【2003年6月】
6月29日(日) SFマガジン8月号。グレッグ・イーガン「決断者」。東浩紀「グレッグ・イーガン論」
◆SFマガジン8月号。とりあえず読んだとこだけ書く。残りはまた後で。
グレッグ・イーガン「決断者」。端整な佳品。爆発的な展開力は無いけれど。順列都市やルミナスを読んで以来、イーガンに期待するのは展開力になってしまった。
訳者の山岸真氏が意図して選んだのかどうかは分からないが、直後に載ってる東浩紀氏のイーガン論と非常にマッチしていた作品。
そういえば作中にマトリョーシカが出てきた。この間書いたこれを思い出した。結構良いこと書いてたのかもな。電波だけど。
東浩紀「計算の世界の幻視者―フーコー、ディック、イーガン」。うあー。良く分かりませんでした。
相変わらず、というか。微妙に言葉が足りないような、でも深読みすればそれなりに面白そうな内容が引き出せそうな、そんな歯痒い文章。
文中で示されていたミシェル・フーコー「言葉と物」をジュンク堂でぺらぺらめくってみた(註:そういう読み方をする本ではありません)。当然というか、余計に分からなくなりました。
適当メモ。
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・「言葉と物とのズレに敏感な作家は、主人公が妄想と現実の無限循環に陥る作品や、主人公が作品の枠組みそのものを疑いだすメタフィクションを書き始める」
それはなぜなのか。無限循環を可能にするような「ズレ」とは、どのようなものか?
・2種類の「謎」。「ブラックボックス」と「複雑系」
「(ディック)言葉と物とは、不可視の深層の上に宙吊りにされる」
世界はブラックボックスに入っている。世界の表面的な事象を観察することで、世界モデルを組み立てることが出来るが、モデルと世界の実相とのズレは残る。そのズレが「世界の謎」となる。
…ディックを、もう少しちゃんと読んでから書こう。
「(イーガン)言葉と物とは、計算の海のなかに溶解する」
カオス写像を考える。1回1回の写像のルールは単純だが、写像を何度も繰り返したものは全体として非常に複雑な挙動を示す。部分部分では可視的だが、全体としては把握不可能な系としての「謎」。たとえば「ルミナス」「順列都市」「ワンの絨毯」でのそれ。
・「言葉と物の断絶にもっとも敏感に反応した哲学者が有名なイマニュエル・カントである」
そういえば「カントとカオス」について書いていた、黒崎政男という人が居たよーな。著書をチェックしてみよう。
・スタニスワフ・レムについても考えてみよう。
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◆「涼宮ハルヒの憂鬱」を読まなければならない、というプレッシャーを感じる。ひしひしと。
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6月27日(金) 誕生日。哲学者占い。解析?
◆誕生日おめでとう。>俺。
生年月日入力形式の哲学者占いとかいうのを見つけたのでやってみた。結果がソクラテスからジジェク(!)まで28人の哲学者+7人の隠しキャラで出るとか。で、僕の結果。…28人も居るんだから、もう少しネタになりそうな人に当たってもいいのに。
ちなみに、結果の一覧はファイル名でk1〜k9、e10〜e19、u20〜u28。隠しキャラはn29,m30,s31,t32,b33,j34,a35。適当なラインナップやなあ。12月25日生まれはn29、4月1日生まれはt32になるようだ。あとj34は西暦6年生まれだそうですよ。…適当やなあ。
哲学者本人の誕生日を打ち込んだら?ってことで、とりあえずジジェク(1949年5月21日)の結果とドゥルーズ(1925年1月18日)の結果。何だか微妙に間違ってないような気がする辺りが何とも。
ふと気付いて、自分の誕生日から後に1日ずつずらしたものを入力。うあー、まさかとは思ったが、結果も後に1つずつずれてる。やる気ないなあ、哲学者占い。すぐさま入出力関係を調べてみなかった僕のやる気の無さも、相当なものだが。
◆某所アンテナ。僕の仕様は基本的に赤毛娘と同一なので、GETリクエストを引いてくるのが良いかもです。
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6月21日(土) ブルース・スターリング「Googleで個人の自由が奪われる?」vs.デイヴィッド・ブリン「透明な社会」
◆ブルース・スターリングへのインタビュー。「SF作家が予測する未来:Googleで個人の自由が奪われる?」
会話が噛み合っていないせいなのかどうなのか、何を言ってるのかが今一つ分からない。
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でも、David Brinの言う「透過的な社会(transparent society)」を懸念しているわけではないのですよね?
