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【2003年11月】

11月29日(土)  「寄り添う」。背景音楽、社会学、探偵小説。⇒<感想
 まだ忙しい。現在、三浦半島は葉山に、1泊2日の出張中。もっと暖かい時期だと良かったんだけど。

sayukさんのところ。
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だとすればそれに対するものとして、それぞれの線に寄り添うような「漸近(close)的理解」というものがあって、僕や僕でない人が「私はそれじゃない」の砦から少しでも首を出すとすればそういうものに対してなのかもしれません。
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 …寄り添う。うーむ。
 僕が引用した、松谷氏(矢沢あい作品が好きだという女の子に振られたそうな)の文章や、松谷氏が元にした鈴木謙介氏(矢沢あい作品が好きだという女の子に振られたそうな)の文章、そして内田樹氏(離婚経験あり)の文章というのは、いずれも、ある意味で「女の子に振られたので、どうしてそんな目に遭うことになってしまったのか考えた」文章なわけで。「もう、寄り添う(?)ことが出来なくなってしまった」対象を、振り返って分析しているような。

 ちなみに内田樹氏には、こういう、著しく身も蓋もない文章が。
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【フェミニストたちはかつては本当に輝くように魅力的な存在だった……】
 おじさんたちが若い頃、「いい女」はだいたいみんなフェミニストだった。だからもちろんおじさんたちはフェミニズムを断固支持した。当たり前だよね。「いい女」と仲良くするというのは「ストリート・ファイティング・キッズ」にとって人生における最大の目標なんだから、自余のことは論ずるに足りない。
 そうやっておじさんたちは「いい女」とわりない仲になった。しかし、おじさんたちはフェミニストと「家庭を持つ」ということがどのようなカタストロフをもたらすのかを知らなかった。そして、ほとんど例外なく、ぼろぼろになって中年を迎えることになった。どうして、刺激的で知的でエロティックで幸福な前代未聞の開放的な男女関係をもたらすはずの「イズム」がおじさんたちにこんな酷いしうちをしたのか、その理由がどうしても分からなかった。
 オレたちが何をしたっていうの?
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たそがれSpringPointの11月27日
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ところで、映画やドラマの背景音楽は、一般に登場人物には聞こえないという特徴を持つ。背景音楽は虚構作品の構成要素でありながら虚構世界内には存在しない。いや、こう言ってしまうと、虚構作品が表現する"虚構世界"という存在者にコミットすることになり、虚構の存在論を巡る厄介な議論に巻き込まれてしまうおそれがあるので、あまり好ましいことではないのだが、今はそのような形而上学的問題には目をつぶって先に進むことにしよう。
(引用者略)
この着想をさらに進めて、ミステリのルールの話題に持って行きたいのだが、残念ながら、まだうまく話を繋げることができない。というか、先ほど目をつぶった形而上学的問題を検討しないと先に進めないので、手をつけかねているというほうが正しい。
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 文脈を全然読まずに、思いついたことをメモ。
 いわゆる歌劇、ミュージカルやオペラでは登場人物が自分で歌いだすので、事態が色々と複雑だと思った。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」とか。
 「大澤真幸社会学入門」の第2章「社会学的憂愁」で書かれているような「形式と内容の断絶」⇒「ロマン主義的絶望」⇒「社会学的憂愁」という流れと関連するような、「近代が可能にした小説ジャンル」としての、ミステリやSF。「探偵小説の社会学」。
 やっぱりアレか。フーコー「言葉と物」を読まなきゃならんのか>俺。


関係ないが、ラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」についてジジェクが語るというのは、あまりにも「そのまんま」な気がする。

fairaさんのサイト名ってここから?


