過去ログ一覧はこちらに。
掲示板スレッド
はてなダイアリー(メモ・一行掲示板)


【2003年3月】

3月27日(木)  久しぶり。ONEとか雫とか。ジジェクたん。
 しばらく空いてしまった。
理由:
・ゼミの発表準備。
・風邪引いて寝込んでしまった。
・寝込んでいるのを良いことに、パソコンゲーム(RPG:AD&D IcewindDale 日本語版)で遊んでいた。
 …こういう時にノートマシンはやたらと便利で。ラッコのようにして寝ながらプレイをすることに関して、僕の習熟度はそれなりのものだ。というか、寝ながらでないとノベルゲームが遊べないほどで。何故、ほかの人が椅子に座って長時間ノベルゲームを遊べるのか分からないのだが。きっと、みんな良い椅子を持っているに違いない畜生。35万円ぐらいの人間工学バリバリでものすごくリラックスできるやつ。
 電源系ゲームをやっていて思ったのだが、僕にとって「文章を書く」(この日記程度の軽い文章にしても)という欲求と「電源系ゲームをする」という欲求はずいぶんと近いところにあるらしい。つうか、電源系ゲームやってると色々な煩悩がどんどんと吸い取られて消えてしまう気がするんですが。


何となく思い出したので、ONEの話をまとまらなく。久弥サイドというか茜とか、みさき先輩とか。
 先日話したことの再録なんで、知人どもは読む必要がないかと。全然再プレイしていないんで、さすがに話を忘れつつある。ゲームCDはどこだ。フルボイス版でも買いに行くか。というわけで、事実関係の誤りとか多分あるんで勘弁。
 彼女たちと出会ったことが契機となって、浩平の「えいえん病」が発症したのだ、ということは、世間的にはどれくらい強調されているんだろうか。というか、そもそも彼女たちに会わなければ、浩平は「えいえん」なんかに行かずに済んだのだ。女の子とも仲良くならない場合のエンドでは「えいえん」に行かないあたりも、それっぽい。
 茜の「雨の空地」。みさき先輩の「夕焼けの屋上」。どちらも分かりやすいぐらいに永遠っぽいイメージで。だからその風景の中に佇む彼女は永遠の女で運命の女なんで。そんな彼女に恋してしまったのである。親しくなるために、彼女の境地に近づくために、浩平は自らの「えいえん力」を鍛え高めていって、そして気が付いたら、ついうっかりと、彼女らを遥かに「追い越して」しまっていた。取ってつけたように過去の事象まで思い出した挙句に「えいえん」へと行ってしまった。多分、僕にとってのONEはそういう話なのだろう。
 男性的な「えいえん」と女性的なそれとの違いとか言うと、実に俗な考えになってしまうんで、避けたいんだが。
 あ、要するに僕は、茜のことを「『彼らには私の見えていない何が見えているんだろう?つーか、なぜ私はそっち側には行けないの?』と思って歯噛みをしているようなキャラ」だと(勝手に?)思ってるのだな。…うあー。笑うな、そこの奴>該当者
 茜が「この世界が嫌いだから消えるの?」みたいなことを浩平に問うシーンがあるんだが、あれって、目の前に起きようとしている超常的な現象を、何とかそれなりに常識的な流れとして(「世界が嫌い」⇒「だから世界から立ち去る」)解釈したいという茜の必死の思いが生んだ言葉で。そして、浩平であるところのプレイヤーは『嫌いとか、そういうことじゃない。でも、消える理由は言葉でなんて説明できないし、たとえ何とか言葉にしたとしても、とても理解してもらえるとは思えない』などと思いながら、その問いに沈黙で答えるわけで。この「沈黙」には嗜虐的な楽しみすらある。

 一方、「雫」なんだけど。
 ゲーム序盤で祐介はどちらかというと「窓際の席からぼんやりと校外の風景を眺める」というキャラというよりも、「近視眼的にノートにガリガリと丸を描く」キャラだったわけで。そんな彼が、夕焼けの屋上で瑠璃子さんと出会うことにより「電波=世界パワー」を手に入れる。そしてゲームの最後では、ぼんやりと屋上から世界を眺める。
 瑠璃子さんは、卑小な兄(だって、せっかく電波の力を得たのに「校内で乱交パーティ」なんていう詰らないことしか、やらないってのはなあ)と同じ地点に留まることを選んだ。ああ、瑠璃子さん。君とならば、どこまでも高みに行けそうな気がしたのに。何故。
 これを「結局追いつけなかった」と読んでしまうと
-----
「あいつ(ライバル)の背中に追いつきたかった。なのに、あいつは事故死」
-----
という、良くある健全な青春物になってしまうわけで。何とか「追い越してしまった」という読みを残しておきたいところなんだけど、さて。


