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【2003年9月】

9月29日(月)  テッド・チャン「あなたの人生の物語」。メタ。宿題。
グレッグ・イーガン>>>>>>(一〇〇〇〇光年)>>>>>>テッド・チャン、ですよ?(←挨拶)

テッド・チャン「あなたの人生の物語」(ハヤカワ文庫SF)を読む。我がイーガン信仰に綻びは生ぜず。はてなアンテナでのプレビューなどで、未読のひとにネタバレや先入観を与える可能性に配慮して、感想は下のほう↓にて。
 ところで、「イーガンよりもテッド・チャンが好みな」ひと。今度、話をしましょう(笑顔)。あとこのひとも。
 

別の話。前々々回書いたやつの補足。
 ここで「メタな視点」という言葉を使ってるのだけれど、それは「メタフィクション」を意味するわけではなくて。単に、「少し上から見るような感覚」ぐらいに取っていただけると嬉しいです。


抱えてる宿題。
1)sayukさんにお返事をする。
2)くるぶしあんよさんにお返事をする。
3)メールで頂いたコメント(感謝!)にお返事を(メールで)書く。
4)秋山瑞人が唯物論者とかどーとかいう話。
 4)に関しては、そもそも「唯物論」という言葉自体が難しくて微妙なのが何とも。誰か解説してください。
 秋山みずぴーにムカついてるひと(とか彼女とか僕とか)って多分、三者三様にみんな唯物論者的で「それゆえに」みずぴーにムカついたんだよなあ。「スイングバイしろよ」って、つまりはそういうことでさ。


で、テッド・チャンに話を戻す。
 たとえば『理解』のラストで、二人の超知性の対立軸が「唯美主義と実利主義」なんていう適当な言葉にまとめられてしまうこと。あるいは『あなたの人生の物語』のラストで「歓喜の極致なのか、それとも苦痛の極致なのか?」なんて書かれてしまうこと。
 上手く説明できないのだが、彼の作品には、含みや深みが欠けるように僕には感じられてしまった。含みや深みといっても「キャラクター造形が」なんていう(つまらない)話ではない。おそらくは、ロジックの展開やストーリーテリングといった話だ。「既存の言葉で一行で書ける」ような結論が最初にあって、その結論へと向けてロジックが単線的に進む。ロジックそれ自体のパワーがあるわけではないから、「ロジックの向こうに見えるもの」もない。
 …少し言い過ぎたかもしれない。

 個別の作品の話を少しだけ。
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 『バビロンの塔』:きがるにたのしめました。まる。情景描写がかなり好き。テーマそれ自体だったら、星新一『おーい、でてこーい』>>>>>>>>>『バビロンの塔』だと思う(←比べるなよ俺)。

 『理解』:「90年代SF傑作選」(ハヤカワ文庫)で既読。僕の中では「90年代SF傑作選の中で、もっとも(期待してたのに)ガッカリだった作品」賞を受賞済み。期待しすぎたのかもしれないが。
 何だろね。超知性の一人称がテーマなのに、その超知性の思考がどうしようもなく「底が浅く」感じられてしまうのが辛い。スケールの大きさとやらを評価するむきもあるようだが、スケールの大きさを強調したいなら恒星化ぐらいしてもらわないとねえ。…言いすぎですか?
 ところで、2chテッド・チャンスレッドでのこの解釈はなかなかに魅力的で心が揺れてしまうんだが、これって作品内で具体的に示されてたっけ? 特に「パターン認識に唯美主義を見出したグレコは目的と手段の一致を理解しましたが、そこに自意識はありません。」(←メール欄に埋め込まれているヒントが、空欄に入ります。前から3番目と1番目)のあたり。

 『ゼロで割る』:…はあ? 類似のテーマを扱ってるグレッグ・イーガン『ルミナス』と読み比べてみると興味深かろう。数学基礎論のロジックそれ自体に宿る面白さってのが、このひと全然分かってないよ。

 『あなたの人生の物語』:それなりに面白かった。でも、もっと「向こう」に行けるはず。残念。
 変分原理に着目したのは素敵。…でも、変分原理の「最大」「最小」を簡単に目的論的に捉えちゃうのって、どーなの? よく知らないけどさ。

 『七十二文字』:全体的に、ぱっとしない印象。楽しみ方を僕が分かっていないだけなのかもしれない。誰かが面白さを教えてくれたら、印象が全然変わるかも。

 『地獄とは神の不在なり』:あはは。最近、奇跡とは何ぞやみたいな話をしてたんで、思わず苦笑い。そんな内容。
 この作品で描かれていないのは、つまるところキリストなんだよな。媒介者としてのキリストが居なくて、神と人間とが直接に向かい合う。
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9月28日(日)  確率の歴史、ベイズ統計、フィルタリング、東浩紀氏の情報自由論。
 相変わらず引用ばっかりですよー。我ながら読み辛い。

そういえば、高橋直樹さんのこれを読んだときに、微積分の歴史の次は確率統計の歴史の話になるのでしょうか、などと考えたりしてたのでした。
 参考としては科学哲学入門−確率−とかイアン・ハッキング「偶然を飼いならす」書評あたりで。

