【2003年8月】
8月28日(木) 宿題。物自体、ユートピア。メモ。ピクチャレスク。
◆ページを休んでいるうちに宿題が溜まってしまった。自分を追いつめるために書いておこう。
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・画像表現としての俺セカイ系。透視図法と消失点。
・"Flaming June"あるいは、エピック・トランスの時間性。
・「ありえないことが起きる」という「奇跡」定義の面白さ。
・物自体、ユートピアの時間性。奇跡とユートピア。
・「死者を封じる」こととしての弔いと「食前の祈り」。黙祷の作法。
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…どれ一つとっても、難しいんですが。つーか、何で俺がこんなこと書こうとしてますか。
◆物自体、ユートピア。
少し前、「そのうち、『物自体』とか「現実界」とかが飛び交いだすんじゃないかと」と書いたら、本当にそうなりました。うわあ。カントというひとについて何か書くのは、ものすごく怖いんですが。
カントというひとは妙な論法を使うらしいです。対戦型哲学史から「ベルクソン×カント」によると、
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カントの批判の試みは、一言で言えば、「可能性の条件」に関わるものである。『純粋理性批判』では「認識の可能性の条件」が、『実践理性批判』では「道徳の可能性の条件」が問われている。「可能性の条件」とは、簡単に言えば、「これこれのものが成立するためには、その前提条件としてかくかくになっていなければならない(そうなっているはずだ」というものである。カントの仕事が事実問題ではなく、権利問題だと称されるのは、この意味においてである。つまり、「事実こうなっているからこうなのだ」というのではなく、「こうなっていなければ(例えば認識は)成立しないのだから、こうなっているに違いない」とするのがカントの議論の進め方なのである。実は、カントが「コペルニクス的転換」と呼んだものの正体はこういうものなのだ。。
こうした議論は、したがって、既に認識なり何なりが成立していることを前提とし、つまり出来上がった認識から出発して、可能性の条件を、事後的に追いかけていって再構成することになる。だから、カントの『純粋理性批判』の叙述は実は逆転している。感性的直観によって仕入れられた材料が、想像力による図式、悟性の範疇といったフィルターを通すことによって整理されて、きちんとした「認識」になるという順序は、つまりは、フィクションなのである(当たり前だが)。だが、カントは、それが「事実だ」と言うのではなく、必要条件なのだから、こうなっているはずだ、と言っているに過ぎないのだから、彼は決して間違うことはないのだ。
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のような具合。どうやら、要請された「物自体」は、僕らの「現在」と比べると「相対的な過去」にフッと出現するのではないかと思います。じゃあ僕らの「未来」はどうなるのかというと、それこそ「何とも言えない」ような。
高橋直樹さんの文章だと、「物自体」を無限未来に置いているかのように読めるので、何だか違和感を感じます。「物自体」は「認識が到達する場所」ではなく、あくまでも「認識がスタートする場所」で。この両者のズレが、時間漸近的に縮まるのかというと、それは違うような気がします。両者の性質がそもそも決定的に異なるような気がするので。
ところで、知人によると、精神分析理論の時間性とカント哲学の時間性は似ているらしいです。
もう一つ。「ナウシカ解読」(読んでません)の名前が出たついでに、「ナウシカ解読」の筆者の稲葉振一郎氏の「ナウシカあるいは旅するユートピア――ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿―― 」の話(ううう、なぜ、この文章のことを、奇跡談義のときに忘れてたんだろう、俺)。
「青き清浄の地」はアニメ版ナウシカにおいては「(無限)未来に置かれた到達すべき場所」であったけれども、マンガ版では異なっていて、「青き清浄の地」はいかなる意味においても、人間にとっての選択肢としての「可能性」ではない。けれども、
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この「青き清浄の地」が主人公たちそれぞれの旅の(到達点ならぬ)重心として物語を一つにまとめている。
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わけです。「到達点」ではなく「重心」としての「物自体」?
「過剰としての世界」とか、奇跡とユートピアとかについては、まとまらなく考えている最中です。あと「旅」についてとか。
◆今日のメモ。
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また、精神分析は、根源的間隙や構造的不可能性を、欲望のそもそもの条件として、英雄的に受容せよと言っているではないか。これはまさに、「<現実界>の倫理」――構造的に不可能であるという<現実界>を受容する倫理ではないか。ところが、ラカンが最終的に目指すのは、その逆だ。恋愛の例を考えよう。恋人どうしはたいてい、ある神話的な<他>において(「あるとき、あるところで」)、二人の恋が真に成就し、その成就を妨げているのは、今の偶然的な事情だけだという夢を見る。そこでのラカンの教えは、成就する「別の場所」はないということであり、その<他>は、そもそも幻想の<他>だということではないか。そうではない。「不可能としての<現実界>」は、ありえないことは起きないのであって、<愛>のような「奇跡」(あるいは革命。レーニンは一九二一年に「いくつかの点で革命は奇跡だ」と言った)は、確かに起きるという意味だ。「起きることはありえない」から「ありえないことが起きる」へとわれわれは移る。――これがいちばん受け入れがたいことであって、最終結果を永遠に妨げる構造的障害なのではない。「これから起こる奇跡にどうすればいいか忘れていた」のだ。
(スラヴォイ・ジジェク「信じるということ」p.88。太字は原著強調部。赤太字は引用者強調部)
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おおおおお。これかー?
