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【2004年1月】

1月30日(金)  論理とか相対主義とか(続)、「GUNSLINGER GIRL」、2つの『わたし』。
以下は電波なので、注意。
 あああ、前回書いたやつ、以前よりも後退してるじゃないか。がっくし。
 「複数の『無矛盾な世界認識』のなかから、好きなものを取捨選択、つまみ食いできる(無傷の)『わたし』」という書き方だと、その世界認識より前に『わたし』があるように読めてしまう。複数の世界認識の間から『わたし』が立ち上がってくるところが重要だというのに。以前、
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200401.html#12_1
 他人のことを勝手に推測すると、「この(美しい)立て看板も、所詮は板に書かれた薄っぺらな存在でしかない」と思う瞬間に、高橋さんの心中には怒涛のように「リアル」が発生しているのかもしれない。それはいわゆる「リアリズム的描写」とは直接関係のない、そんなリアリティだ。
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と書いたときには、それが分かっていたはずだ。「どんでん返し」によって発生する『わたし』。



>高橋さん。
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http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040129#p3
俺は(一部の)フェミニズム批評のファンであって、フェミニストではないので。
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 …いやその。「フェミニストじゃないけど、フェミニズムの一部の主張のファンですー」という存在(男女問わず)を巡って、フェミニズムがどれだけ苦闘しているかって話で。そこの難しさを無視して彼女ら(彼ら)の主張の一部だけを切り出してきてくるのはどうか、と言ってるだけです。いやまあ、すごく面倒くさい問題なんですが。フェミニズムはそもそもが政治的なものですし。
 ただ、くりかえし書くなら、フェミニズムはその当初からそれこそ「相対主義とどのように付き合っていくか」という問題と苦闘してきたわけで、その思考の営為を「野暮→洗練」という図式で括ってしまうのはどうかと。
 高橋さんの発想の中に「フェミニズムが学問的に洗練されてきた結果、世間的に聞こえのいいソフトなタテマエを紡ぐことができるようになったけど、根底にはこういう(ある意味で野暮な)ホンネがあるだろ?」というのがあるのではないかと危惧するのです。「建前/本音」という対立図式の怪しさもまた、「意識/自然」という対立図式の怪しさと同様にフェミニズムが問題としてきたところだと思います。


話は変わって、「GUNSLINGER GIRL」のこと。…と言いつつ、上と似たような話なので困る。

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http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040129#p4
 俺は「ガンスリ」はなんとか安全域だと思ってます。作者が慎重に綱渡りしてるのか自分が綱の上を歩いていると言うことに気付いていないのかはわかんないけど、とりあえず踏み外してはいないと思う。不愉快だけど、まあ、不愉快だ、と言うことで済む。
 俺の気にしてるような部分への読みを決定させる描写が徹底的に欠けているのだけど、それは読者の解釈に任せてわざと殺ぎ落としてるのか、単にそんなことまるで意識してないのか、この手法ではわかんないからです。
 でもその読まれ方の中には、これはアレだろうというのがあります。
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http://d.hatena.ne.jp/imaki/20040129#p2
 つまり、(相田裕が)読み方を一意的に決定するような真似を徹底して避けている、ということ? ならば異論はありませんが。
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 「作者の望み」というものを僕が勝手に想像するならば、まさしくそれは、その決定不能性を読者に抱え込んでもらうことではないのだろうか。なんだかモヤモヤとした割り切れない気分を読者は抱え込みつつ、それでも律儀に作品を読み続ける。「モヤモヤとした割り切れない気分」へと読者が同一化すること。これこそ作者の望みだ。
 つまるところ、以前書いたのと似たよーなこと言ってるだけなんですが。

 中里一日記(1月15日分)での「GUNSLINGER GIRL」評はものすごく面白いのだけど、でもこの点に触れてないので、問題の半分しか捉えていないような気がする。具体的に言うなら、「GUNSLINGER GIRL」を読んだ後で議論したくなるひとが居る一方で、そのような議論にひどく反発を覚えるような読者もそれなりにいるだろうということ。
(余談だが、中里さんの文章で「触手ロリコンまんが」として語られるものの特徴は、別の人たちに「単なる萌え作品」と呼ばれるものに近い気がする)


メモ。2つの『わたし』の対比。
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200401.html#12_1
 他人のことを勝手に推測すると、「この(美しい)立て看板も、所詮は板に書かれた薄っぺらな存在でしかない」と思う瞬間に、高橋さんの心中には怒涛のように「リアル」が発生しているのかもしれない。それはいわゆる「リアリズム的描写」とは直接関係のない、そんなリアリティだ。
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「どんでん返し」によって発生する『わたし』。そしてもう一つ、
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 なんだかモヤモヤとした割り切れない気分を抱え込み、その「モヤモヤとした割り切れない気分」と同一化することで、立ち上がってくる『わたし』
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「どんでん返し」vs.「決定不能性」。


訂正。
 前回、
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ついうっかり誰かなりが「語り得ぬものに関してはー、沈黙せねばならないのですよー」などと口を滑らせていたりしたら完璧だったのですが、さすがに21世紀ですので、そういうのは勘弁。
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と書いたけど、実際にはもう既に誰かが口を滑らせ済みだったらしいですよ。あれれ。

(追記)実は、口を滑らせたのは2人いたとの情報が。あああ。やっとれんわ。


1月28日(水)  論理とか相対主義とか。

論理と相対主義に関するクリップ
アンティゴネのための戦い
http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040126#c
などでのjounoさんの奮闘に感動。
 この話題に関してなにか書こうかと思ったけど、思いついたことの大半は既に色々な方によって書かれていたので、切り張りでお茶を濁すことにします。

