、うーそーつーきー、どこにも「謎」なんてないじゃないかー。描かれているのは、
(以下ネタバレ)
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・一方的に自分勝手に相手に『献身』して、相手に優しくされると「いい人すぎるから」と言って相手をフってしまう、暴力依存症の女性。
・誰に対しても平等に博愛的に接しようとするがために、逆に特定の相手と恋愛できない女性。
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だったりする。他のストーリーの背景も、近親間の性的暴力だったり、母娘間でのコンプレックスの伝染だったり。むしろ過剰なまでに説明しつくされてしまっている、というのがたぶん正しい。
 ところで単行本の帯には、「オトコには解らない、故に愛しい女たちの物語が」とか書いてあるんだが、ここでの「オトコ」、一体どんな生き物が想定されているのだろうか。僕にはそっちのほうが謎である。

 あと、ラストでの展開が、ある意味「女性が美形のゲイ男性に癒される」と同様の構造だったので、少々げんなり。


「愛すべき娘たち」を読んでつくづくと思ったのだが、人間、自分の容貌に関してネガティブなことを言われると、たとえ些細なことだとしても、いつまでも覚えているものである。
 僕も自分の容貌に関してはコンプレックスがある。もちろん他人と比較できるような話でもないので、度合いの強弱は良く分からないのだけど。自分の容貌に関して言われたネガティブな言葉は十年単位で僕の記憶にトゲが刺さったように残っていて、ときどき思い出しては悶絶する。このあいだ知人に言われたときは、それがちょうど僕自身のコンプレックスと正確に一致していたために、内心で相当ヘコんだものだ。
 僕自身がそうなので、あまり他人の容貌についてあれこれ口に出したくはないし、あれこれ言っている奴のことも信用したくはない。


2月3日(火)  節分。風邪。芥川竜之介トラップ。「である/ねばならない」
 日曜の夜から風邪で胃腸をやられていて、ウィダーインゼリーなどでカロリーを補充しながら何とか生きていたのだけど、今日になって幾分回復。調子に乗っていきなり、昼食に寿司屋のランチ(大盛)などを食べる自分はどうかと思った。回復直後にナマものは止したほうがいいと思う>俺。
 で、帰宅したところ、恵方を向いて丸齧りすべく用意された巨大な巻き寿司が。そういえば今日は節分であった。これまた、嬉々として齧る自分。馬鹿ではなかろうか。もう少しリスクマネジメントとか、そーゆーのを考えろよ。


http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040130#p2
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 Eisen氏とflurry氏の言ってることは、なんかまんま柄谷行人『村上春樹の「風景」』(講談社学術文庫『終焉をめぐって』所収)みたいな気がした。むろん全部ではないが。
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 自分で言うのも何ですが、どっちかというと、柄谷が芥川竜之介の「藪の中」について書いた文章(『藪の中』、柄谷行人「意味という病」に所収)だという気がします。『村上春樹の「風景」』の中核を成す「固有名」に関する議論って、僕やらEisen氏の文章には含まれてないような。

「藪の中」で思い出した。色々なところで何回も喋っているネタなのだけど、ひとつ。
 僕らの年代ぐらいだと(他の年代のことは知らない)、僕の周囲の人間というのはみんな芥川竜之介の作品をそれなりに読んでいて、しかも読み始めた年頃というのが、ちょうどこれから第二次性徴や思春期を迎えるという辺りだったりする。これは誰かの陰謀だったりするのだろうか。
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・身体的コンプレックスを解消したら、余計に笑われた。つまるところ、これは僕の肥大した自意識の問題だったのだ。ところで、大きく膨らんだ鼻って何の性的象徴?(『』)
・欲しい欲しいと憧れていたものを実際に手に入れてみたら、そんなに良くなかったよウワァァン(『芋粥』)。
・究極の選択。どっちを選べば良いかって? どっちを選んでも仙人にはなれないのでした(『杜子春』)。
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 嫌がらせかなにかだろうか。中途半端に薄っぺらいしさ、芥川。


あ、歴史学の徒が参戦してる。「ヨーロッパつうても色々あるんじゃ一口でまとめんなボケぇ!」ってのは、まあ同感ですが。

 野嵜さんの「西欧/日本」という図式に無いのはアメリカなわけで。んで、アメリカにはプラグマティズム(こことかこことか?)とかいうのが精神的風土に影響を及ぼしていたりするらしいので話がややこしくなる。
 高橋さんの言ってることは、あるときはイギリス経験論風味だったり、あるときはプラグマティズム風味だったり、というように僕には読めるのだけど、野嵜さんは高橋さんのことを「いかにも日本的態度だ」と言う。うーむ。
 イギリス経験論と呼ばれる人たちとプラグマティズムと呼ばれる人たちとの接続関係とか、それぞれの思想と彼らの信仰(あるいは無信仰)との関係が問題になってくるような気もするのだけど、そんなこと、現在の僕の手に負える話ではないのでしたよ。



>高橋さん。
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http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040201#p1
読みを宙吊りにすることに、テーマ性において積極的な効果があるんですかね?
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 テーマ性? ある作品に対する読者の感想として、
「○○○というテーマを十分に表現した、とにかくすごい作品です。」
というのと
「この作品のテーマですか?…上手く言えません。でも、とにかくすごい作品だということは分かります」
というのがあったとしたら、後者の感想のほうを喜ぶ作者はそれなりに居るでしょう、という程度の話です。

 別件ですが、
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http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/comment?date=20040131#c
俺はポルノ性それ自体が美的でありうると思ってるんで、全ての「萌え」がポルノ的であるということそれ自体をごまかすのはもったいないと思ってます。表現規制の話とかで、特別陵辱的・虐待的な表現だけ切り捨てようとか平気で言い出す純愛ユーザには、自分が何を切り捨てようとしているのか分かってるのかと問いたい。女の子を選択肢一つで支配することの楽しさというのが、ギャルゲやエロゲの根本にあるものなのに。』
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 えーと、高橋さんは、いわゆる「純愛ゲー」「萌えゲー」はあんまし楽しめないんですよね? それらのゲームの根本は(高橋さん的には)ポルノ的なのに。それはなぜかというと、たぶん高橋さんにとっては「根本にあるはずのポルノ性があからさまにされていない」からなんですよね。
 つまり、繰り返し書くと「内在するポルノ性があからさまにされる」ことで、高橋さんは興奮するわけです。
 でも…あれ? 高橋さんにとってのポルノ性ってかなりの部分が「物事に内在する××が、あからさまに表に出される」ところに負っているんじゃないかしら。だとすると、これって自己言及的な話なわけで。

 ところで、冗談めかして言うなら、「選択肢一つで支配される」ような、そんな脆い女の子になんか僕は惚れたくないんですけど?

僕が高橋さんにどうしても見てしまうのは、「『萌え』は本質的にポルノ的なものだから、ポルノ的であることを隠さず明示せねばならない」というある意味で倒錯した(?)論法で。「である」と「ねばならない」との境界面。高橋さん自身は、自分は「ねばならない」とは思っていないと主張するだろうけれど。
 かつて11月頃に書いたのだけど、「××は本質的に○○なものだから、隠さず明示的に○○せねばならない」という論法というのは、サドと同様だなあ、と。





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