◆動かざる歴史の8月21日。
なるほど、「ピクチャレスクな風景」かあ。知らなかった。産業革命とかロマン主義とかを絡めて、もう少しお願いできますか?
メモ:風景年表、ランドスケープ・ガーデン、ランドスケープの倫理学
あと、「ピクチャレスクはロマン主義の先駆のひとつには違いありませんが、ロマン主義はピクチャレスクとの断絶なしには生まれてこなかったようにも思われます」
あと、内田樹氏の8月11、14、16、19、23日あたりに目を通していただけると幸いです。
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8月18日(月) 熊の木本線、ジャズセッション、メランコリー。
◆転叫院くんのとこ。
んー。筒井康隆の『熊の木本線』なのだけど、あれって
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何らかの(忌まわしい)正解が僕の知らないところで事前に定められている。僕は正解を知らないにも関わらず「なぜか偶然にも」(反語?)正解を引き当ててしまう。
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って話だと読んだのですが。この世のどこかに「僕だけのために用意された落とし穴」ってのがあって、ある日、その穴にすっぽりとはまり込んでしまったような、というか。おそるおそる言うなら、あるいは浩平が瑞佳に冗談めかして告白したところOKされてしまったときの、それ。
「何かわからないけど、大きな災いが未来にやってくる」というのも、どんな災いが来るにしろ、それは回避不能で、災いの原因は「既に起こってしまった」。つまるところ、僕は『熊の木本線』を(三浦雅士の言うところの)メランコリー的な作品として読んでしまったのだけど。
主人公が「正しい熊の木節」を歌ってしまったときに、盛り上がっていた宴会の場は一瞬にして醒めてしまう。あの「居心地の悪さ」の感覚が『熊の木本線』という作品全体を支配している。そういう気がしてます。
ついでに言うと、「冗談を言ったら場が白けてしまったので、慌ててもっと過激な冗談を言おうとして更に状況が悪化」というのは筒井康隆が頻繁に描く事態で。一度、リズムに遅れてしまった演奏者が再び本来のリズムに追いつこうと努力しても、追いつけないどころか、遅れてしまったことを自覚させられる一方というか。
じゃあ、どうしたら良いか。筒井康隆は「白けた場の雰囲気を打開するために、前よりも過激な冗談を言う→場がさらに白ける→さらに過激な冗談」と状況をエスカレートさせていくわけです。そして、そのエスカレートしきった状況の中に突如、「過激な冗談」と現実との区別がなくなってしまう一瞬が、非常に暴力的な形で噴出する。その暴力に場を従わせることで、新しいリズムを生み出そうとするわけです。
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親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗な刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込んだ。
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という感じでしょうか。…あ、これは「坊っちゃん」だ。どっちかというと「他人の指を切る」という方が正しい気がしますが。
メランコリーを内破させるために、筒井康隆はアイロニカルな形にしろ「敵」という概念を持ち込まざるを得なかったように思います。世界(あるいはセカイ)と自分とのズレを、「敵」と「おれ」との関係に集約、変換したというか。
何が言いたいのか、分からなくなってきました。
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・『熊の木本線』はメランコリー的作品である。
・筒井康隆はメランコリー的な地点から出発して、メランコリーを内破させることを試みた。
・『熊の木本線』は、内破を目的とした作品ではないのではないか?(注:少し文面を変えました。8/19)
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って感じでしょうか。
おまけ:浩平は日常生活であれこれ奇矯な行動をとるのだけど、その行動はいつも「後先考えず、ついやっちゃった」って感じである。これって何に似てるんだろうと思ったら「坊っちゃん」の主人公だった。
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木村敏は『時間と自己』において、メランコリー者にあっては「過去・現在・未来をまとめた歴史的展開の全体が『とりかえしのつかない』確定性において経験される」と述べている。未来までもがすでに終わってしまったもののように感じられるというのである。
(三浦雅士「メランコリーの水脈」)
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この場合、重要なのは「とりかえしがつかないこと」ことで。必ずしも決定的未来観を採用しているわけでもないような。事象を把握する際に、自己の視点を事象と相対的に過去に置くか未来に置くかという話ではなかったか。どのような未来の事象を想定するにしても、その際の自己の視点が事象よりも更に未来に置かれているならば、「全ては最初からそうであったかのように見える」のは、ある意味当たり前の話で。
関係ないが、「メランコリーの水脈」の筆者あとがきは、ジムで体を鍛えているインテリが説教をしているような感じで何だか愉快。
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8月17日(日) こみけ。
こみけで売り子。
帰りははじめて水上バスに乗ってみることに。曇天の下、船窓から見える港湾の風景に、同行者と「全身にテクノスケープが滲み込んでくるようだ。元気が出ますな」などと話しつつ船旅を満喫。また乗ることにしよう。
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8月15日(金) 天野こずえ「AQUA/ARIA」(ARIA3巻のこと)。
◆天野こずえ「ARIA」(2、3巻)(マッグガーデン)を買ってきた。
…あれ。僕が今までこの作品に感じてた違和感のかなりの部分が、3巻で解消しているんですが。それ以前の巻と、何だか全然雰囲気が違う気がする。例えばp.8やp.93のモノローグ。カット割りにおいてもp.61,62。あるいはp.97、p.134辺りは僕が望んでいた方向性に近い。