 僕としては
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 論理というものは不思議なものだ。我々の思考と言語に密接に関係していて、非常に馴染み深いものである(「論理」という言葉に馴染みがあるかどうかは別の話)。にもかかわらず、我々は論理の出自も、その規範性の根拠も知らない。「論理はいったいどこから来たのか?」という問いは、おそらくナンセンスなものでしかなく、「なぜ論理に従わなければならないのか?」という問いは空回りする。
(←たそがれSpringPoint「論理という謎」)
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と思うわけです。で、だからといって、「じゃあ、論理になんか従う必要なんか無いよねー」と言ってみたとしても
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「ありのままのもの」は感情や欲望も含めて、退屈なくらい「合理的」なものですよ。ぼくは、論理が万能などとは主張しない。ひとはつねに一貫しているべきだとも主張しない。つねに倫理的にふるまいえないことが非難にあたいするとも主張しない。ひとが合理や論理から解き放たれているとみなしているとき、むしろそのときにこそそれに隷属しているのだ
(←Drifting Antigone「論理と相対主義に関するクリップ」)
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ということになるわけで。


高橋さん
 ええと、別に数学基礎論を持ち出さなくてもいい話題だと思うのですが。正直、ただの煙幕にしかなってないように見えます。

 少し別の話。高橋さんは、
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内的には無矛盾な世界認識が複数あり、しかしそれらが互いには矛盾している、ということはありうると思う。矛盾が残る世界認識同士ならなおさらだ。そういう価値観のほうが今の流行だと思うんで俺はそっちに付くことにする。
1月25日
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と書くのだけど、それって、高橋さんが「複数の『無矛盾な世界認識』のなかから、好きなものを取捨選択、つまみ食いできる(無傷の)『わたし』」というものを想定しているように見えてしまうのですね。トカゲの尻尾切りのごとく、都合が悪くなったら他の世界認識に乗り換えることで無傷で居続けられるような、そんな『わたし』。
 で、それは、jounoさんが書くところの「近代的な理性主義の堕落としての啓蒙的で教条的な合理主義」と、「その裏返しとしての、シニカルで快楽主義的に個人的な趣味の問題にすべてを還元してしまう悪しき相対主義」との、イヤな混合物に見えてしまうときもあるわけです。自分の都合に合わせて「教条的合理主義」と「悪しき相対主義」とを使い分けるような、そんな混合物。

 高橋さんはここここで「フェミニズム批評」とやらに関して、
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俺はフェミニズム批評の中でも、特別ガンコなものが好きだ。作家たちが接続する文脈に対して、ガンガン身も蓋も無い破壊的で野暮な読み替えをして欲しい。どうせ支配的な読みにはなりゃしないんだし、文句を言いながらも読み物として楽しめるし、文芸に新しい風を吹き込むきっかけになる可能性もまったくないとはいえないのだから、ありでしょ。
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と書く。高橋さんは「フェミニズム批評」に対して、自らの「相対主義の箱」に収めて鑑賞するような、そんな接し方をしているように見えます。
 高橋さんの言う「フェミニズム批評の中でも、特別ガンコなもの」というのが具体的にどの辺りを指すのか僕には良く分からないのだけど、ひょっとしてそれが「どうしていつも、助けにいくのが王子様で、王女様は助けを待っているのか?」とかそういう指摘のたぐいを指しているのではないか、という疑いを僕は拭えないわけで。
 そのような指摘にはそれなりに意味があるとは思うけれど、それをたとえば「三〇年にわたるフェミニスト批評の成果」の代表としてしまったとしたら、それはあんまりにあんまりでしょう。「文章を書くとは、読むとは、どういうことか」や、それこそ「論理とどのように付き合っていくか」についてフェミニズム(とフェミニズム批評)は思考を続けてきたし、その成果は刺激的なものだと思うのだけど。少なくとも文芸批評レベルで「それ以前のように作品を読み鑑賞することを、無責任で、かつ不可能なものにしてしまった」のだとしたら、それはそのような成果によるものだと思うのですが。


ところで、
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・複数の『無矛盾な世界認識』のなかから、好きなものを取捨選択、つまみ食いできる(無傷の)『わたし』
・トカゲの尻尾切りのごとく、都合が悪くなったら他の世界認識に乗り換えることで無傷で居続けられるような、そんな『わたし』。
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という発想に文句をつけようとするときに、「無傷の」という部分を責めようとするあまりに、逆に、
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・他人が傷つくところを観察してハァハァする
・他人が傷つくことを要求する
・自らが傷ついた様を吹聴する
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ようになっては、大変によろしくないわけで。色々と難しいところです。「バランス」という言葉はできる限り(ぎりぎり最後まで)使いたくないのだけれど…。
 あー、たぶん、「傷つく」とか「無傷の」とか、そのように喩えを使ってる時点で既にダメなんだろうな。その時点で、ある意味で「本当のわたし」を想定しているかたちになってるし。大いに反省せよ>自分。

 ジェンダー論っぽいことをいうひとたちのなかの一部、とくに男性オタクをウォッチングしているひとたち(の一部)は、「男性の傷を観察」してハァハァしているのではないかという気がするのですが。


