【2003年4月】
4月30日(水) 「正しさ」とSF。「パラダイス」。そして話は一巡り。私信。
◆何だか、身内以外にも話が広がってるー。えーと、「猫」に関する意見には同意です。ただ『オメラス』も同じように、大事な部分を隠して話を進めているんじゃないかなー、てのが僕の立場なのですが。
あと、こちら。「良い/悪い」というよりも「正しい/正しくない」なのかもです。「好き=正しいSF、嫌い=正しくないSF」ですね。…あはは。
以下、個人的な感想。
-----
SFというジャンルは、「正しいSFとは?」みたいな論争が起こりやすいジャンルらしい。それは何故なのか(大体「正しい」ってどういう意味さ?)
人間が何かを「正しい」と(あるいは「正しくない」と)感じる、その感覚と「SFの面白さ」との間に密接な関係があるから、なのかもしれない。
「正しい」の意味には、「正確な」「真実の」「本来の」「正当な」「正義の」「正直な」などなど色々な要素がある。でも、それらの要素をどんどんと取り外していくと、妙なものが「正しい」の中に残っていることに気付く。それは「正しいから、正しい」という風にしか説明できないような、そんな『何か』で。
「科学的に正確で、(それゆえ)正当で正義」「本来は○○だが、それは真実ではない」、のように、SFは「正しい」の内に含まれる要素同士の強めあいやギャップを強調する。強調されることで露わになった要素同士の境界面をストーリーは縫うように進み、そうしてその奥にある、言葉では説明できない『何か』を僅かにかすめて、飛び去っていく。
-----
何を書いているか自分でも分かってないので、気にしないでください。
上の文章での「正しい」について、少し例を挙げると、たとえば、若者のこの文章で、
-----
「ああ、これは、非情であり非道だ。しかし、これは必要な非情なのである。」(「チグリスとユーフラテス」新井素子)という論理の正しさと悲しさが、私は好きである。
-----
とあって。ここでの「正しさ」には、「論理が正確」以上の意味が含まれてるんじゃないかな、ということです。
そういえば、テーブルトークRPGも「正しさ」とか「どうあるべきか」という議論が頻繁に起こるジャンルのようで。考えてみると僕にとっては、SFが「科学の論理と物語の論理の絡み合い」であるように、TRPGも「ルールの論理と物語の論理の絡み合い」なのかも、と思ってみたり。
◆歴史学志望の少年にマイク・レズニック「パラダイス」(ハヤカワ文庫SF、絶賛品切中)を貸したら、やっぱり、というか感動していた(4月30日)。貸して良かったにゃー。
----
マスタスンの苦悩は、「オメラス」から出た人々には無縁のものだろうなという気がする。
-----
あはは、「パラダイス」大好きっ子の赤毛娘が何と言うやら。
そういえば、『オメラス』の話をしているときに、なぜ「キリンヤガ」(ハヤカワ文庫SF、入手容易)のことを、ちーとも思い出さなかったんだ俺。阿呆か。以前に話が出ていたのにね。
へんじゃぱ 12/5
思い出し日記 12/23
へんじゃぱ 12/24後半
思い出し日記 12/25後半
へんじゃぱ 12/28後半
…似たよーな話をしている。あれから「パラダイス」を読んだので、もう少しまともな話が出来るといいのだけど。つうか、やっぱ「パラダイス」と「キリンヤガ」の違いが問題なのか。それはマスタスンとコリバ、という対比に置きなおせるものなのか。うーむ。
マスタスンって、自分とセカイとが直結していて、(私→世界)→社会、っていう感じに社会と関わりあっているような書かれ方をしている。けど、「その視点に立てたのは彼が『人間』(=白人)だったからだよー」という含みを、僕は「パラダイス」の中に読んでしまう。考えすぎだ、と言われそうだけど。
そういえば「パラダイス」って宗教のことが全く書かれてないな。(訂正:書いてありました)
…などと考えながら、水曜例会に行き、赤毛娘と話したところ、
「…それでですね、問題は「アイヴォリー」なんですが」
ううう。読むので少し待ってくれ。道のり遠いなあ。
◆関係ないが、この検索で2番目に出てきた、D&D3rdのプレイリポート。PCの名前かよ。それはそうと、面白いなこれ。
◆私信。大事なことを言い忘れてました。その他のお話も、画も、気に入っております。ただ、僕はあまりゲームをしないものですから、元を知らないことが多くて。「これ素敵なんだけど、元のゲームをやらずに読んでいいのだろうか」なんて良く思ったり。
最近のお気に入りは、"ame.jpg"です。お話の再開を、のんびりと待たせていただくことにいたします。
|
|
4月27日(日) 順列マトリョーシカ。
◆わざわざ恐縮です。あの一節を選んでいただいた、そのことが随分と嬉しいです。
情報科学というか、僕にとってそれは同時に「情報のおはなし」「情報たちの物語」で。「帰国妹」を、僕はそのように読ませていただいたのでした。あと、「四葉を幸せにするために必要な3つのステップ」も。どちらもとても好きなのです。
でも、僕のその読みから生まれるのは、僕にとっての(四葉の)物語で。四葉に語る「べき」ことかというと、違うような気もします。その違いを時々忘れて、自分のための物語を相手に語ってしまいたくなるあたりが、悪い兄なのでしょう(もっとも僕は、世間で言われるところの一人っ子とかいう奴なので、兄弟姉妹の感覚をいまいち掴みきれないでいるのですが)。