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確率の統計的側面と実践的側面
 さて、確率がこのようにいろいろな場面で用いられているので、確率については哲学が問題にすべき点はないと考えるなら、それは大きな誤りである。「確率とは何だろうか」という問いは、いまだに科学哲学の難問の一つである。確率の数学的側面は、いわば確率概念が数学に乗るための形式的条件であり、今日では数個の公理でもって明確に示すことができる。「確率とはしかじかのものだ」と答えるどのような学説もこれを無視することはできない。しかし、難問はその後である。むずかしい問題が生じる理由は、確率がもつ次の二つの側面をどう関係づけるかにある。
科学哲学入門−確率−の2段目)
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とか、
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すなわち、物理学における決定論のかげりだけがキーワードではなく、人間社会に関する統計的な研究という、一見物理学とは無関係なもう一つの流れがあり、これら二つの相互作用を視野に入れなければ十九世紀の科学観の(ゆるやかな)変容はわからないというのが著者の基本的な「議論」である。この議論において、「自律的」と「正常」もキーワードであることがやがて明らかとなる。また、「制御」という言葉が示唆するように、偶然性または確率の科学に触発された倫理的・政治的態度(例えば、コント、デュルケム、ゴルトンなどの)も考察の対象とされる。
イアン・ハッキング「偶然を飼いならす」書評第1節)
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あるいは、
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 しかし、その後、ラプラスの仕事を調べて、ハッキング言うところの「飼いならし」の素材はほとんどラプラスにも見いだせることを知ってわたしは驚いたことがある。ラプラスは、壺の中の玉の割合、サイコロやコインの偏りなどを、決定論的原因とは区別される(人間の無知に相対的な)別種の原因と見なしていた。決定論の浸食は、決定論の主要な唱道者のうちですでに始まっていたことが推測される。
イアン・ハッキング「偶然を飼いならす」書評の第6節「コメント」から)
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とか。最後に関しては、
( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェーヘェー(略)
って感じ。


Amazon.comでの顧客フィルタリング(「貴方にお勧めの本はこれです」ってやつ)とか、フィルタリングによってspamメールを排除とか、あるいはMicrosoftOfficeのアシスタント(変なイルカ!)とかにはベイジアン・フィルタという技法が使われている。これは科学哲学入門−確率−の中に名前が出てくるベイズというひとの業績に関連するものだ。そして「ベイズ流」の考え方というのは、確率に対するある特定の立場に立っているのだ。
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統計的確率は本来主観的な帰納的確率の一形態なのだが、未知の確率であるために経験的仮説の確証を通じてしか人々に明らかにならない。そして、確証される、つまり人々の意見が収束する仮説は、最初は人々の意見が大きく異なっていても、長い間には一つに収束するという形で客観的でありうる[note 2]。これが、統計的確率の客観性にほかならない。
科学哲学入門−確率−の最終段)
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 ベイズ統計に関しては、前提条件を置く際に主観性と恣意性を(他の手法よりも多めに)必要とする。だから、
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だがベイズ確率を使った方法の本当の利点は、自分が何を計測しているかがはっきりしていることだ。SpamAssassinのような特徴認識型のフィルタは各メイルに「spamスコア」を与えようとする。ベイズ確率を使った方法は、実際の確率を与える。「スコア」の問題点は、誰もそれが本当は何を意味しているのかわからない点だ。ユーザには当然わからないし、もっと悪いことに、開発者にもわからない。
スパムへの対策 ---A Plan for Spam
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といわれると、ちょっと待て、と言いたくなる。あなたの言っている確率って、どういう意味ですか? あなたがそこで紹介している方法って「事前確率を50%と仮定した」(詳しくは説明しません)やつだ。その方法が(初等的ながら)実用的であることは認めるけど、事前確率の与え方に主観性と恣意性が残ってるのは事実だろう。
 「で、あなたの言っている確率って、どういう意味?」というのは、しばしば問い直されるべきだと思う。


東浩紀氏の「情報自由論」に関しては、僕は詳しくは知らないのだけど、主要なテーマの一つとして、上に挙げたような「情報フィルタリング技術」というのがあるようだ。それらの技術および問題点について考察することは、必然的に「確率とは何か?」「統計とは何か?」というようなテーマに、真正面から踏み込むことを伴わずにはいられないと思う。
 デビュー作「ソルジェニーツィン試論−確率の手触り」以来、東浩紀氏の言う「確率」は東氏独特のニュアンスが込められているようで、そこが魅力的でもあったのだけど、それがついに「世間で使われているところの」確率概念と摺り合せられるときが来たのだろうか。
 単行本がすげえ楽しみ。

 それはそれとして、東氏は、割と気軽に「確率」「ノイズ」という言葉を使ってしまうようで、僕なんかは聴くたびにドキドキしてしまう。「ほしのこえ」にはノイズが無いって、そのノイズってどういう意味やねん。


9月26日(金)  コメントとメモ。
前回の文章に歴史学のひとからのコメントが。
 …プロテスタンティズムと近代的自我の誕生、とかそういう話になるのでしょうか。ううう。タップタップ。
 前回の文章を書いたときに、カトリックとプロテスタントとか、終末思想やら予定説やら、もごもご考えてみたのですが泥沼にはまりそうになったので止めました。で、結果的にあれこれ混ぜこぜになった文章になってしまったような。この辺り、きちんと「カトリック系の『聖書思想事典』によると」と示して書いていただいた、くるぶしあんよさんには申し訳ない限り。


