【2003年7月】
7月28日(月) 「AQUA」「ARIA」(続)、歴史学のひとからのコメント。
28日に書いたのに、アップするのを忘れてた(7月31日)。
◆「AQUA」「ARIA」について前回書いたことに関して、歴史学のひとからのコメント(7月25日、27日分)が。僕は歴史学の専門用語を知らないこともあって、彼の文意を捉えきれているか怪しいのだけど、なかなかに説得力のある意見のような。
僕なりに要約してみると、こんな感じか(全然間違ってるかもしれない)。
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たとえば歴史資料に接したときに、
・「昔はのんびりしていて良かったねえ」(過去へのノスタルジックな郷愁)
・「昔は野蛮だったんだなあ。昔に生まれてなくて良かったよ」(過去をダシにして、現在の肯定)
・「昔から日本人は立派な文化を持っていたんだなあ。自分の国に誇りを…」(ナショナリズム的読み)
なんていう読みに留まるのは、端的に言ってあんまりよろしくない。歴史資料に接する楽しみの粋は、やはり、過去から「今ここ」へと繋がってきた「時間」それ自体を感じることにあるだろう。
で、ニュー・ヴェネツィア。ニュー・ヴェネツィアは僕が言ったような「現実から切り離されたディズニーランド」ではない。それゆえニュー・ヴェネツィアは、現実から切り離された「過去への郷愁」や「あり得たはずの(どこか懐かしい)未来像」を提供するのではない。「過去から今へと繋がってきた時間」の感覚、これこそがニュー・ヴェネツィアの産物である。
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おそらく地球では、ハイスピードな技術革新や都市開発のあまりに、人びとが自らを「過去から切り離された存在」であるかのように感じているわけで(アルビン・トフラーの「未来の衝撃」ですな)。それを癒す(イヤ用語)箱庭としてのニュー・ヴェネツィア(こちらの7月23日とか)。うーむ。
こっそり次回に続く、かも。次回のテーマは「じゃあ、『体験農業で癒される!』ってのとARIAって一緒なの?」でつよ。…って、それを書くのは赤毛娘の仕事じゃねえか。
そーいえば、少し考えているうちに気付いたことがある。どうも、そもそも僕の発想の底には、自ら「のんびりと成長したい」なんて思ってる灯里に対する疑念があるらしい。ピュアすぎる>俺。ここ(7月23日)の
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言わずもがな「自分>>>箱庭の経験」て言う図式が見えるのです。
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というのを、灯里自身が自覚してしまっているというか。それによって、灯里のARIAに対するオリエンタリズム(意味分からず使ってます)的な視点が生まれているよーな。
だから、こういう点(↓)に関しては、少し考え直しているところ。
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他者を手段としてのみ扱い、その不実にはまるで目を向けない癒し系の邪悪に無自覚に浸りきっているゆうたやん。『ガンスリ』とか『ヨコハマ』とかの、そのような邪悪に自覚的になる事に由来する背徳的な愉悦とは違うってゆうたやん。
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7月25日(金) グレッグ・イーガン「しあわせの理由」。天野こずえ「AQUA」「ARIA」。
色々と煮詰まり中。すんません>各方面。
◆グレッグ・イーガン「しあわせの理由」(ハヤカワ文庫SF)を読んだ。
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「 いかん……ルミナス分が不足してきた。
ルミナス分が不足すると、北野勇作や飛浩隆や小林泰三とイーガンの作風が似てるとか、
本格ミステリと構造的に相似とか、言い出してしまう。
ルミナス分は『ルミナス』や『順列都市』に含まれている。
ルミナスみたいな展開力溢れる作品を読みたいなあ……」
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個々の作品の感想は、次回にでも書きます。
坂村健氏の解説を読む。
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数学をちょっとかじった人間なら、たいてい魅了されるこの不思議さが、イーガンの執筆の出発点なのではないだろうか。「記述により、畳み込まれる無限」という概念。さらにはそれを可能にする「記述」自体に対する興味。アイデンティティの問題も、結局この「記述」に関する興味の一部となる。
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…やっぱり、やっぱりイーガンの出発点はそこだと思いますよねえ? いえーい。坂村健氏最高。ついでに俺最高。
というわけで「記述により、畳み込まれる無限」としての「百科事典棒」。ここ、多分テストに出ますよ?