Davidは、これがすばらしいと思っているのです。Davidは技術における決定論者です。彼は、人々がトレンドを理解し、その上に乗らねばならないと考えています。私はこのような幻想を抱いていません。
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David Brinって、ひょっとして「スタータイド・ライジング」や「ポストマン」のデイヴィッド・ブリン?と思って、Googleで調べてみた(何しろ、スターリングの言うとおり10秒で見つかるのである)。やっぱりそうらしい。SFだけでなく、こういう一般書を書いてたんだ。
で、デイヴィッド・ブリンの公式ページで公開されている、"Transparent Society"(透明な社会)の第1章抜粋(全4ページ)に軽く目を通してみた。
情報化社会とプライバシーに関する一般書(小説ではない)。前半部分の内容を適当にまとめると、こんな感じか(本当にテキトーなまとめなので、信用しないように)。
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・情報収集や「覗き見」に関する技術は進歩する一方であり、遠からずデータベースやカメラが我々の生活に侵入してくるだろう。それを防ぐのは既に手遅れである。
・重要なのは、誰が監視カメラへのアクセス権を有するのかである。一部の権力者(Big Brother!)のみがその力を有するのか。それとも誰もが共通の監視カメラにアクセスでき、「監視者を監視する(watch the watcher)」「権力者をも監視する」することを可能にするのか。我々が為すべきは、その選択である。
プライバシーを神聖化してしまうことは、結局の所、特定の権力者が巧妙な監視技術を独占するような、そんな聖域を作り出してしまうだけなのではないか?
・監視はネガティブな面だけではない。監視の結果としての非難(criticism)こそが、人があやまちを繰り返すことに対する唯一の対応策である。科学理論や資本主義社会においては、非難に耐えて生き残ることが進歩につながる。生物進化においても、究極のcriticismとしての死こそが、進化の誘導力なのである。
・いわゆる「新西洋文明(neo-western civilization)」が成功した理由の最大のものとして、アカウンタビリティ(accountability)を重視したことが挙げられる。
(accountability:ニュアンスが難しい単語ですね。きちんと筋の通った説明を行う責任or義務とかいう感じでしょうか。もちろん「筋の通った説明をする」には「筋の通った行動」をしていなければならないわけで、つまりはこの言葉は「行動規定」でもあるわけです。そういえばこういうコラムを発見。面白い)
・アカウンタビリティとプライバシーのどちらを優先するか、という局面において、多くの人が、「自分にはプライバシーが有るが、他の人はアカウンタビリティに従うべきだ」と考える(たとえば、政治家の性生活に関するプライバシーや、性犯罪歴を持つ人間の住所公開など)。その結果として多くの争いが起こっている。
しかし、アカウンタビリティとプライバシーは本当に二者択一的なものなのだろうか?
・仮にアカウンタビリティとプライバシーの二者択一をしなければならないとしたら、アカウンタビリティが優先するのは自明である。プライバシーは自由(liberty)の産物であるのに対して、アカウンタビリティは自由そのものを成立させるために必要なものだからである。
・「レストランのアナロジー」:混雑しているレストラン内でも、我々は落ち着いて食事をとることが出来る。ほとんどの場合、周囲の眼は我々の方を向いていないからである。仮面を着用したり、他の客に目隠し布(馬の視界を遮る布。神経質な馬が周囲に気を取られないようにするために使うことが多い)を付けさせたり、ということをしなくても良い。成熟した礼儀作法によって、我々の安心感が支えられているのである。
付け加えるならば、他の客を観察するのを妨げるのは「他の客を観察しているのがバレるのは恥ずかしい」ということである。歯にアスパラガスが挟まっているのを知られるよりも、他の客をじろじろ見ているのを知られるほうが、余計に恥ずかしいのである。
この思考実験は、アカウンタビリティとプライバシーとは、必ずしも二分法で分けられるようなものではないことを示唆しているのではないか? アカウンタビリティを維持しつつも、プライバシーを高めるような「透明な」方法があるのではないか?