ついでに。ふと見つけた廃屋譚の「告白について」とか。テキストが流れてしまったときはこちらとかを参照。東浩紀氏の『写生文的認識と恋愛』(「郵便的不安たち」)と合わせて読むと良かったりするのかしら。
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 この事態は「告白」という用語がキリスト教に由来し、「恋愛」という単語自体が明治23(西暦1895)年頃に発明された近代的な概念であることを想起すれば容易に理解できる。「恋愛」という概念を流布させたのも明治中期の『女学雑誌』に拠った北村透谷や巌本善治などキリスト教関係者である。告白=恋愛=内面の創出=近代という例の公式。
 例えば1960年代の少女マンガに「告白」という行為がまったく描かれなかったことを想起するといい。これはつまり60年代の少女マンガに「内面」がなかったことを意味する。内面がない=前近代だ。告白という行為の創出による新しい「恋愛」の様式の発明により「内面」が発生する。これが近代である。
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 この「キリスト教関係者」というのは、大半がプロテスタントだったような。はるか昔からカトリックでは、告白、告解が信徒の義務として制度化されてきたのだけど、宗教改革時にプロテスタント側は告解の義務を廃止する。ここで、告解の意味合いが変質したのだろうか。義務としてではなく、何やら主体的な「告白」の誕生、なの…? 教えて詳しいひと。


別のメモ。close/cross; confusion is sexから。
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 同じように感じたのがささだあすか「パジャマでごろん」(全3巻)で、この漫画はりぼん少女漫画的な片思い→両思いで終わる、性愛や結婚を超えられない(とされる)恋愛観を、超えられないという諦観や隠蔽による無理な直結でなく、またいくつかのレディースコミックに見られる手の平を返したような「性愛以降の現実」の押し付けでもなく、「やってみたら出来ちゃった」的な感覚でそのままに性愛と結婚の先へ押し進めてしまっている奇跡的な作品。その奇跡はつまりは前述した「動的な瞬間の奇跡的な連続」(別の言い方をするなら「飛び続けること」)として関係を描くことであって、タイトルや作品の表面的な印象から受ける「安定(ほのぼの)」とそれは決してイコールではない。
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 それだー!>「パジャマでごろん」

 更に過去ログをたどってこちらとかも。
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ところで、(純愛系)美少女ゲームでしばしば「あるヒロインのルートを選ぶこと」が「他の全てのヒロインを切り捨てること」として言及されることがあるけれど、もしその作品が名香智子レベルの強度を擁していたらそれはそうではなくて、つまりはすべてのルートは全にして一であり、選択された1人のヒロインのルートは他のすべてのルートと繋がっている。名香智子の強度をもってすれば(かつそれを意志すれば)、「あるヒロインのルートを選ぶこと」が「他の全てのヒロインを救うこと」ともなるはず。それをより実感させるのがマルチシナリオ構造なのかも。(だとすれば、選択肢のそれぞれで常に選ぶこと=切り捨てることを意識させる「君が望む永遠」はどうなるのかなあ)
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 「強度」って、何だか良く分からない単語なのです(誰か意味を教えてくださいまし)。幾分トートロジカルな意味を持つような気もするし。多分、「体験の固有性」だか、はたまたアウラ(よく知りません)だかに深く関係するんだと思うんだけど。
 固有性の感覚(あるいは強度?)って、僕らの時間意識と複雑に絡まりあっていて、片方を原因、片方を結果にして良いものかどうか。難しい。今木さんのここを例に出すならば、「美しいと感じたから追憶になってしまう」のか、それとも、「追憶というのは美しくあるほかない」のか。
 関係ないけど僕は、ONEでの「永遠」というのを、無限のものだと読んでしまうひとです。

メモ:「体験の固有性」と「固有性を体験」との違い。


9月23日(火)  22,222円。SFセンター試験。欲しい本。奇跡(続)。心中。
 うーむ。週刊ペースですらないな。
そういえば、池袋ジュンク堂での滝本竜彦トークセッションとやらに行ったのでした。…ずいぶんと前の話だな。
 喫茶カウンターの上に、ジュンク堂払い、有限会社ボイルドエッグズ受取りの「講演代:22,222円」という領収書が置かれていたのを発見。
( ・∀・)つ〃∩ ヘェー

今頃になって、SFセンター試験をやってみた。チキンなので無記名で。
 結果。SFと直接関係ない問題が多かった(予想通り?)というのもあってか、そこそこ高順位
 この手の問題を解く際の要領というのは「20分で100問」という設定を聞いた瞬間に、「1分で5問ということは1問12秒かよ。じっくり考えてる暇は無いなあ」と気付く能力のことだと思った。