11月27日(木)  「慶応SFC授業課題」解答編。⇒<感想
 まだ忙しい。水曜例会にも行けず。ううう。

前回の「慶応SFC授業課題」。多くの方が挑戦してくれた(くれている)ようです。感謝。僕が解いたやり方は見月さんと同じです(詳しい解説はこちら)。なかなかに美しい問題だと思います。

 偉そうなことを言うと、僕自身が解いたときには「カードの内訳とその『並び順』だけで伝達可能」という確信がいまいち持てなかったので、そこが一番辛かったかも。「原爆の製法ではなく、『原爆が製造可能』という事実自体をアメリカは隠蔽した」というか。


第1回スクエア・エニックス小説大賞
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 ズラリ並んだ描き下ろしのキャラクタービジュアルデザインA〜Fからひとつ(重複せずにひとつだけ)を選び出し、そこから想像される人物・世界・設定を作って書いてください。キャラクターの名前・性格・設定は全部自由!世界や作品ジャンルも全部自由!! ビジュアルデザインの印象を最大限引き出した作品や、あるいはビジュアルデザインからは想像もつかない作品を、とにかく自由な発想で創り出してください!
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 …開き直った応募規定だなあ。途中から連呼される「自由」という言葉が浮いていて面白い。


11月25日(火)  パズルその2:「慶応SFC授業課題」⇒<感想
昨日に引き続く現実逃避パート2として、慶応大学SFCで行われている(らしい)授業「情報リテラシー」の第1回課題を解いてしまう。

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授業で触れたトランプの手品のタネを考えてくる
どうやったらその一枚を選ぶことができるか考える

トランプの手品は以下の通り:
マジシャン、助手(アシスタント)、観客がいます。
観客が52枚あるトランプから5枚任意に選びます
助手はその5枚から4枚をマジシャンに見せます
マジシャンは助手が見せなかった1枚をあてます

アシスタントはあらかじめ5枚のカードから隠した1枚を除いた4枚を使うことで
マジシャンに伝えるすべをマジシャンから教わっています
その方法を考える
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 出題のままだと、少し条件が曖昧にとれてしまうので、
・「助手がマジシャンにカードを見せる際、マジシャンに分かるのはカードの内訳とその『並び順』のみ
という付加条件を付けて解いた。要するに、カードの縦横や重なり具合などで(はたまた目配せとかで)マジシャンに情報を教えることは出来ないということ。

 昨日紹介した「小人のパズル」よりも少し面倒かも。「あと1ビット」が足りなくて、ついつい目配せに頼りたくなってしまうかもしれないですが、そういうのがなくても一応解けるはずです。
 解答ですか? …書いている暇が無いので、明日以降にということで(←えー)。誰か他に解いてくれた人が書いてくれるのを期待。


11月24日(月)  「小人のパズル」。メモ。解答編。⇒<感想
 忙しい。ううう。溜まっているお返事は、木曜日以降になると思います>各方面。

現実逃避として、とあるページ経由で見つけた、「小人のパズル」を紹介。良い雰囲気。解答は、この下↓のほうに。
 条件をいくつか、補助的に追加しておくと
・「答える順番」は事前に決定しておく(途中で、動的に変更することはできない)
・「肩を叩く」などの追加メッセージは不可。
ということで。

埋め草として、メモを。「あたしが欲しいのはこれじゃないの」関連。

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狂気を装って徴兵を免れようとする男についての小話である。彼の症状は、手に触れるすべての紙を強迫的に検査し、「これじゃない」と叫ぶことだ。彼は軍の精神科医のもとに送られるが、診療所でも彼は「これじゃない」と叫びながら、あらゆる書類を片っ端から調べ、されにはゴミ箱のなかの紙屑まで調べる。これは本当に狂っていると確信した精神科医は、男に徴兵免除のお墨付きを与える。男はちらっとそれを見て、うれしそうに言う。「これだ!
 やっと見つかったこの紙切れ――徴兵免除証明書――は、ラカン的な意味での対象の地位に置かれている。なぜか。なぜならそれは意味作用ともったテクスチュアそのものによって生み出された対象だからである。それはいわば、それをめぐる大騒ぎの末に出現した対象である。「狂った」男は何かを探している振りをし、その探索そのものによって、また繰り返される挫折(「これじゃない」)によって、自分が探しているものを生み出す。したがってここにおける逆説は、探索という仮定そのものが、その原因である対象を生み出すということである。これはラカンのいう欲望とぴったり平行している。ラカンによれば、欲望はおのれ自身の目的−原因を生み出す。精神科医を含め、徴兵を免れようとする男のまわりにいるすべての人びとの誤りは、自分たちがすでに「狂った」男のゲームの一部であることを見落としていることだ。彼らは自分たちが客観的なメタ言語の距離から彼を判断していると思い込んでいる。