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きちんと読めてるかどうか分からないけど、これ、色々と変な議論ではあるよーな。大体criticism(批判、非難)と、競争に敗北した結果としての株価低迷や死を一緒くたにされてはたまらない。
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6月17日(火) グレッグ・イーガン「ワンの絨毯」、「巨大なものが怖い」、巨大露天掘り掘削機。
◆「20代後半からはじめるSF」の一環として、知人からSFマガジン1998年1月号(創刊500号記念号)を借りてきた。目当てはグレッグ・イーガン「ワンの絨毯」。
…うーむ。評判の高い作品だと聞いてたせいか、期待しすぎたかもしれない。舞台背景の時空間スケールが非常に大きい割には、メインアイデアや社会設定が小粒(…多分ね)なので、その間のギャップが目立つ。メインアイデアが本質的に舞台背景と関係ないのも辛い。長編"Diaspora"の一部として構成されたものを切り出して短編にした作品らしいので、この作品単体で評価するのは難しいのだが。Diasporaの他の部分で大ネタを炸裂させてくれることを期待。
上手く書けないが、僕がイーガンに期待しているのは「日常と隣り合わせの、今そこにある、壮大なヴィジョン」なのだろうな。…誤解を招きそうな表現だなあ。うーうーうー。言葉が届かん。
「外へと向かうロジックの連なりによって世界が拡張され、物語が結果的に大きなスケールになってしまう」のを読みたいわけで。スケールの大きい舞台背景がポイっと所与のものとして提示されてしまうと、世界の拡張感、拡大感を損ねる気がするのですね。
◆2chオカルト板「巨大なものが怖いという」スレ傑作選。
◆上のページで見つけた、巨大露天掘り掘削機(自走可能!)を扱ったページ。
感動。巨大にも程がある。
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6月15日(日) 今頃「ブ日記」について。公共圏、アジール。ディベート。
◆「マリ見て」アニメ化(ほぼ)決定だとか何とか。
イヤ予想。オリジナルの男性キャラ(新人の教師とか)が話に絡んできて、視聴者激しくげんなり。
◆ 「ブ日記」の反応リンク集に関する感想。
うーむ。そもそもの風野春樹さんの文章の論旨を読み取るのが難しい。「昼間の明るさの中では決して聞き取ることができず、暗闇、孤独、沈黙の中でないと届かない声」とは何か。「銀河通信」と言われても、僕は谷山浩子を聴いたこと無いし。
もちろん「何となくイメージ的に分かったことにしちゃう」ことは出来る。でも、そういった理解の仕方には、常に危うさが付きまとう。ただでさえ論理的思考に乏しい僕の頭の中身が、ますますスポイルされてしまうのも大変によろしくない。
◆ まずは風野さんの仮想敵?について考えるべく、風野さんがリンクした仲俣さんの「分散ジャーナリズムとしてのウェブログ」を読んでみる。なかなか面白い。この文章の主張は
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1)インターネットによって、社会や政治について多くの人と対話・議論することが可能になったが、blogやはてなダイアリーなどのシステムを用いることで、その可能性は更に広がるであろう。
2)それらのシステムの利点は、「気の長い」やりとりが可能なことである。短期的な議論の勝敗を競うのではなく、ゆっくりと互いの意見の相違点や共通項を見出していく努力をすることによって、お互いの言葉や意見を熟成させることが出来るだろう。
3)そのような対話によって熟成し鍛えられた各参加者の言葉や意見が、互いに連携し相互作用することで、新しいジャーナリズムの可能性が生まれるはずだ。
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こんな感じかしらん。この著者の言う「ジャーナリズム」の概念がいまいち良く分かりませんが。
僕が興味深く感じたのは2)。ここで、暗黙の比較相手として想定されているのは、おそらくメーリングリストやニュースグループ、あるいは昔のパソコン通信での議論なのだろうか。あまり詳しくないのだけど、それらのメディアでの議論には「旬」があって、同じ話題について延々と議論し続けるのは嫌われるように思う。昔の議論を掘り返すのもよろしくない。本質的にシングルスレッド進行、というメディアの性質が影響しているのだろうか。
このような場における「議論」では、明快簡潔な論理で相手を一刀両断にする、そんな意見が尊ばれるように思う。議論の前提それ自体を掘り崩し疑ってみるような意見は、それが簡潔な論理に繋がらない限り嫌われるような気も。「議論の前提それ自体を掘り崩し」かつ「簡潔」な意見とは何か。往々にしてそれは「議論してもムダ」という意見になりがちで。
急いで結論を出そうとするあまりに、変なトラップにはまりこむ(「議論してもムダ」とか「考えても分かりっこない」とか)のではなく、ゆっくりと着実に考え続けること。(無意識に仮定している)議論の前提それ自体をも疑ってみること。
相手のウェブ日記にリンクを張って相互言及を繰り返すやり方と比べて、はてなダイアリーやblogだとそれが上手く行くのかどうかは良く分からない。「はてな」やblogを使ったこと無いし。
…話が大きくずれた。仲俣さんの文章がイメージしているのは、ハーバーマスが言うような(良くは知らないけど)「市民的公共圏」(こことかこことか参照のこと)なのだと思った。インターネット上での「市民的公共圏」。