最近の欲しい本。
・甲斐崎 圭「海を喰らう山を喰らう―全国「漁師・猟師」食紀行」 目次を見ると、
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知床半島羅臼のサケを喰らい尽くす
「森の猛者」猪を大隅半島に追う
荒海の佐渡で厳寒の美味「スケト」を味わい尽くす
全長2m!北海道奥尻島で巨大タコを獲る
炊き出し鍋・トド肉・羅臼昆布さいはての漁師町羅臼の食の豊饒
自然派の「酒仙」、火の国の旨か酒 愉悦の一滴に酔う
黒潮躍る紀州、尾鷲の海に初夏のカツオを追う
(後略)
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うあー。
・棟 明郎「思考訓練の場としての現代国語」 レビュアー欄から
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かつて、小林秀雄の文章を10も並べた問題集があったろうか。かつて、埴谷雄高の哲学的エッセイで問題を作り、しかもその解説で「埴谷雄高の根本のなんたるか」に鬼神のごとく迫った参考書があったろうか。
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あはは。多田 正行「思考訓練の場としての英文解釈」も欲しい。
・ピーター・ブルックスミス「狙撃手


で、ここから下はKanonだか奇跡だかに関連した話。何だか前回から続いているらしい。元はといえば、2ヶ月近く前の宿題を今頃やってるんですが。

 くるぶしあんよさんのコメントにお返事。大変遅くなってすみません。上手くお答えできるかどうか判りませんが、やってみます。
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 そして、いかなる事柄であれそこに「隠されている教訓」を読みとらせ、これを通じて信者に日々の悔悛とともに「さらに神への愛を実際の行動で表すよう勧める」という「神の働きかけ」が「奇跡」であるとしています(p.259)。
(中略)
そして、たんに「通常では起こらないことが、起こる」ということではなく、それが認識されることによって、信者がそれを神の働きかけと受け止めて、自分の行動を変えていくようなものでなければならない、と。そこにはまた、常にそのような神からの働きかけを敏感に察知しようとする信者の「奇跡」への構えをも要求するのでしょう。
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 前回僕が書いた「奇跡」ですが、この場合だと、あれは「(過剰としての)世界を想え」という意味で教訓的に機能するように思います。
 あと、この文章での「教訓」というのは「良いことをすれば、このように奇跡によって報われる」とか、そういう現世利益的なものとは違うのだと読みました。神の働きかけというのは、ひとえに神から人間への一方通行的なもので、
「神さま! このように僕はちゃんと祈ってるし、日々の生活も色々と気をつけてるよ! だから、
奇跡マダー?

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄
☆チン
 チン☆ ∧_∧
ヽ___\(\・∀・)
\_/ ⊂ ⊂_)
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
|       |/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   」
とか、そういうものではないのでしょう。

 一方通行的な関係性ゆえに、奇跡は常に「起こってしまったこと」、過去の出来事として経験される。だからといって奇跡を、過ぎ去ってしまった神話と歴史の中に封じてしまうわけにもいかない。いつだって「あれが最後の奇跡とは思えない」のだから。

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 プレイヤーはさておき、祐一達がある事柄に何を「奇跡」として見出したのかは、彼らの変化と結びつけて検討されねばならない。そして、祐一達の変化の中には、「奇跡」へのまなざしの獲得がおそらく含まれているはずで、プレイヤーは普通、祐一の視点からこのまなざしと同一化するのかもしれません。
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 おそるおそる書くのですが、たとえば久弥氏のシナリオは、一般に、登場人物間でのまなざしの転移とか、まなざしの微細なズレとかを主題にしていることが多いと思うです。そのことによって、一種メタな視点が招きよせられるように思います。
 麻枝氏の場合、主人公とヒロインのまなざしが共有されることは「全く」無いんですが、その一方で麻枝氏は多数性みたいなものを強く意識していて、それが微妙にメタな視点へと繋がっていくような。裏山に妙な狐が沢山棲んでいるわけです。
 二人ともメタな方向性は持っているのだけど、方向性が微妙に違う。その異なった方向性が一つの作品で微妙に混ざり合うことで、何ともいえない面白さが生まれているように思います。
(補足:ここで「メタな視点」という言葉を使ってるのだけれど、それは「メタフィクション」を意味するわけではなくて。単に、「少し上から見た視点の感覚」ぐらいに取っていただけると嬉しいです)

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 天下り的というのは、当時の「肯定派」と「否定派」の対立点を踏まえたうえでの観点としてこの定義を最初に示している以上は、多少の差はあれ回避し得ないことでしょうし、また「構造主義の欠点」を読めば、おそらく火塚たつや氏はそのような限界にも自覚的ではないかと察します。
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 当時の「肯定派」と「否定派」の対立点、というのが良く分からないのです。うーむ。
 作品の中に沈潜して、そこに構造(既存の構造にしろ、そうでないにしろ)を見出すことと、既存の構造を作品に押し付けて読解することとは、おそらく違うはずなのですが(ボトムアップとトップダウン?)、その辺りは色々難しいですね(自省>俺)。

 関係ないですが、あの文章で引用されてる本田氏の文章は何だか色々ダメな気がします。「ゲーデル・エッシャー・バッハ」がポスト構造主義の本で、「社会は個人の敵だ、社会を脱構築しろ」ということさえ知ってれば読む必要がない? …冗談にしてもなあ。


祐一は「奇跡よ来たれ」と祈ることはないわけで。だからといって、目の前の状況を単に受け入れるわけでもない。彼女に寄り添いながら、あるいは「すでに、この世には存在しない人を、待ち続け」ながら、彼は無言で吠え続ける。静かに意地を張り続ける。