◆天野こずえ「AQUA」1,2巻(エニックス)「ARIA」1巻(マッグガーデン)。
赤毛娘に見せてもらって、何だか気になったので、買ったり借りたりして読んだ。
うーむ。この作品はあくまで「水郷もの」であって「海洋もの」ではないんだよなあ、と。当たり前のことを言ってますが。以下、不毛な愚痴を。
(火星の)ニュー・ヴェネツィアという都市が範としたのは観光都市としての、「そこが終点の」ヴェネツィアであって、ありし日の貿易都市、「経路としての」ヴェネツィアではない。他の都市と切り離された、というか、むしろ他の都市を忘れるためのディズニーランドとしてのニュー・ヴェネツィア。だから、ニュー・ヴェネツィアの空と海は「他所に向かう通路」という意味を剥ぎ取られてしまい、サーカスの天幕とカーテンに堕してしまっている。浮き島は天幕の支柱ね。
そのまんまの(つまんない)読みをするなら、水で隔てられた異界としてのニュー・ヴェネツィアは「吉原」で、「水先案内人」としての灯里は、客の手引きをする「禿(かむろ)」と読めなくもない。「少女から見た花魁ファンタジー」としての「ARIA」。だから、
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アリシアさんぐらい有名な水先案内人になると、お客様自らがお店に足を運んでくれます。
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という台詞も、当然「飾り窓に行かずとも、お客の方からから座敷に足を運んでくれます」に読めてしまったり。
少し別の話。灯里や藍華が、アリシアの「操船技術」にしか目を向けていないのは彼女らの未熟ゆえなのかなあ、とか思ったり。水路の舟漕ぎ(というか職業ドライバー一般)に必要なのは、単なる技術よりもむしろ、広い視野とか先読みの能力とか、例えばそういったものだと思うですよ。
見通しのひどく悪い水路で、横手から来た他の舟にアリシアさんが気付いて衝突を回避したとき(注:そんなシーンはありません)、アリシアさんは何を見て、何を感じていたのか。空気の流れか、それとも、水面の波のパターンか。
アリシアさんが「見てるもの」に灯里が憧れるようになったとき、二人の関係はどのように変化するのだろうか。
何だか、同じ話題について繰り返し書いている気がするなあ。
(後記:ARIAの3巻を読んだ感想が、こちらにあります。そちらも読んでいただけると幸いです)
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7月16日(水) 「チカマニアックス」の息苦しさ、「マリ見て」の風通しの良さ。
◆おがきちか「チカマニアックス」(大都社)をなぜか買ってしまった。
初期短編集。シールこそ付いてないものの、実質は成人向け漫画でした。女性間や近親(兄妹)間での性交渉を題材にした作品多し。
読んでいて、相当にインモラルなものを感じたのだけど、それは単にこの作品集が同性愛や近親相姦をテーマにしているからではないような気がする。性的なものと非性的なもの(たとえば友人や兄妹関係)とが、非常にシームレスに繋がっているような雰囲気がインモラルさを生んでいるのかも。
というかむしろ「性的と非性的」の区別がそもそもなくて、全てが「性的なもの」になった世界観が示されているよーな。読んでる僕の世界まで、じわじわと「性的なもの」に侵食されていくような、そんな息苦しさを感じる。
あと、性的快感を享受している女性の顔が、弛緩しきって何か人間ならざるものになろうとしているのも、なかなかに怖かった。
◆少し関係ある話。「マリア様が見てる」を男性がどう読んでいるか、については色々と諸説あるらしいのだけど、その一つとして、たとえばこちらの「ホモソーシャルな社会の解体」という文章があります(補足)。
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セジウィックは、男の場合、同性による非性的絆が性的絆を抑圧しているが、女の場合は両者が連続体になっているという。これはつまり、女性の間では隣に座って授業をうけること、手をつなぐこと、セックスすることなどがグラデーションになっていて、明確な境界線がひかれていないぞということだ。
(略)
百合ブームはなぜ起こるか? なぜ何の変哲もない男がリリアン女学園に入りたがるのか?