というわけで、水曜日にクリエでお話した皆様、大変申し訳ないです(あと、北守君も)。やっと、この作品に手が届いたような気がしています。幸せ。
何故この巻の印象が他と違うかというと、季節が一周してセカンドシーズンに入った、というのがあるのかも。最初の一年、はじめて見る景色の数々に驚き感動していた「だけ」の灯里なのだけど(いやまあ彼女、「驚くことの天才」ではあるんですが)、再び同じ季節が来た現在、今度は他の様々な事象との微細な繋がりを意識しながら「風景」を捉えているような気がする。これからがとても楽しみ。
◆「AQUA/ARIA」に僕が感じていた違和感の一つは、ひょっとすると「作品世界内に僕の居場所(視点の置き場所)がない」ということなのかも。といっても、具体的な僕のステータスがどうこういう話ではないわけで。
たとえば、会話シーンで全員を一つのフレームの中にきちんと入れてしまうことが(今までは)多かったわけです。で、そのような画面構成は「僕自身の視線」を作品世界内に忍び込ませることが難しい。「隙」が無いから。
多分僕は、「僕自身の視線」を作品世界内に忍び込ませるような読み方でないと、作品に没入できないのかもしれない。各登場人物がわらわらやってるのを「遠くから眺める」ようなのは、好みではない。演劇をあまり楽しめないのも、そのせい?
パースペクティブや「消失点」に関しては、もう少し考えてみます。「AQUA/ARIA」をロードムービーとして見たときのカメラワークの問題なのだろうか。水曜クリエで出た話題だと「僕としては進行方向を撮ってほしい場面なのに、実際には、横からキャラを撮っている」苛立ちというか。ロードムービーの時間性。
というわけで、テクノスケープに「旅、移動」という観点を加えるとどうなるか教えてくださいな>赤毛娘。…ウィリアム・ギブスン総括? ところで「ウィリアム ギブスン テクノスケープ」でgoogleしたところ検索結果0件というのは、どういうことか。
あと歴史学のひとには、アナール学派だかアラン・コルバン「浜辺の誕生」「レジャーの誕生」だか(よく知りませんが)を絡めて、「風景の発見」について解説してほしいなあ、などと無責任に期待します。
◆って、こういう話が、こっそりと「風の辿り着く場所」に繋がったりするのですがー。
というか、僕の「風の辿り着く場所」の印象は[Ti]さん(ツーリングライダー)の「fair wind」に影響を受けすぎだと思った。
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8月14日(木) 「AQUA/ARIA」。注釈。
最近の話題とはあんまり関係ない更新。
◆「AQUA/ARIA」の話。動かざる歴史(8月14日)。
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灯里がアリシアさんの背中を見ているのは確かだと思うのですよ。
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あああ、だから背中見ちゃ駄目なんだって。その先を見ないと。「師を見るの(だけ)ではなく、師が見ているものを見よ」というのは芸事の基本なわけで。
その点で、ゴンドラを漕いでいる人間と、前に座っている指導員あるいは助手との位置関係が結構気に入ってます。視線を合わせずに会話するあの感じも。ただ作者の人は、「視線を合わせない二人」を斜め前と横からしか書かない。それが残念。…絵的に難しいこと要求してるなあ俺。
普通はこういう場合、モノローグっぽい表現でカバーしたりするわけなんだけど、灯里に関してはモノローグが即「誰かへの語り」に直結してしまうようなところがあって、その手法が使えないのが何とも。
クリエでの(プレ)水曜例会で、2時間に渡って「AQUA/ARIA」の話に(そのうちの1時間は、要領を得ない僕が問い詰められてた時間)。その内容は僕がARIA3巻を買ってから書くことにします。
◆前回書くのを忘れてた分。自分用のメモ。
三浦雅士的なメランコリー、に関してこちら。
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メランコリーは、受け入れたくない「現実」の世界へ入っていかなければならないときに発症する病気みたいなものです。「現実」に対して距離を取りたいから、今起こっていることはすでに終わってしまったことなのだと考えるわけ。そういう心の状態のほうが楽だから。ああ、こんなふうにして人生は過ぎていくんだな、と、目の前で起こっていることを、まるで遠い昔のことのように遠くから眺めているような感覚、記憶としての現在。そんなメランコリーを村上春樹は作品化することに成功し、同じ思いを持つ多くの人々の心を捉えたといえます。
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あたりは、「単なる現実逃避の文学」と受け取られそうで、アレなんだけど。
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8月12日(火) こめんつ(続)
また遅くなった。
◆一部では「実在論」とか、「コペンハーゲン解釈」とかいう言葉が飛んでるようです。うわあ。そのうち、「物自体」とか「現実界」とかが飛び交いだすんじゃないかと。
◆やまうちさんのとこ。遅くなってすみません。
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Kanonは好きだしKanonの話聞くのも話するのも楽しいけど正直なんでいまKanonなのかなあ、っていう戸惑いはないではないです。flurryさんにそこのとこだけ教えてもらいたい、かな。
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一応、今回の話の裏には、「なぜ?」という問いのどうしようもない多義性とか、あるいは「問いかけ」と「返答」との構造がどーたらとか、そんな話があるような気がするわけで、その上であえて「なぜいまKanonなの?」と訊かれているということは、つまるところ総括せえってことですか?などと考えて悩んでたのですが。
それはさておき、「胸いっぱいの多幸感で何も言えなくなる感覚」というのが、多分、僕の脳にもずっと引っかかっていたような気がします。その引っ掛かりと無数の要因、たとえば
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・知人とKanonの話をした。彼は「あゆが救われると、残りの2人は…」派。
・赤毛娘のこの発言を読んだ。
・グレッグ・イーガン「しあわせの理由」を読んだ。
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とが重なって閾値を越えた結果が、あの発言になったかと。でも、…なぜ?
