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はてなダイアリー(メモ・一行掲示板)


【2003年12月】

12月31日(水)  アクセス数。よいお年を。
年末企画というわけではないですが、11/28〜12/28の1ヶ月間のアクセス数はこんな感じ。読者の皆様に感謝です。

 では、よいお年を。


12月29日(月)  「隣の家の少女」、苦痛の伝染、物語愛好家の掟、読書転移共同体。⇒<感想
そういえば、今木さんのこちらを読んで、ジャック・ケッチャム「隣の家の少女」(扶桑社ミステリー文庫)を手にとってみた。世間での評価はたとえばこちらとかこちらとかに。

 あー、なるほど。これは悪趣味な作品だなあ(棒読み)。

 ついうっかりこの本を手にとってしまう12歳の子供が居ませんように。というわけで、読まないほうが良いよ。そこの12歳のキミ。
 …でも、キミの年頃って、そういうことを言われれば言われるほど、かえってどうしようもなく読みたくなっちゃうんだよね。困ったもんだ。どうしたもんかねえ。


 さて、この本で描かれていることは、今木さんによる12月27日の、
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ケッチャム『隣の家の少女』の主人公はたしか、隣の家で起きている出来事の内部にむしろ飲み込まれてしまうのではなかったか。そして内部にいるにもかかわらず、なぜか(善意に満ちた・無力な)傍観者として振舞ってしまう。
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という言葉で、ある程度は尽くされているかに見える。
 そして(ホラーであるところの)この小説は、読者にも「傍観者として振舞う」ことを強いるような構造となっている。
 けれど、この構造はあんまり単純ではない。なぜかというと、主人公デイヴィッドと僕ら読者との関係とが、少しばかり複雑だからだ。
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 1)まず、原則的な話から。本の中の存在である少年ディヴィッドにとって、少女は「ドアのすぐ向こう側」の存在なのだけど、僕ら読者にとって少女は「本の中の存在」でしかない。彼と僕ら読者の立場は全く別物であるといえる。もちろん、僕ら読者は、その点をいとも簡単に混同してしまうような、そんな存在ではあるのだけど。

 2)さて、この作品、「中年になったデイヴィッドが過去の回想を読者に語る」という形式でスタートする。現在のデイヴィッドは「自らの記憶の読者」なのだ。もちろん、読者であると同時に、一人称の語り手でもあるので、過去の回想は彼によって歪めれている可能性が当然ある(つうか普通歪む)。

 3)そして、回想シーン。子供時代のデイヴィッドの一人称によって惨劇が描かれる。回想なんだから「現在から過去を俯瞰的に解釈するような視点」があってもよさそうなのだけど、デイヴィッドはそんなことはしない。彼はあくまで、「子供時代のデイヴィッド」の視点を、すなわち、物をよく知らなくて世界が狭い、そのような子供の視点をでっちあげ、惨劇を子供デイヴィッドにとっての過去から未来へと、時系列順に忠実に描写しようとする。もちろんそれは、何らかのフィクション的なものとなる。
(自分の場合を考えてみればよいが、自分が子供だったときの視点なんてのに戻ることなんか出来はしない。やろうとすると、適当な想像によってでっちあげることになる。また、記憶が過去から未来へと一列に収納されていることも当然無いわけで)
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 単純に理解してしまうと、デイヴィッドは自らの記憶を再構成した「物語」を語ることで、「傍観者として振舞うしかなかった事態」に対する自分のエクスキューズを読者に共有してもらいたがっている、ということになる。
 …何か取りこぼしているかもしれない。

 デイヴィッドの経験それ自体はトラウマ(精神外傷)的なものだといえる。トラウマというのは(冗談めかした言い方をすると)、まさしく「忘れようとしても、思い出せない」ような何かであり、トラウマの被害者が自らの経験を言語化して理解しようとするときに、それを阻むようなものである。では、被害者が自らの経験をきちんと言葉にして誰かに「語れる」ようになったということは、トラウマからの回復を意味するのだろうか? そう信じるひとはそれなりに多いらしい。
 しかし、それがデイヴィッドのような「語り」だとしたらどうだろう? デイヴィッドの語りの手法(「子供の視点」をでっちあげ、惨劇を過去から未来へと時系列順に忠実に描写しようとする)は、聞き手にもトラウマ的な体験を強いるものではないのか。だとすると、それはデイヴィッドがトラウマから回復したことを意味するのだろうか?
 僕がここに見るのは、デイヴィッドの「聞き手にトラウマを伝染させること」への欲望である。


