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はてなダイアリー(メモ・一行掲示板)


【2003年10月】

10月30日(木)  「覚悟が足りない」「絶望が足りない」⇒<感想
 (元々の文章は、我ながら意味不明だったので変更しました)。

知人と「覚悟」に関する話を、もごもごとする。「覚悟を決める」とか「覚悟が足りない(生き様)」ってどういうこと?とか、そんな感じの話。
 手元に国語辞典が無いので仕方なく和英辞典を引く。覚悟とはおおよそこんな意味らしい。
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かくご 覚悟
1 〈決心〉 (a) resolution
#覚悟する make up one's mind 《to sth, to do》; be ready [prepared] 《for》
#覚悟している 〈心を決めている〉 be determined 《to do》; 《fml》 be resolved 《to do, that…》
2 〈用意〉 readiness; 《fml》 preparedness
#覚悟する[している] 〈心構えができている〉 be ready [prepared] 《for》
#万一の覚悟はできている be prepared for the worst
3 〈あきらめ〉 resignation
#覚悟している 〈観念している〉 be resigned 《to one's fate》
#覚悟の自殺 a premeditated suicide
[株式会社研究社 新英和・和英中辞典]
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 「覚悟」という言葉は、1つで上の1,2,3の意味を同時に含むのだけど、それはどういうことなのか。1,2,3の意味どうしの関係は何か。
 ちなみに「覚悟」に関する僕自身の立場は、自分自身で覚悟を決めるのはさておき、他人に「覚悟を求める」ような社会ってどうよ?という立場なのでした。

「覚悟」の話をしているときに思い出したのが、Freezing Point経由で知った、こちらの元ひきこもり(?)のひとの言葉。
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 この一節を読んでふと僕には絶望が足りないとかんじた。引きこもっていた部屋から脱して、中学高校からの旧友や自助グループで知り合った友達とゆるく繋がって、そのささやかな繋がりを慰めにして、将来にうすぼんやりとした希望を見出そうとしている。
 しかし決定的な挫折から逃れて引きこもった僕はあいかわらず脆弱だ。ちいさな希望を重ねた不安定な足場はいつ崩れてもおかしくない。経験したことのない挫折は、大きな口をあけて足場の下にひろがっている。足がすくむ。このままちいさな希望だけを抱いて前にすすむことができるのだろうか。
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 ここの「絶望が足りない」という不安は、「ひきこもりは、人生に対する覚悟が足りない」という決まり文句的な説教と、同じところから来ているのだろうか。どうだろう。色々と微妙。

 そういえば、ひきこもりに関して僕が危惧しているのは、「あいつには絶望が足りない。どん底から這い上がった経験がないから、人生に対する覚悟もない」という風な、ひきこもりに対するある種の視線が時に「じゃあ、俺があいつに絶望を与えてやろう」という動きに転化してしまうことだったりする。


メモ。こちらも合わせて。
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 ドストエフスキイの人物たちは、何かをいったあと、相手がいいかえす前に、それを先取りし、さらにそれを否定してしゃべりつづける。ふつうの意味では、これは対話ではなく、一方的な独白である。が、これが対話的だというのは、彼らの発語が”他者に向けられて”いるからである。彼らにとって耐えがたいのは、何かをいう(say)ことが、いつも別のことを意味してしまう(mean)ということなのだ。あるいは、「意味する」ことが、自分自身(私的規則)ではなく、まったく他者に依存してしまうという条件なのである。
 彼らがしゃべりつづけるのは、社交的だからではなく、逆に意味と記号が一体であるような世界、すなわち「内的な世界」にひきこむ(引用者註:ひきこもる?)ためなのだ。ところが、そんなものはありはしない。彼らが、他者が強いる意味(規則)を先取りし回収するために発語しても、さらにそれも「意味してしまう」からである。
 これは、過剰な自己意識(他者意識)といったものとは別の問題だ。《人間を他者の言葉、他者の意識との関係において設定することが実にドストエフスキイの全作品を貫く根本テーマである》(バフチン)。しかし、むしろ、ドストエフスキイは、「言語ゲーム」という条件から最終的に離脱しようとしてできなかった作家だといった方がよい。つまり、彼は、言葉が他者にとって「意味してしまう」という条件をのりこえようとしようとしたがゆえに、逆にその条件を照らし出しえたのである。
(柄谷行人「探求I」p.97-98)
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10月27日(月)  はてな同村指数(続)、数字の「意味」。炭田火災。⇒<感想
 忙しい。きゅう。ところで、謎の一行掲示板をつくってみた。このページへの感想とかクレームとか、そういうのにどうぞ。
 …しかし、ひどいはてなダイアリーの使い方だなあ。