論理とか相対主義とかに関するこの話題、ニュースグループやメーリングリストで古来より営まれてきた、ある種の議論に近いような気がしなくもない。ついうっかり誰かなりが「語り得ぬものに関してはー、沈黙せねばならないのですよー」などと口を滑らせていたりしたら完璧だったのですが、さすがに21世紀ですので、そういうのは勘弁。

今日のメモ。
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http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/fdsj/fdsj03a.html
 上野と同様に、学的論述においては軽んじられているものを逆手にとって論拠とするという論法を用いているのが、ローティーによる「人権」論である(Roty 1993=1998)。ローティーは、人権を擁護するために哲学的論証による根拠づけを行なう必要などない、現代社会において現に多くの人々に共有されている、他者への共感や、残虐さへの嫌悪の情に訴えるだけで十分であると主張する。この議論もまた、正しいと同時に誤ってもいる。

 それが正しいのは、次の点においてである。すなわち共感への訴えかけは、哲学における〈根拠/根拠づけられるもの〉という区別(〈根拠づける原理/根拠づけられる人権〉ないし〈人権/人権によって擁護あるいは拒絶されるべき諸現象〉)に対する「現実の砂漠」として登場しうる。「その共感こそが根拠づけられねばならない」というように区別のうちに引き込もうとしてみても、現に共感が一定の因果的効果を有しているという事実を否定することはできないのである。

 一方それが誤っているのは、〈空虚な論証/現実的因果性=共感への訴えかけ〉というハイアラーキーが維持されているからである。あたかも哲学的論証は単なる幻想であり、肝心なのはその幻想から脱却して共感という確固たる現実へと着地することだとでもいうように。しかしテロの場合と同様、〈論証という幻想/共感という現実〉というこの区別こそが、ローティーが頑なに守り抜こうとしている幻想なのである。
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 もう一つ。滅・こぉるさんの「数学的帰納法と三段論法
 滅・こぉるさんといえば、ここでのバトンタッチがあまりにも格好良すぎて、目を見開きました。
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# jouno 『というわけで、ぼくはもう議論しません。』
# 滅・こぉる 『はじめまして。jounoさんが撤退したので出てきました。
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 …豪華ラインナップだなあ。

 あと、jounoさんの言う「バフチン的ダイアローグ」というのは、たとえば
http://www2.ttcn.ne.jp/~oda.makoto/polyphony.htm
の4章辺りで示されるような内容のことなのだろうか。


1月24日(土)  読んだ本とか。滝本竜彦。
 忙しい。

宿題というわけでもないのだけど、CLOSED LOOP(1月19日分)で書いていただいたもののうちの幾つかを読んだ。
・アイザック・アシモフ「心にかけられたる者」(『聖者の行進』):
 うーむ。予想通りというか。しかし「聖者の行進」ははるか昔に読んだはずなんだが、まったく記憶に残ってないのは、どういうことか。当時の自分を想定してみるに、おそらく、「それなりに気の利いたオチだったけど、何だろね。上手く言えないけどエロスとかバイオレンスとか、そういうのが足りないにゃー。他の作品行くか」ってな感じだったのではないか。「過剰さが足りない」とか、そういう安易で便利な言葉なんて知らなかったし。

・三浦雅士「サイエンス・フィクション、または隠れたる神」(講談社学術文庫『私という現象』所収):
 「まったくもって、そのとおりでございます」という感じ。三浦雅士というひとの文章は、あらかじめ決まっていた結論に対象をスルスルと滑らかに落とし込んでいくところがあるような。読んでいていまいち感心しない、というか余りエキサイティングではない。この文章の場合、SFの個々の作品ではなくSFジャンルそれ自体を相手にしているので余計にその傾向は強い。受験現代文にこの人の文章が良く出てくるのも、問題が作りやすいとかそういう理由かもしれない。


シェイクスピア「ハムレット」(野島秀勝 訳:岩波文庫)を読んだ。比較的最近出版されたらしいこの訳本、文がこなれていて僕には読みやすい。

 筋書きを知らず、あまつさえ、これが悲劇だということすら忘れていたため、まさしく手に汗握る面白さの読書体験になった。素晴らしい。「ハムレットの復讐は成功するのだろうか?」「ハムレットは生き延びられるのだろうか?」とドキドキする始末。…いや、その、僕の無知にはどうしたものか。

 殺された父王の復讐を誓うハムレット君は、復讐のために自分は非道な「人でなし」にならなければならないと決心する。その一方でハムレット君は、復讐計画を周囲に秘するために、自分が発狂したかのように周囲に見せかけようとする。狂人というのはある意味「人でなし」である。つまるところハムレット君は、人でなしに「なろうとする/なったふりをする」という複雑な状況に自らを置くことになる。
 結果としてハムレット君は、正気/狂気の間を漂うような謎の生物へと化していく。狂気を装っているにしては彼の発言には妙に理が通っていて、復讐対象からも疑われる状態だし、正気に戻って復讐計画を練っているはずなのに言葉の端々に狂気の陰が伺える。読んでいるこちらが、こいつ大丈夫かとハラハラする始末。まったくもって素晴らしい。

 ところで本来これは演劇の台本のはずなのだが、ハムレット君の台詞がそれ自体で存在感がありすぎて、役者の演技をつけると余計に感じられてしまいそうなのはどうしたものか。つうか彼の正気/狂気の非決定性は、まさしく彼の台詞の中にこそあるのであって、役者の抑揚や身振りはそれを汚すものでしかない気もする。

 関係ない話だが、訳者の野島秀勝氏が「デンマークからフランスへと陸路ではなく船旅をするのは変だが、シェイクスピア作品のリアリティはこういう所にあるのではない」みたいな訳注をつけていた。えーと、船旅で行くのがむしろ普通だと思うんだけど?