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ヒロインによって祐一の失われた「過去」が決定するってあたりはKanonの常識のはずなんですけど。
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今回はその「常識」とかいうのを外したところでやってみようと思ってました。その常識が「胸いっぱいの多幸感で何も言えなくなる感覚」に直接繋がっているかというと、何となく違う気がしてます。
◆今木さんのところ。
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「風の辿り着く場所」の作詞は「Key」となっているが、これはまず(anemoscopeの詩ともども)麻枝准の仕事とみて間違いはない。
(略)
で「残りの2人」なんていう限定が働いている(残り4ないし5人ではなく)時点で、話が久弥直樹シナリオ部分に限られてしまっているので、月宮あゆ絡みのシナリオと「風の辿り着く場所」が矛盾ないし乖離しても、たんに作家性の違いで片付けてしまえるわけですが。実際のところどうかというと微妙だけど。
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あー、はい。作詞が実質的に麻枝氏の仕事だということは念頭にあったです。そもそもの文を書いているときに、いつ突っ込みが入るかドキドキしてました。ただまあ、さすがにOP/EDの歌詞は重要なわけで、コンセプトワークの久弥氏がOKを出したということは、彼の方向性も入ってるだろうってことで。
はじめっから危うい橋渡ってます。つうか渡りきれてないかも。
で、なぜ久弥シナリオ部分に限定したか、なんですが、
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(a)個人的な背景。「あゆが救われると、残りの2人は…」派の知人との会話の影響。
(b)(二者択一的な)「奇跡」を巡る局地戦がしたかったから。
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(a)はどうでもいいので、(b)の話。
A:「月宮あゆが救われた場合、栞は悲惨確定ですが」
B:「なんで?」
A:「…なんでって、奇跡の数は1つしかないでしょ?」
B:「え、あの世界って奇跡パワーを持つ奴って沢山いるんじゃないの?」
A:「…えー」
これって、実在論的解釈とゆーか、「記述されているかどうかにかかわらず、世界の隅々に至るまで決定されている」に立ったとしても出来る議論なわけです。むしろ作品世界を内部記述だけで完結するものとせず、「記述されていない外の世界」と繋がっていることを仮定してくれているだけ、やりやすい。
一方、ヒロイン全員を扱う場合、奇跡のかわりに「主人公に選ばれる/選ばれない」というメタっぽい視点を招きよせることになる可能性が高い。奇跡なら「いや、沢山あるじゃん。奇跡」と複数化できるのだけど、「主人公は一度に一人」というボトルネックは面倒なのです。いわゆる「常識」、「過去の遡及的な決定」をうかつに採用すると
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・「ヒロインによって祐一の失われた過去が決定」を採用しない→選ばれなかった女の子は悲惨になる。
・「ヒロインによって祐一の失われた過去が決定」を採用する→選ばれなかったからといって、悲惨になるわけではない。
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という、妙な二分法(何だか今、そうなりかかってますが)になりそうで。それは僕にとってあんまり望ましくないのです。
◆だから(何がだ)、滅・こぉるさんには、「なぜ、実在論的解釈は『摩擦のある世界』を要請するのですか?」と聞いてみたいです。末尾で言及されていた高橋さんの文章を読んでも良く分からない。
たとえば「物語全体に整合性のある解釈を与えること、伏線をきっちり回収すること」と「摩擦のある世界」とは、どのような関係にあるのでしょうか。というか、そもそも「摩擦のある世界」って何なのでしょう?
