3月27日(木) 久しぶり。ONEとか雫とか。ジジェクたん。
しばらく空いてしまった。
理由:
・ゼミの発表準備。
・風邪引いて寝込んでしまった。
・寝込んでいるのを良いことに、パソコンゲーム(RPG:AD&D IcewindDale 日本語版)で遊んでいた。
…こういう時にノートマシンはやたらと便利で。ラッコのようにして寝ながらプレイをすることに関して、僕の習熟度はそれなりのものだ。というか、寝ながらでないとノベルゲームが遊べないほどで。何故、ほかの人が椅子に座って長時間ノベルゲームを遊べるのか分からないのだが。きっと、みんな良い椅子を持っているに違いない畜生。35万円ぐらいの人間工学バリバリでものすごくリラックスできるやつ。
電源系ゲームをやっていて思ったのだが、僕にとって「文章を書く」(この日記程度の軽い文章にしても)という欲求と「電源系ゲームをする」という欲求はずいぶんと近いところにあるらしい。つうか、電源系ゲームやってると色々な煩悩がどんどんと吸い取られて消えてしまう気がするんですが。
◆何となく思い出したので、ONEの話をまとまらなく。久弥サイドというか茜とか、みさき先輩とか。
先日話したことの再録なんで、知人どもは読む必要がないかと。全然再プレイしていないんで、さすがに話を忘れつつある。ゲームCDはどこだ。フルボイス版でも買いに行くか。というわけで、事実関係の誤りとか多分あるんで勘弁。
彼女たちと出会ったことが契機となって、浩平の「えいえん病」が発症したのだ、ということは、世間的にはどれくらい強調されているんだろうか。というか、そもそも彼女たちに会わなければ、浩平は「えいえん」なんかに行かずに済んだのだ。女の子とも仲良くならない場合のエンドでは「えいえん」に行かないあたりも、それっぽい。
茜の「雨の空地」。みさき先輩の「夕焼けの屋上」。どちらも分かりやすいぐらいに永遠っぽいイメージで。だからその風景の中に佇む彼女は永遠の女で運命の女なんで。そんな彼女に恋してしまったのである。親しくなるために、彼女の境地に近づくために、浩平は自らの「えいえん力」を鍛え高めていって、そして気が付いたら、ついうっかりと、彼女らを遥かに「追い越して」しまっていた。取ってつけたように過去の事象まで思い出した挙句に「えいえん」へと行ってしまった。多分、僕にとってのONEはそういう話なのだろう。
男性的な「えいえん」と女性的なそれとの違いとか言うと、実に俗な考えになってしまうんで、避けたいんだが。
あ、要するに僕は、茜のことを「『彼らには私の見えていない何が見えているんだろう?つーか、なぜ私はそっち側には行けないの?』と思って歯噛みをしているようなキャラ」だと(勝手に?)思ってるのだな。…うあー。笑うな、そこの奴>該当者
茜が「この世界が嫌いだから消えるの?」みたいなことを浩平に問うシーンがあるんだが、あれって、目の前に起きようとしている超常的な現象を、何とかそれなりに常識的な流れとして(「世界が嫌い」⇒「だから世界から立ち去る」)解釈したいという茜の必死の思いが生んだ言葉で。そして、浩平であるところのプレイヤーは『嫌いとか、そういうことじゃない。でも、消える理由は言葉でなんて説明できないし、たとえ何とか言葉にしたとしても、とても理解してもらえるとは思えない』などと思いながら、その問いに沈黙で答えるわけで。この「沈黙」には嗜虐的な楽しみすらある。
一方、「雫」なんだけど。
ゲーム序盤で祐介はどちらかというと「窓際の席からぼんやりと校外の風景を眺める」というキャラというよりも、「近視眼的にノートにガリガリと丸を描く」キャラだったわけで。そんな彼が、夕焼けの屋上で瑠璃子さんと出会うことにより「電波=世界パワー」を手に入れる。そしてゲームの最後では、ぼんやりと屋上から世界を眺める。
瑠璃子さんは、卑小な兄(だって、せっかく電波の力を得たのに「校内で乱交パーティ」なんていう詰らないことしか、やらないってのはなあ)と同じ地点に留まることを選んだ。ああ、瑠璃子さん。君とならば、どこまでも高みに行けそうな気がしたのに。何故。
これを「結局追いつけなかった」と読んでしまうと
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「あいつ(ライバル)の背中に追いつきたかった。なのに、あいつは事故死」
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という、良くある健全な青春物になってしまうわけで。何とか「追い越してしまった」という読みを残しておきたいところなんだけど、さて。
◆ジジェクたん。