 「わたしたちはこの不快な物語を否定することはできても、無視することはできない。なぜならここに描かれているのは現実であり、人は被害者や加害者になる可能性よりも無力なデイヴィッドになる可能性のほうがずっと大きいのだ。
 「わたしことディビッドは、俺自身、そしてあなた自身でもあるのだ
 これらと同様の意見がネットのあちこちに見うけられる。そりゃそうですが、というか。だって、まさにそのように思ってもらうことこそが、デイヴィッドの望みだという気もするわけで。自らの「語り」を相手にトラウマ的なものとして受け取ってもらうこと。相手にトラウマを感染させること。

 少し前のアメリカでは、幼少期に肉親から虐待を受けたことを中年になってから突然「思い出し」、自らの凄惨な虐待体験について語り始めるひとが続出した。肉親を法的に告発したひともいた。当然これはニュースの種になり、「幼児虐待とトラウマ」を扇情的に扱ったメディア(ミステリやホラーを含む)がやたらと売れた。この「隣の家の少女」も本国での出版年度(1989年?)からすると、そのような流行の影響を受けた作品だと思われる。
 その流行が一段落した頃、今度は、「その虐待の記憶は、成人してから自らの記憶を改竄したものである。虐待の事実は無かった」ということが言われるようになる。今度は「記憶を捏造する人たち」を扇情的に扱ったメディアが売り上げを伸ばした。まあ、正直どっちもどっちであろう。

 別に僕はデイヴィッドが記憶を捏造したかどうかとか、「それは現実ではない」とかそういうことを、ここで言いたいわけではない。ただ、苦痛とトラウマとはこのようにして伝染していくのだな、と思うばかりである。


ところで、今木さんのこれ↓なのですが、
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 「我々」には「隣の家」どころか本の中の話でしかないし、ケッチャムの主人公にとっては隣の家のことに「すぎない」どころではない。そもそも、「われわれにとって「隣の家」のことにすぎない」などという言明は、意味内容を欠いたでたらめな記号の組み合わせではないのか。
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 「われわれにとって「隣の家」のことにすぎない」というのは、まさに、読者たる僕らが必然的に抱えてしまうような混同について、ある意味で的確に表現した言葉だと思うのですが。「意味内容を欠いたでたらめな記号の組み合わせ」と切り捨ててしまうのはちょっと惜しい。
 あと、上で書いたように、いくらデイヴィッドが「まず第一に、それを信じてもらわなければならない」と言っても、まあ、やはりそれを単純に信じるにもいかないわけで。


断っておくと、僕はこの「隣の家の少女」という作品を正しいやり方では読んでいない。つうか、最初から正しいやり方で読む気が毛頭無かったので、池袋ジュンク堂の座り読み用の椅子で、最初にスティーブン・キングのネタバレ全開解説を読み、それからエンディングから逆向きに読んだ。
 …ある種の方々にとっては許し難い行為かもしれない。そのような読み方をする人間には(何であれ)作品を語る資格はないと思われるかもしれない。当方としては「どうぞ、ご存分にお罵り下さい」と思うだけですが。

 というわけで、この本を読みたくてたまらない12歳のキミは、後ろから読むといいと思う。


物語愛好家の掟というのがあるとするならば、その第一のものは「物語は最初から読む(鑑賞する)こと。間違えてもエンディングを先に確認したりしてはならない」というものかもしれない。もちろん僕は物語愛好家ではないので(どちらかというと、フィクションは嫌いです)、掟を遵守したりはしないのだけど。


また少し別の話。「GUNSLINGER GIRL」について、僕は前回までに3回ほど書いた。書くたびにその都度作品を読み返すことになり、結果として、僕の中で「GUNSLINGER GIRL」は大きな存在を占めるようになった。相変わらず悪趣味な作品だとは思うけれど、この作品がどういう結末を迎えるのか追ってみる気分になっている。