ジジェクたん。
 「イデオロギーの崇高な対象」第三部を読み進めた。更に分からなくなってきました。今までがどのくらい分かっていたかは謎だが。つうかシニフィアンってそもそも何だよ。
 僕が分かっていない部分というのは、どうやら、かの「郵便的」とかいうやつらしいのだ。うぐう。「ラカン理論では『手紙はつねにタイトル−宛名をもっており、かならず相手に届く』となっているけど、それってどうよ?」とデリダが批判したとかいう、その、アレ。

 まあそれはさておき、ジジェク。
-----
 クリプキの用語を使えば、<現実界>とは、象徴化の企てがことごとく躓く石であり、いかなる可能な世界(象徴的宇宙)においても不変である固い核であるが挫折し、失敗したものとしてのみ、影の中でのみ存続し、われわれがそのポジティヴな性質を捉えようとするや消滅してしまう。すでにみたように、これこそがまさしく外傷的出来事という概念を定義するものである。(p.257)
-----

 こういう書き方をされると、何だかなあ、と思うわけで。というか、そのところをずっと疑問に感じてる。どうして「挫折」「失敗」「ポジティヴな性質を捉えようとするや消滅」とかゆー言葉を使うのかなあ、と。
 別に、そんな価値判断を搭載した言葉じゃなくても説明できるような気もするし、そもそも「象徴化の企てが躓く」って、そんなにネガティヴなことなのかしら。読んでる限り、あんまりそうは思えないのだけど。それこそ「両手をバタバタさせても空を飛べないのは人間の『挫折』」って言っちゃってるような、そんな妙な印象を彼の文章からは感じる。
 ひょっとして、「挫折」とかその手の意味合いってのが、ジジェクの論理の中心に位置していたりするんだろうか。うーん。分からん。

 あと、素敵文章。愉快だけど、何というか…。
-----
 制御できないという性欲の性格を、われわれはいかにして探り出し、どこに位置づけたらいいのか。ここでアウグスティヌスは彼の男根理論を提出する。もしも強い意志と自己統制があれば、人間は自分の体のあらゆる部分の運動を操作することができる(ここでアウグスティヌスは一連の極端な例を挙げる。インドの行者は一時的に心臓を止めることができる、等々)。身体のすべての部分はこのように原則として人間の意志に服従し、それらの制御不可能性は人間の意志の弱さあるいは力の実際的度合いにのみ残っている。ただし例外が一つだけある。男根の勃起は原則として人間の自由意志ではどうにもならない。したがってこれが、アウグスティヌスによれば「男根の意味」である。それは制御できない身体部分であり、人間自身の身体が人間の誤った誇りに対して復讐する点なのである。強い意志をもった人間は豪華な食事に囲まれていても、死ぬまで何も食べずにいることができるが、裸の処女が前を通ると、彼の男根の勃起は彼の意志の力ではどうにもならない……。
 しかし、これは男根の逆説の一つにすぎない。その反対の側面はよく知られた謎々/ジョークに示されている。「地球上でいちばん軽い物体は何か――答えは男根。考えだけで持ち上げることができる唯一の物体だから」。真の「男根の意味」を知るためには、この二つの例をいっしょに読む必要がある。「男根」は、われわれの意志から独立してわれわれの意志に抵抗する身体の根源的外在性と、思考の純粋な内在性とを結びつける結合部を示している。「男根」とは短絡のシニフィアンであり、この短絡によって身体の制御不能な外在性は「思考」の純粋な内在性を志向する何かに瞬間的に変わる。反対に、そこでは心の内奥にある「思考」が、われわれの「自由意志」を逃れる奇妙な実体の特徴を獲得する。伝統的なヘーゲル哲学の用語を用いれば、「男根」は「反対物の統一」の点なのである。(p332-333)
-----
 僕の感想としては「アウグスティヌスはん。貴方んとこの神さんが『自慰はアカン』とか言わはるから、そういうことになるんですわ」って感じである。
 ところでジジェクって性行為に関してはあれこれ書いているような気がするが、自慰について書いているのは読んだ記憶が無いな。見落としてるだけなんだろうか。どうだろう。