 悲しいことを、ただ、悲しいこととして受け止めることによって、経験の固有性だか単独性だかが獲得される。そして、その固有性と単独性が、恋愛における固有性だか単独性だかの感覚(あるいは要請)と重なり合う。(「悲しいこと」と恋愛とを混ぜ合わせてしまうことへの批判というのが当然あるのだけど、ここではさておく)
 ところが、この状況がクライマックスにおいて極まった、その一瞬の後に、ふと「向こう側」から奇跡がやってきて悲劇が一転ハッピーエンドになってしまうのだ。ひとによっては、こう思うかもしれない。「おいおい。俺がせっかく確保した固有性だか単独性だかが奇跡によって台無しじゃねえか。それが我慢ならねえ」
 そうなのだろうか。「悲劇を受容することで、固有性を確保」と「奇跡による悲劇の解消」は根本的に相容れないもので、そのために作劇がぶちこわしになっている、のだろうか。本当?
 僕はむしろ、この両者の並立していることに、積極的な面白さを見出したいのだ。

 とりあえず、そのための方向性を2つ適当に考えてみたり。
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a)確かに両者は相容れないものではあるが、この対立こそがそもそも人間が投げ込まれた状況であり倫理性(略)
b)対立ではない。固有性に沈潜することにおいても世界への通路は開かれるはず(略)
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…自分でも何言ってるか全然分かってないので、放っておいてください。何だか難しい言葉を使っているときは、良く分からないことを誤魔化してるときなのです。


 少し追加して書く。「彼女の悲劇に寄り添う」(あんまり、この言葉自体は気に入ってはいないのだけど)ことは、いわゆる心中とは違う、ということ。
 愛しあう二人が社会やら世間やらに引き裂かれる。二人は共に自殺することによって、自らの主体性(まがいのもの)を逆説的に確保する(「少なくとも俺たちは、自らの意志で死を選んだ。少なくともその瞬間だけは二人は自由だったのだ」みたいなやつ)。そういうのが心中行為だとするなら、「彼女の悲劇に寄り添う」ことにはそれとは異なるよーな。というか、そもそも「彼女の悲劇はあくまで彼女のもので、自分の悲劇ではない」という辺りがポイントな気が。


9月13日(土)  「奇跡の定義」、過剰、ジュブナイル。
 まとまらなく、電波っぽく。

例のKanonに関する議論の際に、寄せられた(複数の)意見として「各自がてんでバラバラな用語定義で議論しても不毛じゃないか?」というのがあったです。で、一番定義が曖昧なのが「奇跡」だとか。
 僕が思うには、「奇跡」という言葉それ自体が実はものすごく面白いものだということで。「奇跡」の日常的用法とは何か?を考えるならば、おそらく「通常では起こらないことが、起こる」ぐらいの感じでしょうか。じゃあ「通常では起こらないこと」って何だろう?逆に「通常に起こること」って何?通常って何?
 そのことにふと頭を巡らせてみた瞬間、ふと、自分の世界観にはぽっかりと隙間が開いていることに気付くわけです。そして、隙間を通して吹き込んでくる風が頬を打つのを感じる。奇跡とは多分「人間の世界観にぽっかりと開いた穴」(の一つ)なのだと思うです。
 つまるところ、「奇跡」って定義が曖昧にならざるをえないものだと思うし、そこが奇跡概念の面白さってことで。

誤解があるといけないので書いておくと、ここでの「穴」とは欠如というか「完全形と比較して、何かが欠けていること」ことではないです。逆に、その「完全形」というのは何だろう?と考えてみたときに、自分の世界観にどうしようもなく隙間が開いていることに気付くわけです。自分が「何か足りない」のではなく、世界の方が自分の想像と比べて「何かしら過剰」だということ。

 ところで、こちらで涼元氏の「穴」発言が引用されているのだけど、その「穴」と僕の書いている「穴」が類似のものなのかというと、良く分かりません。元の発言を読んでないし。

そういえば、(キリスト教であれ、それ以外であれ)「奇跡という発想は、現実に対する単なる思考停止ではないか?」という意見があったのだけど、僕の奇跡観は、その逆だと思う。ついでに言うと、キリスト教における奇跡定義については詳しくはないけれど、あれは単純な思考停止を許すほど簡単なものではないような。
 それはそれとして、人間がどこかで思考を留保、中断、停止しながら生きているのは事実だと思う。だから単に「思考停止だ」と言っただけでは何もならない。どのような思考をどのように留保、中断、停止するのか、その違いこそが大事なはず。ひょっとすると、思考の中断の形式こそが、僕らの思考それ自体を規定しているかもしれないわけで。



8月のときに言い忘れたことがあって、それは「僕にとってKanonはエロかった」ということだったり。僕にとっては余りにも当たり前で、言う必要を感じなかったのだけど。
 あと、まぜっかえし気味に書くなら、議論のときに奇跡の定義を巡って皆があれこれ議論するさまは高橋さんが言うエロの意味でも、エロかったです。「社会的なものが個人的なものを侵食している」光景。


くるぶしあんよさんのページでの紹介を辿って、とある論考を、少しだけ読む。
 …うーむ。「ジュブナイル・ファンタジーだ」とかいうのを比較的天下りに与えた上で、出来不出来を云々しているのが微妙かも。というか、民話的ファンタジーと、啓蒙小説的な要素を含んだジュブナイル概念と、喪失と成熟の「青春文学」とを一緒くたにして良いものかしらん。

 大人の世界への参入儀式(イニシエーション)や「喪失による成熟」といったものを、大人となった現在から回想する(むしろ「回想することによって、構図に納まるように記憶が図式化される」)のを青春(←適当定義)だとするなら、ファンタジィという手法を青春文学に用いることは何を意味するのかということを考えたり。記憶を図式化するためのロジックとして、ファンタジィ的ガジェットが機能しているのは確かだと思うんだけれど。
 そもそも「青春文学+ジャンル小説」という仕組みとは、一体何なのだろう。ジュブナイルSF(青春SFという表現はなかなか見ないなあ)、あるいは青春ミステリ、青春ホラー。「回想による図式化」「参入儀式」と、ジャンル小説に期待される「しきたり」「お約束」との相互関係とは?