これはもしかしたら、ホモソーシャルかつホモフォビックな社会への抵抗の表れなのかもしれないと。
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僕がこれを読んで思うのは(セジウィックは未読なのですが)、男性が女性同士の関係に(あるいは「マリ見て」に)見出したものと、実際の(?)女性たちの「非性的絆と性的絆が連続体(あるいは未分化)」という関係は、幾分違うのではないかということで。当たり前といえば当たり前なんですが。
で、その違いは「非性的と性的との割合を、自分でコントロールすることが可能かどうか」(この時点で既に、性的と非性的が分割可能なことを前提にしているんですが)になるのかもしれない。
・マリ見て→コントロール可能。
・チカマニアックス→両者がそもそも未分化なので、コントロールも何もあったもんじゃない。
という感じでしょうか。
マリ見ての場合、性的と非性的の間にグラデーションとして存在する無数のモードに関して、自分がどのモードを選択するかの決定権は自分自身に与えられているように見えます。そして各登場人物は、何やらフェアで健全な(自分なりの)ルールに則って自らのモードを決定しているような、そんな印象を受けます。分かりにくい書き方ですみません。
山百合会がドロドロと愛憎うずまく修羅場とならないで済んでいるのは、この自己コントロールの感覚、およびフェアさや健全さが生む「風通しの良さ」「爽やかさ」ゆえなのかもしれません。「チカマニアックス」の微妙な息苦しさとは対照的です。
僕らの社会において実のところ(男女問わず?)抑圧されているのは、この「自己コントロール感覚」なのではないかと思っているのですが。
◆似たような話を前に書いたような気もする。たとえばプラトンの「饗宴」なんかで描かれているような「愛者と愛人の関係」(青年男性と少年との恋愛関係)の「非性的絆と性的絆との関係」は如何なるものなのか。
いやまあ、セジウィックが古代ギリシアの同性愛を取り扱ってるのだから、それを読め>俺、っていう話なんですが。あとフーコー「性の歴史」の2巻とか。
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7月14日(月) ハードボイルドワンダーランド、百科事典棒。涼宮ハルヒの感動。半私信。
◆アクセス解析。”順列都市 ハードボイルド ワンダーランド”でGoogle検索してきた人が居た。なんとなく似たようなことを考えていたところだったので「待って。行かないで。話を聞かせてください」と、画面に向かって口走ってしまいそうに。
◆ついでにメモ。内田樹氏の7月3日の記述。
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一度遅れたものはもう二度と追いつくことができない。
なぜなら、「追いつく」という発想をすること自体が「起源における絶対的な遅れ」を不動のものとしてしまうからである。
アキレスと亀と同じである。
俊足のアキレスといえども「亀に追いつく」という発想をする限り、決して亀に追いつくことができない。
ラカンはこの「決して追いつけない境位」に一足で立ち去る術においてほとんど古今無双の達人である。
どうやれば追いつけない境位にわずか一足で走り去れるのか。
これについては『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で「博士」が「百科事典棒」という不思議なたとえ話で似たことを述べている。
(略)
量を無限の拡がりの中に展開することよってでなく、限られた空間を無限に細かく分割することで表現しようと考えること、それが「亀の狡知」である。
ラカンが絶対に追いつけない人であるのは、彼がどこかで「亀仙人」になったからである。
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う。「百科事典棒」って「ハードボイルドワンダーランド」で語られてたっけ。すっかり忘れてる。読み返さないと。「百科事典棒」のたとえが、たとえば東浩紀のイーガン論にあったような「言葉と物とのズレの無限循環」みたいな話と繋がっていくのかなあ。
◆くるぶしあんよさんのところ。「涼宮ハルヒ」関連。
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夏葉薫さん見てますか、「たった一往復」はこうしてkagamiさんのご厚意で実現したのでした。