3月19日(水)  東浩紀+斎藤環+大澤真幸 鼎談
知人から「季刊:InterCommunication 44号」(NTT出版)を借りる。この雑誌をきちんと読むのは6〜7年ぶり。NTT本社の業績悪化に伴って、文化事業に大ナタが振るわれたということは聞いていたんだが、そのせいなのか、前よりも地に足が着いた(こういう適当な表現はどうかとも思うんだが)良い雑誌になってると思うですよ。
 で、鼎談「シニシズムと動物化を超えて」(東浩紀+斎藤環+大澤真幸)。
-----
東:九〇年代は社会学と心理学の時代だと言われてきましたが、これはすごくよくわかる話です。ときどき例外の学者がいるとはいえ、社会学は人々を一種の群れとして捉える学問だし、心理学は人間の心を動物との連続性で見ていく学問でもある。つまり、一方では社会現象を統計学的に捉え、他方では「こういうトラウマがあったからこういう犯罪を起こした」と条件反射的に捉える。そうした単純なロジックが有効になってしまった時代なんです。(p.42)
-----

 対象分野が重なっている領域において、双方の分野のうちの都合の良い方だけをつまみ食いすることによって、キメラ的で異様な言説を作り出してしまう。その危険性ということなんだろか。「学際的」なものの危険性を指摘してるとも言える。自戒自戒>俺。
 東氏は「工学的」という言葉を最近良く使っているみたいで。それが何を意味するのかは僕は知らないのだけど、ひょっとすると
-----
 複数の学問分野から都合の良い部分を持ってきて試行錯誤しながら、『役に立つ』という、ある意味で不可思議な目標へと邁進する。
-----
という意味を込めているのかもしれない。確かに最近、工学系の一部お偉方が言っている「学際的な『工学知』」なんてのは、割とそんな感じがしなくもない。「失敗学」とか、どうなんだろう。
 その意味で、斎藤氏が「文脈病」で述べてた、ラカン+ベイトソン+マトゥラーナという(難解な)システムはキメラ的ではあるけども、東氏が言うところの「単純なロジック」に対抗するためのロジックを提供するためのものなのかも。制御工学的なシステム論に対抗する、もう一つのシステム論。

 あと、メモとして、
-----
斎藤:精神分析はよく言われるように事後的な解釈技術なので、基本的に予測には使えないところがある。その意味で疫学とはまったく対立するのですけれども、いま起こっている事態というのは、例えば事件や災害が起こると、被害者のデブリーフィングやなにかのセッションをやってトラウマを「解毒」するわけですよね。もはや精神分析すら医学化、疫学化されてしまっている。その当否はともかく、ここにおいても動物化としか言いようのないベタな自体が起こっている。心の問題が狂牛病予防と同じレヴェルになってしまっているわけですから。(p.43)
-----

とか。


3月18日(火)  「月刊:遠藤久美子」、動物的葛藤。
ミニ写真集「月刊:遠藤久美子」(新潮社)を購入。
 うあー、妙な色気が、その。肩の内側の鍛えられていない部分とか。

動物的葛藤。 昨日から微妙に続く。相変わらず、中高生の「テツガクノート」風味。
 はるか昔、僕の父親とこんな議論をしたことがあって。
父:「やりたいこと、楽しいことばかりを選んでいたらダメだ。そもそも、生きていく上では苦しいこと、やりたくないことが必ずあるもんだ。そこを、辛抱して努力し続けていかないと、後々困ることになる(すみません。実際、後になって困ってます)
僕:「でもさ、結局、人間って、やりたいから、楽しいから、何かをするんじゃないの?
父:「(憮然として)田んぼに苗を植えるのは、植えなきゃ食っていけないからだ。楽しみなんて、あるもんか。『これで、秋になったら皆で美味い米が食えるなあ』ということを想像する楽しみはあるかもしれないけどな
 父は小農の三男坊として生まれ育ったので、例えとして農作業が出てくるんである。
 それはさておき、この会話、父と僕との間では「楽しい」「やりたい」の定義が明らかに違う。僕はこの時「楽しい」の定義を、著しく拡げて、引っくり返すというゲームを父に(生意気にも)仕掛けていたのだと思う。
 「結局、人が何かをやっているってことは、そこに何らかの楽しみを見つけてるってことだよね」
という引っくり返し。

 さて、この2つの「楽しさ」の間の葛藤は、別に人間のものだけではないわけで。動物だって似たような葛藤はあるはずで。たとえば、採餌と巣作りのどちらを優先するか、とか。飼育下に置かれた野生動物が、ストレスで絶食⇒死亡、なのも葛藤の結果なのかも。

 あの(懐しい?)「動物化」とかいうヤツは本当は「人間的葛藤⇒動物的葛藤」の話をしていたのかもなあ、と考えてみたり。人間的葛藤が、「同じ葛藤じゃーん」ってことで、どんどん動物的葛藤の形に置き換えられていく。なるほど、これなら現実に起こってそうな気がするぞ(そうか?)。
 そうすると今度は「人間的葛藤」って何だって話に。やっぱアレか。「人間は言葉を使う」「しかし言葉には限界がある」という話なのか。 うーむ。