吉行淳之介「砂の上の植物群」(新潮文庫)を読んでいる。
 …なんでこんなの読んでるんだ俺、って拾ってきたからか。少し前にこれまた拾ってきた、上野千鶴子・小倉千加子・富岡多恵子「男流文学論」(ちくま学芸文庫)の筆頭で、女性嫌悪(ミソジニー)的作品として挙げられていたので読んでみようかと。
(追記)読み終わった。うーん。読まなくてもよかったか、って何を今更。
 早逝した父親の年齢を上回った中年セールスマン(主人公)が、父親の心理的呪縛や自らの老いや死への恐怖から(逃れようとして/引き寄せられて)妻以外の女性と情事を重ねる。セックスを題材として、意識と自然(肉体)との対立が描かれているのだけど、女性は一方的に「自然」の側にのみ割り当てられている。女性と食事をしながら、脳内で父親の幻影と対決していたりする。なるほど分かりやすい。

こう書いたところで、滝本竜彦「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」を思い出す。
 ヒロインを救うための最終決戦に向かってるはずなのに、主人公は死んだ友人のことばかり考えている。
 無意識のうちにチェーンソー男を呼び出してしまうヒロイン。そのような「自分が何をしているか分からない」タイプの「謎」に対して、主人公は「友人の死、自らの心の傷、世界の秘密、をヒロインに教えてあげない」という形での「謎」によって、ヒロインと自分との心理的バランスをとろうとする。
 うーむ。


1月17日(土)  「GUNSLINGER GIRL」、「われはロボット」、ラバロ氏のこと。
アイザック・アシモフ「われはロボット」を読んだので、CLOSED LOOP(1月7日分)への返事を書くことにします。

 1月2日付けで僕は、ロボット3原則について(良く知らないのに)「言語によって掟を規定する」と書いてしまったのですが、あの文章で僕が言いたかったのは、個別の事物と一般概念とか、そういうことの話だったようです。何だか難しい話題なのですが。

 僕が言いたかっただろうことを要約すると(←もちろん、今でっちあげたフィクションですが)、
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アシモフのロボット:個別的な存在から離れた、「人間」という一般化した概念を用いて思考する(こともある)。

義体少女たち:根源的な条件付けは、あくまでも個別的な存在に対してのものではないか。たとえばヘンリエッタはジョゼに対して条件付けをされていて、「担当官」という、より一般的な概念に対して条件付けをされているわけではない。
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ということになるんだと思います。最初からそう書けよ>俺。


「われはロボット」を具体的に見ていくと
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しゃべるロボットにあたえられた完全な一般化の概念、すなわち、その存在を、ある特定の物体としてではなく、ある漠然としたグループの一員として捕捉することは、しゃべるロボットには荷がかちすぎたのである。
(アイザック・アシモフ「われはロボット」p.39-40)
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年代順にエピソードが綴られていく連作短編集「われはロボット」において、1作目の時点ではロボットは一般化した概念でものを考えることができないようだ。それが可能になるのは2作目以降の時代のことらしい。

 全9編中の第6編「迷子のロボット」では、ロボットの一体が以下のように語る。
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わたしが破壊されることなど、主人の安全に比べればなにほどのことがあるでしょう? しかし……しかしわたしは、ふと考えたのです。もしわたしが主人に近づく途中で死ねば、どっちみち主人を救うことはできないだろうと。分銅は主人をうちくだき、わたしは無駄死にをします、そしてまたいつの日か、他の主人が危害をこうむることになるでしょう。もしわたしが生きてさえいれば危害をまぬがれるかもしれないのです。おわかりでしょうか?
(アイザック・アシモフ「われはロボット」p.208)
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 ここでロボットは、人間という概念を「現在の主人」だけでなく、「いつの日か自分の主人となるかもしれない、他のまだ見ぬ人間」にまで適用して自らの行動を判断する。このような判断を可能にするのは、このロボットが「人間」という一般化された概念をもって思考しているからではないか。


 で、一方の「GUNSLINGER GIRL」。義体少女たちが、自らの担当官をどのように認識しているかは分からないことが多い。担当官を失ったクラエスの例からして、一度条件付けられた担当官を変更することは非常に困難らしいことは分かるのだけれど。
 義体少女たちが、自分の担当官以外の担当官と交流するシーンというのがほとんど見られないということは、少し注目していいかもしれない。少女たちは他の少女とは比較的密接な付き合いをしている(例外もあるが)。担当官以外の公社スタッフや一般市民と少女とが交流する場面もそれなりにある。ただ、他の担当官と接している場面は描かれない。
 訓練においても、一人の有能な教官が少女たちを教えるという形ではなく、各担当官が平行に少女を指導する形式となっている。トリエラが「ヒルシャー先生の座学」についてぼやくシーンがある(1巻 p.44)が、この座学もヒルシャーとトリエラとの1対1のものではないかという気がする。