マトリョーシカ人形の話なのです。鈴凛が飛行機に乗り込むまでに四葉と過ごした時間は、どれほどだったのでしょうか。遊び心にあふれる鈴凛のことですから、時間に余裕があったなら、正しい組み立て方とか含有関係とか大小関係とかを説明したあとは、大きい人形の上半身の上に逆に小さい人形の上半身を載せて、そうやって十二重の塔を作って遊んでしまいそうな気がします。空港のコンコースだというのに。
正しく組み立てる以外にも、遊び方はたくさんある。鈴凛が四葉にそれを伝えられていたなら、ばらばらな人形たちと兄たちは四葉の遊び心の赴くままに、不格好だけども面白い様々な(何しろバリエーションが少なくとも12!個ぐらいはありそうですし)組み合わせを見せていたことでしょう。僕はそこに幸せを感じます。
僕が四葉に話したいのは、多分こういうことなのですが、僕の話し方はやや直截に過ぎるような気もします。出来れば鈴凛に任せたいところです。
そういえばこの文章、ひょっとして「順列都市」の感想にもなっていたりするのかも。
◆検索をかけていると、こんなの(PDFファイル)を発見。むー。赤間啓之という人はこういう人らしい。むー。
-----
註3:同様に、Kripkeがあげる一角獣の物語(Kripke p26,27)も以下のような形式でプログラミング可能である。「よく引き合いに出されるのは一角獣の例である。すなわち、一角獣が存在しないことは誰もが認めているが、もちろん一角獣は存在したかもしれなかった、と言われる。ある状況のもとでは、一角獣は存在したであろう、と言うわけである。これは私がそうではないと考える事柄の一例である。私の考えでは、正しくは、一角獣が存在しえないことは必然であるという言い方をするのではなく、いかなる状況のもとでなら一角獣が存在したことになるのかわれわれにはわからない、とだけ言うべきなのである。その上、われわれが一角獣神話によって知っている一角獣に関する事柄をすべて満たす動物が過去に存在したことを決定的に証明する化石を、たとえ考古学者や地質学者が明日発見したとしても、それは一角獣がいたことを示す証拠にはならないだろう、と私は思う。」
public interface DesignatorUnicorn{//インターフェース内ではインスタンスを生成しない
public static final String unicorn="UNICORN";//固定演算子
…
-----
|
|
4月22日(火) グレッグ・イーガン「順列都市」の解説に挑戦(ネタバレ有り)、こめんつ。
◆グレッグ・イーガン「順列都市」(上/下)。実は最近まで読んでなかった(えー)。
先日、サークルの後輩に歴史学の基礎を教えてもらった際に、「見返りとして、『順列都市』を読んでください。で、この作品に出てくる『塵理論』の解説を僕にしてください。理系のあなたになら、きっと分かるでしょう。じゃあ、頑張ってください」なんて要求をされていたのでした。で、読了。
とはー。無茶言うなよ。
それはさておき、すごい作品で。
チューリングマシン、カオス、複雑系や人工生命の背景に存在する横断的な問題意識、そして「ロマン」を、見事なまでに抽出し、結晶させてしまったSF。更には「塵理論」という大ネタによっていつのまにか「意識」や「時間」とは、なんて問題に「自然に」結び付けられてしまう。感動。
けれど、小説として面白かったかと聞かれると、色々と口ごもるはめに。それでも大傑作、なことには間違いないのだけど。
SFって面白い。本当に。幸せ。
で、「塵理論」なんだけど、まず、大先輩たちのこの解説を読んでおいてください、と逃げておきます。あと出来れば板倉さんの解説とかも。これ以上のことを書けと言われても、正直困ったり。
その上で解説をやってみます。相も変わらず、だらだらとつながりのないメモ形式です。本を読み返さずに書いているので、勘違いも多いかと。
「塵理論と自意識」:
良い例かというと疑問だけど、とりあえず「ゲームブック」を遊んでいるところを考えてみよう。ゲームブックの各項目(パラグラフ)は順番がバラバラに並べられているのだけど、普通は1ページ目が最初のパラグラフだ。だから僕らは、最初のパラグラフから指示されるパラグラフをたどっていって遊ぶことができる。
ここで変なゲームブックを考えてみよう。最初のパラグラフがどのページなのか、さっぱり分からないのだ。こりゃあ普通には遊べない、と考えた君はチート(インチキ)することを考える。適当なパラグラフからスタートして、ページに指を挟んだままで次のパラグラフを見る。結果をメモに書き写す。
「ふむふむ。215番は次に356番に行くのか。メモメモ」
この作業を沢山繰り返すと、君の手元にはそのゲームブックのパラグラフ構造が出来上がっていることになる。この作業によって君は「物語の全貌」を知ることができる。
僕らの「意識」はそのような「作業」それ自体だ、というのが塵理論の言っていることの一つで。各パラグラフが「塵」なわけ。ポイントとしては、あらかじめ「意識」があって、それが「塵」をまとめているのではないことに注意すること。逆に「塵」(とゲームのルール)が意識を生んでいるわけ。「塵」とゲームルールさえ用意すれば、意識はそこから自然に生まれてくる。(本当は、「塵」はそこらに遍在しているのでルールさえ用意すればよいらしい。これが「平行世界論」に繋がっていく…)
もっと言うなら、そもそも「時間」ていうのも、そのようにして成立する、らしい。ここらは説明するとめんどいので逃げます。