上の続き。
 さて人間の話。幾分不快な事実なのだが、どうやら「自らわざわざ葛藤に足を踏み入れ、はまり込む。そして、時にはその葛藤を意識的に楽しむ」という性質が人間にはあるようだ(無論、個人差はある)。人間だけなの?それ以外の動物はどうなのさ?と聞かれると良く分からなかったりするんだが。

 微妙な言い方をするならば、僕らが「自ら葛藤に足を踏み入れる」ことが可能なのは、そもそも僕らに葛藤を感知する能力があるからで。僕らはその能力でもって葛藤を見つけだし、言語だか道具だかで状況を本来の形から変化させる。たとえば、
  「『秋になったら皆で美味い米が食えるなあ』ということを想像して、田植えの苦しさをしのぐ」
といったようなことを行う。これまた微妙な言い方をするなら「これこそが人間の武器」ということになる。
 僕らの葛藤に対する態度が消極的なものか(「葛藤が見つかったので、しぶしぶ対処」とか)、それとも、積極的に捜し求めてサーチ・アンド・デストロイしているのか、は良く分からないのだけども、ひょっとすると後者ではないかという気がする。
 で、その回路が壊れると(ますます微妙な表現…)、葛藤を感知するだけでハァハァすることになるわけで。

 テツガクノート、続くかもしんない。


3月17日(月)  バルドフォース、享楽についての嘘メモ
久しぶりにゲーム。昨日買ってきたバルドフォースを12時間連続(午後8時⇒午前8時)で。ううう、生活リズムが。自分がこういう遊び方でしかゲームを楽しめないのは分かってることなので、出来るだけゲームには手出ししないようにしてたんだが。
 それはそうと良い出来で。妙に細かいコンフィグなんて見ているだけで楽しい。各キャラごとに、台詞の表示色が変更できたり(しかもRGB指定)。やり過ぎ。「金を払いたくなるゲーム」っていうのは、こういうのを言うんだろうなあ。

香菜、ベトナムではシャンツァイ、タイではパクチーとか言うヤツ。あれって要するに「コリアンダー」だったのか。全然知らなかった。

嘘メモ。 個人的な内容。
 スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」(河出書房新社)。基礎知識が無いので分からない部分が多いのだけど、騙し騙し読み進めてみた。相変わらず面白い。

 さて、「享楽」(ジュイサンス)という概念がどのようなものかについて。僕の理解は今までのとこ、こんな感じですた(間違ってます。信用してはいけません)。
-----
 「快楽」とは多分違う概念だという気がする。快楽が「あー、今、俺楽しいなー」と意識の表面に明確に浮かんでくるのに対して、「享楽」は多分そうではないのだろう。
 「享楽」は、脳(の各部分?)が何らかの動機付けに従って行動したときに、脳に与えられる報酬のようなものなのかも。「手を洗うのが止められない」とき、手を洗うことによって意識上の「快楽」を得ることは出来ないんだが、脳の「手を洗う部分」(?)への報酬、すなわち「享楽」は通常以上に(「通常」という言葉が曲者なのだけど)どっさりと与えられている、という具合なのだと思う。
 脳内の各オブジェクトに対するインセンティブ、とかそんな感じ(適当)の認知・人工知能系の言葉に置き換えて良いものだろうか。
-----

 で、本を読み進めていくと、こういうことが書いてある。
-----
言いかえると、イデオロギーはそれ自身の目的にしか奉仕していない。イデオロギーは何者にも奉仕しない、ということを暴露してしまうのだ。そして、これこそまさしくラカンが享楽にあたえた定義である。(p.134)
-----

 この部分を読むと、一見、「享楽は心の機能、という風に読めますが?」という僕的理解とは完全に正反対のことが書いてあるように思える。そうなんだろうか。これって、
-----
「DNAは生物の遺伝的情報を保持伝達する機能をもつ」

「生物はDNAの乗物である。DNAはそれ自身の目的にしか奉仕していない」
-----
という、DNAに関する見解の(表面上の)対立や二重化と、同じ構造なんじゃないだろうか。
 というか、斎藤環氏が書くところの(前回分の日記を参照)「ラカンとベイトソンとの二重化」というのが、まさにそんな構造についての話なんだと思う。


