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【2003年5月】

5月30日(金)  風通しの良い、エロス。
2週間前ぐらいに「エロゲーと『リアル』」について一瞬だけ書きかけたのだけど、その時に見つけてきた内田樹氏のエロスと師弟関係と知と欲望の関係についての文章(2月13日分。長い)を読む。
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 エロス的関係において、「他者の外部」への回路を担保し、二者間の永遠の「ピンポン」を終結させるのは、エロス的な欲望のうちに向き合っている二人のあいだに「有責性の水位差」があるという事実である。(もちろんここでいう「有責性」とは、「教師は本来的に権力的な存在なのだから、それを恥じ入りなさい」というようなイリガライ的なレヴェルの話ではない。)
 「私」はつねに「あなた」より有責である、という倫理性が主体の主体性を基礎づける、というのがレヴィナスの理説である。
 そのような「有責性の先取権の主張」はたんに主体性を基礎づけるだけでなく、「私」と「あなた」のあいだに社会性(「他者たち」との回路)を導き入れるために必須のものだ。
 この「私はあなたより有責である」ということを多くのレヴィナスの読者は法制的な含意に即して理解して、「おのれの有罪性を恥じる」とか「いやなこと、苦しいことを引き受ける」というような意味に解するが、私はそうは解さない。
 有責性とは、何よりも「あなたが私に贈るに先んじて、私はあなたに『贈り物』をする」ということである。
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とか、
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 真の師弟関係には必ず外部へ吹き抜ける「風の通り道」が確保されている。あらゆる欲望はその「通り道」を吹き抜けて、外へ、他者へ、未知なるものへ、終わりなく、滔々と流れて行く。
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とか。で、エロスだか官能だか(それと具体的な性行動)とか、「風通しの良さ」とかについて、何となく、もごもごと考える。といっても、

・「マリア様がみてる」の世界は、姉妹(スール)システムによって半ば強制的にエロスを整流することで、妙な風通しの良さが実現していて、それが人気に繋がっているような気がする。「いつか卒業する私たち」の物語。
前々回書いた、「グリフォンズ・ガーデン」(未読)への違和感も、こういう話なんだろうな。あまり「風通しの良さ」を志向しているようには見えないというか。

とか、その程度の(割とどうでもいい)話なんだけど。
 「有責性」の話は良くは分からないのだけども、
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 「社会性」とは、当然のような顔をして2者間のループ回路に外から割り込んでくるようなものではなく(こっちが「イリガライ的なレヴェル」?)、2者間のループ回路から外へと向かうような流れだ。
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という風に読んでしまった。どうだろう。


若者のとこ。
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俺、性欲を押さえつけたところにこそ官能は存在する、とまで思ってるから、
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 茶々を入れるんだが、性欲を「押さえつける」ためには、まず、性欲を喚起する必要があるんだよね。…寸止め構造?
 「狭い世界へ向かおうとする動きへの抵抗」と「広い世界を示す」ことは全く違うというか。「寸止め」と「お邪魔虫キャラ」とを入れることで、社会性とか「広さ」が生まれると思ってる奴等は阿呆に違いない。貴様にとって社会性とはその程度のことか。
 あ、後半はとは関係ないです。すまん。


5月23日(金)  ロバート・J・ソウヤー「占星師アフサンの遠見鏡」に憤りを感じる。
若者に煽られたので、ロバート・J・ソウヤー「占星師アフサンの遠見鏡」(ハヤカワ文庫SF。長らく品切中だったが、入手可能になったみたい。→bk1Amazon)を読んだ。
 なるほど。(言いたいことは沢山あるけど)確かに巧みで、面白い。異星?に住んでる人間並みの知性を持った肉食恐竜たちを描いた物語なんだけど、恐竜たちの身体機能が人間とは異なることを、設定や描写に上手に活かしている。
 肉食恐竜たちが強烈な縄張り本能を持っていて、その本能を懸命にごまかしながら集団での文明生活を営んでいる、という設定には正直唸らされた(そのような種族がなぜ「わざわざ」集団生活を営むようになったか、という点は謎。彼らは自ら文明を築いたのではなく、何者かによって文明化させられたのでは?ということを示唆しているようにも思われる)

