【2003年2月】
2月27日(木) (無題)
26日分のアンカーが間違ってたので修正。読み返して思ったんだが、電波っぽいなあ、僕の文章。
◆西炯子「STAY −ああ 今年の夏も何もなかったわ−」(小学館flowersコミックス)(bk1)
表紙絵とタイトルで買った。当たり。こんなタイトルに惹かれるなよ、ってのはさておき。
うあー。ある種の妄想をこうまで明確に具現化されると、その、何と言うか。大絶賛なんだけど、大絶賛する自分を認めたくない。ところで、どうして皆、「賢治」なんでしょう。描きたいことは分かりますが、ちと安直に流れ過ぎてやしないか?
この1冊で精神容量が飽和してしまったため、こがわみさきの新刊は後回し。こんなの1日に2冊以上読めるかっての。
◆ニール・スティーヴンスン「ダイヤモンド・エイジ」(早川書房)(bk1/amazon)を読み進めてる途中。差し挟まれる小ネタが何とも素晴らしい。こういう小ネタで笑えない人がスティーヴンスンを読むのは辛いかもしれぬ。
たとえば、チンピラが起こした強盗事件の裁判が、こんな感じに描かれてたり。
-----
「ヌンチャクの鎖は回転する際に独特のレーダー特性を示します――ヘリコプターの回転翼のものに似ていますが、より多くのノイズを含みます」
(中略)
「時刻二三五一時十秒、上海警察の<スカイ・アイ>が同種のパターンを感知」
-----
あはははは。いくら監視技術が発達してるからといって、そんなもんまで測定してんのかよ。すげー。
|
|
2月26日(水) (無題)
◆大塚英志「キャラクター小説の作り方」(講談社現代新書)を、ぱらぱらと読んだ。
大塚英志は作者・批評者・編集者という3つの姿を持ってるらしいです。そのためなのか「よく出来ている」「面白い」「沢山売れる」という異なった価値の間のズレを大塚英志自身はモロに引きうけて、そしてそのズレを(悩みつつも)丸ごと己の体内に呑みこもうとしているのが、この本の端々から読み取れます。にもかかわらず(というか「だからこそ」というか)トリッキーな論理を駆使したり書くべきことを省いたりで、大塚英志はそれを文の表面には見せまいとしています。そのさまが、その、実に萌えます。
「真に親切な教本」というものを想像するとき、それはいささか逆説を含んでいるように思えます。教科書を書くときに読者に親切であろうとするあまりに、「学ぶとはどういうことなのか」をちゃんと書こうとすると、多くの場合、教科書としては破綻するわけで。そういうたぐいの「親切さ」がこの本には満ちてます。こういうの、僕は好きです。
終盤に「9.11」論が入るのがいかにも唐突だ、という意見がどこかにありましたが、僕自身はそれを感じませんでした。すぐ前の章「神は細部に宿る」にて、現実と遊離しているように見える「キャラクター小説」であっても、その面白さを支えているのは読み手の「現実観」である、という感じのことが書かれていたからです。それゆえに、次に私たちの「現実観」とは何か、を問う文章を書かざるを得なかった。それが「9.11」論です。何という親切さ。
そういえば、現在「キャラクター小説」の面白さを一番左右すると思われる「ケレン味」について、明確な形で書いていないのは、なぜなんでしょうね。あれこそ、現実と小説における「現実観」を書くには適したテーマなんですけど。
教本としても論考としても中途半端、しかし「なぜ中途半端にならざるを得なかったのか?」を考えることで、色々と「考えるヒント」を発見できる。更には「悩める大塚英志」を愛でる、という面白さも発見できる。そういう本です。
…って待てよ。これって「東浩紀の著作」についての感想と似てねえか? ううむ。
◆転叫院くんからの回答。
んー。「礼儀」(人からものを教わるときは謙虚に接するべきだ。一々理屈を述べずに、まずは従ってみるものだ)とか、礼儀を(きちんと)積み重ねることで得られる、人柄や考えの「深み」みたいな話に読めちゃうのだけど。それで良いですか?
|
|
2月25日(火) (無題)
◆「グラン・ヴァカンス」についての世間の評価(下のほうに感想リンク集)が腑に落ちないこの頃。皆さんディレイニーとかバラードに近いなどと、おっしゃってる。
僕にとって「グラン・ヴァカンス」はその、「秋山瑞人」的なんですが。あらゆるガジェットをダシにして、極限状況での対立と緊張に満ちたドラマ性を演出しようとする辺りが。僕はディレイニーやバラードをあまり読んでいないのだけど、そういう感じだったっけ?