(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」p.244-245)
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 同じ本から、もう一箇所。
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――ヒステリー的な神経症者は待つことに堪えられず、焦りまくり、「自分を追い越し」、この短気のせいで欲望の対象を捕まえそこなう。あまりに性急にそれを捕まえようとするからだ。一方、強迫神経症者は対象との出会いを無限に延期できるような一大システムを作り上げる。決定的瞬間はけっして来ないのである。

――ヒステリー的神経症者にとっては、対象はあまりに少ない快楽しか与えてくれない。どの対象に対しても、彼は「これはあれじゃない」と感じ、そのために彼は正しい対象に到達しようとますます焦る。それに対して強迫神経症者の問題は、対象があまりに多くの快楽を与えてくれることである。対象の過度の充溢のために、対象との直接的遭遇は堪えられないので、彼は遭遇を先延ばしにする。

――ヒステリー的神経症者は、「自分が本当は何を欲しているのか、わからない」と感じたとき、欲望に関するその疑問を他者に、すなわち彼にとって「知っているはずの主体」を具現化しているものに向けるが、強迫神経症者は疑念に苛まれる。彼は決めることができない。つまり彼は疑問を自分自身にぶつけるのである。

 しかし、よく見てみてみれば、対称的に対立しているという印象が間違いであるということはすぐにわかる。
(略)
過度の快楽には堪えられないにちがいないという恐怖心から、強迫神経症者が対象との出会いを先送りすることは、対象にたいする失望を避けるための洗練された方法にすぎない。つまりそれは、対象が「あれとは違う」のではないかという予感を隠蔽しているのである。

(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」p.290-291)
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以下、「小人のパズル」の解答編。背景色偽装でお届けします。
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0: まず、各色と数字を割り当てる。たとえば、赤=0,青=1,黄=2という感じ。
1: 100人目の崇高な犠牲者が、彼の前99人の帽子の色を数字に変換した後、数字の総和をとる。総和を3で割った余りの数字を色に戻して、その色を叫んだ後に幸運を祈る(運が良ければ、彼は助かる)。
2: 次に99人目の小人が同様に、彼の前98人の帽子の数字の総和をとって、3で割った余りを求める。100人目の小人が叫んだ色=数字と、彼の求めた余りの差をとることで、彼は自分の帽子の色を知ることが出来る。
3: 次に98人目の小人が、100人目と99人目の叫んだ色をヒントにして、前97人の…、以下繰返し。

 色⇔数字という符号化と、「余りをとる」という操作がポイント。暗号技術の初歩の初歩といった話でもある。コメント欄で結城浩さんがまっさきに「解けました」と書いているのが納得と言えなくもない。
 トリックは割にシンプルだけど、問題文への埋め込み方が見事だと思うです。

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11月20日(木)  児童ポルノ規制法、メモ、深夜外出規制条例、オメラス。⇒<感想
 忙しい。ううう。

児童ポルノ規制法云々に関する高橋氏野嵜氏のやりとり(⇒ほつま氏によるまとめページ?)。久しぶりに覗いてみたら、少し荒れ目に終息してた。
 二人のやりとりは、問題となっているようなポルノ作家たちの作品テーマと、「法律による表現の規制」というテーマとが、ある意味、妙な具合に関係しているように思えて、そこが面白かったのだけど。