 微妙に違う話。この本のなかでジジェクが「進化論的な物の見方」について(批判的に)書いている部分があるのだけど、何だか彼の言っている「進化論」は少し古いヤツのような気がする。出版が1989年の本だから、そういうものなのかもしれないが。
-----
「資本の限界は資本そのものである」という公式の単純素朴な進化論的な読み方を不可能にするには、じつに単純で明白な疑問を一つ投じればいい。――資本主義的生産関係が生産力の更なる伸びにとって障害となるような時期(たとえ観念上の時期であっても)を、どうしたら厳密に定義できるのか。あるいは同じ疑問を裏返して――われわれはいつ、資本主義的生産様式において生産力と生産関係が一致したと言えるのか。厳密に分析してみれば、答えは一つしかありえない――「絶対にできない」。(p.83)
-----

という辺りとか。

3月13日(木)  斎藤環「文脈病 ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ」
斎藤環「文脈病 ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ」(青土社)を、ぱらぱらと読んでる。斎藤環氏の最初の著作。
 …門外漢がこういう言葉を使うのが適切かどうか知らないけど、怪作、という形容が似合う本かも。
 なにしろ副題が副題で。ただでさえ、言ってることが「良う分からん。謎。」と言われることの多い人たちが3人も。フロイト、チューリング、ノイマン、シャノン、ウィーナー(挙げている人名が変なのは気にしないで下さい)に対するところの「ラカン、ベイトソン、マトゥラーナ」だから、ある意味、裏街道を大驀進と言えなくもない。
 
 妄想的な表現を得意とする漫画家や映像作家が、どのようにしてその表現を、己と作品、あるいは社会とのインタラクションによって成立させていくか、ということ。これがこの本のテーマの一つ。
 たとえばこの本によると、吉田戦車の作品は「分裂症的技法」の集大成なのだが、本人は精神分裂症(統合失調症)とは(多分)診断されない。また相原コージは神経症的表現を本来得意とするが、「サルまん」(サルでも描けるまんが教室)において、異様にリアルな分裂症的妄想世界を描いてみせた。
 どのようなインタラクションがそのような表現を可能にしたのか。

 このような現象の解析に有用だとして、この本の終盤で要請される理論体系。これが凄まじい。
 すなわち、「コミュニケーションなんて存在しませんが?」ラカンと、「全てはコミュニケーションですが?」ベイトソンを併置し、その併置全体を、マトゥラーナ流オートポイエーシスで包む。精神分析理論と学習理論とが、システム論によって緩く連結される。
 もちろん書いている僕も何が何やら、さっぱり分かっていませんが。読んでると、その壮大さが、気持ち良いぐらいにクラクラと来るですよ。
 その体系はあまりにも冗長過ぎやしませんか、とか「精神分析理論と学習理論との、システム論による連結」は良いと思いますが、何もその3人を連結しなくても、とか色々と言いたくはなるのだけど。


 ところで斎藤環氏は「境界例的作家」(本人が境界例として診断されるわけではないことに注意。作家と作品との、あるいは作家と読者との関係において境界例的なふるまいを示す、のだそうな)として、
 「太宰治、筒井康隆、内田春菊、島田雅彦、柳美里、…」
らの名前を挙げて、そして、そのライン上に庵野秀明を位置付けていたりする。
 で、なんとなく思ったのだけど、ジジェクって「境界例的」に思えるんだけど、どうなんだろう>転叫院くん。しかも最近の著作になればなるほど、それっぽい感じに。


 ついでに一言。「太宰、筒井…、庵野」と書いているときに、「境界例と診断されたらしいところの知人」が読んで「ぎゃー」とか言っている光景が目に浮かびました。あらかじめ言っておくけど、別に君のことを言ってるわけじゃないから、その。



3月12日(水)  水曜例会。
複数のサークル例会を渡り歩き、コードウェイナー・スミスやらジジェクについて質問して、色々と教わったり。
 実に楽しかったのだけど、僕は自分の脳内にストックされていた言葉や思考を他人に語ると、それが(他の思考も巻き添えにして)揮発し、脳から失せてしまうタイプなので、脳内が空っぽになってしまった。つうか、何のために色々教わったんだか。困る。
 ジジェクの面白さについて「旧共産圏のジョークを沢山、例に引いているからではないか」と言ってた方が居たんだけど、僕にとっては「旧共産圏ジョークがなぜ面白いのか。その秘密」に近づいた気分にさせてくれるのがジジェクで。
 旧共産圏ジョーク愛好家の方々にお薦めです。

知人が「さるさる日記」を借りたのだが、良い日記のタイトルが思いつかないそうな。
彼:「『ダメダメ日記』とか『不定期日記』とか、そんな言い訳っぽい名前が大嫌いなんだよねー」
とか言っているので、
俺:「あ、こういうタイトルにしようぜ。『なんちゃって日記』ってどう?」
彼:「ぐあー。すげーむかつくー」
とか、そんな感じの嫌がらせをして遊んでみたり。