 さて、このことは、「GUNSLINGER GIRL」という作品が優れていることを意味するんだろうか? もちろん僕は、それを判断する立場に既に立つことが出来ない。作品の内部にどっぷりと取り込まれてしまったから。
 「エンディングから逆向きに読む」ような行為をひどく憎むような、そんなある種の物語愛好家の人たちにとっては、「作品の内部にどっぷりと取り込まれてしまった」ことは、正しく「物語の勝利」であり無条件に歓迎されるべきことだろう。
 もちろん、物語なんて嫌いな僕はそうは思わないわけですが。どっぷり浸かってしまうと、逆に見えなくなってしまうことも多かろうよ。

「でも貴方、笑い飛ばしながら読むことで作品と距離を取るっていう態度にも否定的じゃなかったっけ。じゃあ、どうすればいいのよ?」
 どうすればいいんだろうね。もちろん「読まない」っていう態度もありなんだが、如何せん「読む」という行為自体が不可逆なものだからなあ。やっぱり物語なんて嫌いだよ。


12月27日(土)  「GUNSLINGER GIRL」(続々)、「純粋な好意」
まずい。この作品を語るのって、すごい楽しい。しかもその楽しさって、多分、よこしまな楽しさだ。

 前回は、ヘンリエッタ・ジョゼの関係の不安定さについて「リコ的な関係とトリエラ的関係との間に、引き裂かれている」みたいなことを書いたのだけど、幾分、的を外していたかもしれない。今回は別の方向から書いてみる。ちなみに適当な仮説だらけなので注意。

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 さて、「GUNSLINGER GIRL」の少女たちは、それぞれ決められた担当官に「好意」(とでも呼ぶべきもの)を感じるように、機械的・薬物的な条件付けをされています。ところが困ったことに、この「好意」は刷り込み的なので、世界の他の事象との関連付けを相当に欠いています(←勝手な仮説)。だから、ある意味でそれは「純粋な好意」と言えます。
 それの何が困るって、他の事象との関連が無いので、自分の中での「この気持ち」をどのように意味付けすればよいか分からないわけです。だから、自分の中の好意をどのように始末、発散すればよいかも分かりません。

 「好意」によって少女は、担当官の命令に従って過酷な訓練をこなしたり、人殺しをしたり、ということへの動機付けを得ることになります。でも、「過酷な訓練をこなしたり、人殺しをしたり」ということによって、彼女たちが持つ「好意」それ自体は発散されるのでしょうか?
 「任務をきちんとこなすことで担当官に褒められることが、発散に繋がるのでは?」ということが、第一に考えられます。ここで注目すべきは、この作品には不思議なくらいに担当官が少女を「褒める」シーンが見当たらないことです。普通、犬を訓練するときだって、もう少し褒めるでしょうに(というか逆に、動物を訓練するときは「褒める」ことが必須です)。

 ある種のメタファーが好きなひとは、ここで「銃というのは見れば分かるとおり○○○の象徴で、だから銃撃シーンによって〜」などと言い出すかもしれません。銃大好きっ子の男性諸氏は、それで発散されるかもしれませんね。けれど、彼女たちは銃を撃つことそれ自体にカタルシスを感じたりは(多分)しません。

 つまるところ、彼女たちには「根拠のない純粋な好意」が義体整備士によって与えられているのですが、その好意をどのようにコントロールするかに関しては、「自分でどうにかしろ」って感じで彼女たち自身に委ねられてしまっているわけです。間(ま)の抜けた、というかひどい話ではあります。
 ついでに言うと、第2巻p.121では医師がヘンリエッタに「感情のコントロール」を説くのですが、そこで医師は「国家のために」とか「担当官のために」とかいう大義名分的な理屈を言ったりしません。つまり、ここで医師が要求しているのは、ある意味で「外的な理由のせいにせずに、純粋に内的に自らの感情をコントロールせよ」ということなのです。しかしまあ、この医師、難しいことを要求しますね。
 そもそも彼女たちは「国家のために君たちは〜」といったような大義名分によって教育されてはいません。彼女たちを任務に結びつけるのは、純粋に担当官との繋がりです。それゆえ彼女らは自らの「好意」を天下国家に転化することで楽になることも出来ません。


 …さて、リコとトリエラは、それぞれ違った形で自らの「好意」を安定化することに成功しているようです。リコは「冷酷なジャンに従わなければならない」という従属の中に、そしてトリエラは、おそらくある種の「罪の共有意識」の中に自らを結び付けることによって。
 二人が自らを結び付けているのは、ある種の「ジレンマ的なもの」です。そのことによって、彼女らは自らの中にある「好意のジレンマ」から逃れることができるわけです。リコのそれは「過酷な訓練」に、トリエラのそれは「人殺し」に対応すると言えるかもしれません。

 では、自らの中にある「好意のジレンマ」を直接引き受けてしまっているところがある、ヘンリエッタはどうなのか?