感想リンク集を読んでいて思ったのだけど、ここで明快に書かれているような類の美意識、
-----
私はこういった「本物に近いけれどちょっと違う作られた街」とか「限りなく人間に似せて作られているアンドロイド」とかそういう話が実は大好きで、子どもの頃にもそういうのを夢中で読んだ。ここではアンドロイドの代わりにAI、そしてすべてがコンピュータで管理された「ビット」の集まりで、つまりはその存在というのはリアルだというのにとても脆く儚い。そこに美しささえもが切ない想いを引き出してくる。
-----
僕はこういうノリが、もうどうにもダメな体質で(個人的な意見ですが)。
「ちょっと懐かしい、美しくて切ない過去と未来」はんたーい。
「人間に似ているけどちょっと違う(そこが哀しい)美形アンドロイド」はんたーい。
◆転叫院くんとこ。
-----
「おたくの教養」とか「おたくの正史」なんてものに根拠があるとは今も思っていません。でも勝ち負けはあります。SF100冊しか読んでない者は、1000冊読んでいる者に圧倒的に負ける。少女マンガ100冊しか読んでない者は、1000冊読んでいる者に圧倒的に負ける。ギャルゲーしかり、特撮しかり。そして1000は10000に圧倒的に負けるのです。
-----
「勝ち負け」って何やねんとか、読んでばっかしだと考える暇無くなるじゃんとか、そういう茶々は、みんなやってるのでさておき。
SFと少女マンガをそれぞれ100冊読んでる人間と、SFを1000冊のみ読んでる人間との勝負の行方について、少しばかりご意見を拝見したく。あと「ミスター味っ子」と「美味しんぼ」と「ラーメン発見伝」、どのタイプの勝負がお好きでしょうか、って読んでねえか。
◆私信。
>「分からないことがあったらflurryさんに訊け」
あー、俺、幹事も会計も編集も執筆もやったこと無いのに、いつの間にか字引扱いされてるよ。
さすがにどうよ、それ。
|
|
2月24日(月) (無題)
◆あー、NHKでやってた「ひきこもり番組」見逃した。スーツ姿の斎藤環 氏、見たかったなあ。
八紘八宇から。
-----
元ヒッキーのヒトも幾人か出演していたのですが、俺キーワードなのは、自己評価の低さと、極端な二分主義。
前者については、問題としてあるのは解っているんですけど、でも俺には問題を認識すること自体難しいです。というのは、俺自身の自己評価しか知らないわけですから、俺は。
後者は、要するに、外から与えられたシステムに適応するか、しないか、の二種類しかない、という思い込みがあることで、テキトーにやる、とか、キニシナイ、とかいう経路が無い状態ですね。一種の原理主義なんだと思っているんですけど、これはシステムの方で対応できる問題だと思います。それは、選択肢を沢山用意することで、特に逃げ道を用意することです。あるヒエラルヒーに所属するかどうかを、強制では無しに、選べることです。
-----
選択肢を増やすことで「極端な二分主義」から脱することが出来るか、というとどうなんでしょう。「おまえは『自分に向いた選択肢を選んだ』のだから、せめて、それには適応しろ」という妙なプレッシャーが高まるだけ、という可能性もあり得るわけです。それは「テキトー」な状態ではない。
よーするにアレです。昔からさんざん議論されてきたはずのことなんですが、「テキトーにやる」というのをシステムやルールの中にどのように埋めこむのか、って話なんでしょうね。特に、不況が長引いて社会全体のプレッシャーが高まっているこの状況下で、どのように「テキトー」を保証していくか。うーむ。
|
|
2月23日(日) またイーガンの話。