 高橋氏が書こうとしているような作品のテーマを一言でまとめると「サディズム」になるのだと思う。で、このサディズムというのは、そもそも権威主義的というか、ある種の普遍的なものを目指すジャンルであり、説教くささポイントがかなり高いように僕には感じられるわけです。「人間的な道徳や愛情など、非人間的な自然法則(暴力、薬物、…etc)の前では無力だ」「人間なんて一皮剥けば、どいつもこいつも一緒だ(←そりゃそうなんだが…)」とか、そんな感じの。
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「自然界はあらゆる生物をこの世に送り出して破壊し、そして再び再生するのを楽しみにしているのだから……自然界に大いに役立つためには、できるだけ力を尽くして完全な破壊を目指して努めなくてはならない」
 サドにとって「自然」とは、世界についての根本的な説明原理である。創造と破壊の循環として把握される自然の法則は、われわれ有機体を命あるものとして生み出す一方、あとは有機体が破壊されるまで無関心である。そして生きた人間が参加するのはこの破壊の過程だけであり、われわれはあたかも隕石が落下していくように、死へと向かって「運動」するだけの存在として示される。そしてそこにこそ、人間の自由がある。つまり死に荷担し生を破壊していくことで、普遍的な自然の真理と一体となるような自由である。
(「フロイトの神経症論と道徳」第二章中、「悪徳の論理」から)
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 で、この「道徳/自然則」の図式が、「道徳/律」という図式というか「法律とは何ぞや」という論点と微妙に重なり合う。そこが面白いのだけど、うーむ。どう面白いのか上手く書けない。

 一方の野嵜氏のページ。野嵜氏の意見を僕は上手く読みとれていないのだけど、野嵜氏が時々見せる「日本人的思考」への苛立ちあたりから野嵜氏の思考を推測してみる。
 たとえば、日本社会が「建前/本音」という二重構造/二重基準を簡単に受け入れてしまうこと。さらには、この建前と本音の乖離を、人間関係の運営手段(たとえば、「今日の呑み会は本音大会で行こうぜ」という発言は、実のところ「悪口大会で行こうぜ」というのと、ほぼ同義だったりする)として積極的に利用してしまうこと。喩えて言うならば、野嵜氏はこのようなものに腹を立てているひとなのではないかと、僕には感じられた。
 高橋氏が望む状態というのは、野嵜氏からすると「法に護られた状態で、心置きなく安心して不道徳的なものを書く」ような二重基準的なもので、そこが野嵜氏には許し難いのかもしれない。

おまけメモ1:「アメリカと D. H. ロレンス
おまけメモ2:「たくさんの地球というおはなし」(リベラリズムとリバタリアニズムの境界線)
おまけメモ3:ふと見つけた他所様のメモ。激しく面白い。法と道徳の関係とか。


別の話。微妙に関係するかもしれないけど。横浜市の「青少年の深夜外出規制条例」に関して。
 この問題に関する意見のなかで、規制に反対する根拠として「衛生的に過保護に育てられた人間は免疫が発達せず感染症にかかりやすくなってしまうように、道徳的に過剰に潔癖に育てられた子供は、むしろ犯罪に巻き込まれやすくなってしまうのでは?」というのが幾つかあった。 

 少し思ったのだけど、この意見の中には「良き国民を育てるために、国家(あるいは何かしらの共同体が)が悪徳の量を多すぎず少なすぎずコントロールする。そして、悪徳をもってして国民を教育する」という考えが、幾分かは含まれてやしないだろうか?
 国家が、罪に対する罰としてではなく、訓練・馴化の手段として積極的に悪徳を国民に用いる、というのは随分と嫌なことに僕には思えるのだけど。どうだろう。
 つうかアレだ。「オメラスから歩み去る人々」(←くどいね、俺も)って、まさにそういう話だよなあ。

「えーとさ。過保護に扱われることで、子供たちの自己決定能力が奪われることが問題なわけでさ。別に、その『悪徳』とやらを子供たちに注入したいわけじゃないよ」
 あー、うん、そうかもね。こういう問題になるのかなあ。
 少しヘンで的外れっぽいことを言うと(前に話したことの繰り返しなんだけどさ)、オメラスの人々って、オメラスの町に残り続けるか、それとも荒野に旅立つのか、っていうのを完全に自分一人で決定するんだよね。その点において彼らは、ある意味「自律した、よい個人」と言えなくもないのかも。でも、彼らがどうやってその決定能力を得たかっていうと、まさに、あのトラウマを体験させられたことによる心理的断絶が契機なんだよね。