「イデオロギーの崇高な対象」第三部を読み進めた。更に分からなくなってきました。今までがどのくらい分かっていたかは謎だが。つうかシニフィアンってそもそも何だよ。
僕が分かっていない部分というのは、どうやら、かの「郵便的」とかいうやつらしいのだ。うぐう。「ラカン理論では『手紙はつねにタイトル−宛名をもっており、かならず相手に届く』となっているけど、それってどうよ?」とデリダが批判したとかいう、その、アレ。
まあそれはさておき、ジジェク。
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クリプキの用語を使えば、<現実界>とは、象徴化の企てがことごとく躓く石であり、いかなる可能な世界(象徴的宇宙)においても不変である固い核であるが挫折し、失敗したものとしてのみ、影の中でのみ存続し、われわれがそのポジティヴな性質を捉えようとするや消滅してしまう。すでにみたように、これこそがまさしく外傷的出来事という概念を定義するものである。(p.257)
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こういう書き方をされると、何だかなあ、と思うわけで。というか、そのところをずっと疑問に感じてる。どうして「挫折」「失敗」「ポジティヴな性質を捉えようとするや消滅」とかゆー言葉を使うのかなあ、と。
別に、そんな価値判断を搭載した言葉じゃなくても説明できるような気もするし、そもそも「象徴化の企てが躓く」って、そんなにネガティヴなことなのかしら。読んでる限り、あんまりそうは思えないのだけど。それこそ「両手をバタバタさせても空を飛べないのは人間の『挫折』」って言っちゃってるような、そんな妙な印象を彼の文章からは感じる。
ひょっとして、「挫折」とかその手の意味合いってのが、ジジェクの論理の中心に位置していたりするんだろうか。うーん。分からん。
あと、素敵文章。愉快だけど、何というか…。
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制御できないという性欲の性格を、われわれはいかにして探り出し、どこに位置づけたらいいのか。ここでアウグスティヌスは彼の男根理論を提出する。もしも強い意志と自己統制があれば、人間は自分の体のあらゆる部分の運動を操作することができる(ここでアウグスティヌスは一連の極端な例を挙げる。インドの行者は一時的に心臓を止めることができる、等々)。身体のすべての部分はこのように原則として人間の意志に服従し、それらの制御不可能性は人間の意志の弱さあるいは力の実際的度合いにのみ残っている。ただし例外が一つだけある。男根の勃起は原則として人間の自由意志ではどうにもならない。したがってこれが、アウグスティヌスによれば「男根の意味」である。それは制御できない身体部分であり、人間自身の身体が人間の誤った誇りに対して復讐する点なのである。強い意志をもった人間は豪華な食事に囲まれていても、死ぬまで何も食べずにいることができるが、裸の処女が前を通ると、彼の男根の勃起は彼の意志の力ではどうにもならない……。
しかし、これは男根の逆説の一つにすぎない。その反対の側面はよく知られた謎々/ジョークに示されている。「地球上でいちばん軽い物体は何か――答えは男根。考えだけで持ち上げることができる唯一の物体だから」。真の「男根の意味」を知るためには、この二つの例をいっしょに読む必要がある。「男根」は、われわれの意志から独立してわれわれの意志に抵抗する身体の根源的外在性と、思考の純粋な内在性とを結びつける結合部を示している。「男根」とは短絡のシニフィアンであり、この短絡によって身体の制御不能な外在性は「思考」の純粋な内在性を志向する何かに瞬間的に変わる。反対に、そこでは心の内奥にある「思考」が、われわれの「自由意志」を逃れる奇妙な実体の特徴を獲得する。伝統的なヘーゲル哲学の用語を用いれば、「男根」は「反対物の統一」の点なのである。(p332-333)
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僕の感想としては「アウグスティヌスはん。貴方んとこの神さんが『自慰はアカン』とか言わはるから、そういうことになるんですわ」って感じである。
ところでジジェクって性行為に関してはあれこれ書いているような気がするが、自慰について書いているのは読んだ記憶が無いな。見落としてるだけなんだろうか。どうだろう。
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