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ハーバーマスによる「公共圏」とは、政治権力や経済権力から独立し、自律的かつ合理的な議論が可能な場であり、市民は誰でもそこに入ることが出来、またその議論は市民に対して透明性がある場である。このような場で自律的な文化的・政治的な世論が形成され、権力との緊張関係のもとに、本来の民主主義が実現するプロセスが可能となる。しかしながら、ハーバーマスによると、現代においては「公共圏」は危機的状況にあるという。
彼(ハーバーマス)によると、18世紀、19世紀初期には、フランス社交界、そしてイギリスのコーヒーハウス、ドイツの読書サークルでは、このような「市民的公共圏」が発達し、政府に統制された公共性と対抗していた。
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◆ さて、仲俣さんの文章に関して風野さんは、
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別に「世界中で別々の場所で別の日常を生きている人たちの真摯な思考が、少しずつ寄り合わさって、力強い言葉になってい」かなくたっていい。むしろ力強さやジャーナリズムなどとは正反対のところにある、耳を澄まさないと聞き取れないような小さな声で語られる言葉。
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と書く。この風野さんの文章の含意を、僕なりに置き換えてみるとこんな感じだろうか。
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・直接言葉を交わしあい議論することだけがコミュニケーションではないはずだ。「コタツに座った二人が淡々とテレビを見たりミカンを食べたりしている」「早朝に目が覚めた。新聞配達の人が郵便入れに押し込んだ新聞が床に落ちて音を立てるのが聞いた」。例えばここにもコミュニケーションは存在しているように。
・「誰でもない他者」へと言葉を発信する。そして「誰とも分からない人がカウンタを回していったのを、日々淡々と確認する」ことで、発信者の存在が承認される。そのようなコミュニケーション(仮にこれを「銀河通信」と名付けよう)の在り方もある。
・そういった「銀河通信」を可能にする場として、ネットは重要である。
・現在のネットでは参加者間の直接的な言葉の遣り取り、議論、合意といった面が重要視されている。しかし、直接性を重視するようなスタイルでは、「銀河通信」的コミュニケーションを見落としてしまう可能性が高い。
・だから私は、直接性を重視するようなコミュニケーションスタイルをとらない。
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うーむ。まとめるのが難しい。これで良いのだろうか。
天下り的な言い方になるのだけど、僕が風野さんの言葉から(勝手に)読み取ってしまうのは、「誰でもない他者」「どこでもない場所」、すなわち無縁やアジール、あるいは「駆け込み寺」的な公共空間(検索)としてインターネットを捉えようとする見方なのだと思う。(透明な空間としての)「市民的公共圏」vs.(無名性、匿名性の)「駆け込み寺」という、2つの公共概念の対立。
そして更に言うならば、透明な空間としての「市民的公共圏」によって作られる「立派な個人(あるいは市民)」というものに対する疑念を、僕は風野さんの文章に(勝手に)感じてしまう。具体的に言うなら、たとえば、
「アメリカ人は幼い頃からディベートやディスカッションを用いた授業を受け、色々な社会問題に関して『自分の考え』をきちんと持つように育てられる。それに比べて日本人は、大学生になっても『自分の考え』を持っていない人が多い。幼稚である。実に嘆かわしい」
というようなテンプレート的な言説に対する疑念なのかもしれない。
…いや、僕自身がそういったテンプレートに反発を抱いているので、風野さんの文章の中に僕自身の意見と共通する部分を無理矢理見出そうとしているだけのような気もするんですが。
◆少し関係ない話。競技ディベートに関するページを発見。色々面白い。「モデルディベート:『日本は刑事裁判に陪審制を導入すべきである、是か非か』」とか、「価値論題は議論する力を養うには不向き」とか、メンバーの独り言内の「アメリカでのディベート教育(高校編、大学編、留学編)」とか。
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6月11日(水) 三角キャタピラ、FSS。
◆三角キャタピラ。タイヤの代わりに取り付け可能とか。ううう。すごく欲しい。NASAが北極で試験運用中の火星探査車がこれ使ってたな。
◆今売りNewtype誌で、「ファイブスター物語」の連載再開分を読む。あああ、カラー口絵に、ランド・アンド・スパコーンが居るよー。紹介文が格好良いよー。幸せ。
◆転叫院くんとこ(6月10日分)。"make a pass"って、「(女性に)言い寄る。モーションをかける」という意味らしいのだけど。あと、
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Isn’t the seducer’s art to accomplish the violation in such a way that, afterwards, by its acceptance, any suggestion of harassment has disappeared?