 さて、褒め終わったので、これからは言いたいことを言うことにする(以後ネタバレ)。


 大筋としては、主人公の天才少年恐竜(占星術師見習い)が、ガリレオよろしく地動説を発見する話なのだが、地動説に気付いてしまった後の少年の思考が結構極端なのだ。
「この知識を今すぐ皆に知らせなきゃ! …いや待てよ。『地動説→(太陽神としての)神の存在を否定→教会の権威失落→社会規範の崩壊→文明社会崩壊』の可能性が! これはマズい。今すぐ身投げして、わが身もろとも、この危険な知識を葬り去ろう…」
 僕はこの部分を読みながら「どうして、極端から極端に行くかなあ。これが『若さ』というやつか?」などと考えていたのだが、その直後、作品中のある設定を自分が忘れていたことに気付いたのでした。設定上、

『恐竜たちはウソをつくと鼻の色が変わるので、すぐにバレてしまう』

のだ。彼の直情さは彼自身の気質ゆえ、というよりも単に『日の光の中では(明るい所では)ウソがつけない』からなのだ。社会の全員がウソ発見器をつけている社会を考えてほしい。何というディストピアなのだろう。ひどい。(ついでにいうと、恐竜たちが信じているのは一神教としての太陽神で、それゆえ、彼らにとって「日の光の中ではウソがつけない」という言葉はダブルミーニングであることに注意)

 だから、彼の「真実を皆に伝えたい」という思いを、僕らの立場から素直に評価することは難しい。彼には、たとえば「社会を動揺させないように、徐々に部分的に知識を公開していく」というような漸進的な選択肢はそもそも与えられていなかったのだ。ある意味では、彼は選択肢を「自分で選んだ」のではなく「選ばされた」とも言える。
 しかしながらソウヤーは、ほとんどの読者にその悲劇性を気付かせないことに、事実上成功しているように思われる(webには沢山の感想があるのに、類似の記述を見つけることは出来ない…。また、読んだことのある知人たちに尋ねたところ、二人とも「そういえば『ウソをつけない』っていう設定があったね。あ、そうなのか」と初めて気付いた様子)。結果として、ほとんどの読者は「つこうと思えばウソをつける」自分の立場から、主人公の勇気や「科学への思い」「真実への思い」を評価することになる。
 許し難し、ソウヤー。…それとも気付かない読者が悪いのか?


「不兄の兄」読みました。上手く言葉にまとまらないのですが、その、萌えました。


5月18日(日)  「グリフォンズ・ガーデン」(未読)
ふとした弾みで、早瀬耕「グリフォンズ・ガーデン」(早川書房、絶賛品切中)という本のことを知る。検索してみると、こんな結果が。

あれこれ探訪2001年11月8日
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早瀬耕という人の「グリフォンズ・ガーデン」という小説を読み終えた。村上春樹「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」+認知科学、という感じの掘り出し物おもしろ小説。1992年。初期保坂和志の世界に偶然にも近似。思考の輪郭が。
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「書物の帝国」買書記2000年12月7日

水鏡子さんの「雑多繚乱・ぞくぞく」
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 物語は、細部が少しづつ異なるだけで、ほとんど同じ内容の、二つの恋愛小説が、二重螺旋のようにからみあい、反復をくりかえしながら、やがて干渉を強めていく。
 そして会話のなかで語られたさまざまの話題が、干渉の伏線として生きてくることになる。
 恋愛小説という範疇だけで考えると、男のわがまま勝手な夢物語、とけなされそうな気がするくらい、男にも女にも、二人の暮らす世界にも、存在感がまるでない。けれど、そんな存在感の欠落が、二つの恋愛模様が合わせ鏡に互いの像を写しあい、無限の反復の果てに実体をもつ虚像を生みだしていくような、本書の全体的な構成に、むしろうまくマッチして、積極的に貢献している。
 むかし、カート・ヴォネガットはSFについて、作中人物の口を借り、「ポルノと同じくらいもてなしのいいファンタジイ」と規定した。その言葉を本書にそのまま送りたい。
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 あはははは。このページを読んだ知人たちがモニターの前で「よーするに、あんた、こーいうのが好きなんやろ?」とか言っているのが目に浮かぶ。読んでいないので反論のしようが無いんだが、違う気がする。どこがどう違うのか考えるために、探してみることにします。それはそうと、ここで紹介されている
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合わせ鏡の項で合わせ鏡の鏡像が有限か無限か否かについて恋人と語るシーンで、主人公が恋人に「君にとって無限とは何か?」と問うシーンがあるのだが、恋人が「わたしにとって無限はあなたよ。」と返答し、主人公がニヤリとする。
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という部分に、早くも違和感バリバリなんですが。違う、それは何か違うよ。でも、どこが?