 それはそうとして、Kanonという作品はそのような「ジャンル小説の枠組みを利用した青春文学」というよりは、「青春小説の枠組みを、表向き利用した何か」のようにも思えなくもない。ここでの「ねじれ構造」という話でいうなら、青春文学をメインに置いた読みをするから、ねじれが生じているように思えるだけでは?というか。


9月12日(金)  お叱り。
 忙しい。ううう。

2つほどお叱りが。こちらの掲示板から、前回の僕の発言について。
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>そのせいで、高橋さんの台詞はときどき僕にはマッチポンプ的に見えてしまうことが あったりします。
>僕個人の立場としては、むしろ高橋さんが演出するような対立図式の「うさんくささ」みたいなものに
>関心があったりするのですが。

 一応突っ込んでおくと、最初のこの文章が意図的に煽ることで高橋さんあたりを「対立図式を演出する側」に押し込めるマッチポンプ的なものであったと俺は思ってます。乗るほうが悪いって言ってしまえばお終いだけどさ。あまり「この言い方はマッチポンプ」とか言い出すとネット雑談で問題提起できなくなるから避けたほうがいいんじゃないかなぁ。
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 はい。マッチポンプ的という言い方は、幾分不適当だったかもしれません。相手を、自分の脳内の「仮想敵」みたいなものに押し込めていませんか?そのせいで相手の言おうとしていることを見落としてはいませんか?ぐらいのつもりだったのですが。僕自身がそうではないかと言われると、確かに反省すべき点は多いと思います。
 僕自身のこの発言のことですが、確かにあの文章は、幾分ジョークめかしてますが煽り的性質を持っているのは間違いなく、気分を害された方がいらっしゃったとしたら申し訳ありません。

 もう一つ。アシュタサポテから。
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ところで珍しくエロゲ日記系サイトなんぞをポツリポツリと拾い読みしていたら、到底自分でカントなど読んでいないとしか思えない人間どもがカントを巡って応酬しているのが目に入ってしまって困った。物自体がどうとか。つくづく思うんだけど「要約された意味内容」しか読まない人間のセンスの貧困さは圧倒的だ。ただの不勉強なら幾らでも巻き返したり言い訳したり出来るが、こればっかりは手の施しようがない。
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 …色々と反省しましょう。>俺。


9月6日(土)  エマヌエル・カント(続々)。思いつき。
高橋直樹さんのとこ。
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カントは物自体に具体像を与えなかったので、後の哲学者が自説に引き寄せて解釈しがちな面があって、どれが正解というわけでもなさそうな気がします。
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 「後の哲学者が自説に引き寄せて解釈しがち」ってのは、そうらしいですね。僕が重要視しているのは「物自体に具体像を与えなかったカント」という立場なのだと思います。
 カントは物自体という概念を導入したのに物自体の具体像を示さなかったので、「物自体」という概念に置いてけぼりを食らった気分になったひとが多数出現した。僕の「物自体は過去に出現する」という発言は、この事態をまぜっかえし気味に書いたつもりです。もちろんカント本人によれば、実際の「物自体」に関しては不可知としか言いようがない。

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物自体に近づくというのは、現象を産む仕組みを研究するということだ。
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 これが、ちょっと良く分からない。「互いの認識をすり合わせることで、必要なレベルで共通認識を得ることができる」というのは、まあ出来ても良いんじゃないでしょうかという感じなのだけど、そのことが「物自体」と関係するのだろうか。
 純粋悟性のあり方に関してはカントは、「認識の結果は××という形式(たとえばニュートン物理学の結果に沿うような形式)を持たねばならない。そうでなければ、そもそも認識が成立しない」という言い方をしているわけで。危険を冒して信号処理の例えを使うなら、カントは出力信号の「特徴を列挙」しているだけで(形式主義ってそういうことだと思います)、入力信号どころか信号処理フィルタの性質についても不可知であり近づくことはできないとした、という感じだと思うのですが。だから、そもそも悟性によるカテゴライズを関数だのフィルタだのという例えで表現すること自体が、かなり危ういのかもしれない。
 で、高橋さんの書き方だと、どうしても「物自体に近づく」という言い方からして、
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認識のすりあわせを行うことでフィルタの性質が徐々に明らかになり、ひいては逆フィルタ的に元の入力信号(ないし信号源に関する情報)が分かってくる
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という風に読めてしまうわけです。それは、(僕のカント理解的には)違う気がするのです。