前回書いた、「俺指数」に関して、レスポンスをいただきました。遅まきながらお返事を。
 同村指数を考案された「おまえなんか、訳してやる!」のsugioさんから。
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誤解していたら申し訳ないのですが、「A=1 B=300 m=1」のときと「A=8 B=300 m=8」のときで、ほとんど差が出ないように思います。私はこれにうんと差を「つけたい」ので、今の式のほうが気に入っています。あ、ダメってことではなく個人的な意図含む、ということで。とりあげてくださってありがとうございます。
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 そうですね。「俺指数」だと両者の差は僅かです。「俺指数」は、アンテナ登録数と共通登録数の「割合」にしか注目していないので、そうなります。

 同村指数を見て「何を表した数式なのか、僕には良く分からない」と僕は感じたので、そこで自分なりの代案を用意して「僕の代案は何を表現しているのか?」について考えてみることにしたわけです。「俺指数」が表しているのは何なのか。たとえば僕自身が「俺指数」よりも同村指数を選びたいとしたら、その理由は何なのか、を知るために。だから、「数式の意味」について長々と書いてみたりしました。成功しているとは言えませんが。

 同村指数の「それっぽい数字が出る」という点に関しては、僕は高く評価してます。ただ、それがゆえに数式が表しているものが何かを考えようとせずに「なるほど良く出来ている。確かに『はてな』はムラ化しているらしい。それは僕の直感とも一致する」みたいなことを書いてしまうひとも出てくるわけです。ですから、sugioさんから
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「A=1 B=300 m=1」のときと「A=8 B=300 m=8」のときで、ほとんど差が出ないように思います。私はこれにうんと差を「つけたい」ので、今の式のほうが気に入っています。あ、ダメってことではなく個人的な意図含む、ということで。
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という、「sugioさん自身の意図」に関する返答を頂けたのは、僕にとって大きな収穫でした。

 「サイト間の距離に唯一の正解があるわけではないんだから、色々な種類の基準を用意しておいて、使う側が自分の好みに沿って、適当に『それっぽい』基準を選べばいーじゃん」という考え方というのがあって、それはそれなりには正しいと思います。
 けれどやはり自分で基準を選ぶときには、選んだ基準の特性と、その基準=数式の意味について少しは考えてみるべきだと、僕は思うわけです。繰り返しになりますが、「それっぽさ」で基準を選ぶことによって、選んだ人間の好みや意図を数式の中にブラックボックス化して封じ込めてしまうとしたら、そのような状況は僕にとってあまり好ましくはないのです。


 もうひとつ。186さんから。
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ついでに言うとお兄さんは統計を全くやっていないのでどれが一番有効なのか分かりません。
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 「一番有効」という言い方は、「サイト間の本当の近しさ」が一意に存在するような印象を受けるので何だかな、ってことで。


少し昔のニュース
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 (中国通信=東京)ウルムチ2日発新華社電によると、100年余り燃え続けていた中国国内で最大の火災炭田、新疆ウイグル自治区の硫黄溝炭田の火災は、本格的消火活動が4年近く続けられ、このほど全面的に鎮火した。新疆炭田火災消火活動事務局が明らかにした。
(略)
 調査によると、新疆では産炭地88カ所のうち42カ所で火災があったが、現在、24カ所にまで減った。しかし、年間約1000万トン余りの石炭が焼失し、大量の二酸化炭素、一酸化炭素など有毒ガスと粉塵を大気中に放出している。硫黄溝炭鉱の消火は他の炭田火災の消火に貴重な経験を積んだ。
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 年間1000万トンの石炭が自然焼失。これって、どれくらい凄いことなのだろうか。気になったので、少し調べてみた。
 資源エネルギー庁にあったQ&A(pdfファイル)。
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Q1.石炭における主要産出国の生産量及び輸出量について教えて下さい。
A1 世界の石炭生産量は約36億トン(2000年)。世界第一の石炭産出国は中国で全体の1/3を生産。
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 つうことで、新疆で燃えている石炭は、中国で産出する石炭の1%程度だということが分かりました。1%を多いと見るか、少ないと見るか…。
 それにしても年間36億トンねえ。人口で頭割りすると、年に500〜600キロぐらいか。



10月19日(日)  はてな同村指数のひみつ? 他の指数を作ってみた。巨乳っ娘。
おとなりページ」や「同村指数」とかいった、はてなダイアリー参加者を中心とした、サイトのグルーピングに関するはなし。
 はてなダイアリー−おまえなんか、訳してやる!(同村指数を最初に提唱)
 はてなダイアリー−186(8?)(色々な指数の比較)
 はてなダイアリー−日記&ノート(転叫院)(使い方の例)