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a)子供にとって「親」とは目の前に居るあの人間(たち)のことで、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。
b)成長するにつれて「仮に、別の人間が自分の親だったら」ということを考えることができるようになる。
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 しかし、このb)の考えというのは単なるナンセンスではないのだろうか? もしこの考えが何らかの意味を持つとしたら、そのときの「親」とはどういう意味なのだろうか?
 いくつかの問いを考えてみよう。読んでいるあなたにとってナンセンスだと感じられる問いがあるかもしれない。だとしたら、それはなぜなのだろう?
・「仮に僕が、僕でないとしたら」
・「仮に僕が、○○○○(僕の本名)という人間でないとしたら」
・「仮に僕が、綿矢りさだとしたら」

 それはさておき、「GUNSLINGER GIRL」において、義体少女と担当官の条件付けに導かれた関係というのはa)の段階であるような気が、僕にはするのです。



全然話は変わって、「GUNSLINGER GIRL」のラバロ氏のこと。
 彼に関しては、「教養や好奇心のない奴は良い兵士にはなれないからな」と言いながら、読む本が家庭菜園の本だったりする辺りが泣けるのであって。
 言われた仕事を言われたままに無感情にゾンビのごとく実行する兵士は長生きできない、とは経験的に言われてきたことである。特殊部隊系の兵士に関してはその仕事上、臨機応変さが要求されるので、その意味で教養や好奇心が余計に必要であろう。
 だがしかし、好奇心が自分の任務そのもの、任務の意味や意義に向かったとしたら、当然それは彼の生命を危うくすることになる。もちろん、好奇心は都合の良いときだけ出し入れできるような、そんな便利なものではない。実戦時に好奇心を保つことを望むなら、通常時には自らの好奇心をできるだけ無害な方向へと逸らせておく必要がある。そのための家庭菜園なのだ。
 結果的にラバロ氏は、自分の好奇心から逃れられなかったと言えなくもない。家庭菜園の本ではなく、もうちょっと公社の内部資料的なものを読んでいれば簡単に殺されることはなかったかもしれないが、まあ、結果論は止しておこう。内部資料なんぞ読んでいたら、殺される時期が早まっただけかもしれないし。

ラバロ氏の(結果的に失敗した)プロフェッショナリズムと、例えば士郎正宗「攻殻機動隊」での公安9課の(高度な?)アマチュアニズム(こちらの1月10、14日あたりを参照)とを比較してみるのも面白いかも。
 士郎正宗は「アップルシード」などでも、実働部隊がいつのまにか諜報活動に手を染めてしまう事態を描いている。そのシチュエーションを「現実的ではない」と評する前に、そのシチュエーションこそ士郎正宗が描きたかったものではではないかと考えてみるべきかも。
 「攻殻機動隊」では人と機械との混合物、サイボーグが描かれるが、この世界でのサイボーグ的な存在はそれだけではない。彼の描く特殊部隊は諜報と実働とを兼務するサイボーグ的な存在であり、隊員はプロフェッショナリズムとアマチュアニズムとが混合したメンタリティを持っている。それこそが士郎正宗が描きたかったものだ。

 一応書いておくと、「攻殻機動隊」のテレビアニメは未見です。


1月12日(月)  野嵜さんと高橋さん(続々)、理解できないことを描く。イーガン、テッド・チャン。
またまた前回の続き。これで最後かな。

高橋さんの1月11日分。
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元々一面的な「立て看板」みたいな奴もいて、そいつは立て看板として書くことこそがリアルなのだと。
しかし、そういう意味ではなく、「立て看板を多面的に書け」ということであるのなら、俺の批判は的外れでしたね。
立て看板、横から見るとペラペラなんですが、つまりその空虚でぺらぺらな「立て看板性」を読者に示すべきだと。
それは考え方としては分かるし、むしろ俺が好きなやり方なんだけど、野暮じゃないかなあ。真に受けて楽しみたい人に対しては嫌がらせになってしまうからね。
例えばガンスリはやらないですね。もう徹底的にやらなくて、そこが俺をイライラさせるのだけど、多分あれが正しい(いや、今回は政治的な話は抜きで、作品的に)。
彼らの「善行」「幸せ」の薄寒さを照射するような展開はいけないのだ。作品がそれに気付いているのかいないのか宙ぶらりんなのがいいのだ。俺はそういうのは好きじゃないが。
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 高橋さんの「ゴールドラッシュ」に対する批判はその通りだと思うのですが、と断っておいた上で一つ。

 多面的ということが、「複数の視点から、一面的な描写を行う」ことによって「対象を複数視点間の対立に回収してしまう」ことにすぎないのだとしたら、それはあまりにもつまらなくはないだろうか。…すみません。ややこしいこと言ってます。「多面的≠多視点」ってことです。
 立て看板の例を転用してくるならば、高橋さんの言う多面的というのは、絵画なり立て看板なりを裏側にひっくり返して、「ほらほら、これはカンバス(もしくは板切れ)に書かれたものにすぎないでしょ?」という視点をもってくることでしか無いように僕には見える。「多面的」というのは、つまるところ、「王様は裸だ!」と高橋さんが言いたい、ということでしかないのだろうか。

 他人のことを勝手に推測すると、「この(美しい)立て看板も、所詮は板に書かれた薄っぺらな存在でしかない」と思う瞬間に、高橋さんの心中には怒涛のように「リアル」が発生しているのかもしれない。それはいわゆる「リアリズム的描写」とは直接関係のない、そんなリアリティだ。


そういえば、滅・こぉるさんからのコメントが。
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一所懸命に読解に取り組んでいる人を見習わなければ。
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 …いやその。これを「一所懸命な読解」というのは、高橋さんと野嵜さんに失礼かと。
 僕がやっているのは、二人の論争をモデルにして(ダシにして)、僕の脳内にぼんやり浮かんでいる考えを言語化しようとすることでしかありません。読み手としては極めて不真面目な態度です。