以下続くかも。(←えー)
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 …ここまで書いてきて思ったけど、やっぱりこれ、論理が変な文章だなあ。あと、公社の「条件付け」の性質に関しては再考の余地が相当にある。プログラム的な条件付け、というあたりをどう見るかということになると思うのだけど。
 ついでにいうと、女子校での運動系部活とかでたとえると分かりやすい話だと思ったよ。女子スポ根ものとか。←そのまんまだよ、それ!

 あと、(こういうカテゴライズは好きじゃないのだけど)、ネットでの議論のされかたを見ると、男性諸氏がトリエラやクラエスに、あるいはリコに一縷の希望を抱いている事が多いのに対して、女性の方々(あるいは少女漫画に親しんでいる男性層?)はワクワクしながらヘンリエッタを見守っていることが多いご様子。なるほどなあ、というか。


高橋直樹さんからのお返事。む、僕の思っていたのとは違った読まれ方をされてしまったのかな。
 前回書いた「想定」で僕が示したかったのは、トリエラがいかに(逆説的に)公社のシステムに心理依存してしまっているか、なのです。
 その依存が「公社のシステム」が本来想定していたものかどうか、という点に関しては僕はあまり関心がありません。ただ、「悪の秘密組織」というものが機能するためには、計画的なものにしろ結果的なものにしろ、その手の依存関係が必須ではないか、と思うわけです。

 あと、リコとジャンの話ですが、あの、「ジャンさんが言うなら〜」というシーンは深読みすると幾らでも面白いことが考えられそうなのですが、一つだけ。
 ジャンが「義体と担当官」と口にしたとき、リコにとってその言葉は即座に「リコとジャン」を指すわけです。「条件付け」によって第一に彼女は、「仮に他の人が私の担当官だったら」という考えを失ってしまっているわけですから。そしてそのことは、ジャンも理解しているはずだと思います。


12月26日(金)  「GUNSLINGER GIRL」(続)、ヘンリエッタとジョゼのミスマッチ。 ⇒<感想
昨日の続き。ふと思いついたこと。
 「GUNSLINGER GIRL」において、完全非公然・非合法活動を行っている「公社」は社会の表側には出てこない存在である。ここで仮に、公社の仕事がもう少し公然的な、でも、あまり褒められたことではないような活動をしていた、と想定してみよう。その場合、
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 人権擁護団体を引き連れて、テレビ局の取材がやってくる。目的は公社を告発するルポを作るため。テレビクルーたちが少女たちの私室に「土足で踏み入って」くる。ヘンリエッタにレポーターの質問が降り注ぐ。
 少女たちの扱いや、少女と担当官との関係についての(人権的には正しいものの)ぶしつけな質問に、ついにトリエラがキレてレポーターを殴り飛ばす。
ヒルシャー:「おい、トリエラ!」
トリエラ  :「お前たちにっっ! 一体、何が分かるっっっ!!」
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…このようなテンプレート的な話が本編中に挿入されるのが、僕には想像できてしまった。こういう場面で真っ先に殴りにいくのは多分トリエラだろう。一方、「ジョゼさんに乱暴を」という理由で真っ先にキレるのはヘンリエッタなのだけど。

トリエラはヒルシャーとの、ある種の「罪の意識の共有」に激しく依存している。そして、その共有を妨げようとするものに対してはヒステリックに反応するのではないだろうか。
 僕はそういう風に読んでしまうのですが>高橋直樹さん。「自由の罠」とかそういう話で、「何か」から逸脱するためには、その「何か」が前提として必須なわけです。その前提が消え去ると、逸脱によって支えられた関係も崩壊する。
 よくある「違う読み」の一つですが、ご参考までに。