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素で感動してしまった。いい話だ。「見てますか」という文字を見たとき、泣きそうになった。涙もろいにも程が有る>自分。
優等生的なまとめをするなら、こんなにも色々な人に真摯な感想をもらった「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品は幸せなのだろう。作者の人が幸せか、というのはまた、別の問題なのだけど。
あんよさんに寄せられたkagami氏の文章はそれなりに考えて反駁を試みる価値があるような。はじめからそれを書いてくださいよkagamiさん、というのはさておき。
そういえば僕の稚拙な感想をRevの雑記で取り上げて頂きました。恐縮です。「恋心」と「大きな何か」については、もっと深く考えてみたいと思ってます。
◆半私信>オタク系(略)掲示板の主のひと。横槍モード。
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>それは宝石にも似た、ガラス玉の輝きのようなものだ。
「ライトノベル」ってこの文章に集約される(ってゆかこの言葉に相応しい作品が「優れたライトノベル」と呼べる)のではないか、と思いましたですよ。
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ええと、4月頃の「猫の地球儀」とかオメラスとかの話のときにも、似たようなお言葉を頂いたような気がします。ジャンルとしての「ライトノベル」云々。
あのときの話と今回との話は根元が繋がっている(というか、そもそも赤毛娘や僕が一年近く延々と同じ話を展開し続けている)、というのが僕の認識です。赤毛娘もそういう認識なんじゃないかしら。今回は裏に「イリアの空、UFOの夏」があったりするのかもしれません。
多分、少なくとも僕は「それは宝石にも似た、ガラス玉の輝きのようなものだ」というテイスト、それ自体と対決したいのだと思います。…何というか、ガキですね。全く。
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7月12日(土) センス・オブ・ワンダー、涼宮ハルヒ(続)、レイチェル・カーソン。
◆後輩との会話。
僕:「自分の発言を振り返ってみたんだが、SFに関して俺が言ってることって、まるでSOW(sense of wonder=センス・オブ・ワンダー)至上主義者の発言っぽいな」
後輩:「…今頃気付いたんですか? っていうか貴方、SOW至上主義者じゃないんですか?」
僕:「…どうだろう」
◆涼宮ハルヒの求めているものを一言で要約すると、「センス・オブ・ワンダー」になるわけで。SOS団というのも、あれは実のところSOW団なのかもしれない(今になって、ようやくそのことに気付いた)。
悲しいかな、涼宮ハルヒは「センス・オブ・ワンダー」を自分の生活の外にしか求めることが出来なくて、そのことが彼女のSOWを「寂しさ」や「恋心」の次元で回収されてしまいかねないような、そんな隙を生んでいるわけなのだけど。
あの話、確かに「昔々、SF系サークルの面々がセンス・オブ・ワンダーという概念の周りを、どのようにぐるぐると回ったか」という話だと読めなくもない。そりゃ年配の審査員を転がして大賞も取ろうってものだ。
◆少し話がずれる。「センス・オブ・ワンダー」という本を書いたレイチェル・カーソンという人がいる。「沈黙の春」を書いたことで、有機塩素系殺虫剤による環境破壊の危険性を訴えた人、環境保護運動の元祖、という扱いを受けてしまっているのだが、「沈黙の春」以前から彼女はベストセラーノンフィクション作家だった。
まだテレビ放送が始まっていない時代、彼女は内務省魚類・野生生物局に勤務する傍ら、海やそこに住む生物を紹介するような文章をラジオ番組の原稿として書いた。
テレビならば画像一枚で済むところでも、ラジオではそうはいかない。彼女の原稿は細かく丹念に、海の諸相を、その起源から海中の山谷、噴火とともに生まれる島、海流、潮汐を、また平凡な海辺や潮間帯に住む生物の生態を、描写していくものとなった。元々文学志望だったという彼女の文才は、散文的な描写の連なりの中から、控えめながらも強い印象を与える詩情と、そして、「すぐそこにある」世界への驚きに満ちた視点とを立ち昇らせた。