5月17日(土)  エロゲーと「リアル」(続)、『神のエロゲー』、ピュア。
(承前)
 そういえば、エロゲー(商業ベース)のシナリオ書きをやってた知人が、
「奴ら(ユーザー)に『現実』というものを教えてやる!」
とか吠えていたのを思い出した。

 それはさておき。一応僕は、
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しょせんエロゲーなんて虚構なんだから、「リアル」を追求する意味ねーじゃん。
・オタク連中にとっては、「エロゲー的なもの」こそが「リアル」なんだよ!
・そもそも、「リアル」なんて存在しませんが?
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とか、そういうことを言おうとしているのではないつもり。もちろん、それらとは表面上反対に見える
・エロゲーには「リアル」が足らない。もっと「リアル」を!
ということを言いたいわけでもない。

 僕が考えているのは、なぜエロゲーが、「リアル」や「社会性」を期待されてしまうようなメディアなのか、ということで。
 少し話がずれるかもしれない。滝本竜彦のエッセイ「超人計画 第2話:輝ける明日へ」に『神のエロゲー』という素敵なフレーズが出てくる(ちなみに検索結果:1件。うへ)。
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 しかしともかくそのひととき、私は全身全霊を持ってして、脇目もふらずエロゲーシナリオ執筆に励んでいた。古今東西の物語ヒロインを類型分析し、エロゲーシーンの趨勢を分析し、これが御家庭に一本あれば、もう他のゲームも小説もマンガもアニメもまったく購入する必要が無いという『完全エロゲー』『神のエロゲー』を作るため、かなり真面目に頑張った。
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 「これが御家庭に一本あれば、もう他のゲームも小説もマンガもアニメもまったく購入する必要が無い」なんていう完全性をエロゲーに求めてしまう(*)。そのことに、なぜだか僕は共感できてしまう。でも、この感覚は何なのだろう? そして、何故エロゲーなの?


*:ジャンルは違っても、たとえば「僕の考えた、究極のテーブルトークRPGシステム」なんてものを一度でも思い浮かべたことのある人なら、この感覚を分かってもらえるかもしれない。あと「神のラーメン」なんてのも、ね。



転叫院くんのメモ(5月15日)から。
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 私はピュアで「痛い」作品や作者が好きで、それはそれは真っ直ぐ本気なのだけれども、
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 「ピュア」と「痛い」との関係が良く分からないのです。解説希望ですよ。


5月16日(金)  エロゲーと「リアル」。
エロゲーと「リアル」。
有村悠たんとこ(5月14日分)。
 いや、そのですね。あの場にいた人たちは、
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・「リアルなエロゲー」という言葉の持つ(奥深く、味わいに富んだ)ニュアンス。
・「リアル」という「取り扱い注意」な言葉を、下準備無しに発言してしまえる、君のキャラ。
・「リアル」の名の下に開陳される、「君が世界をどのように見ているか」
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といったところに面白みを感じたわけです。
 だから、「そのゲーム、誰が買うの?」という言葉を、マーケット戦術が云々、という意味に受け取ってしまうのは多分間違ってるわけで。「ゲームのコンセプト」を聞き出すことによって、「有村悠にとって『リアル』とはどういうものなのか」を、より深く知ろうとする。それが目的なわけです。具体的な「売れる/売れない」なんていうのは、割とどうでもいい。

 ところで、「『リアル』という言葉を、何の疑いもなく使える」って、(が言うところの)「ドキュン」、その定義そのもののような気がするんだけど、どうだろう?

 それはさておき、『リアル』の話。
 僕らがリアリティを感じる仕組みは相当に複雑で、色々な要素が関係しているように思われる。たとえば、長澤コズモさんの切れ味の良い文章
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「現実主義者」も同じだ。人は幸福なとき「これが現実だ」とはいわない。それを口にする人は必ずネガティブな事態に直面している。
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 この文章が教えてくれることは、「現実」という言葉が経験的事実だけじゃなくて、時に「僕ら(あるいは『奴ら』)が見たくない、何か」を意味してしまう、ということ。
 たとえば、テロリストが、市街地に仕掛けた爆弾の起動装置に指をかけて、こう言ったとする。
 「奴らに『現実』というものを教えてやろう」(ドラマで良くありそうな光景だ)
 この瞬間、テロリストにとって「現実」という語は何を意味するのだろうか? 物理的現実としては、彼(彼女)が指を少し動かすと爆弾が爆発し、多くの死傷者が出るということが予想される(もちろん、ボタンをちゃんと押すことが出来たら、の話だけど)。
 その一方、彼(彼女)のセリフには、単なる「物理的現実の予想」以外のものがおそらくは含まれている。
 「奴らに、奴らが見たくないような光景を見せてやろう」
 「奴らを悲惨な目に合わせてやろう」
更には「指先一つで大勢の人間の命を左右できるという全能感」や「妄想めいた社会的願望」もあるかもしれない。彼(彼女)が『現実』と言った瞬間、そういった諸々のイデオロギッシュ(?)なものが彼(彼女)の全身にみなぎるわけです。