 もともと僕の関心は、野嵜さんが書くところの
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 なほ、大江がSFの事を何にも解つてゐない事は、『治療塔惑星』と『幼年期の終わり』とを讀み比べると分る。大江の小説の人間は、人間以上に「進化」した「新人類」を「理解」出來てしまつてゐる。A.C.クラークは、「新人類」を現在の人類は理解出來ないと書いてゐる。そして、SFは、その「理解出來ない」事を書くからSFになるのであつて、「理解出來てしまつた對象」を書いてもSFではない。
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辺りにあるようです。「理解できない」ことを書くということはどういうことなのだろうか、ということ。
 もう一つ。SFやミステリというジャンルに属する作品に、外部の人間から「人間が書けていない」という批判が寄せられることがある。SFもミステリも、手法は違うが(そしてその違いが重要なのだが)「謎」を扱うジャンルと言えなくもない。ならば、人間性という「謎」と、SFやミステリにおける「謎」とはどのように関係してくるのか、ということ。


今日の最初の話は、SFでいうならグレッグ・イーガンとテッド・チャンとの違いの話で。…いい加減しつこいね俺も。
 アイデンティティに関する多面的な要素をテッド・チャンは、すぐさま多視点的な問題へと回収してしまう。その点でたとえばソウヤーなんかに非常に近い。
 一方、イーガンは単一視点の中からアイデンティティに関する多面性へと向かう。もちろん僕にとってはイーガンのほうが素晴らしい。


1月7日(水)  野嵜さんと高橋さん(続)、2つの否定。
前回の続き。高橋さんのこの部分。勝手に僕への返答だと解釈してみます。
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どれだけの行を割いて芸術的趣向を凝らそうが、人間らしさなんてものは描けない、と考えてはいけないですかね?
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 あーその、その書き方だと高橋さんが「芸術作品というのは『言いたいこと(本質?)+芸術的趣向』という形に分解可能なのだ」と主張しているように読めてしまうのですが、それで良いのでしょうか。


 それはさておき、僕が言いたいことは、2つ。

1)そもそも、野嵜さんと高橋さんが話題にしているようなテーマというのは、非常に難しく面倒でややこしいものだということ。
 「難しいから結論なんて出ないよ」なんてことを言いたいわけではない。難しく面倒でややこしいのは当然で、(にもかかわらず/だからこそ)僕らはそれに魅せられてしまうような、そんな存在なのだということ。

2)野嵜さんはそのエラそうな文体や断定的な論法から誤解されていることが多いのかもしれない。僕が読む限りでは、野嵜さん自身が「この話題は難しく面倒でややこしいものだ」ということを自覚しているように見える。
 というか、その難しさ面倒さややこしさを野嵜さんなりに名づけようとした言葉、それこそが野嵜さんの言う「人間らしさ」ではないのだろうか、ということ。

 もちろん、その難しさを「人間らしさ」という一つの言葉で代表してしまうことによって、その「難しさ」が何らかの普遍性の中に押し込められてしまうのは事実だと思う。
 そのことに対する批判は可能だと思うのだけど、高橋さんがこの点に立って話しているようには、僕にはあまり思えないわけで。


たとえば、「人間とは何か」とか「人間をどのように描くべきか」とかいった問い。少し考えてみれば分かると思うけれど、このような形式の問いというのは茫漠とした、なんとも掴み所のないもので。
 掴み所の無さの一例を挙げるならば、たとえば、僕らは「犬という生き物の全体」についてイメージすることはできない。にも関わらず「犬」という概念自体はなぜか僕らの頭の中に棲みついている。…適当な書き方ですみません。この手のことに関する基礎知識が全然無いもので。

 ではどうしたら、「より良い」(より深い、よりリアルな…etc.)人間描写を行うことができるのだろうか。ひょっとすると、ここで重要な役割を果たしているのは「否定」ではないだろうか。

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(全ての藝術家は)人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない
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 野嵜さんは「人間を単なる特定の政治的イデオロギーの塊として描く」ことを否定する。ここで注目すべきは、野嵜さんは、この否定を踏み台とすることによって、彼にとっての「良い人間描写」に近づくことができるということではないか。
 具体的に言うならば、たとえば
「この描写はどうか?→いやダメだ。これではこの人物がイデオロギーの塊にしか見えない。もっと重層的な描写を!→(修正後)ではこの描写ではどうか?→(くり返し)」
というような、そんな感じ。
 「否定」を使うことで、「人間」という何だか分からない存在を描く手掛かりを得ることが出来るのだ。

 その一方、高橋さんは繰り返し「既存の(世間的な)人間らしさの定義」とその意義とを否定する。
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20世紀に行われた二度の世界大戦、あれこそが「人間らしさ」なのだ。ヒューマニズムへの素朴な信頼は失われた。人間はおよそ人が思いつく程度のどのような「非人間的な」神や悪魔の所業も行いうる。イデオロギーの化け物にもなりうる。歴史がそれを実証している。善くも悪くも、それが人間の可能性なのだ。近代的啓蒙や道徳の主張では(たとえキリスト教を母胎とした西洋のそれであっても)人間を型に嵌めておくことは出来ない。

既にそのような化け物となってしまっている人間という種の可能性を探るものとして、ヒューマニズムではない文学・芸術が再評価されるわけだ。
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 こちらにおいても、高橋さんは、(高橋さんの言うところの)「ヒューマニズム」「近代的啓蒙や道徳の主張」の否定を踏み台とすることで、より広い意味での「人間らしさ」を描き出そうとしているように見える。
 高橋さんにとってもまた、否定ということが人間を描く上での手掛かりとなっているのだ。
 
 では、この2人の「否定」の形式は同じものなのだろうか?