3月10日(月)  鼠と竜のゲーム。
久しぶりに部屋を掃除していたら、色々な未読本を発掘。というわけで良い機会なので、
 コードウェイナー・スミス「鼠と竜のゲーム」(ハヤカワ文庫SF)を。読んでなかったの?とか言うな。
 読了。…あわわ、素晴らしいんですけど。これ。特に冒頭の「スキャナーに生きがいはない」なんて、もう。この作品が書かれたのは1945年だそうな。時代に流されないにも程がある、というか。
 
 作風としては、東浩紀氏がどこかで喋ってた、
「作品の冒頭部分では、謎の用語が頻出してたりで、作品中で何が起こっているのか読んでいる側には良く分からないようになっている。けれど読み進めていくと、ある瞬間、雪崩のように理解の連鎖反応が起きる。作品世界の様相が読者の頭の中に急浮上してくる」
(注:東氏が喋っていた内容を僕が適当にまとめた。この瞬間が東氏にとってのSFの醍醐味だそうな)
というタイプなんだろうな。それゆえ、何を言ってもネタバレになりそうなのが辛いところ。
 「内容が良く分からない」段階においても、そこに「何かがある」と読者の心を惹き付け、続きを読ませる力があるのも素晴らしいんだが、それって何だろうね。文章やイメージの格好良さだけに帰着させるわけにもいかないし。

 確かにイーガン「祈りの海」と並んで、初心者向きだと思う。けれど、イーガンと違って新入生に勧める気に僕がならないのは、なぜなんだろうな。やっぱ、あれか。

 <空の向こう>(このネーミングもすごいよな)を飛ぶと、通常の人間の精神は破壊されてしまうの。なぜだと思う? 深宇宙の、虚空の、そのあまりの感覚欠如に、寂しさに、人の心は耐えられないから。だからスキャナーは、視覚以外の感覚を遮断して、そうやって、心を閉ざすの。心を閉ざして、寂しさに耐えるの。

 そういう、剥きつけさ、とも言える感覚。多分それこそがこの作品の魅力なんだけど、そういう作品を人に勧めるには、その、いささかの気恥ずかしさがあるわけで。


3月8日(土)  (無題)
スラヴォイ・ジジェク「イデオロギーの崇高な対象」(河出書房新社)を読み始めた。
 しまった。もっと早く読んでおくべきだった。書いてある内容を僕が理解できているか、というと多分違うんだが。それはそれとして面白いぞ、これ。
 他のジジェクの本を読んでいるときに
「ジジェクはダーウィニズムについて何か述べているのだろうか」
ということを知りたくなったんだが、それについても少し書いてあるみたい。
 元々の、精神分析の祖であるところのフロイト先生は「ダーウィン最高〜」と言いながら、精神分析の理論を構築していったそうな。

 エセあるいは通俗的な進化心理学(たとえばこの本とかはそうなのかな? 他にも沢山出版されてて、それなりに売れているようだ)が世間に広めている(くだらない)メッセージとして、
「人間が噂話をするのも浮気するのも、自然淘汰の結果です。すべて、あなたの中のDNAが演出する戦略なのです」
とかいうのがある。こういうメッセージそれ自体、あるいはメッセージが社会に与える影響について、ジジェクは何か述べているんだろうか。いかにも何か言ってくれそうなテーマだという気がするのだけど。


何だか、まだ指から大蒜の匂いがする気が(木曜日参照)。ううう。
 あ。
 良く考えたら、何も素手で餃子の具を捏ねる必要なんてなかったのでは。ビニール袋を手にはめた方が衛生上よろしかろう。精神衛生にも。進捗状況の遅さに苛立った秘書さんが、やおら素手で捏ねはじめたのを見習ったせいか、素手に疑問を抱かなかったんだが。
 まあ皆、気にせず食べてたんで良いか。


3月6日(木)  (無題)
本当に久しぶりの神保町。バリントン・ベイリー「永劫回帰」(創元SF文庫)をワンダーで購入。
 家に帰って一気呵成に読了。うわ、超絶かっこいい。単にそれだけ、とも言えるんだが、それにしてもその格好よさたるや。

研究室の懇親会で餃子を作ろうということになって、なぜか僕が、大量の餃子の具をボウルで捏ねることになったのが火曜日。未だ、指から大蒜の匂いが離れてくれない。ううう。
 資材購入担当者が何のレシピを参考にしたかは知らないが、餃子200個に対して大蒜40粒以上というのは、やはり、その、多過ぎるのでは。