◆「イリアの空、UFOの夏」の総括(動かざる歴史8月12日)
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8月9日(土) こめんつ。
◆少し時間がとれたので、溜まっている宿題を少しづつ片付けていきたいと思います。
僕がへばっているうちに、各方面で話を展開させてくださっている方たちがいらっしゃって、その方たちの素敵できちんとした発言を読んでいると「あー、もう俺が書かなくても良いかなあ」という気がしてくるのですが、多分それは無責任というもので。
◆くるぶしあんよさんの日記でコメントを受けました。詳細なお返事は余裕が無くて出来ないのですが、僕が言いたかった点をきっちりと掬って頂いてどうもありがとうございます。涙が出そうに。
◆高橋直樹さんのとこ。(8月5日分)。
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つまりバランス感覚の問題で、この世の全ての現実を我が事と引き受けては、それこそバナナ一本食べるのにアフリカの貧困に思いを馳せねばならなくなり何事も判断が立ち行かなくなってしまうが、だからといってアフリカのことなんか日本人の俺は気にしなくていいのだ、と割り切ってしまうのもまずいということ。
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全くもってその通りです。ただ、多分何度も同じことを書いてる気がしますが、バランス感覚の話をしているのは僕も同じです。初めから「どのようにしてバランスをとるのか」の作法の話しかしていないと言ってもいい。
たとえば、僕らが食べている食料の多くは、他の生き物の命を奪わなければ作れないものです。そのことを考えてみるのは確かに大事なことだと思います。ただ僕が思うに、「焼肉を頬張って噛みしめたときの素朴な幸福感」、それも同じくらいに大事です。
僕が言っているのは、焼肉を口に入れているときに「牛の命を奪わないと〜」という話をする奴は阿呆だ、ということです。それは他のときにすればよい話です。「焼肉の美味」と、たとえば「他の生き物の命を奪うという罪悪感」とを不思議な形で結合しようとするのは多分、愚かな行為なのではないかと。
同様に、というか「俺の女にフられた男を見ると自分には恋人がいると心底実感する」って奴は、相手の男だけでなく自分の彼女に対しても失礼なのではないかしら。
「両者のバランスをとる」ということは、両者をきっちりと区別した上で、自分のリソース上に両者を配置することだと思います。両者を区別なく混ぜこぜにすることではないはずです。
(定期購読されている読者の方へ:「公的/私的」の話をしているのかもしれません。少し前に書いたこれと僕の中ではつながってる話で)
もう一つ。セカイ系の話です。ご紹介のこちらを読んでみました。…書き手の方もまた「ブンガク」の視点でしか題材を見ていないような文章に思えます。
「この文章で書かれているところのセカイ系」の場合、「セカイと世界との葛藤」がテーマで、それを表現するために「セカイ>>>>>>世界」が具体的に描かれるわけです。「最終兵器彼女」はこういうブンガク的な作品で、最終兵器と化した「ちせ」が、
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嫁さんに逃げられた親父とか連れ合いに死なれてしまったおじいさんとか脱サラしたけど中々軌道に乗らない経営に悩む飲み屋の親父
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をプチプチと殺したりすることで(いやまあ少し違うんですが)、「セカイ>>>>>>世界」を表現するわけです。
一方でKanonや「ほしのこえ」のテーマが「セカイと世界との葛藤」かというと疑問です。作中で「セカイ>>>>>>世界」を描写しているわけでもないです。それゆえ僕は両者は区別した方がいいんじゃないか、と書いたわけです。
ついでに少し言うと、ミカコの心的世界には「ノボルのいるセカイ」が入れ子状に収納されているんですが、そのことは彼女の心的世界に「連れ合いに死なれてしまったおじいさんのいるセカイ」が収納されていない、ということは意味しない。別に両セカイは問題なく並列に共存できるわけです。もちろん2つのセカイが衝突してしまう状況も想定できます。その状況ではミカコは悩み苦しむでしょう。ただ、それを描くことが「ほしのこえ」の目的ではないわけで。
◆僕がだらだらと言っていることを一行で書くと、つまるところ、
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「ごめんなさい」と「ありがとう」は、別のものだろ?
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程度のことなのかも。あるいは、こんなのはどうだろう。
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助けられた男:「…済まない」
助けた女:「なーによ、その『済まない』って。こーいうときは『ありがとう』って言うもんでしょ?」
男:「…あ、ありがとう」
女:「よろしいっ!(満面の笑顔で)」
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うわあ、ピュアだ>俺。
◆某掲示板。きちんとした証拠に基づく丁寧な論考、大切に読ませていただいています。僕はその点を怠けていたわけで、恥じ入るばかりです。…ところで、その論考が過去ログが消滅してしまうタイプの掲示板に書かれているのは一体どういうことですか。泣きますよ俺。
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大げさに言うなら、Kanonは「夢」という言葉に韜晦しながらも、近代以降の創作につきまとう「物語の確定的な記述」に対しての野心的な挑戦をしてみせた、そうした評価はできないか。
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その書き方だと、たとえば芥川の「藪の中」との区別がつかなくなってしまうような気もします。僕個人の直感では両者は違うと感じているのですが、上手く言葉にならなくて、「偶有性? うーんうーん」と言っているような状態です。
◆適当メモ。
Imaginary/Symbolic/Realの区分とかいうのに従うと(意味分からず使ってます)、他者性にも「トラウマ的他者性」(φ)とか「マクガフィン的他者性」(対象a)とか、色々あるのかなあ。
たとえば「欲望は他人の欲望である」という言葉は余りにも気軽に引用できて、おまけに、他人への説教にも使えてしまったりするのだけど、肝心の「他人って何のことだ」というのは一筋縄ではいかないよーな。