 続くかも。

 ところで、これを書き終えたあと、中里さんの5月15日分「現実の代理人」の存在に気付いた。ううう。切れ味鋭い。お見事です。


5月12日(月)  またまた順列都市、ホワイト・ライト、ONE、私信。
 板倉さんのページにこんな記述が。
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Flurry さんのレビューに刺激を受けて密かに 順列都市のレビューを更新。
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 きゃあ。あの文章を読まれたかと思うと少し恥ずかしいですが、その、嬉しいです。

「『えいえん』も半ばを過ぎて」
 「実際に計算機を永遠に走らせる必要はない。可能性さえ示されれば『永遠』(と無限)は、ほら、そこにある」
 「順列都市」のテーマ(の一つ)を無理矢理まとめると、こういう風に言ってしまえなくもない(いやまあ、大事なのは「その先」な話ではあるんですが)。で、そういう話になるとルーディ・ラッカー「ホワイト・ライト」(ハヤカワ文庫SF、絶賛品切中)とか『ONE』(Tactics)のことが思い出されてしまうわけです。
 以下、例によって、まとまりなく電波っぽく。

 「ホワイト・ライト」というのは妙な話で、スケールの大きさでいうなら他に並ぶものがちょっと見当たらない。何しろ「ぼくはπを言い終わった」なんて表現が普通に出てくるのですよ。眩暈がするほど面白い。πは無限小数だって? いや、主人公の計数能力も、その、無限なのですよ。
 で、そんな主人公が、より高次の無限(無限にも色々な種類があるのです)を目指す。目指す究極無限のことを主人公は「それ」"One"と呼んでいて、そのことが僕の頭に残っていたせいで、『ONE』をやったときに両者が頭の中で重なってしまって呻き声を上げる羽目に。…こら、そこ、笑うな。

 ラッカーを先に読んでいたせいなのかどうなのか、僕は『ONE』の「えいえん」のことを、何だかカッチョいい超越的なヴィジョン、というように読んでしまったようで。幼少期のトラウマ?何それ?
 だから、エンディングでの浩平の「こっち側」への帰還を、「えいえん」の断念とか、更には「永遠ではないからこそ、日常に価値はある」とかいう風に受け取る説教ぽい読みには、どうにも違和感が。「えいえん」に触れるのに無限の時間が必要なわけでもないだろうし(結局、これが言いたかったらしい)。エンディング後の浩平にインタビューしたら、存外と「えいえん? うん。十分に満喫したよ」なんて言いそうな気がするのです。

 …これって、「アリストテレス×プロティノス」とか、そういうのと関係するのかなあ。そういえば「ホワイト・ライト」の主人公って「プロティノスの著作を読んだ」てな発言をしてたよーな。
 ひょっとして「数理神学」とかいうやつも関係するのか? なんだか胡散臭そうだったので、チェックしてなかったのけど。ううう。
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本書はそうした世俗化の弊害を乗り越えて健全な「この世界への他者」への関心を保つための興味深い示唆を含んでいる。面白い本です。目からウロコが落ちました。
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 むー。読んでみることにします。

ところで"One"なんつう一般的な言葉の類似だけからそこまで言うか、という方のために補足というか変な思いつきを。
 こちらのありがたい『ONE』評論によると、
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 例えばリチャード・バックの『ONE』という小説がある(Bach,Richard;ONE(1988)、邦訳・平尾圭吾(1990)、現在は集英社文庫(1996)所収)。『かもめのジョナサン』の作者による、ダラダラと長い癖に実存的メッセージへの要約と還元を作品自体が望んでいるかのような驚くべき貧しさによって読者を苛立たせずにはいないこの小説を、タイトルが同じというだけの理由であの傑作と並置し比較するなど幾ら何でも残酷な行為ではあるまいかという疑問は無論首をもたげぬでもないのだが、とは言えタクティクスの『ONE 〜輝く季節へ〜』がその内容からはどう考えても「ONE」と題される理由が見当たらない以上、この作品が一つの典拠となっているらしいという事実くらいは認めねばなるまい。
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とあるわけです。
 リチャード・バックが「かもめのジョナサン」でヒッピーカルチャーの支持を集めて、その後リチャード・バックはニューエイジ思想っぽい方に行っちゃったり、それはそうとルーディ・ラッカーもまた、ビートニクとかヒッピーカルチャーの生き残りだったり、とか多分そういう話を背景にしているのです。きっと。ヒッピーカルチャーとニューエイジとの(大きな)違いという問題とか。副読本は、佐藤良明「ラバーソウルの弾みかた」(ちくま学芸文庫。絶賛品切中)あたりで。
 …自分でも何を言いたいか分かってないので気にしないでください。大体、そこらへんのカルチャーのことは全然知らないしなあ。リチャード・バックの「ONE」も読んでないし(読むつもりもないし)。