 で、同村指数を見てて思ったのが、「数式が何を意味してるのか分かりにくい」ってことで。たとえば、シンプルな別の指標を適当に考えてみる。

(記法は186氏にほぼ準拠)。この「俺指数」ではダメなのだろうか?
 どうも良く分からない。

 上で僕が示した「俺指数」の「意味」を説明してみる。
 サイトAから見た、サイトBの重要度をs(A→B)であらわすことにする。ここでs(A→B)の定義を、

とする。おとなりページの下に出てくるパーセンテージは、自分のページをA、相手のページをBとしたときの重要度sである。…多分。
 次に、逆のs(B→A)を考える。これも同じく、相手のアンテナ被登録数に占める重複被登録数の割合である。で、s(A→B)とs(B→A)の(算術)平均をとれば、俺指数が出来ることになる。

 ちなみに「同村指数」の場合、補正前の同村指数が
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双方の日記を登録しているアンテナ数が違いすぎると、数値がとても低くなってしまう
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ということになるのは式の形から当然といえる。

この場合、大きい方のアンテナ被登録数の値に全体が支配されてしまう(アンテナ被登録数10と被登録数1000のサイトについて考えてみよう)。で、それを補正するために「非登録アンテナ数の比率」を持ち出してくるのだけど、それはちょっと本末転倒な気がしなくもない。

 さて、俺指数と他の指数との比較をしてみたのがこちらの表。元は186さんの表。レイアウトも無断借用。右側のoreが俺指数の値。比較用に、俺指数と同村指数1との比もつけました。あと小数点以下は適当に丸めてます。
 どんな具合だろう。

複数の指標があったときに、どの指標を参考にするかは、往々にして「こっちの方が何となくそれっぽい」でしかなかったりもする。
 自分の先入観を反映するような指標を採用して、その指標を参考にすることで先入観が更に強化されるという悪循環もあり得るわけで。その場合、主観を客観にすりかえるロンダリング装置の役割を指標が果たしていることになる。


赤毛娘のとこで、巨乳キャラオンリー即売会「巨乳っ娘」とかいうやつの存在を知る。開催要項
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・コスプレは全ジャンルでOKですが、巨乳キャラでお願いいたします。
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とあって、あれこれ考え込んでしまう。
 ところで「女装はご遠慮ください」とはあるんだけど、ここでの巨乳キャラが女性限定とは書いていないわけで。肉襦袢を羽織って力士のコスプレをしてみるのはどうか。


10月10日(金)  小林泰三「目を擦る女」。柄谷行人をまた買った。テッド・チャン。
小林泰三「目を擦る女」(ハヤカワ文庫JA)を読んだ。幾つかの短編が激しく面白かった。所収7編中、前3編を読んだ段階では、正直買ったことを後悔していたのだけど、そこで投げなかった自分を褒めてあげたい。
 以下、本編の内容含む感想は↓下の方で。


柄谷行人「内省と遡行」が素晴らしかったので、調子に乗って、「マルクスその可能性の中心」と「差異としての場所」を買ってくる。
 どうでもいいメモ。
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したがって私が「ゲーデル的問題」とよぶものは、ゲーデル自身の意図とは無関係である。
(『形式化の諸問題』「差異としての場所」p70)
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とか、
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 しかし、私にとって最も刺戟的だったのは、コンピュータ科学者ホッフシュタッターの『ゲーデル・エッシャー・バッハ』という本である。論理学や数学基礎論の本をかじっても所詮知識にとどまっていたゲーデルの不完全性定理が、この本のおかげで、にわかに面白くかつリアルなものとなった。
(『文科系の数学』「差異としての場所」p306)
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とか。

赤毛娘のテッド・チャン「あなたの人生の物語」の感想
 そう、「ソウヤー混ざってる」。先に書かれてしまった。
 何だろうね。ソウヤーというか、「ER」に代表されるような、群像劇スタイルのアメリカン・ドラマっぽいクサみを感じるんだよな。上手く言えないんだが、
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各キャラにマイノリティ要素やコンプレックス(人種、同性愛、肥満、薬物依存…etc)を適当に割り振っておいて、キャラ同士を絡ませながら背景にある社会問題を浮かび上がらせるふりをする。視聴者は、それを上からニヤニヤしながら眺める。
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ようなアレ。
 ところで、なんで僕がこんなにテッド・チャンの作品に絡んいるかというと、彼の作品に感じた違和感をダシにして、僕自身が色々と考えようと目論みもあるからなのですが。…粘着?