某所の「もし本当に銀河通信が他人に届いてしまったら、どうしますか?」に関しては、僕は「それはそれ、これはこれ」ということになるんだと思います。あるいは、「それはそれで!!」
あ、そっか。「S県月宮」って、「猿の手」っていうかいわゆる「意地悪な奇跡」の一類型なのかも。いかにもネット上の噂話とゆーか。
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8月8日(金) (無題)
徹夜で作業して、そのまま8時の新幹線で台風通過中の静岡県に出張。帰宅は午前様。きゅう。
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8月5日(火) 皆様からのコメント。偶有性と二者択一。夢。
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好き好きお兄ちゃん
Takahashi's Web(8月5日分も)
たそがれSpringPoint(8月4日分後半)
TRPG: メモ書き
Hentai Japanimation
動かざる歴史
日記&ノート(転叫院)
からコメントを頂きました。
…うわあ沢山(自業自得です)。ええと、僕はそんなに馬力があるタイプではないので、自分なりのペースで答えていくことにしたいと思います。待たせてしまって申し訳ないです。
それはそうとして、コメント大歓迎です>読んでいる方々。
◆たそがれSpringPointの滅・こぉるさんから。
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同じページの下のほうでバーナード・ウィリアムが功利主義批判のために行った思考実験に言及している。『Kanon』の話とどのように繋がっているのかがよく解らなかったのだが、
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僕にも良く分からなかったりします(←おい)。分からないなりに考えてみます。多分、「偶有性」について考えていたんだと思います。倫理学的思考の基盤と偶有性との関係というか。
たとえば「人を殺すな」というときには「お前は誰かに殺されたくはないだろう?じゃあ、お前も誰かを殺すな」という、立場の対称性に関する理屈が(それなりに)通用するわけです。では「残酷な動物実験」の場合はどうかというと、立場の対称性が成立しないわけで、そこが色々と難しいのかもしれない(詳しくは知りません)。そういう話です。
で、「自由を考える」で大澤・東氏らが述べていることは、次のようなことです。
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・「不可能性と必然性の否定」「私が他でもありうる」偶有性と、「私がこの私である」単独性は対立していない。むしろ、両者は同じことの二面である。
・この偶有性の感覚こそが「普遍的な連帯」の根本にあるのかも。
・ソフトな高度監視社会において奪われてしまうのは、この偶有性の感覚なのではないか?それによって「普遍的な連帯」が崩れてしまうのではないか?
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スローガン的に言えば「社会の普遍的な連帯を守るため、偶有性の感覚を大事にしよう!」ってことになります。じゃあ、具体的に「偶有性の感覚」を大事にするにはどうしたら良いんでしょうか。「私が他でもありうる」感覚を強化すること? 「他者への想像力」?
たとえば「クイズに正解したら賞金1000万円。不正解だったら借金1000万円」というテレビ番組があったとする。この番組を観ることで「あの出場者が正解していたら、彼の人生変わったかも」という「他者への想像力」「私が他でもありうる」感覚が鍛えられて、社会性が身に付くかも。そんなアホな? いや、そういうレベルで素人参加系番組を褒めるひとが本当にいたのです(実例は示せないんですけど)。
でもそれって、偶有性の感覚なんでしょうか。思うに、そこにあるのは「二者択一の論理の必然性」であって「不可能性と必然性の否定」ではない。番組参加者の可能性が「正解/不正解」に押し込められてしまっている。
世の中には「××はただのハッピーエンドではなく、『誰かが救われるためには、必ず他の誰かが犠牲にならなければならない』残酷な物語なのだ」と言うことによって、社会性とか「他者への想像力」を説いた気になっているひとがいる。でも、僕からすると、この人が言っていることはクイズ番組を評価する人とあまり変わらないわけです。
…なんだか意図不明ですね。自分でも良く分かっていない話をするもんではないです。お目汚し失礼しました。以上です>滅・こぉるさん。
あと僕は、東浩紀「ソルジェニーツィン試論」をちゃんと読むべきだと思いました。反省。東浩紀氏は良く「『ほしのこえ』にはノイズが足りない」みたいなことを言っちゃうんですが、彼の中で「ノイズ」と「偶有性」とがどういう関係にあるのか、知りたいところです。
あとミステリ方面には、笠井潔氏の「大量死理論」というのがあったような。良くは知らないんですが。
◆身内方面。赤毛娘のとこ。
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なんだかんだでこの問題については、死エロの「(略)」がやっぱ一番冴えてると思う。
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うん。僕もそう思う。死エロのこの文章は最初からずっと念頭にあったです。ただ、あの文章、
・栞シナリオ内にはあゆも名雪も舞も真琴も存在すらしない→社会性を志向しない
or
・「月宮あゆが助かるってことは、残りの2人は助からない」→社会性を志向する
という、間違った読みをされてしまう危険性があるよーな。そんなのを社会性とは言わないつーの。
死エロに関しては、7月1日のこの文章も。
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ところで「すごく近いこと」と「すごく遠いこと」というのは言うまでもなく例の二分法というやつで、そこからその間にあるものを導き出して(実はそれを前提として二項が導き出されているのだが)二項に対置させるという弁証法的な罠こそが二分法が批判される最大の要因だと思うんだけど、
(略)
とりあえず「どちらでもないもの」が「学園」のような世俗的な機関に読み替えられるとき、そうした「学園」は恐るべき抑圧機構として働き出しかねない、とは言っておきましょう。
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とか。
あと、AQUA談義の方を放置しててごめん。ある意味、こっちで同様の話をしてるわけだから、それで勘弁してくれない?