「永遠に存在する」:
で、主人公の一人ダラム氏は「電脳世界で永遠に生きる」ことを考えた。もう少し詳しく書くと、
・同一性が揺らぐことなく、
・外界から干渉されることなく、
・自意識が永遠に存在し続ける。
ですね。どのようにこれを実現するか、さっきのゲームブックの例を使って考えてみる。
「自意識の同一性」は、「最初のパラグラフ」が一つしかない、ことに対応する。自分の「由来」がはっきり一つに定まれば良い、と仮定するわけです。
で、「自意識が永遠に存在し続ける」、これは「ゲームブックが永遠に続く」すなわち、ゲームブックのパラグラフが無限にある、ということ。これは推測なのだけど、この「ゲームブック」にはループ構造が許されていないように思われる。ループ構造があると、「自意識の同一性」の辺りで問題が生じるから、かもしれない。だから永遠の存在には無限のパラグラフが必要っぽい。
つまり、彼の野望を実現するには「外からの手を借りずに、無限の複雑さを持つページを作り出さねばならない。しかも、それらは全て、単一のパラグラフに祖を持つことが証明されねばならない」という条件が必要となるわけです。そして、それを実現するために用意されたのが、「TVC型セル・オートマトン」と「エデンの園初期配置」なわけですね。
(セル・オートマトンの説明だけど、誘導できる適当なページが見つかんない。困った。コンウェイのライフゲームで実際に遊んでみるのを”激しく”勧めます。ライフゲームについてはJAVAアプレットがネット上に幾つかありますが、こちらが詳しくて良いかもしれんです)
「情報の複雑さ」:
ダラムが従来の電脳空間を耐え難く思っているのは、環境情報が貧弱だから、というのがある。これは単に感覚がどうのこうの、だけじゃなくて。たぶん、環境情報が貧弱→作られる「パラグラフ=塵」の数とバリエーションが貧弱ということで、それは、塵から生成される「自意識」それ自体に直接効いてくるわけです。「複雑さ」の要請は彼の「生きている実感がほしい」というところからも、来ているような。
「スキャン」された時点で、人の情報は「有限個数のビット(0か1か)の構造体」になってしまうわけです(生身の時点では、そうではないのか、という議論はさておく)。この話は実は、「その『有限個数のビット構造体』たちが、どのようにして、無限の可能性=永遠の生、にたどりつくことができるのか」を描く物語でもあるのです。ロマンですな。
ここまで書いたとこで、時間切れ。…やっぱり難しかった。きゅう。多分、読んでも分からないので、水曜例会ででも直接問い合わせてください>後輩。
何とはなしに考えていたけど、書けなかったこと。
・Takensの埋め込み定理
・バロウズのカットアップ。
◆若者のとこ。
>それは利益の評価関数が十分に検討されていないからだ。それさえちゃんとできるならこの式は万能である、というのが私の立場です。
やあ、それはこういう話をしているのかな(ほがらかな声で)。
-----
フォン・ノイマンとモルゲンシュタインはゲーム理論を世に送り出したその著書、『ゲームの理論と経済行動』のなかで、不確実性の中で一定の条件を満たす行動は、おこる事象の確率で加重平均した効用関数の期待値(期待効用関数)の最大化と、同値であることを証明した。
その一定の条件とは、(1)の条件のほか、
連続性(3つのくじがあるときに、最良のくじと最悪のくじを適当に組み合わせて、中間のくじと無差別なくじをつくることができる。)
独立性(2つのくじ a,b ともう 1 つ c を組みあわせ、a が p の確率、c が(1―p)の確率であたるくじ d と、b が p の確率、c が(1―p)の確率であたるくじ e を作ったとする。このとき、a が b より好まれるのであれば、d は e より好まれる。)をさしている。
-----
経済学の世界へようこそ、なのかもしれない。ところでフォン・ノイマン−モルゲンシュタインの、この前提条件についてはどう思う?
>あ、それはすごく萌えな話だ。
そら良かった。
>ところで、こんなものがいつの間にかデスクトップに自然発生していたのだが、一体なんなのだろうか。謎だ。たぶんデスクトップに立っているゴーストのうちの誰かがやったのだろう。
せっかく量子コンピュータなんてネタ使ってるんだから、もっとそれを活かそーよ、とゴーストの中の人に言っておいてください。あと「合成脳のはんらん」って知ってる?って聞いておいてください(いまどきゴセシケかい)
◆赤毛娘んとこ。追加。
>キミたちは忘れているだろうが、我々の戦術目標は、「”秋山瑞人性”から優れたSFを護る」事だ。
あー、そんな話だったっけ? オメラスの話をしてる方が何ぼか面白いしなあ。
秋山とル・グィンは違うと思うけど、「違いはそこではないんじゃ?」ってこと。
>「でもねXXは違うだろう?」のXXを探してきてくだちい。
・ベイリー「時間衝突」
・スターリング「スキズマトリックス」
・ヴァーリィ「へびつかい座ホットライン」
辺りかな。SFあんまり読んでないから、幅が狭いなあ。具体的にどう違う、というのはまた今度(えー)。
イーガンとかスティーブンスンあたりは微妙なところで、北守に「ダイヤモンド・エイジ」を貸したのは、その辺の感想が聞きたかったからだったり。
ところで、『オメラス&猫クリップ集』とやらに「lunatic asylum」や「衒学萌え日記」を含めてしまうのは、何かそれ違わね?