 そういえば、−同時代ゲーム−(10月8日分)の感想リンクで、他所様の感想を読んでみたり。評判良いですね、テッド。あと、こちらとかも。
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 「理解」以外はすべて未読でした。お腹一杯のいま、「チャンとイーガン、どっちが好き?」と訊かれれば迷わず「チャンです」「チャンさんです」などと答える用意がありますが、
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 おーおおお(号泣)


で、小林泰三「目を擦る女」感想の続き。大したこと書いてないけど、一応背景色で偽装。
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『刻印』:まじめに愛を交わしている辺りが大変によろしい。エプロンとか。
 この作品、とあるアンソロジーのために書かれたらしい。アンソロジーのタイトルからするに、アンソロジーで初読のひとと、この作品集で初読のひと(僕とか)では、後者のほうがはるかに面白く読めたのではないか。不意打ち効果が段違いだもの。

『未公開実験』:(解説の)冬樹蛉氏ほどのひとが見落としたとは考えにくいので、単に書かなかったんだと思うんだが、これってフレドリック・ブラウン『実験』(「スポンサーから一言」所収)へのオマージュじゃねえか。

『予め予定されている未来』:うひゃあ。序盤〜中盤の舞台設定と基本アイデアが愉快すぎてお腹一杯。どちらかというと、イアン・ワトスンを思わせる感じなのかな。
 えーと、オチは心底どうでもいいです。
 オマージュ元とおぼしき作品のテーマには、全然これっぽっちも迫れていないのだが、別の面白さが出ていたので、まあ、よろしいんじゃないでしょうか。
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10月6日(月)  「STAYプラス お手々つないで」。ミステリのゲーデル。イーガンとテッド・チャン。
西炯子「STAYプラス お手々つないで」を買った。

 ぎゃー。

 ある種のドリームが満載。恥ずかしいので詳細は言わないが、何とも素晴らしい。
 お腹一杯になったので、一緒に買った、とよ田みのる「ラブロマ」は明日以降に回すことに。

滅・こぉるさんにメモられました。
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 『ゲーデル・エッシャー・バッハ』は私の青春のバイブル(の一冊)だった。金がなくて買えなかったから、図書館から借り出して読んだ。一度で読み切れず、何度も更新したことを思い出す。あんな重い本をよく持ち歩けたものだ。
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 …いい話だなあ。
 それはそうと、ミステリ方面のひとたちも(ミステリにおける)「ゲーデル(的)問題」とやらの話をしているようだ。

めも。水鏡子さんの「みだれめも」160回から、
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 グレッグ・イーガンというのは、書かれている内実を伝えたい作家であるのだなということに、はじめてのように気がついた。イーガンが伝えたいもの、それは作り出した世界であり、世界に対するヴィジョンであり、核となるアイデアであり、現実世界に対する問題意識であり、伝えるという行為を通じて裸の自分を読者につないでいきたいという意志がある。意外と赤裸々なところがある。
 テッド・チャンの『あなたの人生の物語』は、なによりよくできた<おはなし>を差しだしたいという小説のありかただ。もちろんヴィジョンも問題意識も小説のなかに反映されている。けれども、それらは伝えることを目的に使用されたものではない。作品世界を堅牢にしたてあげるために必要とされた材料だ。テッド・チャンはなにかを伝えたくて小説を書いているわけではない。できあがったものを差しだしたくて小説を書いているのだ。自分を晒すことに警戒感があるともいえる。
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 半分同意、かなあ。半分しか同意できないけれど。
 、少しだけ書いたのだけど、イーガンの小説スタイルというのは、まさにイーガンの扱っているテーマ、ヴィジョン、問題意識から要請されるものだ。
 だからテッド・チャンが、イーガンと類似のテーマを「よくできた<おはなし>の作品世界を堅牢にしたてあげる」ために用いるとしたら、それはテッド・チャンの頭が悪いか、あるいは、二人が見ているものが(表面上、似ているものの)実は全く正反対の方向を向いていることを意味するのだと思う。


10月5日(日)  柄谷行人「内省と遡行」、秋山瑞人、エピクロス。
 しかし、更新ペースが一定しないな、俺。

そういえば、柄谷行人「内省と遡行」(講談社学術文庫)を読んだのでした。柄谷行人の仕事の中では前期の総決算的な扱いらしい。
 ニーチェ、マルクス、フッサール、ソシュール、レヴィ・ストロース、ドゥルーズ…。おまけにゲーデル。ううううう。でも、分からないなりに楽しゅうございました。