1月5日(月)  野嵜さんと高橋さん、「人間らしさ」、芸術と政治。 ⇒<感想
ふと気付くと、野嵜さん高橋さんとの論争が形を変えながら1ヶ月以上続いた末に、先日(また?)罵倒モードに突入していたらしい。
 この論争、何かのお手本的に、と言っていいくらいに二人が見事にすれ違っているように僕には見える。随分と勉強させていただきました。真面目な話。

 んで、遠目から少し僕自身の感想を。問題となってる「人間らしさ」の話なんだけど、そもそもの野嵜さんの1月3日分の、
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 マラソンに向いてゐないとか、繪を描くのに向いてゐないとか、言ひたければ勝手に言へば良いが、それが何の意味があるかと言へば何の意味もない。人間ならば「俺は人間らしく生きるのに向いてゐない」等とは言へない。全ての人間は、人間らしく生きるのに向いてゐるから人間なのである。
 「人間らしく生きる」事が「道徳的」と云ふ事であり、「人間を人間らしく描く」事が「道徳的な藝術」である。そして、全ての藝術家は、人間を人間らしく描かなければならないし、人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない。
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 …これ、なかなかに面倒な文章で。「人間を人間らしく描く」という部分からして、文意の難しさに泣きたくなる。これって掘り下げていくと、
・「この生物は人間か?」
・「人間とはそもそも何か?」
という2つの問いの形式のギャップという、古典的かつ現代的な問いが出てくるよーな。あ、形式の問題だから、この場合の「人間」は例えば「自由」という言葉でも置き換え可能です。
・「彼の行動は自由なものか?」
・「自由な行動とはそもそも何か?」


 それはひとまずおいといて。
 読むひとによっては「人間を人間らしく描く」という部分に関して、野嵜さんが何か普遍的な「人間とは××な存在である」という単一の定義を持っていて、その定義から成立するような「人間を××らしく描かねばならない」という単一の価値観から話をしているのだ、というように解釈してしまうかもしれない。
 高橋さんは、
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20世紀に行われた二度の世界大戦、あれこそが「人間らしさ」なのだ。ヒューマニズムへの素朴な信頼は失われた。人間はおよそ人が思いつく程度のどのような「非人間的な」神や悪魔の所業も行いうる。イデオロギーの化け物にもなりうる。歴史がそれを実証している。善くも悪くも、それが人間の可能性なのだ。近代的啓蒙や道徳の主張では(たとえキリスト教を母胎とした西洋のそれであっても)人間を型に嵌めておくことは出来ない。
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というように反論している。高橋さんは野嵜さんの「人間らしさ」を近代的ヒューマニズムのことだと解釈したらしい。
 あるいは高橋さんは「そもそも××が何であったとしても、単一の普遍的な人間観などという考え方自体が現代ではもはや通用しない」という考え方に立っているのかもしれない。

 しかし高橋さんのこの反論は少し論点を外しているのかも。なぜなら野嵜さんは、自ら既に主張しているように、「政治」の話ではなく「芸術」の話をしているからである。そしておそらく野嵜さんにとって(数行で書けるような)定義や価値観の話なんていうのは、政治の領分に属するのではないか。
 「人間らしさ」が数行程度の定義で言い尽くせるものならば、芸術作品によって「人間らしさ」を表現する必要も無い。つまるところ、おそらく野嵜さんの言っている「人間らしさ」とは、要約不可能な、作品それ自体でしか表現できないような、そんな何かだ。
 野嵜さんが否定しているのは、誰か(作者)の政治的主張やあるいは偏見を表現するためだけに作られた道具のような「薄っぺらい」作品とその作品中の「薄っぺらい」人間像だと思うのだけど。


 ここでもちろん、
「『人間らしさとは要約不可能なものだ』ということ自体もまた、要約された単一の定義に転化してしまって、それがさらには単一の価値観として一人歩きしはじめるんじゃねえの?」
というツッコミは考えられる。面倒くさい話である。
 …つーかこれって、「文学とエンターテイメント作品との関係」に関する話じゃねえか。
「薄っぺらいライトノベルとは文学は違うんだよ。え、このライトノベル作品はなかなか深いね。これはもうライトノベルの枠を超えて文学と言っちゃっていいんじゃないの?」
みたいなアレとか。大塚英志氏とか東浩紀氏の(異なったやりかたではあるけれど)ある意味での「薄っぺらさ」の肯定であるとか。


あ、言い忘れてた。高橋さんはここで、野嵜さんの言葉を
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>人間を人間らしからざる善意の塊や正義の塊や特定の政治的イデオロギーの塊や惡意の塊や美の塊として描いてはならない。
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と引用しているのだけど、この引用だと直前の「全ての藝術家は」という主語を欠いていて、少し誤解を与えるのではないかと。
 「書いて悪いとは言ってないよ? でもそれって芸術じゃないけどね」って野嵜さんは言ってるわけで。