◆「祈りの海」の末尾、瀬名秀明による解説を読み返したら色々と面白かった。長文引用。p.458-459。
-----
実は私もアイデンティティの問題を小説で書き続けている。というより、それ以外に書くものが思い当たらないのだ。生命体である自分という存在が、こうして動き、考えていること、その不思議さを小説で解き明かしたいのである。だが、私がイーガンに対して戦慄を覚えたのは、同じ興味を持ちながら私とはまったく違う方法論でそのテーマを描いているからである。本書収録作を読む限り、イーガンはアイデアをプロットに起こすとき、好んでフラクタル的な構造を採用しているのだ。
(中略)
先に示した「ミトコンドリア・イヴ」の感覚である。『宇宙消失』でも、突然夜空から空が消え失せるという大空が、サイコロを振り続ける主人公と重ね合わされる。まさにエッシャーの騙し絵の世界だ。どこかがおかしいことはわかるのだが、それでもフラクタル的なイメージによって読者はねじ伏せられてしまう。
私自身はどちらかというとホラー的な手法を小説の中では好んで使うほうだ。常に物語の後半でアイデンティティ問題の主体を怪物化させ、暴走させようとする。これもごまかしの一種なのだが、少なくとも短編で比較した場合、イーガンのほうが私より遥かに小説としてスマートである。
-----
「フラクタル的」というのはある意味「万能の」表現なんでアレなんだけども、僕の実感には合った表現で。読んだ当時、良いこと言うなあと感心した覚えが。頑張ってほかの言葉で置き直せないか、と考えてみてるんだけど、なかなか難しい。
さて、ここで瀬名氏が前提としていることには、どうも「問題意識」と「小説のスタイル」は分離可能だ、ということがあるように思われる。その前提は多分、間違いなわけで。この間違いのせいで瀬名氏は「フラクタル構造が、イーガンのアイデンティティについての問題意識とどのようにリンクしているか」という、おそらくは本質的な点についてはまったく顧みようとはしない。ものすごい断絶。
|
|
2月21日(金) 輝けるもの(ルミナス)。
◆読んでなかった。
【理由】購入直後、本が部屋の中で行方不明に。それから1年近くが経過。
【対応】捜索を放棄。短編一つを読みたいがために下巻を買いなおす。税込みで1000円ぐらい。ううう。
というわけで「90年代SF傑作選」[下](ハヤカワ文庫SF)から、グレッグ・イーガン「ルミナス」。
読んでる最中に感極まって、ぼろぼろと泣いた。喫茶店で読んでたのにね。読後しばらくは虚脱感で動けなかったりも。
(一応背景色で記したネタバレ含むメモ。たとえば赤毛娘なんかは読まないように)
-----
・イーガンが凄いのは、この短い作品内に、元のワンアイデアをそのまま示すだけではなく、様々な社会状況などを絡めて複層的に埋め込んでいることで。作中で中国のオーウェル(「1984年」)的状況について描かれているのは、単なるフレーバーでは無いはず。おそらくイーガンにとっては両者は、脳の同じ部分で扱うべき問題なのだ。
・「命題の(計算機による)形式的証明」というネタなんだから、それこそゲーデルの不完全性定理の出番だと思うんだけど。Googleで検索しても、そこら辺の絡みについて書いたものはさっぱり見つからない。あんまり関係のないようなところ(たとえば「人間の知性の限界」とか!)ですら、皆、ゲーデルゲーデルと連呼してるのに。なぜだ。僕の理解が間違っているのだろうか。
本編だと「異なる2つの数論」についてしか描かれていないけれど、実際には異なった数論が無限に存在し得るはずで。あと、ルミナスが量子コンピュータだったら、どういう話が生まれただろうか?