 ところで「このような関係は、恋愛ではありません」というのは、高橋さんにしては珍しい発言に見えてしまいます。「それも含めて恋愛だ」ではダメなのでしょうか。高橋さんの発言は「このような関係は、正しい恋愛ではありません」と言葉を補ったかのように、僕には読めてしまうわけで。

 …僕? 僕はナイーブなので、「このような関係は、正しい恋愛ではありません」と思いますが。「正しさ」って大好き。


ヘンリエッタ・ジョゼのフラテッロで描かれるのは、ある種のミスマッチというか、アンバランス、不均衡だと思える。
 この場合、「バランスの取れている」比較対象として想定しているのは、「リコ・ジャン」組と「トリエラ・ヒルシャー」組のことで。この2組、担当官と少女との関係については全くもって対照的なのだが、どちらもその関係がそれなりに安定しているのは間違いない。

 ジョゼの仕事に対する態度はヒルシャーに近く、ヘンリエッタの性格は(どちらかというと)リコに近い。仮に、ジョゼがトリエラのような少女の担当だったら、二人とも(善悪の問題ではなく)安定した関係を維持し続けていけるかもしれない。一方、ジョゼがジャンのようなキャラクターだったとしても同様だろう。
(その場合、ラウーロみたいに無理心中に巻き込まれるんじゃないの?という声もあると思うのだけど、ジャンという人物は、クラエスにラバロの部屋に行くことを命じてみたりとか、イヤな意味で気が利く性格なのである)

 だけども、ジョゼはヘンリエッタを選んでしまった。現在の二人の関係は危うい一時的均衡の上に成立している。そして二人の間に残る根本的な不均衡が生み出すものが、この先、作品を導いていくことになる、はず。
 …安易な道として、ヘンリエッタにもアンジェリカと同じルートを辿らせることによって二人の間のアンバランスを回避する、という筋があるのだが。第1話から「ヘンリエッタの味覚が鈍化している」という分かりやすい伏線が張られているしなあ。


 ちなみに、この作品がどのような結末を迎えるかに金を賭けろと言われたら、僕は「途中で中断したまま再開未定」に賭けます。


12月25日(木)  「GUNSLINGER GIRL」 ⇒<感想
相田裕「GUNSLINGER GIRL」(1、2巻)を読んだ。アニメはほぼ未見。

 何だか懐かしいな、これ。どっちかというと系譜的には、士郎正宗や山下いくと、米村孝一郎といったラインに繋がる気がするよ。「サイバー・コミックス」や「コミック・ガイア」に載っててもおかしくなさそう(←そうか?) 「義体」という用語や、凄腕の割にどこかアマチュアじみた組織とか(実行部隊が自ら内偵調査もするし)、そこら辺があのラインの作家を思い出させるのかもしれない。
 …このように書くと、僕がこの作品を気に入っているように思われるかもしれないが(上に挙げた漫画家はいずれも、僕の好みなので)、そんなこたあない。
 ところで、FSSのファティマとガンスリ少女たちを比較するのは(こことか)僕にはあまりぴんと来ない。うーむ。

ガンスリにおいて「大人」たちの何人かは、自分の仕事に「後ろめたさ」を感じているように描かれる。その「後ろめたさ」は、この作品の悪趣味な設定に対して、ある種のエクスキューズ(弁解・いいわけ・口実)として機能するのだけど、当然のことながら「後ろめたさ」と「悪趣味」とが実際に中和・相殺しあうわけではない。
 むしろ、そのエクスキューズによって、読者は積極的に「自らの『良識』や後ろめたさ」と「悪趣味な設定」との間のジレンマを、葛藤を楽しむことが出来るようになるわけで。葛藤(;´Д`)ハァハァってな具合に。

 ところで、この類の作品は他にも山のように存在するように思うのだが、その中でガンスリだけ取り出してきてどうこう言われているっていうのは、どういうことなのだろう。偶然に取り上げられているだけかもしれないけれど。
 「萌え文脈」だか何だかそういうやつとの絡みで語られて、ややこしくなってたりするのかなあ。