関係ない話。「旅する読書日記」の9月15日から。
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 舞城に酷だったのは、ぼくが『九十九十九』を読んでいる途中から、飯田隆『言語哲学大全1 論理と言語』(勁草書房)を読み始めたことだったかもしれない。舞城がどんなに言語実験を繰り広げて見せても、飯田隆の懇切丁寧な解説によって解きほぐされるフレーゲとラッセルの言語論の徹底した突き抜け方にはとうてい叶わないと思った。
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 あはははは。ひどいこと言ってません?(←褒めてます)。


moyu at hatenaから言及が。返答は少し待たれよ。

私信。英語で発表はやらずにすむようです。どうやら、伝達ミスがあったようで。一安心。


11月14日(金)  メモ。有権者の疎外感。「あたしが欲しいのはこれじゃないの」⇒<感想
 引用をとりあえず並べてみた。長いよ。

っと、その前に前回、「色々な意味で泣ける」と書いたことの説明というか補足を一つ。
 このページの著者の方は、「恋人としてというより、むしろ一人の友人として」自分の彼女に、自分探しのキリの無さに関して説いたのかもしれない。
 けれど、彼女にとって彼の発言は、あくまで、年上の恋人からの忠告という枠組みの中のものでしかなかったのかも。彼の忠告に納得してしまうことは、結果的に彼女にとって、「彼との恋愛関係を維持し続けなければならない」ということを意味してしまうのだから。
 それゆえに彼女は、彼の忠告を分かってしまうわけにはいかなかった、のかも。


今日の朝刊(朝日新聞2003年11月14日。15ページ左上)に大澤真幸氏がコメントを寄せていた。
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 比例区で民主党が第一党になったのは、同等が「だれも私を代表していない」という疎外感を代表することに成功したからであろう。
(引用略)
 小選挙区で敗れたのは、政治家の顔が特定されない「可能性」としてのみ、民主党が支持されたからだろう。具体的な政治家や政策が現れる小選挙区の場面では、かなりの人が支持に踏み切れなかった。つまり民主党の「現実性」は支持されなかった。
 この傾向は民主党にのみ表れているのではない。民主党のマニフェストにせよ小泉首相の改革宣言にせよ、人々は「今までのメニューはやめます」という否定的なメッセージには反応するけれど、実際の新メニューを見ると「本当に欲しいものじゃない」と冷めてしまう。
 こうした疎外感が深まるのは、有権者自身が「自分が何を欲しているかわからない」からでもある。だからメニューを見ても、そのうち一つに絞るための決め手が見つからない。疎外感は受け皿を見いだせず、漂流している。
(引用略)
しかし、都合良く「本当に皆を代表してくれるもの」など、戦前の天皇制を含めて基本的には虚偽だ。「これぞ求めていたもの」という完全な満足感や一体感をくれるものがあったら、むしろ警戒すべきであろう。
(引用略)
 疎外感の漂流は必ずしも悪い状況ではない。現実性でなく可能性を指示する選択にしても、「願望を無理に現実性に転じるよりは可能性として保持し続ける方がよい」という見識がありえる。「欲しいのはこれじゃない」という欲求不満の中から、「私たちには別の可能性がありえる」というプラスの姿勢をくみ出す工夫が、政治に求められている。
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リリカの仮綴じ〆から。
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ハロウィーン・パーティーで知らない男性に襲われかけたって話を聞いた。会場でバスルームの場所を聞いたら別の部屋に案内されて。むりやりkissされた、という程度なら何度聞かされたかわからない。
スーフリ事件に近い出来事がこちらでは日常のひとこまといっても過言じゃないくらい。
でもそういう被害を受けた子たちが、また次のパーティには、いそいそと出かけてく。期待を隠し切れないって、うきうきとした表情で。「もっとセクシーになりた〜い」とか言いながら。
そうして、帰ってくるとまた怒ったり泣いたりしてる。
「ダンスの相手がTシャツの下に手を入れてきた」
「他の男に代えたらまたその子も…」
「パーティーで会う男なんてみんなsex目当てなんだよー」
じゃあ、女の子たちはいったい何を期待して行くんだろう?自分をより魅力的にセクシーに見せようとがんばっておしゃれして。
パーティーに来る男の子たちが、何かを期待してしまうことも、それ自体は無理もないとおもう。だからといって、襲われた女子のほうにも落ち度がある、とは考えたくない。
たぶん、男女のあいだで、期待の中味がちがうんだよね。
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内田樹氏の2002年6月8日(の最後の方)から。
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「女が何を欲しているのか、私には分からない」と言ったのはフロイトである。
フロイトはつねに正しい。(つねに正しい人が世の中にいるのは、実にたいへんにありがたいことである)
「女は何を欲しているのか、ウチダにも分からない」
もちろん、女性自身も「自分が何を欲しているのか」は分からない。
What does woman want? というのは男たちだけが発する問いかけであり、その答えも男たちが自分で考えないといけない。
そして、当然ながら、男たちの出す答えは、つねに間違っているのである。
でも、間違っていてもまるで構わないのである。
というのは、女が望んでいるのは、「自分が何を望んでいるか」を言い当ててもらうことではなく、「彼女は何を望んでいるのか」と自問して、さまざまな贈り物をするのだが、そのたびに「あたしが欲しいのはこれじゃないの」とつれなく拒まれて、呆然と立ち尽くす男の瞳に浮かぶ「女が何を欲しているのか、私にはどうしても分からない」という底無しの無力感の色を見て取ることだからである。
「女が何を望んでいるのか、男は決して分からない」ということが分かった男の絶望。
間違いなく女はそれを欲している。
ウチダが半世紀生きてきて、女について分かったのはそれだけだ。
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11月10日(月)  セグウェイを自作しよう。芸術の説教くささ。⇒<感想
セグウェイ自作ページ
 素敵。速度調整アルゴリズムが具体的に載っているのも、大変に宜しい("Putting it all together"の段を参照)。