歴史学のひとのとこ。
あー、なんだ、その。説得力ありそうな文章なのだが、もう少し僕のような門外漢にも分かり易く書いてくれませんか? なぜそれが「選択」という行為と馴染まないのか、とか。
あと、僕の中ではこの話、グレッグ・イーガン『ボーダー・ガード』や『愛撫』と同じところに入ってるのだけど。『ボーダー・ガード』や『愛撫』に関する君の意見が聞きたいです。
◆私事。
夢の中で「夢。夢を見ている」というモノローグをつぶやいていた。そんな夢。Kanonのことを考えていたせいだと思うんだが、実に愉快。
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8月3日(日) 「誰かが救われるためには、必ず他の誰かが犠牲にならなければならない」
kagamiさんからコメントを頂きました。上手くお答えできるか分かりませんが、頑張ってやってみます。
◆
まず最初に書いておくと、前回の文章で、僕が「憎むべきターゲット」として意図していたのは、「『月宮あゆが助かるってことは、残りの2人は100%助からないってことを意味するんですよ』なんて思っているひと」なのですね。繰り返し言うなら「誰かが救われるためには、必ず他の誰かが犠牲にならなければならない」なんて思ってるひとのことです。
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flurryさんはグリム的(グリムは収集した異教的な童話に対して
勧善懲悪・神の奇蹟、子供向けの検閲を行ない、童話をキリスト教的に教化した)
なメルヘン論から「蓋然性を無視した全ての登場人物の救済」を考えているけれども、
ことはそんな単純ではないと思いますね。
少なくとも、KANONは、御伽話であるとともに、反御伽話としての要素、
世界に対する可能性を閉ざす確定的な諸要素を強く持っている。
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「グリム的メルヘン論」というのが良く分からないのですが。うーむ。
僕は御伽噺に「世界に対する可能性」があるとは余り思っていません。たとえば「誰かが救われるためには、必ず他の誰かが犠牲にならなければならない」というのは、僕にとっては「蓋然性を無視した」「世界に対する可能性を閉ざす」御伽噺です。逆に、(部分)確定的な記述こそが世界の可能性を開き得ることもあると思うのです(余談ですが、僕がSFに見ている可能性というのが、これと似た感じです)
キリスト教については良く知らないのですが、キリスト教は根本に「人間の原罪」と「キリストの犠牲」という犠牲と贖罪の御伽噺を抱え込んでいるよーな。
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>「奇跡がそこら中に(過剰なほどに)溢れてる世界」
であるならば、その世界の奇蹟の価値は既に奇蹟では無く、
KANONの物語構造自体が成立しません。
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えーと、ここでの奇蹟はkagamiさんの定義する「現実では有り得ないことが起こるという虚構性」の意味ですよね? でもそれは奇蹟という言葉の一用法にすぎないのかもしれない。
たとえば恋愛に関する歌の歌詞で「二人が出会えたのは奇跡のようだね」というのがあったとする。このとき、この歌詞は二人の関係性が「現実では有り得ない」ことを主張しているのかというと、それは少し違うはず。どっちかというと「かけがえのなさ」とか唯一性とか、あるいは「偶有性」(意味分からずに使ってますが)とか、そういう話のはずです。これならば世界に溢れてても問題ないわけで。
僕が「奇跡がそこら中に(過剰なほどに)溢れてる世界」と書いたとき
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「風の辿り着く場所」の歌詞から判断する限り、Keyスタッフが「奇跡」に込めた意味には、虚構性とか「現実では有り得ないことが起きる」という要素は少ないのではないか?