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また、必ずしも公理主義がε−δ論法を裏打ちしているわけでもないのでは。もちろんきっかけになっているでしょうが、この理論は実践的にも必要なものでしょうし。
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 裏打ちとか実践的とかの言葉の意味が上手く掴めないのです。あと、公理主義的な志向は「実践的」ではないと?
 ちなみに「実用的」(実践的とは違うと思う)の話をするならば、ε−δ論法は、当時、実用的に数学を使っていた人たちからは不評だったような。もちろん現在では、時代が追いついてきたせいで「実用的」なわけですが。

 僕が微積分の歴史について少し書いたのは、「ε−δ論法が『偉大な発明』であることは否定しないけれど、どのようにそれが歴史的に成立してきたかを考えてみるのも時々は良いんじゃないのかな」ぐらいのつもりでした。
 学校で学問を天下り的に教わる場合、いま習っている理論が「人類の進歩」に沿って一直線に進んできたように思えてしまうことも多いのだけど、実際の成立過程は本当は色々と複雑だったりする。
 だからって「現在の科学体系は歴史的に構成されたものにすぎない。所詮作り事だ」なんていうことが言いたいわけではない。たとえば、現在の理論が(暗黙のうちに)前提条件としていることは何なのか、その前提条件はどのように形成されてきたのか、を調べることで得た知識は、理論を現実に応用する際にも役にたったりもする。


ところで、念のため言っておくと、僕は独我論も量子力学的世界解釈とやらも好きではないのですがー。「誰も居ないところで木が倒れたら、音は発生するか?」と聞かれたら、「するんじゃない?」と返事するタイプだし。高橋さんとやりとりをしていると、何だか僕は高橋さんに
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独我論大好きっ子。意志で世界は変わる。その世界では、みんな幸せ。ハッピーハッピー。
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って奴だと思われているような気がちょっぴりするのです。もしそう思われているとするならば、それは多分違うよーな。

 高橋さんの論調を読んでると、ときどき状況を無理矢理に
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・現実主義。「苦い現実を直視しろ!」(高橋さんはこちら側)
vs.
・お気楽空想主義。「信じれば夢も奇跡も絶対かなうよ!」「今の現実は夢に過ぎない!」「イヤな現実から逃げ出せ!」
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という(何だか良くわからない)対立図式に当てはめようとしているような気がします。その結果、僕の台詞が「お気楽空想主義者」のものとして高橋さんの中で変換されている気がするのですね。そのせいで、高橋さんの台詞はときどき僕にはマッチポンプ的に見えてしまうことがあったりします。
 僕個人の立場としては、むしろ高橋さんが演出するような対立図式の「うさんくささ」みたいなものに関心があったりするのですが。


関係ない話。ふと、思いつき。
 ジョージ・オーウェルの「1984年」に鼠を使った拷問の話が出てくるんだが、あれって、フロイトの鼠男の症例を参考にしてたりするんだろうか。


9月1日(月)  トラップ。エマヌエル・カント、ε-δ、メモ。
 トラップに引っかかって、n回休み。ううううう。

高橋直樹さんのところに、お返事。まとまらなく。
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「主観はそれに到達は出来ずとも近づくことは出来る」という風に考える人は、その後の哲学者にも結構いそうな気も。僕はそう信じたい派です。
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 居るかもしれないですね。僕は哲学史の概略を知らないので、良くは分からないんですが。元の文章で出てきたのがカントだったので、カントに話を限定しました。
 ところで、(たとえば)「世界は客観的に実在する。僕はそう信じたい」って感じの言葉の構造って、なかなか面白いと思うんですが。

 カントは「物自体」を仮構したけれども、「物自体」それ自体については不可知であるとして具体的には語らず、代わりに「物自体」から「現象界」(人間の感じている『世界』)を組み立てていく、人間共通の心の仕組み(というか、理性とか悟性とか)について語ろうとしたらしいです。「カント×バークリー」から
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 カントの「超越論的観念論」とは、いわば、客観性の基準を、実在性(モノの側)にではなく、(観念領域での)共通性に措くことであった。簡単に言えばこうである。あるモノを触ってみて、「うん、これは確かに石だ、間違いない」と思うのはそのモノの実在性の確認である。しかしそれは、カントの考えでは十分ではない。なぜなら、別の人がそれを触ってみて、「これは絨毯だ」と思うかも知れないからである。それらは「主観的な」確信、信念にすぎないのだ。つまり、カントにとって重要なのは、「これは確かに石である」という確信をすべての人が持つためには何が必要かということであった。みんなが持つ非常識は常識である。カントは、そうした基準を、すべてのモノの性質にではなく、形式に求めた。もはや、モノがどうのこうの(第一性質だ、第二性質だ)と言う必要はない。実在性は問題ではないのだ。重要なのは形式であり、形式が整っていれば必要にして十分である。そして、それが形式である以上、モノの中にある必要はないのであって、それはモノの形式ではなく、我々の認識の形式である。
 こうしてカントは、モノそのもの(ディング・アン・ジッヒ)ではなく、モノと認識との関係(認識の成立条件)を論じることになる。これが「超越論的」な立場である。
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 「物自体」と、僕らが認識する「現象界」は似ているとは言えない。僕ら自身の主観的現実を寄せ集めて「客観的現実」を構築したとしても、それが「物自体」と幾分でも似ているかどうかに関しては、カントは語ってくれないわけです。つまり僕らは、僕らの認識から「物自体」へは遡行できない。認識の原因であっても、結果とはならない「物自体」。
 このような「物自体」に関するカントの態度に、置いてけぼりにされたように感じる人たちというのは結構居たようです。僕が、
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要請された「物自体」は、僕らの「現在」と比べると「相対的な過去」にフッと出現するのではないか
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と書いたとき、この「物自体」への遡行不可能性や、「物自体」が僕らを置いてけぼりにする感じが、何だか(とりかえしのつかない)「過去」って感じだなあと思って、そう書いたのでした。
 ところで、誰か詳しい方、ツッコミやお叱りをお願いします。良く分からずに書いているのは正直辛いですー。