|
|
4月21日(月) (無題)
◆赤毛娘のとこ。とりあえず暫定的なコメントを。
-----
若い頃に一発お願いしたかったとは思うけど。
-----
そういう不真面目なことを書くのは、どうかと思います。
----
「オメラスから歩み去る人々」は共同体性の邪悪を描いた作品である、というところまではみんな同意できるわけだ。
で、その共同体性の範疇のとりようによって、南北問題としても読めるし、クリスチャニティの話としても読める。オメラスがセーラムの逆綴りである事を、なんなら思い出したっていい。
何故マシュウが共同体性一般ではなく、特定の共同体の話として読みたがるのかは良く分かんない。なんかいつもと逆の事を言っている気がする。
-----
僕は「同意」してないけどね。
特定の共同体としてのオメラスシティーの話を僕がするのは、あの妙な話から、すぐさま一足飛びに、普遍的な共同体性とやらに話題を持っていけてしまう、というのが不思議でならないからで。
「小説としてのオメラス」→「(普遍的な)共同体性に関する議論」と移行するまでに、人が無意識的に補ったり削ったりしているもの。それについて僕は考えているわけで。「なんかいつもと逆の事を言っている気がする」どころか、真正面も良いところなんだけどなあ。
◆メモ。長いよ。
市野川容孝「思考のフロンティア 身体/生命」(岩波書店)から。p.115-117。
----
1941年にドイツで『私は訴える(Ich klage an)』という映画が製作、上映された。その物語は次のようなものだった。
トーマス・ハイトという名の病理学者が、友人の医師から、自分の妻ハナが多発性硬化症におかされていると知らされる。トーマスは深いショックを受けながらも、ハナの治療のため新薬の開発に努めるが、何の成果もえられない。自分が多発性硬化症という不治の病であることを知らされたハナは、トーマスにこう訴える。「私が最後の瞬間まで、あなたのハナでいられるように助けてちょうだい。あなたの知らないハナ、耳も聞こえず、話もできず、白痴になったハナでは絶対にいや。そんなこと私には耐えられない。……そうなる前にあなたは私を救ってくれると約束して、トーマス。そうするのよ、トーマス。私を本当に愛しているのなら、そうするのよ」 そうして、トーマスはハナに致死薬を与え、ハナは安らかに死ぬ。
トーマスは殺人罪のかどで裁判にかけられる。トーマスの弁護人は、ハナの死は多発性硬化症の自然死であると主張することによって、トーマスを無罪にしようと考えていた。しかし、トーマスは法廷で自分がハナを殺したことを正直に述べようとする。「あなたは自分の無罪を棒にふる気ですか!」という弁護人の制止をふりきって、トーマスは法廷で次のように訴える。「弁護人さん、わかっています。しかし、私はもう黙っていることはできない! 私はもう何も怖くない。人々に轍を残そうとする者は、先陣を切らねばならない。私は自分が被告だとも、もう思っていません。なぜなら、私は自分のしたことによって、私にとって最も大切な存在を失うという罰をすでに受けたからです。(厳しい口調になりながら)いいや、私は被告なんかじゃない! 私の方こそ告訴します。私は人民に奉仕するという役目を医師と、そして裁判官とがまっとうすることを妨げている条文(=自殺幇助を禁じた刑法の条文)を告訴します。私は自分で自分を裁きます! (ほとんど叫び声になりながら)なぜなら、どんな結果になろうとも、これは警告となり、人々を眠りから覚ます呼び声となるのだから! (静かに)真実を告白します。私は不治の病にあった自分の妻を、彼女の望みによって、その苦しみから解放したのです。私の今の人生は彼女の決定に捧げられています。そして、その決定は妻と同じ運命に会うかもしれないすべての人々にもあてはまるのです。(頭を垂れながら、消え入るような声で)判決をお願いします」
1939年に開始される安楽死計画を、ナチスは内密に実行していたが、それでも当時のドイツですでに人々に知れわたるところになり、各方面からの反対のため、政府は1941年にその表向きの中止を宣言する。しかし、ナチス政府は、自分たちが実施してきた(また1943年から再開することになる)安楽死計画の必要性を大衆に訴えるためプロパガンダ映画の製作に着手する。その結果、生まれたのが、この『私は訴える』なのである(拙稿「ナチズムの安楽死をどう<理解>すべきか」『イマーゴ』1996年9月号)。
-----
◆そういえば、稲葉振一郎「ナウシカあるいは旅するユートピア――ロバート・ノージック、笠井潔、そして宮崎駿―― 」というのも有りました。
|
|
4月20日(日) 若者からのコメント、助けて稲葉振一郎さん。
◆若者からのコメントが。「類似性」なのかなあ。
なんとなく、『オメラス』を変更したものを考えてみた。
-----
(今までのあらすじ)地下牢の少女を見た少年。彼女の有様に衝撃を受ける。彼女の姿がもう一度見たい。そして、たとえ理解してもらえないにしても、言葉を。
けれど、少女に会えるのは一度きり。それは厳格な掟。密かに少年は館へと潜入する。
肩口から扉に衝突する。奇跡のように扉が開いた。続く階段を、僕らはもつれあったまま転がり落ちる。最下段で、彼の頚椎が僕の体の下で潰れる、嫌な感触がした。
――そして、目の前に彼女がいた。あのとき見たのとまったく変わらない姿で、そこに。
遠くで高まる足音。おとなたちが駆けつけ、満身創痍の僕に容赦なく熱線銃を撃ちこむだろう。それまでに僕に残された時間は、おそらく、あと、十五秒。
用意していた言葉を口にするために、僕はわずかに息を吸い込む。折れた肋骨の痛みも気にならない。
「キミの名前は?」
(了)
-----
こんな感じの話ならどうですか。>若者
◆思い出した。稲葉振一郎氏の『傲慢の「罪」をこえるもの』って文章があったのだった。再読。
-----
一人の「人」の心を癒すために、他の「人」の生命が犠牲にされる。この算術を私は認めない。
-----
キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ッ!!