僕は創作活動と縁が遠いせいか、芸術肌のひとの考えることが、あまり良く分からない。
 あるタイプの芸術肌のひとが、「道徳家が説教くさいことを言ってる。ムカつく」とか罵っているのを、ときどきwebとかで目にすることがあるのだけど、そもそも僕にとって、何らかの作品を創作してそれを不特定多数に公開するという行為というのが既に、一種の説教くささというか、押し付けがましさを伴うように感じられてしまうのですね。
 あと、たとえば「芸術家は美の奴隷だ」みたいな台詞とかって、随分と説教くさいと思いません?
 その、何だ。「説教くさくするな」とは言わないけど、せめて、自らの説教くささに関しては、ある程度自覚してほしいなと思わなくもないです。

つくづくと己の思考は中学生レベルじゃないかという気がしてきて落ち込む。

今週のゴルゴ13は色々な意味で愉快なので、ビッグコミック誌をチェックすると吉。…「軌道上狙撃」をもう一度?

メモ
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 ただ、そういうイノセンスの持つ困難さとは、上に書いたように、自分探しのキリの無さと似ている。「本当に好き」というのは、「本当に『本当に好き』」、「本当に『本当に[本当に好き]』」……、というふうに、無限後退していく可能性を常に孕んでいる。僕は、それが恋愛だけでなく、さまざまな場面で見受けられる彼女のことを本気で心配していた。そしてそれに「諦めろ、諦めろ」「間主観性という概念もあるよ」というようなことを遠回し説明して説得しようとしたが、結局はダメだった(そういえば、ゴフマンのFrame Analysisを応用して、「本当の自分」というものが現象する仕組みとそのパターンが発生する仕組みについて、わかりやすーく説明した記憶もあるナァ)。
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 色々な意味で泣ける。


11月8日(土)  「Kluster」(モスコミューン出版部)に一つ言いたいこと。⇒<感想
そういえば、文学フリマに行きそびれたのだけど、後日、知人に会場で売られていた本を幾つか見せてもらっていたのでした。
 で、事前の注目度が高かった「Kluster」。軽く目を通しただけなので記憶も曖昧なんですが、一つだけ言わせてください。