めも。この作品、モノローグ表現が多用されているのだが、常にモノローグはフラテッロのうちの一方からしか発されない(2巻時点)。5組のフラテッロに関して、モノローグを発する方を前に置くと、
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・ジョゼ→ヘンリエッタ
・リコ→ジャン
・トリエラ→ヒルシャー
・クラエス→ラバロ
・マルコー→アンジェリカ
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となる。アンジェリカの登場までは、「ジョゼ・ヘンリエッタ」ペアだけが他のフラテッロと逆向きで、そのことによって作劇的な区別化がされていたと言える。

どーでもいい話をすると、ヘンリエッタとクラエスが眉が太めで好み。あと、成人女性たち、フェッロやエレノラのボディラインの描き方に、僕と作者との趣味の共通性を一瞬感じてしまったよ。


全然別の話。ここ
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あと妹をアニソンに例えると、と考えて咲耶=佐々木ゆう子「PURE SNOW」、四葉=小坂由美子「REASON」で挫折するの巻。
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 「PURE SNOW」は鈴凛だろー、って、これは「長岡志保−鈴凛」史観の話か。


12月24日(水)  (無題)
 出張でした。

 帰りに土産物屋に寄ったところ、真っ黒な冷凍肉を発見。こりゃ何だと見てみると「イルカのタレ(←肉のことをこう呼ぶらしい)」。あー、そういえばこの地域には、そんな食文化もあったなあ。
 家族の困惑する顔が目に浮かんだので購入はせず。一人暮らしをしてたなら、多分買ってしまっていただろうけれど。


12月23日(火)  「分かりやすい」、「責任をとる」。 ⇒<感想
 明日に出張が入ってしまったよ。

教育行政を志す知人と話をしていたときのこと。彼曰く、
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彼: 「たとえば、コバヤシヨシノリを支持しているひとの多くは、彼の主張そのものよりも、彼の主張の『分かりやすさ』を支持しているという調査結果があるのです。コバヤシヨシノリに対抗するために、『分かりにくい』難しいことを幾らごちゃごちゃ言ったとしても、肝心の『分かりやすさ』を望む層に届かないのでは意味がない。『分かりやすさ』には『分かりやすさ』で対抗すべきかと」

僕: 「んー。『主張そのもの』と『主張の分かりやすさ』って分けられるのかなあ? あと、分かりやすさといっても色々あるはずで。理屈が分かりやすいとか、感情的に分かりやすい(受け入れやすい)とか。そもそも、『分かる』って何だろう?

二人:「あああああ(頭を抱える)」
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 掲示板の方で「分かりにくさ」の話をしてたのには、こういう背景があったりするような。


掲示板でのDALさんの言葉を承けて、大澤真幸氏の文章を読みつつ「責任」について、もごもごと考える。「責任を感じる」ことと「責任をとる」こととの間の距離とか。

 何となく、こういう例を思いついた。ストーキング行為の加害者(現在収監中)と被害者との会見。
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加害者:「ああ、僕は貴方にとても酷いことをしてしまった。僕はどうしたら貴方に償いをすることができるのだろうか」

被害者:「…いや、俺に対して何かしようと思わなくていいから、大人しく刑務所に入っててくれ。刑務所から出てきてからも、俺に近づかないでくれればそれでいいから」

加害者:「ああ、『貴方の周囲100メートル以内に近づくな』という判決のことは十分に理解しています。だから僕は、直接貴方に近づくことなしに貴方への罪を償わなければならない。それはとても難しい。でもやらなければ」

被害者:「…だからさ、お前が俺のことをきれいさっぱり忘れてしまうことが、俺にとっては一番望ましいんだってばよ。マジで」

加害者:「それは無理です(きっぱり)。だって僕の存在すべては、貴方を前提としているのですから。だからどうか、僕に罪を償わせてください」

被害者:「……(頭を抱える)」
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12月19日(金)  (無題)
 忙しい。
某所。
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何が言いたいんだこの馬鹿は。
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 ええ、まったくです。自分でもそう思います。


12月18日(木)  (無題)
 優、誕生日おめでとう。

掲示板2の方で、長々と(主に引用を)書いてたりしますよ。

買ったもの。
・天野こずえ「AQUA(新装版)」(1)(2)
 …表紙がすごくエロいんですが。どうしたものか。

・雑誌「大航海 No.49 特集:ファンタジーと現代」
 雑誌「InterCommunication No.47」
店員「では、二冊で合わせて、税込2,900円になります」
 …きゅう。高いよ。