・こういった数学基礎論といえば、ルーディ・ラッカー博士の専攻なわけで。ラッカーはこれを読んだのだろうか。前に書いたような気もするが、ラッカーとイーガンという数学専攻2人の共作って実現しないかなあ、と考えてみたり。まず、若いイーガンがイカしたアイデアを見つけてきて、土台となるシナリオを作る。
ラッカー:「ほー、面白そうジャン。もっとアクセル踏もうぜ。更に××のアイデアを入れて、ちょいちょい、と。こういう風にひねるのはどうかな?」
イーガン:「ギャー。台無しや」
こんな感じで。しかしどうして、ラッカーが「マッド」とかいうテキトー表現でお茶を濁されているのに対して、イーガンは素直に受容されてるんだろうか。納得いかない。
-----
◆試験的に文字を大きくしてます。
|
|
2月20日(木) 終わらない夏とメイドさん(「グラン・ヴァカンス」のこと)
◆飛浩隆「グラン・ヴァカンス−廃園の天使 I−」(ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)を読んだ。
…ジャンル:18禁系ライトノベル?
-----
「ロング・サマー・バケーション」
「数値館」は夏にしか存在しない場所。
避暑地として有名な約束島。その中でも一等風光明媚、崖の上で潮風を浴びているのが数値館。館の中には千と二十と四つの部屋と、そして、千と二十と四人のメイドさん。毎年「ご主人様」たちはここで夏を過ごす。同じ姿形をした、けれど毎回違うご主人様たち。
でも、50回前のあの夏。ご主人様たちは訪れなかった。それ以来メイドさんは、ずっと暇。長い夏休みを過ごしてる。
気が付けば今年は、日記をつけはじめて1000回目の夏―。
彼女たちの間で最近流行していることは、館の周りを散策して、落っこちてる「貴石のかけら」を拾い集めること。貴石のほとんどは銀貨ぐらいの大きさで、砕けたステンドグラスのような色合いをしてる。館の周りで貴石が見つかるようになったのは、ご主人様が訪れなくなった頃からだろうか。
どうして皆、貴石集めに夢中になるのか、というと、綺麗で収集したくなるというのも勿論あるけど、貴石には不思議な力が宿っているから、というのが大きい。霊感優れた娘たちが(ほら、占いがなぜか得意なあの娘たちだ)貴石を材料にまじないをかけることで、普通じゃ考えられないようなことを起こすことが出来るのだ。割ってしまったウェッジウッドのお皿を寸分違わず元の状態に戻したり、庭園に咲いていた向日葵を紫色−それもとても鮮やかな!−に変えてしまったり。「貴石」だけに「奇跡」を起こすことが出来る、なんて、くだらない地口を言ってたのって、どの娘だったっけ?
とは言っても、数値館は平和に包まれていて。夏休みは、まだまだ続きそうで。だから、貴石によって叶えてもらいたい願いなんてのも、ほんの些細でちっぽけなこと。それでも彼女たちは熱心に早起きして、真夜中に空から降ってくると噂される貴石を探す。そんな毎日。
―けれど、災厄はふいにやってくる。
約束島の理を底辺で支え続ける『蟻』。目に見えないところで世界のほつれを修復してきた『蟻』たち。夏にしか存在しない数値館はキリギリスのようなもの。『蟻』たちが居なければ維持できない。
その『蟻』が突如、世界を消し始めた。人の背丈を遥かに上回る大きさとなった異形の『蟻』たちが、約束島のあらゆる存在を噛み砕き、空白へと戻す。九百と九十と六人のメイドさんが、彼らの虚無の大顎に喰い破られ、擂り潰された。
わずかに生き残ったのは幸運に恵まれた娘たち、そして貴石を用いて『蟻』を退け、その身を護った娘たち。彼女らに残された領域は館中央部の東屋だけ。頼れるのは貴石の力のみ。
絶望に満ちた一夜の篭城戦が始まった―。
-----
イラストは高野音彦あたりで。
僕のために書かれた作品ではなかったようです。まともな作品紹介はこちらとかこちらとかこちら辺りでどうぞ。
あとSさん。やっぱりこれ、イーガンには似ていない気がするんですが。