そんな彼女の文章は「われらをめぐる海」(ハヤカワ文庫NF)や「海辺」(平凡社ライブラリー)で読むことが出来る。
その意味で言うなら、多分僕は、センス・オブ・ワンダー主義者なのだと思う。
「すぐそこにある」センス・オブ・ワンダー。
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7月11日(金) 「涼宮ハルヒの憂鬱」
◆谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」(角川スニーカー文庫)
読んだ。ひょっとすると面白かったのかもしれない。
ひねくれた考え方をしたがる、かつ、口ばっかしの連中のなかに、見た目、天真爛漫な奴がひとりほど混じっていて、そいつが集団としての核、あるいは意思決定役になってるという構図というのがある。そいつがいないと、旅行のスケジュール設定どころか夕食をどこに食いに行くかすら、なかなか決まらなかったりする。といっても、そいつが目配りの上手い調整役というわけじゃなく、そいつが一声発すると何となく皆がそれに従ってしまう。そんな感じ。
みんなが(性別問わず)、そいつのことを好きだ。
ひねくれた考え方をしたがる人間にとっては、そいつは陽光の下、王道を歩んでる強い人間で。更には天性の(?)カリスマ性が付属してる。正直うらやましい限り。たまに、真っ直ぐすぎるんじゃ?と心配にもなるけど、でも自分のようなひねくれ方はしてほしくはない。王道を歩み通せる強さがあるんだからさ。
もちろん、ひねくれてるしチキンなので、そう考えていることを直接そいつに告げることはしない。たまに暗がりで、他のひねくれ者たちと小声で、そいつへの想いをお互い確認し合って悶えるばかり。
でも本当は皆が思っているほど、そいつは自分が恵まれた状況にあるとは思ってなくて。自分が集団の中心にいるとも思っていない。自分の天真爛漫さをある程度は自覚しつつも、それに満足しているわけではなくて。
仲間は、自分とは本気で話をしてくれていないような気がする。他の仲間とはあんなに面白そうな話(中身は良く分からないけど)を真面目に話し合ってるのに。何を話しているのか訊ねてみても、みんな微妙な笑顔で曖昧な答えしか返してくれない。
やっぱり自分、バカだから仲間外れにされてるわけ?
そしてある日、そいつが爆発してはじめて、皆は何が起きていたのかを知ることになる。
そういう話だというふうに読んでしまった。
SOS団のメンバーはみんな、ハルヒのことが大好きだというのが良く伝わってきたような。彼女は私の世界の特異点だの創造者だの、確かにアテられそうだ。でも、皆のその想いというのは、あんまりハルヒの幸せには繋がるような形のものではない。それが悲しい。
キョンに関しては僕には良く分からない。あまり信用ならない語り手のような気がするし。
素直に読むならば、キョンのある種の素直さはハルヒの天真爛漫さと通底するところがあって、それゆえ2人以外のチキンな連中は、皆のハルヒへの想いがキョン経由でハルヒ本人に届くことを期待して、ハルヒとキョンとをくっつけようとする。そうやって集団の、すなわち彼らにとっての世界の危機を回避しようとする。そういうことになるのかもしれない。
◆ところで、正直こんな感想を読むぐらいなら、この辺りを読むべきだ(読み返すべきだ)と思います。
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7月10日(木) イヤ動物学会。アメフラシ調理のポイント。コックローチと細菌との共生関係。
◆イヤ動物学会の各記事にアンカーが設置されました。
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flurryさんの晴雨両用日記でご指摘を賜りましたので、昼休みにちょちょっとつけちまいました。すいませんニュースサイトの自覚がなくて。ていうかニュースサイトのつもりで作ってるわけでもなかったんだけどいつのまにかこんなことに。
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うわあ。すみません。恐縮しきり。ニュースサイトとしての「自覚」とか、そういう堅苦しいことを考えていたわけではなくて、単にアンカーがあったら(僕にとって)便利だなあ、という軽い気持ちで書いてしまったのですが。