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は僕だとこんな感じかなあ。
「女たらしの誘惑テクというのは、巧みに――相手が誘いに乗ることが、事後的に彼の誘惑行為の中にあるセクハラ的な含みを消してしまうように――、ルールの侵害を成し遂げることではないのだろうか?」
seducerやartに含まれる悪い響きを強調してみた。…ううう。何というか、意訳が過ぎるというより、そもそも間違っている気が。
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6月9日(月) ポール・アンダースン「タウ・ゼロ」(ネタバレ含む)
◆ポール・アンダースン「タウ・ゼロ」(創元SF文庫)。アンダースンの最高傑作との呼び声高い作品だそうな。『SFマガジン』ベストSF1992だったり、星雲賞だったり。で、読了。
「恋するスウェーデン女はせつなくて 寂しい人を見つけると すぐHしちゃうの」
…傑作だとは思うし、それなりに心動かされたんだけどさ。好きにはなれん。つうか、むしろ憎む。
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核戦争後、スウェーデンをリーダー国に文明は復興し、人類は他恒星系の探索にでかけるまでになっていた。そして今、32光年彼方のおとめ座ベータ星第三惑星をめざし、トップレベルの男女50人を乗せた恒星船<レオノーラ・クリスティーネ号>が飛びたった。
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研究調査と植民とを兼ねた片道切符の宇宙旅行。乗り込むのは各国から選ばれた25人の独身男性と25人の独身女性。乗組員は5年間という長旅の間に(試行錯誤しつつ)自らのパートナーを決定。目的地到着後は、産めよ殖やせよで異星開拓、の予定。
誰だよ、こんな計画立案したのは。イヤ過ぎる。
当然というか、狭い空間内で惚れたり腫れたりくっついたり浮気したり離れたり。特にスウェーデン人の女性副長は、色々な相手と性交して人間関係のトラブルを巻き起こす一方で、振られて落ち込んでいるクルーと性交することで、彼を立ち直らせるなど大活躍。各登場人物にそれぞれ、国別(偏見)テンプレート(ロシア人は頑固。謎めいた中国人…)が付与されていることからすると、副長の性格は「スウェーデン人はフリーセックス志向」から来たのか?
勘弁してください。
「ははあ。貴方は性に保守的でフリーセックスとか嫌いなんですね?」
…いやその。何というか、「産めよ殖やせよ」のために作られた宇宙船、みたいなのが気持ち悪いというか。あと、これは完全なネタバレになるんだけど、ラストでの
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「(略)われわれは過去のいいものを残し、わるいものを忘れる必要がある。たとえば、そうだな……、いまでは嫉妬という問題ぜんたいに意味がなくなった。次の移民は永久にやってこない。いまここにある遺伝子をできるだけたくさん共有しなくちゃならない。たった五十人で、新しい知的種族のスタートを切るわけだ! だから誰かが傷ついたり、見捨てられたりするんじゃないかというきみの心配――そんなことは起こる余地がない。これから先に控える厖大な仕事に比べたら、個人的な問題はなんの重要性もなくなる」
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フリーセックスが、いつのまにやら「種族全体の利益」と結びついてしまうイヤさ。
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6月4日(水) ブ日記、水曜例会。
◆こちらの「ブ日記」に関するリンク集を読んだ。感想をそのうち書くかもしれない。話題自体は既に風化してるようだが。
風野さんの文章に同感はするのだけど、
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何やら、あっけらかんとした亜米利加人が屈託のない笑顔を浮かべて、ヤアなどと手を振りながら日本家屋の中に土足で上がり込んできたかのような居心地の悪さを覚えるのだ。
(略)
しかし、日本型のウェブ日記の世界には、かつてからもっと別種のコミュニケーションがあったのではないか。
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という部分の危うさ(「あっけらかんとした亜米利加人が屈託のない笑顔」というテンプレート!「日本型のウェブ日記の世界」!)が気になるところ。あと、風野さんが批判気味に引用していたこのページの
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とくに、人間関係を壊すという理解しかねる理由でパブリックな議論が忌避される日本社会では、ホンネの言葉がウェブ上でしか書かれず、読まれないのは当然だろう。