12月13日(土)  宮台真司。滝本竜彦(続)。シャカイ系(終)、「それなりに」 ⇒<感想
宮台真司氏の「社会学からの全体性の脱落に抗して、いま何が必要なのか」を読んだ。
 おお、宮台氏の方向性が何となくわかったような気がするぞ。…ところで何だろうな、この不快感は。

 普段、僕がここで書いている文章からすると、僕はナイーブに「真理の言葉」を求めている人で、それゆえに、宮台氏の言葉に苛立っているという風に思われているのかもしれない。
 僕が「真理の言葉を求めている」のかどうかは、今のところ僕自身には何とも分からないのだけど、ただ、僕の学問的なバックボーンは一応、システム理論と「制御の学」で(半端者でヘタレなので、あまり口にはしたくないんだが)、むしろそれゆえに宮台氏の文章に苛立っているのだと、自分では思ってる(思いたい)のだけど。
 何だろうな。一つには、宮台氏の言う社会システム理論は、どこかでシステム理論のもつ数量的要素を骨抜きにしているような気が(何となく)するからかなあ。氏の「機能的相対化=梯子外し」がそれこそ機能を発揮するとしたら、それはその「骨抜き」を隠蔽したところに成立するような気がするわけで。…何を言ってるのか自分でも分からなくなってきたな。
 付随して言うなら、宮台氏のこの文章には、システム理論が元来持っているはずの、領域横断的な楽しさというのが感じられなくて。宮台氏からすると、その楽しさは「真理の言葉によって、全体性を志向する」「弱者のカタルシス」に依るものなのかもしれないけれど、でも、その楽しさを抜きにしたシステム理論って、ねえ?

ところで、
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2ちゃんねる的な梯子外しが嫌がられるのと全く同じ理由で、機能的分析の達人は、いわゆる「真理くん」たちに嫌われる。
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らしいのだけど、機能的分析の達人たちどうしでは、どのように議論を進めていくんだろうか。梯子外しバトル?

あと一つ。
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■かつても今も、制御の学といえば、全体性と無縁の部分学──対症療法的な学問──だと思われてきた。制御の学の泰斗といえば、知識人というよりエキスパートに過ぎないと思われてきた。
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うーそーつーきー。


別の話。前回、滝本竜彦を読んで寝言を書いたところ、それを読んだ人から問い合わせがあった。
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「久弥と麻枝っていう対比は面白かったです。でも、その対比って単にヒロインが、片方が舞でもう片方が栞ってことだけじゃないんですか?」
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 えーとね。それだけじゃなくて、両作品の解決の仕方が対比を為してるように見えるのです。
 久弥というひとは、割に、女の子と、対等な立場に立って分かり合うことを求めているようなところがある。信じられないひとも居るかもしれないけど。たとえば、ONEにおいて久弥主人公の「えいえん逝き」というのは、ヒロインたちの抱える「事情」と釣り合いをなすかのように描かれるわけで。
 で、「NHK」のクライマックスにおける、主人公の行動がこの辺りと重なるように僕には読めてしまう。主人公はヒロインの悲劇に対して対等に立とうとして、そして追い越してしまう。

 一方、麻枝というひとにはとっては、主人公とヒロインとの関係はそもそもが非対称的なものなわけなのだけど、うーむ。…麻枝というひとについては上手く書くことができないので、また今度。つーか麻枝氏に関しては他に良いページがあるんだから、そっちを参照してください。


また別の話。赤毛娘のとこ。
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”シャカイ系”なんて煽りに決まってんじゃん。そらセカイ系じゃない作品はなんでも放り込めるさ。
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 あー、僕も、貴女の発言をダシにして好き勝手なことを言いたかっただけだからなあ。あと多分、僕はこっちよりも電脳鯨館に対して何かを思って、それで書いたんじゃないかな。

 ちなみに僕は、その唯物論的条件とやらが「実際には」どうだ、とかいうことを話したいわけじゃない。僕が話したいのは、その唯物論的条件とやらを見つめる視点や視線のありかたとか、そーいった話だ。