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「はてな」を支援するつもりならば、「有限会社はてな」の経営状況に関する不確かでネガティブな憶測を冊子に載せるべきではないと思いますが?
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 具体的には、6ページ下段。分量的には1,2行と僅かですが、そこそこに酷いことが書いてあったように思います。あの部分を読んだとき、貴方たちが何をやりたかったのか、僕には一瞬分からなくなったですよ。


11月7日(金)  「神は沈黙せず」(読んでません)、「謎に魅せられること」 ⇒<感想
読むつもりがない(というか、読みたくない)くせに、山本弘「神は沈黙せず」(角川書店)が気になって困る。「人工知能/人工生命系の描写はほとんど誤りはないと思う」という感想を読んでしまったからなのだけど。
 山本弘というひとが面白いのは、いわゆる「トンデモ系」を熱心に叩く一方で、彼本人の文章や作品には、どことなくトンデモ系の印象が感じられてしまうことで。具体的に「論理が変」とかそういうのではなく、文体や断言のスタイルがそういう印象を醸し出しているのだと思う。

 多分に山本弘というひとは、「分かってしまいたい」ひとなのだろう。たとえば彼が、
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 2010年代という近未来を舞台にしていますが、これは未来予測を意図した小説ではありません。
 なぜなら、未来を正確に予測することなど誰にも不可能だからです。
 あなたは10年前(1993年)、インターネットがこんなに普及すると予測していましたか? 100Mbpsなどという転送速度が10年以内に実現すると思っていましたか? 
(略)
 そう、10年先がどうなるかなんて、誰にも分からないのです。
 ですからこの小説では、「正確な未来予測」という幻想をきっぱりと捨て、読者の予想を裏切る未来、「そんなことはありえない」「たった10年でこんなに変わるわけがない」と思える未来を構築することに全力を傾けました。
 なぜなら、未来とは「そんなことはありえない」と思えるものだからです。
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と、自らのサイトで公言してしまうとき、彼は、「未来は分からないものだー!『そんなことはありえない』と思えるものなのだー!」と全力で叫んでるように僕には見えるわけで。
 まさにその点において、山本弘は「トンデモを信じ込みやすい」ような気がする。で、おそらく彼自身もそのことを自覚していて、彼自身がトンデモにはまらないために「と学会」の活動を行っているのではないか、という気もするのだ。

 ここら辺の話は、前回書いた「謎に魅せられること」とかそういうのと絡めて書けると思うのだけど(山本弘がいつも「具体的な敵」を想定して作品を書くこと、に関してとか)、余裕がないので後回し。ううう。

 ところで、乙一とかいうひと(読んだことないけど)は、山本弘ファンなのだとか。すると、かつてジャンプノベル大賞だかで同時に若手デビューした二人に「好きな作家は?」と尋ねると、片方が「山本弘」、もう片方(小川一水)が「笹本祐一」と答えることになるのか。…うーむ。


前回の続きメモ。ちなみに東浩紀氏に関する項目は、東氏の著作を読み返すことなく書いているせいもあって、色々と適当です。信じないよーに。

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・「で、その『謎』って解けるの?」:「謎」に魅せられることで恋が成り立っているとき、謎が解けてしまうことによって、恋自体が消滅してしまう可能性も。
 恋愛の謎というのは「解こうとしても解くことができず、魅せられ続けるもの」ということが、世間様においては、しばしば言われるようだ。

・萌え:この言葉に関しては、世間の皆様が各人各様に適当な使い方をしているので、俎上に載せるのが難しい。恋や愛と、萌えとは別のものだとされることが多いようだ。
 東浩紀氏が使う「萌え」は、「属性萌え」とやらを中心に置いていることから、対象を確定記述の中に押し込めた状態で愛でるという意味合い? 彼の言う「萌え」には「謎に魅せられる」という要素は含まれない、のだと思う。