私信。遅くなってすみません。
 きゃあ。数学屋さんではないのです。でも受けた専門教育は数理工学(6号館の辺り)で、研究分野(の半分。学際!)が「数理○○」だったりするので、「数理屋」のカテゴリーには入ってしまいそうです。…自分でも信じられないですが。
 「帰国妹」の四葉は、僕にとっても、他人事とは思えないのでした。「順列マトリョーシカ」は自分のために書いていたような気がするのです。
 

5月4日(日)  SFのイベント。顔。
何となくSF系のイベントに行ってきた。こういうイベントに参加するのは初めてなのでした。
<昼の部>
 400人程度の会場が結構埋まっていた。どう考えてもこの中で一番SFを読んでないのは僕だなあ、などと思って愉快な気分になる。
 会場の入口で古本の即売。ほとんどの本が儲け度外視で100円。イアン・ワトスン「スロー・バード」が100円で買えて嬉しい。あとはディレイニー「時は準宝石の螺旋のように」(サンリオ文庫)を1000円で買ってみたり。
 「飛浩隆インタビュー」:諸事情により前半部分しか聞けなかった。
 インタビュアーの人は、「グラン・ヴァカンス」が喚起するビジュアル的なもの(ここの作品紹介とか表紙とかを見てもらえば分かると思うけど、表面上ビジュアル寄りな作品なのである)をテーマの軸に置こうとしていたみたい。けれど、飛浩隆氏は自作の内容をビジュアルに回収されることが本意ではないようで、「言葉や描写の連なりに気を遣った」とかそんな感じの発言が続いたような。「ビジュアル vs. 言葉」なわけです。当然、なかなか話が噛みあわない。このレベルの齟齬はアドリブではどうにもならないわけで。事前準備の問題だとはいえ、インタビュアーの人に少し同情する。つうか、インタビュー形式で「言葉や描写の連なり」に焦点を当てるのって大変だよなあ。
 あと、飛浩隆氏はセミナーに備えて、自作の感想をネットで検索してあれこれ読んでみたとのこと。…ひょっとして僕のアレな感想(こことかここ)も、読まれたのだろうか。申し訳ない気分になる。

 「スタニスワフ・レムを語ろう」:レムの最新情報、(日本では知られざる)本国での評価、過去に起きた論争のエピソードなどが豊富に語られて面白かった。巽孝之氏がブルース・スターリングのレムについてのエッセイ(未訳)を紹介してくれて、80年代以降のアメリカSFにレムが与えた影響について示唆してくれたり。
 けれどけれど、どうしてそこから先、深いところへと話が進みませんか。ううう。どうにも踏み込み不足な印象。せっかく「語れる人」をゲストに連れてきたのだから、もっと作家論に話を振っても良かったと思うのだけど。
 あと、司会の人自身が、レムが好きな理由を問われた際に「ハードSFですから」の一言でまとめてしまったときは、卒倒しそうになった。いや、せめて「どこにハードSF性を感じるか」「レムのハードSF性の特色とは」みたいなことを少しは語ってほしかったです。

<合宿の部>…まだ書いてない。そのうち追加するかも。


顔の話。
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 あと、これと似た話で、好きになった異性の顔を覚えられないという現象があるよね。それとも、今時の若者はそんな経験しないのかなあ。僕は中学生のころ、好きだった(もちろん片思いだ)女の子の顔がなかなか覚えられなくて苦労した記憶がある。恋心が強烈なほど、記憶があやふやになって焦ったものだ。
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 某所や某所での(二次元の)女の子の顔談義を読む。僕はというと何せこんな(↑)感じなので、顔のディティールを良く覚えられなくて。ふわふわとした印象の断片は脳内にあるのだけど、それを継ぎ合わせようとすると全然上手くいかない。
 ちなみに、斎藤環「生きのびるためのラカン」(第16回)からの引用。なーんだ、僕だけじゃなかったんだ、って感じです。





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