少し違う話。
>野嵜さん
 「日本には××が存在しない」みたいな言い方を頻繁にしていると、「俺は日本人であることをやめられませんが何か?」みたいな開き直り的ナショナリズムを相手に起こさせるだけではないでしょうか。結果として自説を相手に理解させる機を逸しているように思えます。
 野嵜さんが言っていることって、別に西洋だの日本だのという言い方をしなくても書くことができるし、むしろそうすることに意義があると思うのですが。


久しぶりに池袋ジュンク堂。
 出口 汪「出口現代文入門講義の実況中継(上)」を立ち読みしたところ、あんまりにも感動したので思わず買ってしまったよ。つうかこれ、人類の必読書ではないか。

 入れ子的な構造が素敵。例題として出口氏が持ってくるのが、「人間が文章を読むということはどういうことなのか」をテーマにした文章(実際の大学入試の過去問)なのね。例題の文章それ自体を理解することが、すなわち、現代文の問題を解くとはどういうことなのかを理解することにも繋がる仕組みになっている。感動。


1月2日(金)  あけました。 またもや「GUNSLINGER GIRL」 ⇒<感想
あけました。良い年でありますように。

「忸怩たるループ」の前年12月31日
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 別に信じる必要はないが、そう書いてあるのは事実。「何が書いてあるか」をあんまり無視されても困る。僕がこだわってたのはそのへんなので。
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 了解です。

 で、話は変わって、12月29日の「GUNSLINGER GIRL」に関する話なんですが、
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・「条件付け」=「担当官への好意」として論ずる人が多いようだが、作品を読む限り、そのあたりは微妙。少なくとも好意イコール恋愛感情ではない。むしろ恋愛といった、「自分ではコントロールできない感情」にならないように、医者がつく。
・「条件付け」はまず「担当官に忠実であること/身を守ること」である。「忠実化の結果愛情が芽生えることがある」のであって、好意や愛情を植え付ける(それじゃ『装甲騎兵ボトムズ』だ)わけではない。
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 「好意」と書いてしまった人間として、少しエクスキューズを。
 前々回に、少女たちの「刷り込み的な、純粋な好意」について書いたのですが、そのとき想定していたのは「家鴨の雛が初めて見た大きなものの後を、追いかけて歩く」ような刷り込みのことでした。
 この家鴨の雛の刷り込みに関して、ときどき「雛は初めて見たものを、何でも『親』だと勘違いして…」みたいな書き方がされることがあるのだけど、それは変な表現で。なぜって、言語を使わない(…多分ね)家鴨が「親」なんていう概念を持つわけがないから。

 この言語概念に依らないところでの「自分の担当官の顔や声、その他の身体的特徴に対する刷り込み」が、少女と担当官との関係を根底で支えているのではないか。反射的な動機付け(「つい、彼の動作を目で追ってしまう」「彼の言うことに耳を傾けてしまう」…etc.)があって、その上ではじめて、担当官による少女への厳しい訓練や指導が成立するのではないか。
 もちろんこれは、僕の妄想めいた勝手な推測なのですが。

 つまるところ、この「条件付け」が十戒やロボット三原則(実はアシモフ御大のそれはほとんど未読なので良く分からないのですが)のような「言語によって掟を規定する」ものかというと、違う気がするわけです。


さまざまな局面において(担当官が危機に陥るような場合とか)、彼女たちは反射的、機械的に行動してしまう。そこに彼女たちの人間としての主体性とゆーのがあるかというと、まあ、無いんじゃないかと。
 一方で彼女たちは人間なので、そんな自らの機械的な行動を、事後的にでも意味付けてくれる『何か』が無いと不安になってしまう。それが「(担当官への)ある種の愛情」とトリエラによって呼ばれるよーなものとして現れるのではないか。
 もちろん、世間における(本物の?)愛情には様々な形があるように、少女たちが自らの行動を意味付ける『何か』も様々ではある。ただ、彼女らの中の葛藤を引き受けるためには、その『何か』それ自体が葛藤的・二律背反的なものであるほうが彼女らの精神安定には望ましいと言える。
 リコにとっては「厳しいジャンへの従属」の中に、トリエラにとっては「あんな奴、嫌いだよ。…でも?」という「終わらないラブコメ」的な構図の中に、多分その『何か』がある。
 一方、あまりにも真正面から「恋」を追求してしまっているヘンリエッタは、精神を安定化できないでいる。

 僕が前々回に書いたことを別の言葉で書き直すと、多分こういうことになるかと。…なら、最初からこう書けよ>俺。

ひどく悪趣味な想像をするならば、ヘンリエッタからは月経機能が奪われているわけで、ホルモンバランス的にも彼女の恋は、真っ向プラトニックで歯止めの利かないものにならざるを得ないのかもしれない。


よしなしごと。
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 ガンスリ学園の女生徒ヘンリエッタは、気が付いたらジョゼ先輩のことを目で追っている自分に気付く。…何故だろう?
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 漫画でこういうシーンを読んだとしたら、僕らは「そりゃ、恋っつうもんだよ。おまいさん」と呟くかもしれない。だから何だよ、と言われても困るが。

ジャンはリコのことを「一人じゃ何も出来ない奴だ」と述べるのだけど、これはリコの能力に対して単にネガティブな評価を下しているわけではない気がする。おそらく「条件付け」を強化すればするほど行動の柔軟性が失われていき、「一人じゃ何も出来ない奴」になっていくのではないか。
 ところでジャンはラウーロと異なって、ずいぶんとリコのことを構っているというか、少なくともジャンがリコと接している時間は長いような気がする。もちろん推測でしかないのだけど。