3月4日(火)  (無題)
ここ。(ソガさんとは全然関係の無い)うちのサークルの新歓冊子に、思わず載せたくなってしまうような、そんな文章。
 作品について「話す、語る」のが、うちのサークルの生命線(の1本)なわけで。だから、こういうことはもっと考えなくてはならないはずなのだけど。僕個人の事情で言えば、
-----
 「君がいつも言ってる『ダメ』と、君の今の『ダメ』は何だか違うように俺には聞こえるんだけど。君にとってそれは違うの? 違うとしたら、どういう風に?」
-----
 こんな感じに穏やかに問いかけ、ゆっくりと辛抱強く回答を待ってくれて、そうやって、「生ぬるく」でしか話せなかった僕から言葉を引き出してくれた先輩たちには、感謝してもしきれないわけで。


赤毛娘へ。
>いやそれなんか違くない?
 んじゃ、どこが違くのか説明してつかあさい。水曜例会までの宿題ね。ところで「ぼくになることを」を外して「ミトコンドリア・イヴ」を入れるのが僕の好みなわけで。その流れとしては、あれは実に素直だと思うんだけど。


3月3日(月)  グレッグ・イーガン「しあわせの理由」(ネタバレ有り)
赤毛娘
>宿題返しは「しあわせの理由」だ。
と言われたので、グレッグ・イーガン「しあわせの理由」を読んだ。ちなみに「20世紀SF その6 1990年代 遺伝子戦争」(河出文庫)所収。

-----
 「足らん」 (と、呟いたかと思うと、flurryは腕を横に振った。「20世紀SF その6」は裏拳をまともに喰らって、吹っ飛んだ。肉と骨とが潰れる、いやな音が周囲に響いた)
-----

 何ですか、これは。脳をいじって、自分の「物事に対する好み」を自由に変更する装置(スライドスイッチが沢山あって、詳細な操作方法は不明)なんてギミックを用意しておいて、その程度の曲しか作れないとは。ラッカーやスティーヴンスンなら、それは楽しそうな旋律を鳴り響かせますよ。へへーん。

 それはそうと、「ルミナス」を書く一方で、「しあわせの理由」のような感じの作品もそれなりの高レベルに書けてしまう、というのがイーガンのおそろしいとこですな。頭の中どうなってるんだ。
 出来ることなら、両者を足して2で割らないような作品を読みたいものです。

アメリカのティーンエイジャーについて書いたオタクが人気者になれない理由(Why Nerds are Unpopular)てのが面白い。
-----
たとえば、10 代の子たちは、着るものにものすごく神経を使う。人気者になるために、意識して着飾ったりはしない。感じのいい服を着るんだ。でも、だれにとって?他の子たちにとって、さ。他の子の意見が、判断の基準になる。服だけじゃない。やることなすこと、ほぼすべて。歩き方にいたるまでがこの調子だ。だから、物事を「まとも」にこなすための努力は、彼らがそれを意識しているかどうかに関わらず、すべてが人気を得るための努力につながっている。
-----


Excite エキサイト:ブックスの斎藤美奈子インタビュー
-----
L文学のコアな読者は、こんな人かなぁと想像しているのは。
28歳短大卒、ほんとは東京の大学行きたかったけど、結婚しちゃった姉に、あんたがうち出たらお父さんやお母さんはどうするの?と言われて、そうだなぁと思って、しょうがなく地元に残って、でも就職先がなくて、不動産や材木屋のOLになって、おもしろくないわねー人生って思いながらも、昔から本が好きだっていう感じの女の子。
-----

 人を舐めるのも大概にしろ、つーか。L文学とやらの読者は(自分の境遇とは関係なく)斎藤美奈子に出会ったら石を投げるべきだと思った。


3月2日(日)  とても長い引用付き(そろそろ「引用日記」という名前に変えるべきかもしれぬ)
こがわみさき「セツナカナイカナ」(エニックスステンシルコミックス)
 だんだん僕と合わなくなってきたな。全部の話が超常現象もしくは過去の因縁絡みなのは、作者の方向性の変化なんだろうか。そういうギミックに頼らないと話が作れなくなった、ということでは無いと祈りたい。

SF話。赤毛娘への返事とか。本当は土曜日会ったときに話しているのだけど。メモ代わりに内容をまとめときます。
 2月28日。ニール・スティーヴンスン。
-----
小ネタ自体の良し悪し以前にそれを挟み込む手腕に問題がある、という。
 それってつまりライトノベル系新人賞の第五席・第六席くらいの小説っぽいって事なんですよ。辟易します、そりゃ。
-----

 んー。「スノウ・クラッシュ」での小ネタの挟み方って実際最悪なんで弁護する気は無し。正直読めん。でも「ダイヤモンド・エイジ」や「クリプトノミコン」では、えらく改善されてるですよ。
 しかし、僕のあの「小ネタの紹介」だと、古橋秀之とスティーヴンスンとの区別がつかないなあ。それでは正直困る。「科学への愛着」が分岐点なのかも。古橋って、そういうの無さそうだしな。