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この説を採ったからといって、物理法則は人間が定めたものだとかフィクションだとかいう話にはならないと思うのです。
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 元の文章での「フィクション」の定義をどう取るか、でしょうか。パラダイムがどーたらとか唯我論がどーたらとかいう話になるんで、深入りはしたくないですが。カント哲学における数学(純粋数学)の扱いは、「数学は、人間の『悟性』の共通性に依っている」だったよーな。
 まぜっかえし気味に書くと、僕は物理法則はフィクションだとは思ってませんが、人間の思考だか記憶だかは「半分ぐらい」フィクションだと思ってます。


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数学における極限は、到達点ではありません。無限にそこに近づくということを厳密に記述する方法が「ε−δ論法」で、人間の有限で離散的な言語・知性で無限や連続というものに迫るための偉大な発明だと思うのですが、この場合、到達点自体は未定義でも構わない。
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 あーはい。数学的には不適当な書き方です。高橋さんの文章だと、僕らの認識が一意に収束していく点を事前に仮定しているように見えて。それは僕からすると、到達点を仮定しているのと大して変わらない印象だったので。
 で、えーと、ε-δ(イプシロン−デルタ)論法ですか。また微妙なのが…。人間の現実認識のアナロジーを使った場合、何と何の差をεと置いているのかを教えていただけると幸いです。今のままだと、ちょっと良く判らない。あと、数学苦手なんで自信無く書くんですが、そもそもxとf(x)との具体的な対応関係が判ってないと、ε-δは使えませんよね?


 微積分や極限の体系化が、どのような議論を経て歴史的に成立してきたかは面白くて。
 ニュートン(無限小は無いよ派)とライプニッツ(無限小はあるよ派)による微積分学の創始時点では微分の概念はかなり適当なもので、バークリー辺りに文句をつけられていたらしい。その後、ラプラス(啓蒙主義的。機械主義的世界観。反宗教)→コーシー(熱心なカトリック教徒。ロマン主義的)などを経て、徐々に微分概念は体系化されていく。
 ε-δ論法を微積分学に持ち込み、極限概念を明確化したのはワイエルシュトラウスとハイネで、19世紀後半のことらしい。彼らの目的の一つは、微積分学を図像的なイメージ「曲線の、この点における傾きが〜」から切り離すことにあった。同時代の数学者、ヒルベルト、カントール、デデキントらと同様、彼らは「公理主義的」な数学を志向していたわけです。(ラッセルやウィトゲンシュタインとかの影が遠くに…)。「数学の独立性」「厳密な論証」を目指した、このような公理主義的数学から、やがて(たとえば)カントールの無限論や、ゲーデルの不完全性定理などの怪物が飛び出してくるわけです。
 …何を話していたんだっけ?

 そういえば、「重心」ていうのは、「漸近目標点」のアナロジーのつもりで書いたわけではないです。


今日のメモ。「悲劇的パッション」(上から3段目)より。
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 価値自由は、通常は、事実判断から価値判断を除去すべきであるとする、科学的な客観性への要求である、と解されている。しかし、ウェーバーは、たとえば「宗教社会学」の中で次のように述べている。「合理的な経験主義が、世界の脱神聖化〔世俗化〕と世界の機械的因果関係への転換を完成させたところではどこでも、その結果として、『世界は倫理的な意味へと方向づけられるような形で、神によって秩序づけられたコスモスとして見ることができる』とする倫理的な態度との間に、強い緊張関係が生じた」。このように記述された事態を背景にしつつあえて価値自由が要求されていたとするならば、そこには、単なる客観的態度に対する学問的要請には還元できない、悲劇的な。パッションを見るべきではないか。
 ウェーバーについて多少なりとも知識をもつものであれば誰でも、彼が、長い間、非常に重い欝症状に悩まされていたことを知っている。彼を一時学問と教育から遠ざけたこの深い憂愁と、価値自由の主張を促すパッションは、独特な対照を構成しているように見えないか。実際、彼が価値自由の要求を高々と主張するのは、病を克服した直後においてである。そうであるとすれば、ウェーバーの憂愁の内にこそ、社会学という知を可能にした態度が内包されているのかも知れない。私は、彼の個人的な病に過剰な意味づけをしているわけではない。というのも、この憂愁は「個人的な」病ではないからだ。
 十九世紀後半から二十世紀序盤にかけて、欧米の多くの知性が類似の深い憂愁に悩まされることになる。
(略)
(大澤真幸「社会学的想像力の構造−社会秩序はいかにして可能か」『社会学がわかる。:AERA Mook12AERA Mook12』朝日新聞社1996)
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