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「パブリックな議論」から「ホンネの言葉」に繋げていく部分の論理の危うさも。なぜかここら辺、案外とスルーされているような気がするし。
◆水曜例会。
楽しかったです。また、ふらりとでも立ち寄っていただけると嬉しいです。17:30〜18:30の間なら90%近い確率で赤毛娘や僕が居ると思います。転の人の出現時刻は謎ですが。
緊張のあまり、事前に準備していた話題を全て失念してしまった辺り、我ながらどうかと思いました。きゅう。性格診断テストとかの「Q:初めて会う人でも、そんなに緊張せずに話せる?」で、「はい」と回答していたのはどこの誰だ。
呼称が「マシュウさん」に確定。うわあ。自分でも「マシュウ」で良いんじゃないかという気がしてきました。ので、承認。
割と投げやりにつけた"flurry"なのですが、辞書によるとflurryの発音は のようです。「フラリィ」(ラにアクセント)という感じでしょうか。日本語で会話するときにはアクセントを「フ」に置いていただけると発音しやすいのではないかと。
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6月2日(月) 「スロー・バード」、バカSFと言えば済むと思っている人は呪われるといい。
◆イアン・ワトスンの短編集「スロー・バード」(ハヤカワ文庫SF。絶賛品切中)を読んだ。ちなみにワトスンを読むのはこれが初めて。
充実。大満足。途中までは、いま一つ肌に合わなかったのだが、『知識のミルク』以降の傑作群に怒涛のように心が押し流された。
何だろな。まだ上手く言葉にまとめることが出来ないのだけど、ユーモアの中に生真面目さを感じるような作風というか。いや、これは褒めているんですが。『超低速時間移行機』を読むとレムに似ている気がするのだけど、レムの方が人が悪いというか。うーむ。
とりあえず、判で押したかのように「バカSF」とか「おバカな奇想アイデア」とかいう適当な言葉でこの作品をくくってしまう人たちは呪われるといい(最近、こんなことばっかり言ってるな)。
この短編集の中で、よりによって『銀座の恋の物語』(出来が悪いとは言わないが、如何せん文体と内容が人を選ぶ作品)を冒頭に持ってくる編者のセンスは信じ難い。本を売る気が無いでしょう?と疑いたくなるくらい。どこかで「僕だけが分かる、この作家」というか、一般受けしない小難しさのようなものを、この作家に求めていたりはしませんか?
僕だったら冒頭は『ジョーンの世界』にするかも(次点で『知識のミルク』『ぽんと開けよう、カロピー!』か)。…異議のある人も多いかもしれないけど。
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十四歳の誕生日に両親はあたしに地球をプレゼントしてくれた。普通の贈り物を買うことができなかったのだ。
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この時点で、一般読者への掴みはOK(そうか?)。
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ここらの住人にそんなことができるはずがない。必需品を買うだけでも大変なのに。どこかの母親や父親が苦労してためたお金を、キャンプの市場でたいして長もちもしない安物のために無駄づかいしているのを見るのはとても悲しい。そんなのがいやだったから、あたしは前もって母さんと父さんに、あたしにはふたりの愛があればそれでいいといっておいた。
ところが反対に母さんと父さんは、あたしに何もかもすべてをくれるといって、その約束を本当にまもってくれた。
ことの起こりはこうだった。あたしたちの住む移動住宅は、田舎のまんなかに一千もの同類が集まったキャンプ場の端っこにあった。でもどの家にしても、ほんとはどこにも移動なんかできなかった。みんな二十年や三十年はたった年代物ばかり。タイヤの空気は抜け、ゴムは腐って落ちて車軸がむきだしになっていた。週に二便のバスが十マイル先の街まで走っていたけど、そこに行っても悲しくなるだけなので、バスに乗る人はほとんどいなかった。
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ここまで読んだ(未読の)方は続きが読みたくてうずうずしていると思うが、この本は(売れなかったのか?)古本屋でもあまり見かけないのです。だから『銀座の恋の物語』を冒頭に持ってくるなってばよ。
あ、Amazon ユーズドストアでなら、安価に買えるっぽい。
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