-----
それにしてもなぜこのように後味の悪い話を手塚は書いたのか? ロボットバトルマンガとしての『アトム』の自己批評=自己批判としてか? だとしてもそれは、「批評という名の煽り」に結果としてなってしまっている。ロボットバトルの批判がロボットバトルそれ自体の貫徹をもってしかなされていない、という逆説。幾分かはスルタンの夢を共有していたであろう読者の子供たちは、その「病」を少しでも癒されただろうか? むしろその「傷口」を広げられ、熱を煽られた子供たちの方が多かったのではないか?
アトムは世のむなしさに思いを馳せている暇があったら、召使いロボットの方を叩きつぶすべきだったのだ。
-----
いやもう、まったくもって、素晴らしいです。
|
|
4月16日(水) 水曜例会、アメリカでの『オメラス』、「哲学・倫理学用語集」に対する絶賛の声。
◆サークルの水曜例会。
なぜか、ここでも『オメラス』の話がでる。僕が積極的に話を振ったわけではないはずなんだが。まあでも、このページを読んでる暇人はサークルの中にも居るし。
ル・グィンを読んでいる人が多く(サークルとしての最大公約数は、最近はどうも、ティプトリーとコードウェイナー・スミスあたりらすい)、オメラスを読んでた人が(その場で読んだ人を含めて)8人ほど居たり。
「元々、『猫の地球儀』の話をしていたら、『オメラス』の話になったんだけど…」ということを言ったら、「ああ、なんとなく判る」という人と「なぜ、そういう流れになるのか判らん」という人に分かれたのが面白かった。
あと会話の最中「キリスト教」の「キ」の字も出てこなかったのが、今から思えば面白い。他の人は、キリスト教を持ち込むと話がややこしくなるので避けたんだろうが、僕はといえば、なぜかその単語が頭からすっぽりと抜け落ちていたのである。
◆ふと思いついて、『オメラス』に関して日本語以外のページも検索してみた。
"Omelas Le Guin ethics"で検索してみたところ、アメリカの大学で「倫理学の基礎」授業(教養部相当?)の題材として使われている例をいくつか見つけることが出来た。ひょっとして、「あなたなら、どのように行動するか。クラスでディスカッションしてみよう」とかやっているのだろうか。すごいなあ、アメリカ。建設的議論をするのは、結構しんどい題材に思えるのだけど。
ところで、著作権的にどういう扱いを受けているのか知らないのだけど、『オメラス』はネットで読めるようだ。原文は実に簡潔な文章だな、これ。
◆そういえば、こだまさんの哲学・倫理学用語集は本当に素晴らしい。「当たり前すぎて、言うまでもない」ことではあるのだけど、たまには言っておかないと。
◆某所。うわあ(両方の意味で)本職の方が。マキャフリイは読んでないのです。ううう。
鈴凛が四葉にチューリングテストの解説をする、という構図をたまに考えます。結果、どちらがより多くのことを学ぶことになるのだろうか。
|
|
4月15日(火) 「猫」と『オメラス』(さらに続き)
◆14日分の記述を書いたあと、『オメラス〜』に寄せたル・グィンの前書きを読み返した。
「この心の神話(サイコミス)の中心アイデアは〜」
あ、そうか。あわてて「風の十二方位」の前書きを読み返す。
-----
(略)わたしが心の神話(サイコミス)と呼んでいる、どちらかというとシュールな物語である。これは、いかなる歴史にも属さない、時間にも属さない、時間と空間の限界を超えていると思われるような――そして不死という概念を呼びおこさない――人間の心の領域に題材をとったということでファンタジイと軌を一にするものである。
-----
ううう。そりゃそうか。神話だもんな。歴史性について云々してもなあ。人間的時間、人間的歴史を離れた「どこか」で起こった、としか言いようがないのだけど、にもかかわらず、それは人間的歴史の上に覆いかぶさっているわけで。阿呆や俺。
じゃあ、どうやったら神話にケチをつけられるんだろう。うーむ。
-----
このような<現実界>的実体の、フロイトが挙げた最も有名な例は、いうまでもなく原父殺しである。先史時代の現実の中に原父殺しの痕跡を探しても無駄であろうが、にもかかわらず、事物の現状を説明しようとしたら、どうしてもそれを前提にしなければならない。
(スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」p.247)
-----
待てよ。待て待て。いくら作者が「神話」と呼んでいるからといって、鵜呑みにして既存の神話と同じ扱いをしてはダメだ。もっと考えろ俺。
そういえば、「猫の地球儀」に関して赤毛娘が言ってた、
「でも、幽は第○○代目(数字を忘れてしまった)のスカイウォーカーなんですよ。ずっと昔からのスカイウォーカーの遺産が彼には残されている。彼は『一人』ではない」
というのは、歴史性(良く知らずにこの言葉使ってます)みたいなのから捉えてみても良いのかもしれぬ。
|
|
4月14日(月) 「猫の地球儀」談義(続)、アーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』。