お手数をおかけしたお詫びというか、少し情報提供をしてみることに。といっても、大したものではないし、部屋に転がってた書籍からの孫引きですが。よろしければ。
◆アメフラシ調理のポイント:
甲斐崎 圭「魚派列島――にっぽん雑魚紀行」(中公文庫)から。
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茹でて終わり、ではない。茹でたやつを今度はゴシゴシと、ギュッギュッと手揉みするのである。
「岩の上なんかでやると、そりゃもう黒い汁がジンジン出ますから」
ベコを手揉みしながらハルヨさんが教えてくれる。紫の汁もそうだが、この黒い汁もしっかりしぼり出さないと、クセが残るのだそうである。
(略)
ハルヨさんの処理のうまさももちろんあると思うのだが、ベコはちょっと意外なほどクセがない。つまり強烈な味の印象もないのである。記憶に残るとすると、やはり、あの歯ごたえなのである。(p.174)
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さばく→内臓を取り出して身を良く洗う。紫の汁が残らないように。→茹でる。体積が十分の一程度に→手で揉んで黒い汁をしぼり出す→酢味噌和えor醤油煮にする。
あと、注意として、アメフラシの仲間なら何でも良いわけではなさそうです。
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「そう、タバコベコいいましてナ、色が薄茶色っぽかったでしょう。あれはクセがあるというか、臭うて誰も食べんです」
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◆ゴキブリと細菌との共生関係。
石川 統「昆虫を操るバクテリア」(平凡社:シリーズ【共生の生態系】1)から。
体内に共生細菌を持ち、それらの細菌が生物にとって必須の機能を果たしている、という例は数多くあります。ゴキブリもその一つです。ゴキブリは脂肪体の細胞内に共生細菌を取り込んでいます。では、その細菌の機能は何なのだろう。
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双翅目以外の昆虫は、体内の窒素老廃物を尿酸として体外に排出するのがふつうである。ところがゴキブリ類は一般に尿酸を排出することをせず、脂肪体中にあって、特殊に分化した尿酸細胞にそれを固形物として蓄えることが知られている。これらの尿酸は昆虫の一生を通じて体外に排出されることはなく、体重当たりの尿酸含量はゴキブリの摂取した食餌中の窒素分の含量と生の相関関係にある。
(略)
これらの事実から推論されるのは、ゴキブリは利用済みの有機窒素を尿酸の形で貯蔵しておき、窒素分の乏しい食事しか得られないときに、それを小出しに再利用して生きのびるということである。ヒトにとっては、間違って貯め込むと、例の通風の原因となる厄介者の尿酸も、ゴキブリにとっては貴重な窒素貯蔵源なのである。このとき、尿酸を利用可能な有機窒素へ変える役目を果たしているのが、菌細胞共生体の代謝系であることはほぼ間違いない。(p.78-79)
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彼奴等の、妙に高いサバイバル能力の一端。
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7月9日(水) ティプトリーのこと(続)。イヤ動物。誕生日。
◆サークルの水曜例会。先週の続きでティプトリーに関する議論をもごもごとする。
僕の立場は赤毛娘と近い。初期の「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」 でティプトリーは、人間の「未知なるものへの憧れ」に関するロマンを、生物学的な事実性を仮構するやりかたを用いて、素晴らしく見事にぶち壊してしまったわけで。「そして目覚めると〜」を先に読んだ人間が、どうして「たったひとつの冴えたやりかた」を素直に(?)「未知の宇宙への憧れ。素敵だわー」と読めるのか。僕としては、そっちの方がむしろ不思議だ。
つまんないことを言うなら、「生物学的な事実性」と「オタク的(というかマイノリティ的というか)感傷」は多分ティプトリーにとって、ある種の「自分にはどうにもならない感じ」(分かりにくい書き方だが)を表現するものとして表裏の関係にあって。