・ところで、「萌え」を説明するのに「幼児や小動物を見て『可愛い』と思うのに似ている」という表現がされることが多いのだけど、そこに「謎に魅せられる」要素が無いのかというと、…どうだろう? 色々難しい。

・こういう話をすると、(少し古い話になるが)一時期の女子若年層における「カワイイ」ブームは何だったのか、という話がやってくる気が。少しグロテスクな外見をしたマスコットを、「きゃー、カワイイ」と愛でていたアレ。
 よく知らないが、いわゆるゴスロリ系不思議少女の所持する、グロテスクでファンシーなアクセサリって、あれは「カワイイ」系の再来なのか?

・ノベルゲーム系のギャルゲー、エロゲー:ある意味で、「謎を解く」アドベンチャーゲームの後継者、ではある。問題は、世界の謎と、娘さんの(あるいは恋愛の)謎、その両者がどのような配置にあるかということ。

・よく言われる話ではあるんだが、簡単に解かれうる「謎」としてのトラウマ描写と、その一方での、理解できない不気味な存在としてのサイコパス的キャラ描写の、世間での流行。あるいは、「自分探し」。

・「謎」を扱うジャンルとしてのミステリにおいて、恋愛はどう描かれるか。世界の謎と娘さんの謎との配置。…詳しい人に訊こう。

・一方で「すこしふしぎ」方面のSF要素+恋愛、というジャンルではどうか。具体的には「涼宮ハルヒ」「成恵の世界」とか。

・つーか、滝本竜彦でも読んでみたら?>俺。
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11月5日(水)  行けませんでした。中の人。不思議少女。⇒<感想
忙しい。AMCにも文学フリマとやらにも行けず。ううう。
 とある縁で知り合った方に「スターシップと俳句」を譲っていただくことになっていて、受け渡し場所を文学フリマ会場にしていたのだけど、それもすっぽかしてしまった形に。本当に申し訳ないです。
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 たとえば、桜舞い散る下で、気の狂った日本人たちが、破滅していくありさま。鯨が自分達の祖先だと分かって、親殺しの恥に、次々と自殺をはじめる人々…。死の使い黒サムライ、死を促すカブキ、死の国シコク。
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 …しかし面白そうだなあ、「スターシップと俳句」。釣り逃した魚は何とやら、の気分。


私信というか。
 あー、僕も「新月ほにゃららの中の人」ではありませんので、その旨てきとーに留意していただけると幸いかも。
 で、「でもその、アレだ。つまり『あの辺り』には居るんだろ?」と心の中で思われる向きもあるかもしれませんが、当然というか僕自身はそれに肯定も否定もできませぬ。だって、その『あの辺り』ってカテゴリーは貴方の認識のためのもので、僕自身のものじゃないから。

 あれですね。アイデンティティがどーたら言う文章を最近読んだせいで(たとえばこことか)、無駄に難しく考えてしまって困ります。


こちらを読んだメモ。
・「謎と不思議」。恋愛とかそーゆーのには、そもそもが「謎に魅せられる」という要素があるらしい。問題は、その「謎」がどういう形式をとっているか、なのだと思う。
 たとえば、陰謀史観・オカルト的な謎(「何者かによって真実が隠されている!」)と、科学番組での「自然界には不思議や謎、分からないことが一杯です」という謎とでは、意味合いが異なるように。

・自分自身を「謎」にすることを志向する不思議少女と、少女自身が何らかの謎に魅せられているがゆえに、結果として彼女の行動も「謎」にしか見えない不思議少女と。

・2種類の謎について。東浩紀氏のグレッグ・イーガン論(SFマガジン8月号)を参照のこと。→昔の自分のメモ

・3種類目の謎?。コミュニケーションのプロトコルだか文脈だか。
 恋愛ゲームとやらでの自らの価値を高めるために、相手に自らを「謎」だと思わせて、その謎に相手を魅了せしめるという戦略がある。「ミステリアスな男(女)になりたい」
 相手に自らを「謎」と思わせる方法として、相手との共通プロトコルをダブルミーニング的に攪乱する、てのがある。





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