 「こうなったのは、こうなったからだ」
 たとえば上の言葉における、前者の「こうなったのは」と後者の「こうなったから」。「こうなったのは」(現在から過去を構造化)→「こうなったから」(過去から現在を説明)の間にある(非対称的な?)関係について考えること。想像してみるに、多分この本には、そういうことが書いてあるんだろうと思う。どうだろう。

 ところでこの本、ゲーデルの不完全性定理を所与の真理としてブラックボックス的に取り扱っているので、頭を抱えてしまった。実際に柄谷氏自身が、どれくらい定理証明の具体的な詳細を理解しているのかは僕には分からないのだけれど。
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ポスト構造主義は、どんなレトリックを用いようとも、数学的構造そのものが排除していたパラドックスをべつのかたちでとりかえすことでしかない(引用者註:これって本当?)、ということにさえ気づいていない。そのために、彼らは自分が何ごとかやっているという錯覚を楽しむことができる。いうまでもなく、われわれの関心はゲーデルの証明を変奏してみせることにはない。そのような仕事は一度やれば十分である。
(「内省と遡行」p.137)
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に関しては、次のことばがカウンターになったりするのだろうか。どうだろう。

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ゲーデル化が「可能である」と抽象的にいうことと、個々の場合についてどうすればいいのか知っていることとは別である。実際、形式システム(あるいはプログラム)が複雑さを増すにつれて、われわれ自身の「ゲーデル化」する能力もついにはぐらつきはじめる。それもそのはずで、すでに述べたように、ゲーデル化をどのように実行するかを記述するアルゴリズム的方法は存在しない。ゲーデルの方法をすべての場合に応用するために、必要な事柄を具体的に述べることがもしできないのならば、われわれ一人一人にとって、あまりにも複雑で、どんなふうに応用できるか全く分からない部分がいつかは発生する。
(ダグラス・ホフスタッター「ゲーデル・エッシャー・バッハ あるいは不思議の環」p.470)
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秋山瑞人とか唯物論者とか、そういうのに関連した余計な話。元はこことか、こことか。

 対戦型哲学史「デモクリトス×エピクロス」で示されていることは、ある種の決定的世界論に対して、カオス理論(厳密に決定論的だが、長期的予測は可能ではない)でカウンターパンチを撃ち込もうとするのと、ある意味で似ているのかもしれない(←適当)。決定論的世界観を認めた上で、その上で、(決定論的に導出された)多様な未来をも肯定する。無限の過去ではなく多様な未来へと人間の精神を向けさせる、そのような装置としてのクリナメンは、ここでは「神の住まう場所」「外部」としての「穴」として直接に描かれる。

 一方、柄谷氏が「内省と遡行」において、マルクスの学位論文「エピクロスとデモクリトスにおける自然哲学の差異」から読み取ってしまったものは、「差異」としてのクリナメンで。ここで「じゃあ、その差異って何なの?」というのは、ひょっとしたら愚かしい問いなのかもしれないけれど、あえて言うなら、
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すなわち、マルクスは、目的論的/機械論的という二項対立の底に、エピクロスの自然哲学をおいているのだ。つまりあくまで機械論的であると同時に、そこにはたえまなく差異化が存するというようなイメージを。
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という部分などから想像するに「差異」は、僕らの(機械論的)因果論と(機械論的)システム論との間に生じるズレなのではないかしら。そして、そのズレは遡及的に認識されるほかない。
 で、このズレによって、僕らが認識している世界に「穴」が生じるのだけど、その穴はズレというかたちで、遡及的かつ間接的に示されるしかないものだ。

 …つまるところ、こーいう話なのかなあ。あと、「宮台真司、東浩紀を語る」とかどうだろう。


秋山瑞人に僕がムカつくのは、彼が「大人の目線」と「子供の目線」とを、ある種とても卑怯なやり方で混ぜてくるからなんだろうな。こう書くと、褒めているようにも見えてしまうかもしれないが、そんなこたあない。
 「大人の目線」に関してはこちらとかこちら、「子供の目線」に関しては、たとえばこちらとかを参照。ところで、やっと死エロのひとがここで書いていたことが少し分かったような気がします。困ったものだ>俺。


ところで、秋山瑞人の話と、Kanonと奇跡の話って、僕の中では両者は最初から繋がっているのだけど、身内以外の方々には分かっていただけてるのだろうか。ふと、心配になった。ついでにいうなら、オメラスと猫あたりから引き継いでるわけで。
 ついでにいうなら、前回のイーガンとテッド・チャンの話だって、関連する話だと言えなくもない。