で、その「どうにもならなさ」というのは主人公格キャラの心理の中心にあるだけでなく、心理それ自体の根幹を支えているわけで(ティプトリー世界においては)。「どうにもならなさ」と正面対決するにしろ、あるいは果てしなく遠くに逃げようとするにしろ、それが「どうにかなる」地点というのは、つまるところ人格それ自体の消滅、死でしかない。
何だか当たり前のことを書いている気がする。
そういえば、「星ぼしの荒野から」の解説では伊藤典夫氏が、宮澤賢治と比較していたような。
ところで「愛しのママよ帰れ」(「故郷から10000光年」)の感想を聞いてみたいところ>赤毛娘。
◆「たったひとつの冴えたやりかた」には、宿主の行動をコントロールすることが可能な寄生生物が出てくる。このときティプトリーの頭の中にあったのは、たとえばこういう話題(脳をあやつる虫)じゃないかと、僕には思える。
(この関連の話はイヤ動物学会の4月28日分に詳しいです。アンカーがついてると孫引きに便利なのですが…。→学会の中の方。追記:アンカーがつきました。ありがとうございます>魚蹴さま)
宇宙というものに「憑かれて」しまった少女が未知の宙域を探検したところ、更に謎の異星人に「憑かれて」しまった。「たったひとつの〜」って、そういう話なのか。
◆鈴凛の誕生日。
危うく忘れかけるところだった。反省。ボストンと東京の間に時差があって助かった。時差があって良かったと思ったのは、これがはじめてかも。14時間も時差があると、たとえば向こうが夜11時だと僕が朝の9時という具合になる。向こうからの電話は、僕にとって結果的にモーニング・コールになってしまうことが多い。
彼女、MITの高校生向けサマースクールに参加しているのだけど、毎日宿題を出される上に、最終日開催のロボコンの準備もあるので、寝る暇も無いくらい忙しいらしい。うーむ。
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7月2日(水) 釘。ティプトリー(宿題)。
◆電車で僕の対面に座っていた少年の耳たぶに、長さ7〜8cm程もある釘が6〜7本も刺さっていた。ピアスの穴(というには、やや大きいのだが)に釘を通して、アクセサリーにしているらしい。釘が穴を拡張するような格好になっているので、留め具などなくても釘が落ちる心配は無いようだ。
形が満足行くようにならないからか、少年は何度も釘を抜き差しする。それを見ていると、何だか妙な気分になった。
◆サークルの水曜例会でティプトリーの話。
『たったひとつの冴えたやりかた』と『そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた』の関連(あるいは「たったひとつの〜」って「そして目覚めると〜」みたいな話じゃん?)については後日書くので、少し待ってくれい>該当者。
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7月1日(火) SFマガジン8月号(続)。スターリング、小川一水。
◆前回の続き。
ブルース・スターリング「楽園では」。ストレート。「政治的」という言葉すらつかないような、そんなメッセージ。舞台が彼の故郷のテキサス州(作中に示された地理的条件から判断)だったりする辺り、かなり素で書いているような気がする。
僕はこの作品を支持する。…いや、違うな。僕はこの作品が好きだ。
ニール・スティーヴンスンのほにゃららとかいう外伝。読む必要なし。
小川一水「老ヴォールの惑星」。それなりに面白い。
気になったのだが、光でコミュニケーションしている異星種族の名前が、どうしてカタカナ(というより表音形)なんだ。ううう。もちろん、作品に良い効果をもたらしてるならば、そんなことはどうだって良いのだが。妙にラ行が多いカタカナ名が文章の多くを占めているのは、正直この作品にとってマイナスにしかなっていないと思う。ベタベタした印象を与えてしまっているような。
ほにゃらら・ストロスとかいう作家の作品。読めません。目が文章を拒否します。
◆小川一水「第六大陸」を読まなければ、というプレッシャーも感じているが、忙しくて暇がない。ううう。
◆家の近所に短冊付きの笹が飾ってあった。一枚の短冊には「○○さんや××さんたちに、きらわれませんように」と書かれていた。
。・゚・(ノД`)・゚・。
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