 3月1日。グレッグ・イーガン。
-----
そのような言説を呼び込むイーガンの隙は、こっち側の作品のストーリーの微妙な取ってつけ感なのではないか、と思った。
-----

 そんな。あれ以上のストーリーを出せというのか、君は。割と超絶技巧のプロットだと思うんだけど。ところで、あの作品の舞台が中国でなければならないことについては同意してくれる?
-----
で、いよいよマシュウのネタバレ感想解禁。
-----

 …あー、大したこと書いてなくて、すまんす。

 「ルミナス」のネタを根っこで支えているのは、「数学的帰納法」を授業で習ったときの、あの妙な感じ、に似たものだと僕は思ってるわけです。
-----
問:「すべてのnで○○の関係が成立することを示せ」
答:「数学的帰納法を用いる。まずn=1のとき○○が成立する。n=kのとき、○○が成立すると仮定すると、n=k+1でも成立することが××のように示せる。よってすべてのnで○○が成立する」
-----

 多分、正しいんだろうと思う。スマートだな、とも思う。けれど、何となくキツネにつままれたような感覚。「すべてのn」を本当にこれだけで纏めちゃっていいの? この、いわく言い難い感覚。
 もう一つ例を出してみる。本当に長い引用(つうか単に無許可の転載っぽいが)。志賀浩二「集合への30講(数学30講シリーズ3)」(朝倉書店)(p180-181)から。お薦め本ですよ。
 では、参る――
-----
 クロネッカーは、自然数の存在は’神の創り給いしもの’として認めたが、πという実数の実在は疑っていた。3.141592の先に、何の規則性もなく続いている小数の系列など、どのようにしてその存在を認め、実在するといいきれるのか。このような観点から見れば、カントルが、実数の濃度が非加算ということと、代表的な実数が加算集合をつくるということから、超越数は無限に(非加算!)存在すると結論したことに対しては、論理的にこの結論を認めても、数学的には許容することなどできなかったのである。クロネッカーは、たぶん、カントルに、「そんなに超越数がたくさんあるというならば、それを机の上にどんどん出してみてくれ給え」といってみたかったろう。しかし、カントルの集合論の中には、1つの超越数も、具体的には提示する方法は盛りこまれていなかったのである。1つの超越数も提示できなくて、超越数が無限にあるということは、概念に包まれた詭弁ではないか。

 したがってクロネッカーの立場では、「有理数でない実数を無理数という」という定義がすでに認め難かったのである。このような、否定概念によって定義された数学的対象に、どれだけ自立して存在を主張する力があるのだろうか。

(中略)

 クロネッカーは、非構成的な概念で囲まれた集合論に対して、徹底した批判をくり返したのだが、この批判の中心に、まさにカントルの集合論の独創性と斬新性があったから、問題は深刻だったのである。無限は、構成的に理解しようと思っても、何も語ってくれない。カントルは、概念を総合する力を、数学の中に積極的に取り入れることにより、無限の様相を知ろうとしたのである。

 クロネッカーも、カントルも、数学の2つの立場をそれぞれ代表しており、それは大ざっぱにいえば、概念のもつ内包的な方向へと数学を向けるか、外延的な方向へと数学を向けるかという、本質的に妥協できない2つの方向を象徴的に示していたのである。実際、クロネッカーの批判はカントル個人の悲劇を招いたとしても、集合論を数学の中から追放することはできなかったのである。
 しかし、クロネッカーの集合論に対する批判もまた、数学史の一挿話として、消えてしまうものでもないように思う。
 最近のように、コンピューターの普及で、ディジタル化が急速に進んでくると、たとえば、コンピューターにいくつかの実験データをインプットすれば、やがてプログラムにしたがって、ある整理されたデータが、実験の精度と必要に応じてどこまでも計算されて、小数の形で現れてくるだろう。キィを押すと、小数はどこまでも画面に現れてくる。
 誰も、この数は、有理数なのか、無理数なのかと問いかけはしない。なぜ、問いかけないのか。なぜ、問いかけても意味がないと考えるのか、眼の前に並ぶ有限小数の数の配列を見ながら、そのようなことを考えていると、ギリシャ以来の有理数、無理数の概念の先に、疑わしそうに立ちつくすクロネッカーの姿が見えるようである。

 実際、無限とは何であろうか。
-----

 何度読んでも、超絶かっこいい文章だなあ、これ。「コンピューターの普及〜」のくだりなんて、まんまルミナスって感じにも見える。