指摘を受けて、12日の記載を変更しますた。
◆「猫の地球儀」のイヤさを示すのにアーシュラ・K・ル・グィン『オメラスから歩み去る人々』(短編集「風の十二方位」所収。後ろから2番目。短いので立ち読みでも読めるかと)をもってきたという赤毛娘の書き込みを受けて、「オメラス」に関する議論を赤毛娘とファミレスでぐだぐだとする。その場に年配のSFファンが居たとしたら、ものすごく懐かしい光景に見えたのではないだろうか。若いね。問題は二人とも「所有せざる人々」を未読だってことなんだよなあ。さっさと読めよ>俺ら。
僕の主張:
(オメラスから)「歩み去った人々」は、オメラス社会の「外」に出ていけたわけではない。それゆえ、彼らが「猫」的世界の外側を志向したとは言えないのかも。
「歩み去った人々」も含めて、オメラス人は「『それ』について、(特定の場合を除いて)語ってはならない」という暗黙のルールを頑なに守り続けているように思える。そしてオメラス人は立ち去るとき必ず一人で立ち去る。まるで「立ち去るときは一人で立ち去れ」というルールがあるかのように。
受ける印象としては、老象が静かに伝説の「象の墓場」に消えていくようなもので。
-----
私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことすらありうる。しかし、彼らはみずからの行先を心得ているらしいのだ。
-----
なんて、いかにもそれっぽい。それこそダンディズムの名を借りたセンチメンタリズムでしかないよーな。
整理しよう。ウィリアム・ジェイムズ(アメリカのプラグマティズム哲学者だそうな)によって示された『逆理』というのがある。その逆理が「オメラス社会」の中に実装されているかのように僕らには見える。ただし、それらすべては「ル・グィンの語り」の中に浮いていることも忘れてはならない。ここで問題なのは、「逆理」に目を奪われてオメラス社会の特徴を見逃すこと、語られる内容を「『逆理』とそれを実装したオメラスの社会構造から演繹されたもの」だと過剰に思い込んでしまうこと。
いやまあ、ものすごく単純に言っちゃえば、「『語り手』は誰やねん」ってことなんだけど。「歩み去る『人々』」というタイトルが曲者で、一人ずつ去っていくひとを数えて「人々」にしているのは誰だ、っていう話でもある。
ル・グィンは、オメラス社会の詳細については語らない。誰かが「歩み去った」あと、残された人々がそれをどのように受け止めるかも語らない(おそらくは「はじめから居なかった」ことにされるんだと思うが)。自らの歴史が無いかのようにオメラス人が振舞っている一方で、読者である我々は、彼らの歴史の幾分かを知ることが出来たかのように思い込む。
この制度のいちばんの弱点となりうる、「子供に『それ』の存在を伝える瞬間」、その詳細についてもル・グィンは語らない。だから、オメラス社会は鉄壁に見える。
「歩み去る人々」は一人で去っていく。通常ならありそうな、憂える恋人同士の駆け落ち。
「こんな社会はもうイヤだわ。二人で逃げましょう」
「ああ、君と二人なら、どこででも暮らしていける」
そのような駆け落ちはオメラスには存在しない。用意周到なル・グィンが何のために、媚薬とカーニヴァル的乱交というギミックを事前に示していたのか。作品中では明示されないものの、オメラスの家族構造はそらくはキブツのそれに近いように僕には思われるのだ。子供が親から切り離され集団で育てられる、あれ。
「歩み去るときは、一人で」という暗黙のルール。それがルールではなく、個人の自発的意志であるように読者に思わせるように、そのように社会構造がデザインされている。それが、ウィリアム・ジェイムズの「逆理」で直接に示された内容からはどれほど隔たったものなのか、ジェイムズの本を読んでいない僕には良く分からない。
結局のところ、オメラスからカップルで逃げ出す男女はいない。去ったものどうしの子孫が生まれることはない。一人で去ったものたちは別の文化圏に遭遇し子孫を成すかもしれないが、子孫に『それ』のことを伝えることはない。だからオメラス社会は揺らぐことがない。
…ところで「猫の地球儀」談義はどこいった。
◆「オメラス」のことを調べてGoogleの検索結果を漁っていたところ、このようなページに出くわした。「うーむ。こういうストーリーこそが俺が憎むものなんだよな」と思っていたところ、ふと翻訳者の名前が目に留まった。
何というか、その。
|
|
4月13日(日) 四葉、ルイス・キャロル、塾講師、「ダイヤモンド・エイジ」、ユリイカ増刊
また間が空いた。
◆僕は元々、四葉にとってあまり良い兄ではないのだが、「四葉が僕にドーナツを作ってくれる」というイベントのことを聞いたときに、真っ先に
「四葉、ドーナツは穴が開いてなければいけないんだっけ? だとすると、穴の部分がドーナツの本体なのかな? 今、僕がドーナツを周りから齧る。もぐもぐもぐ。ところで、ドーナツの穴はどこに消えちゃったんだろう?」
なんて、四葉に言っている光景が目に浮かんでしまったり。さすがに自分は悪い兄だと思った。ドーナツ作りが得意だなんてこと、すっかり忘れてたのにね。