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ということを(少し皮肉をこめて)書いたつもりでした。
他の方の論考を援用するのは少し気が引けるのですが、(先程サーチして見つけた)雪駄さんの論考での奇蹟観に、比較的近いものを僕は感じます。たとえば、
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Kanonにおける奇蹟とは、主人公がその行動で起こしたものではない。
全て「気づいたらそこにあった奇蹟」である。
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の辺りですね。
◆もう一つ。ゲームシステムのことです。
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で、KANONに話を戻しますと、KANONの世界は、御伽噺の虚構性を弱めて
ユーザーに感情移入させる為に、システム(主に時間)を徹底的に管理して、
事象を固着させ、世界構造を決定化しているのですね。
ゆえに確定したことは、常に確定しているし、
他の場所の時間も、全ては同一線上で進んでいる。
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えっと、この部分は僕の感覚と違うような。
僕がONEやKanonをプレイしていて、ゲームが前半の共通ルートから、後半のキャラ個別ルートへと進行したことをどうやって知るかというと、基本的には
・そのキャラ以外のキャラとの日常イベントが減少する。
・時間のペースが共通ルートとは変わってくる。具体的には1日づつ進行しなくなる。
という辺りなのですね。ゲームを続けていてふと気が付くと、特定のキャラしか画面には出現しなくなっていて、それを当然と思っている(プレイヤーとしての)僕がいる。ふと気が付くと、先程までは1日づつ進んでいたカレンダーが一度に一週間ぐらい進んでいる。
「あ、俺、この娘のことしか見えなくなってるんだな。この娘に惚れてるんだな」
と、僕はそのとき思うわけです。実はこのことに気付かされる一瞬こそが、遊んでいて感慨深い瞬間だったりもするのです。
だから、ゲーム前半部分における「時間の徹底管理」は、まさに後半の「時間の変容感覚」を準備するための伏線という位置づけになると思いますし、後半においては「他の場所の時間も、全ては同一線上で進んでいる」とは一概には言えないのではないかと僕は考えます。各ヒロインの悲劇は必ずしも平行に起こるわけではない。
とりあえず、以上です。何が言いたいのやら分からない文章ですみません>kagamiさん。
◆ところで、高橋直樹さんのこれが僕に向けられているような気がしてきました(考えすぎです)。
高橋さんの文章とは直接関係ないんですが。
セカイ系(久しぶりに使うなあ、この言葉)と呼ばれる作品の中にも色々あって、「誰かが救われるためには、必ず他の誰かが犠牲にならなければならない」テーゼと相性の良いものとそうでもないものがあると思ってます。「最終兵器彼女」が前者で、「ほしのこえ」が後者か(適当)。
そこら辺を混ぜこぜにした「セカイ系批判」を見ると、何だか悲しくなります。つーか、「最終兵器彼女」と「Kanon」と「ほしのこえ」を一緒くたにされても困るというか。セカイとやらの扱いが全然違うでしょうに。
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8月2日(土) 「月宮あゆが助かるってことは、残りの2人は助から…」、二者択一の論理と倫理。
◆Kanonで「月宮あゆが助かるってことは、残りの2人は助からないってことを意味するんですよ」なんて思っている人は
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・頭が悪い。
・想像力が欠如している。
・「あの葡萄は酸っぱいに違いない」と悪態をつくキツネのようだ。
・社会の害虫。
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などと思ってみたりする、今日この頃(いや、昔からそう思ってたんだけどさ)。ところで、何で今頃Kanonについて書こうとしてますか俺。
Kanonのエンディング曲「風の辿り着く場所」というのは、「作詞:Key」の割には何だか不当に軽視されているような気がするわけで。「世界中にはどんな想いも叶う日がくる」「木々の声や日々のざわめきに似た奇跡の足音」という歌詞から読み取れるのは、「奇跡がそこら中に(過剰なほどに)溢れてる世界」というものだろう。幼い頃の記憶を失った奴が山ほどいて、難病少女も山ほどいて、でも「小さな精たち」もそれに負けず劣らず溢れてる。そんでもって、裏山には妙なキツネがわらわら棲んでいる。そんな世界。
「でも、あゆシナリオ以外だと、あゆが祐一にお別れに来るんですよ?」
君、あのね。あゆが奇跡を起こして栞を救ったとしたら、今度は、あゆを救うのは誰か他の人なの。分かる? そうやって奇跡の連鎖が起こるわけ。
なぜこんなに「月宮あゆが助かる〜」という考えを僕が憎むかというと、「誰かが助かることで、他の人は助からない」という考えというのが、ある種の奇妙な「社会性」みたいなものを他人に押し付けるために使われることが多いからなのかも。
◆前にも同じようなことを書いた気もするが、哲学・倫理学用語集:功利主義から。
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また、功利主義は個人の一貫性 (integrity: 誠実で、自分の持っている道徳原理を固持すること) を損なうという批判もある。次の例はバーナード・ウィリアムズが挙げているものである。
南米の軍事政権国家を訪ずれたジムはたまたま20人のインディアンの処刑の場に立ち会う。彼らは囚人ではなく、民衆のデモ活動を抑制するために適当に選ばれた無実の人々である。悪人の長官ペドロは、ジムに名誉を与えると言って、次のような提案をする。もしジムがインディアンの一人を自らの手によって射殺するなら、長官はあとの19人を解放することを約束する。しかし、もしジムがこの提案を拒むならば、 20人全員が兵隊によって射殺される。また、ジムには他に行動のしようがなく、たとえば銃を手にして長官ペドロ以下全員を射殺するというような可能性は閉ざされているものとする。
これについて、ウィリアムズは、功利主義者ならばジムがどのような道徳原則や信念や人生観を持っているにせよ、インディアンの一人を殺すことを要求すると考える。しかし彼によれば、これはジムの道徳的一貫性(integrity)を傷つけるものである。 (Williams 1973: 98-9, 114-7)
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「ジムには他に行動のしようがなく」!! 思考実験を成立させるためとはいえ、すごい一言である。この事件のあとジムが悪夢にうなされるとしたら、それは道徳的一貫性がどうとかいうことよりも、まさに「他に行動のしようがなかった」ことが彼を責めるのではないだろうか。
倫理的な問題を考えるときに、「思考実験を構成して、選択肢のどれを選ぶかについて議論する」というやりかた。その際に(思考実験を成立させるために)さりげなく導入される「他に選択肢はない」という前提。この前提がどれだけ議論に隠れた影響を与えているのか、ということを考えたりするのです。
◆メモ。
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加藤尚武がニーチェを評した言葉、「ニーチェという人は、支配者でも奴隷でもない友人が欲しかった」とか。
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