 たとえば「オタクは恋愛活動から逃避している」みたいな、ある種のオタクバッシングを考えてみよう。バッシングするひとの中では、2つの要素が微妙に心理的に対立していることが多いように見える。
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1)一方では、「モテというのは努力して勝ち取ってくるものだ。オタクはその努力から逃げ出している。弱虫だ!」という気持ち。
2)だけどその一方では、こうも思う。「このキモいオタクが、どんなに努力したとしてもモテるようになるということは、どう考えてもありえない。つーか、このキモい生物がモテることがあってたまるものか!」
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 つまるところ、バッシングしているひとにとって我慢がならないのは、キモいオタク(と彼ら彼女らには見えるひとたち)が、自らのキモさを自覚せずに、あるいは、自覚しているのにも関わらず、楽しく生きているように見えることなわけで。
 だから、バッシングしているひとの説教のメッセージというのは、実際には次のようなものになるのかもしれない。
「努力しろ! そして、努力した結果、自らがキモくて社会的序列が低い生物であることを思い知れ! 思い知って十二分に苦しめ!」
 ここにおいて「シャカイ」は、キモいオタクに関する嫌悪感を自分に代わって代弁してくれ、裁きも与えてくれるような、そんな便利な装置ではある。

 こう書くと、「えー、俺はキモオタが絶対モテるようにはならないなんて言ってないよ。誰だってきちんと努力すればそれなりにモテるようになるってば。だから2)は違うね」と思われる方もいらっしゃるのではないだろうか。
 そういう方に言うとしたら、貴方のその「それなりに」というランク付けの仕組みを、まさに僕は問題にしているんだってことで。


12月6日(土)  滝本竜彦を読んだ。寝言。シャカイ系。私信。⇒<感想
 まだまだ忙しい。ううううう。こっち(このサイト)での宿題も片付けなくてはならないのだけど、考えをまとめる余裕が無い。アップロードできない断片的な文章ばかりがハードディスクに溜まっていく。

にもかかわらず、滝本竜彦「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」「NHKにようこそ!」を読んでしまった。挙句に、この2つの違いについて考え込む始末。現実逃避にも程がある。

 で、寝言を言うよー。
「ネガティブハッピー〜」:麻枝成分が優勢。
「NHKにようこそ!」:久弥成分が優勢。
なのかなあ。
 「ネガティブハッピー〜」の方が、色々と妙な話なので気にかかる。一方、ヒロインは中原岬嬢の方が好み。契約書を作ってきて甲だの乙だの言っている辺りが、情けない話だけども、その。パロディじみた中に本気を混ぜてくるやり口に、栞のことを思い出した。
 続きは、また今度。

雑誌「九龍」に載ってた、滝本竜彦インタビューをぱらぱらと読んだ。「ゴセシケが印象に残っている」「ドラえもんで漢字の読み方を覚えた」だって。…こんなやつばっかりか。
 滝本竜彦が作中で描く閉塞感と「ドラえもん」との関わりというと、どうしても加藤秀一さんの「追悼・藤子・F・不二雄」を思い出してしまうわけですが。


少し別の話。赤毛娘のところ。
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人はそれぞれ所与の唯物論的な条件の中でしか生きられないので、対世界的に有意なパワーを誰もが得られるわけではない
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って、君の言うシャカイ系とやらの人たちも強調したいのではないかなあ。
 ほら、アレだ。機会の平等というやつで、「お前は自らに与えられた(所与の唯物論的な)能力を用いて、シャカイの中で闘いぬけ」っていうのが、シャカイ系の人たちは好きそう。それで自分は通ぶった観客よろしく、闘技場での闘いを上から眺めては、あれこれと論評するわけで。村上龍や馳星周のサッカー批評みたいな感じでさ。
 僕にとってはシャカイ系って、「学歴社会に支えられた一億総中流幻想」というよりも、「個性を重視して、知識・感性重視型社会における国際的競争力を!」みたいな印象を受けたのです。
 「ジョジョの奇妙な冒険」(第4部以降)や「HUNTER×HUNTER」などの、いわゆる属性バトル的なものと、シャカイ系の人たちって相性が良いような気がするのだけど、どうだろう。


私信。
 3月の長野県ツアー。おずおずと挙手してみたいのですが。で、問題は僕がそのアニメを全然見てないことで(←えー)。





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