1月7日(水) 野嵜さんと高橋さん(続)、2つの否定。
◆前回の続き。高橋さんのこの部分。勝手に僕への返答だと解釈してみます。
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どれだけの行を割いて芸術的趣向を凝らそうが、人間らしさなんてものは描けない、と考えてはいけないですかね?
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あーその、その書き方だと高橋さんが「芸術作品というのは『言いたいこと(本質?)+芸術的趣向』という形に分解可能なのだ」と主張しているように読めてしまうのですが、それで良いのでしょうか。
それはさておき、僕が言いたいことは、2つ。
1)そもそも、野嵜さんと高橋さんが話題にしているようなテーマというのは、非常に難しく面倒でややこしいものだということ。
「難しいから結論なんて出ないよ」なんてことを言いたいわけではない。難しく面倒でややこしいのは当然で、(にもかかわらず/だからこそ)僕らはそれに魅せられてしまうような、そんな存在なのだということ。
2)野嵜さんはそのエラそうな文体や断定的な論法から誤解されていることが多いのかもしれない。僕が読む限りでは、野嵜さん自身が「この話題は難しく面倒でややこしいものだ」ということを自覚しているように見える。
というか、その難しさ面倒さややこしさを野嵜さんなりに名づけようとした言葉、それこそが野嵜さんの言う「人間らしさ」ではないのだろうか、ということ。
もちろん、その難しさを「人間らしさ」という一つの言葉で代表してしまうことによって、その「難しさ」が何らかの普遍性の中に押し込められてしまうのは事実だと思う。
そのことに対する批判は可能だと思うのだけど、高橋さんがこの点に立って話しているようには、僕にはあまり思えないわけで。
◆たとえば、「人間とは何か」とか「人間をどのように描くべきか」とかいった問い。少し考えてみれば分かると思うけれど、このような形式の問いというのは茫漠とした、なんとも掴み所のないもので。
掴み所の無さの一例を挙げるならば、たとえば、僕らは「犬という生き物の全体」についてイメージすることはできない。にも関わらず「犬」という概念自体はなぜか僕らの頭の中に棲みついている。…適当な書き方ですみません。この手のことに関する基礎知識が全然無いもので。
ではどうしたら、「より良い」(より深い、よりリアルな…etc.)人間描写を行うことができるのだろうか。ひょっとすると、ここで重要な役割を果たしているのは「否定」ではないだろうか。
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(全ての藝術家は)人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない
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野嵜さんは「人間を単なる特定の政治的イデオロギーの塊として描く」ことを否定する。ここで注目すべきは、野嵜さんは、この否定を踏み台とすることによって、彼にとっての「良い人間描写」に近づくことができるということではないか。
具体的に言うならば、たとえば
「この描写はどうか?→いやダメだ。これではこの人物がイデオロギーの塊にしか見えない。もっと重層的な描写を!→(修正後)ではこの描写ではどうか?→(くり返し)」
というような、そんな感じ。
「否定」を使うことで、「人間」という何だか分からない存在を描く手掛かりを得ることが出来るのだ。
その一方、高橋さんは繰り返し「既存の(世間的な)人間らしさの定義」とその意義とを否定する。
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20世紀に行われた二度の世界大戦、あれこそが「人間らしさ」なのだ。ヒューマニズムへの素朴な信頼は失われた。人間はおよそ人が思いつく程度のどのような「非人間的な」神や悪魔の所業も行いうる。イデオロギーの化け物にもなりうる。歴史がそれを実証している。善くも悪くも、それが人間の可能性なのだ。近代的啓蒙や道徳の主張では(たとえキリスト教を母胎とした西洋のそれであっても)人間を型に嵌めておくことは出来ない。
既にそのような化け物となってしまっている人間という種の可能性を探るものとして、ヒューマニズムではない文学・芸術が再評価されるわけだ。
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こちらにおいても、高橋さんは、(高橋さんの言うところの)「ヒューマニズム」「近代的啓蒙や道徳の主張」の否定を踏み台とすることで、より広い意味での「人間らしさ」を描き出そうとしているように見える。
高橋さんにとってもまた、否定ということが人間を描く上での手掛かりとなっているのだ。
では、この2人の「否定」の形式は同じものなのだろうか?
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