多分、ついでに「四葉、『中国人の部屋』って話を知ってるかい?」なんて話もしてしまいそうだ。彼女はガジェット好きだから、ノックスの『探偵小説十戒』がどうたら、とか言いながらも話に乗ってきてくれそうな気が。ひどい兄。
そういえば、ルイス・キャロルの国で育った女の子なんだよな。
◆それで思い出した。塾の個人指導で、中学校に入ったばっかりの女の子を教えることになった。学校の授業が始まった直後だったから、復習というわけにもいかない。というわけで、学校に先駆けて「負の数」の概念やら「マイナス×マイナス=プラス」やら教えることに。頭を抱える。ひょっとすると僕の教え方次第で、この娘の数学能力やら関心やらに大きな差が出るかもしれない。うーむ。
なんて思いながら「階乗」の概念について教えていたところ、当然のごとく話は脱線し、「二次元の世界」やら四次元時空連続体やらの話をしてしまう。やり過ぎだ。
僕がその娘さんの長期学習計画を作ることになったらしいので、再び頭を抱える。素直な娘さんなだけに、余計に責任重大。…さて、どんな本を読ませたものやら。
◆あ、もう一つ気付いた。最近読了したニール・スティーブンスン「ダイヤモンド・エイジ」(傑作!)。あれは、ルイス・キャロルが背景(の一つ)にあるのかも。ヴィクトリア朝だし。なぜ気がつかなかったんだろう。ありがとう四葉。あと、僕の生徒のりょーこちゃんも。
以下、まとまらないメモ。
-----
「不思議の国のアリス」の冒頭、
-----
Alice was beginning to get very tired of sitting by her sister on the bank, and of having nothing to do: once or twice she had peeped into the book her sister was reading, but it had no pictures or conversations in it, "and what is the use of a book," thought Alice, "without pictures or conversation?"
-----
姉たちが読んでいた「絵も会話も無い」本の対極としての「不思議の国のアリス」、そして「ダイヤモンド・エイジ」における、読む人間を物語の主人公とするインタラクティブ絵本(にして教科書)「プライマー」。そういえば「不思議の〜」は主人公のモデルは実在の少女なのだった。
このページでは、
-----
数学者・論理学者にしてことばの魔術師ルイス・キャロルは、2冊のアリス物語で、子どもたちにわくわくする冒険のお話をプレゼントしました。と同時に、ことばの織りなす綾や論理に表層的重層的な罠を仕掛けて、大人たちにはことばと論理の知的遊びを提供しました。
-----
と書かれているけど、別に彼は「子ども相手には冒険の話」「大人相手には知的遊び」と分けて書いたわけではないはずで。女の子たちが理解してくれようがしてくれまいが、彼は「ことばと論理」のことを彼女たちに語りたかったのだと思うのだが。
プライマーは、冒険の話(というよりゲームブック)であり、読み進めることで(たとえば)チューリングマシンについて自然と学べるようになっている。プライマーの製作者ハックワースの「読んでほしい」という欲望はどうだったか?ハックワースは具体的なあらすじにどこまで関与していたか?
作中では具体的には示されていないが(つうかプライマーの仕組み自体が正直謎だしな)、ハックワースは具体的なあらすじは設定していないように思われる。物語はまさにインタラクティブに(魔法的表現だが…)プライマー内で自動生成されているはずで。だから、プライマーはその名前(「初心者用の学習本」)に反して、一貫した知識体系を示すものではない。
学校や塾での正規教育以外でも、僕らは学問に関することを色々なところで学んできた。例えばそれは、ふと目にして手に取った科学啓蒙書だったりもする。ゲームやSFからも、それこそ「不思議の国のアリス」からも勉強に役立つことを色々学べた。今だったらウェブだって重要だ。Googleに行って検索結果からスタートする迷宮を這い回りながら理解していく。僕らがそのようにして学んできた知識の体系。それこそがプライマーが伝えることだ。
でもその体系はどのような形をしているのだろう? やっぱりツギハギだらけなんだろうか? そして、そのいう風に学んだ人間にとって、世界はどのように見えるのだろう? それは「クリプトノミコン」にも共通するスティーブンスンのテーマのように思える。
-----
で、「ユリイカ2002年10月号 特集:ニール・スティーブンスン」を買ってきた。誰かルイス・キャロルに言及しているかと思ったら、さっぱり見当たらない。なぜだ。Googleの託宣でも直接の言及はほぼ皆無。…ひょっとして、俺、勝ってる? って本当に勝ってたら、ある意味イヤだなあ。
◆というわけで、ユリイカ特集号。
何というか、執筆者の顔ぶれが妙に偏っているような。いわゆる文系ばっかし。西垣通でも呼べば良いのに。
巽孝之+東浩紀対談「サイバーパンクからアルケミーパンクへ」:
タイトルの「アルケミー」で脱力する。錬金術的云々って当のサイバーパンクの序盤から言われてたよーな。巽氏が分かってないわけないはずで。
全体に面白いことが沢山書いてあった気がするのだけど、
-----
東:そうですね。もし自分たちが四〇年代にいたら、こういう感じだろうという人物造形だと思う。ローレンス・ウォーターハウスのモノの見方は、妙にオタクっぽい(笑)。たとえば射精への欲望をグラフにしちゃうところとか。人間も機械と見なして、すべて技術的かつ数学的に解決できるという単純さがある。それがランディに受け継がれているというわけでしょうね。
-----
とかの、単純に「単純さ」と書いてしまう辺りの隙のあり具合はどうしたものか。
瀬名英明:
冒頭でイーガンとスティーブンスンとを並べていて「ほお」と思うも、消化不良。甚だ残念。
>グレッグ・イーガンに私は「新しいSF」を感じる。一方でニール・スティーブンスンに「新しいSF」を見る。
とか書かれているのですが、それだけでは何とも。良く分かりません。
山田正紀:
「彼の作風は嫌いだけど、『ダイヤモンド・エイジ』は稀に見る傑作」とかいう屈折した褒め方をしてた。
良いこと書いていると思うのだけど、「ユング的無意識」とか言って、何かを分かったことにしちゃう辺りはどうかとも思う。
小林エリカ:
面白い。「本を読む少女」としての主人公を、自分を重ね合わせながら見ていくことで、作品の構造を浮き彫りにする、という視点はかなり重要だと思う。なぜか他の評者に欠けている視点だし。
冬樹蛉:
バランス良くまとまっているけど、ぎりぎりのところで踏み込み不足。SFファン的な評論の限界というか。「なんか妙なんだけど、そこが良い」以上のことを語るために必要な方法論的武器の不足なのかなあ、などと思う。
|
|
4月12日(土) 秋山瑞人談義、ドラえもん、エクスキューズ。
◆秋山瑞人作品を憎んでいる少年が、なぜそんなにムカついているのかに興味を持った人(ル・グィン読み)が、少年から「猫の地球儀」を借りて読んだそうな。
その人:「うーん。結構面白かったよ。リアルだし」
少年:「あれは『リアル』なんかじゃねーよ!」
結局、同じくムカついている僕とか赤毛娘を巻き込んで、3人で代わる代わる彼に秋山作品のイヤさを説明しようとするも、なかなか噛み合わず。「君らが何かを共有しているっぽいのは分かった」とか言われる。自分の言葉の貧弱さについて思いを馳せた。ちなみに赤毛娘はこのようにして納得させたそうな。そうか<オメラス>かあ。忘れてた。
「リアル」って何だよ、とかいうレベルの議論を真正面からはじめると、間違いなくそこから先には進めなくなる。だから「あなたが『リアル』だと感じる、その感じ方には実は何種類かの層があるよね」みたいな方面から攻め込もうとしてみたんだけどね。たとえば「『ダメなやつはダメ』ってのは、実質何も言っていないんだけど、その言葉に『リアル』を見出すひとはたくさん居る」みたいな話とか。
あれだ。同じ話をそれこそ何回もしているんだけど、「ドラえもん」の世界では、のび太がひみつ道具を使って悪巧みしても、最後は(不可思議ともいえる因果関係の正確さで)自業自得的に懲らしめられてしまう。で、テレビの前に座っていた僕は、その「因果関係の意地悪さ」に、何らかのリアルを見出していたような気がする。
で、その一方で僕は「のび太はアホだ。僕ならこの道具をこのように使って世界を支配するのに」などと考えていた。「ひみつ道具」は、ある程度論理的に機能するわけで。その論理性、もう一方のリアルでもって、「因果関係の意地悪さ」のリアルを越えようとしていたんだと思う。
僕はしばしば、身の周りのひとに「のび太の愚かさに腹を立てたりしたことある? 『その道具を俺に貸せ。俺ならもっと上手く使ってみせる』なんて思ったことある?」と訊ねたりする。「あるある。頭来たよね」と嬉しそうに言うひともいれば、不思議そうに「え? あれはそういうものでしょ?なんで腹を立てたりするの?」と言うひともいる。
そもそも藤子・F・不二雄にとって、未来は自分たちの手で作り上げるものというよりも「空から(あるいは手塚治虫から。あるいはアメリカから、進駐軍放出のペーパーバックSFから)降ってきて、自分の思いと関係なく去っていく」ものだったような気がしなくもないわけで。
◆ここ。
>「オレに恋をしてくれる女の子入って来ないかなあ」
>禿胴しやがったこの人もどうかと思うけどね。
いや、この程度の発言で、何か言ったような気になるのはどうかと。僕に恋してくれる、外見が遠藤久美子似の女の子、入るといいなあ。中谷美紀や仲間由紀恵でも良いです。
少しギャラリーに解説すると、文化系サークルの新人勧誘の話というか「まだ見ぬ新入生に過剰な期待を抱く」というネタの話。従来存在したネタは、
「イラストが描ける、コードウェイナー・スミス好きで眼鏡っ娘の新入生が来ないかなあ。出来れば髪はショートカットで…」
みたいな感じの記述羅列型で。でも、そこには肝心要の「自分との関係」が抜け落ちているのでした。生真面目な赤毛娘はそこに欺瞞の匂いを嗅ぎ付け、突破せんとしたのですね。
|
|
|