|
|
2月17日(月) 回転翼の天使
◆小川一水「回転翼の天使−ジュエルボックス・ナビゲーター」(ハルキ文庫)
ヘリコプターのある、生活。というサイトでの紹介文を読んでいたら、読みたくてたまらなくなって買いに行った。
話的には小粒だけど、個人的にはすごく面白い作品。つうか泣いちまったし。元々やたらと涙腺が緩いとはいえ…(Kanonで5回泣いた。我ながらどうかと思う)。
この前初めて読んだ「群青神殿」での評価だと、
-----
趣味が僕と近いのが、まず素晴らしい。細かいとこにこだわっているし、頑張って調べて書いている(若手の作家で「調べて書ける」人は好み)のも長所。けど、それらを繋ぎ合わせて大きなものを見せる部分が、あんまり上手く無い。渋みのあるキャラクターが、いきなりおキャンな行動を取ったりとか、リアリティを持って描かれていた重機が、いきなり物理法則を無視したような動作をしたり、とか。現場はリアリティを持って描けているけれど、首脳部の描き方は変だし。
-----
だったのだけど、本作ではかなりのまとまりの良さを見せていた。スケールが小さめの作品の方が良いものが書ける人なのかもしれぬ。他の作品も読んでみることにしよう。
次回作は、月面で建設労働者、な話だそうだ。つうか、それ「Moonlight Mile」? テーマ的に購入大決定なんだが、「大きいテーマ」なんで幾分不安。
関係無いが、僕が一等好きなヘリはシコルスキー・スカイクレーンで。現在製造販売権を持っているErickson Aircrane社のサイト。かっこいい。
◆私信>赤毛娘
この間話が出た、死エロの(多分)該当部分を読みました。7日、11日、13日。あってる?
なんつーか、あー、うー、僕も75%ぐらいそんな感じ。やんなっちゃう。13日分に、僕が口走った言葉と同じのが書いてあって苦笑してしまったよ。他の人には内緒だ。
|
|
2月16日(日) (無題)
また徹夜。うー。臨時で入った、昼からの塾講バイトが辛かった。
◆僕よりも10歳以上も年上の人に、僕が所属しているサークルの、その当時の様子を教えていただく、という機会に恵まれる。その方自身は所属してはいなかったのだけども。
-----
そこに居たK君が真顔で言うんだよ。
「あのですね。Oさん。うちのサークルでは、SFの話が一種ご法度なのです。なぜかと言いますと、先輩に二人ほど猛烈なSFファンが居まして、いつも一組で行動しているのです。彼らの耳に少しでも『えすえふ』なんて音が聞こえようものならば、彼らはすぐさま(その顔に悪魔的な笑みを浮かべながら)その音を発した人間を両脇から挟んで、口々に尋問を始めるのです。
『何、キミ、SF読むの?』
『キミ、どんなSFが好きなの?』
だから、うちのサークルではSFの話が出来ないのです。麻雀と麻雀劇画(風の雀吾!)の話しか出来ないんです。ああ恐ろしい」
-----
確かにそれは恐ろしい話だ。これだけ聞くと、その二人組がまるで北斗の拳に出てくる小悪党のようにしか聞こえないのが何だが。ちなみに、このKという人も私の知人で、全くの真顔で冗談を言う、という習癖があることを一応言い添えておく。
ちなみに二人組の片方は、この間ウィリアム・バロウズに関する本を出版し、もう片方はラファティの翻訳本を出版した。恐ろしい。
|
|
2月15日(土) 網状言論F Repure
◆網状言論F Repure。
リポートはカンタン系にでも。結局fairaさんにラッカーの本を渡すことは出来ませんでした。
斎藤環 氏は坂本龍一と細野晴臣を足して2で割ったような外見と雰囲気。なかなかの男前。
聴きながら「これだったら、今木さんとこと死エロとアシュタサポテと、その周りを読み返した方が良かったかもなあ」と思ったことは、あの人には内緒だ。なぜかオマケが付いて来たので、僕的総計ではものすごいプラスになってしまったイベントだったのだけど。
|
|
2月14日(金) セカイ系。
◆「セカイ系」の語られ方 (ARTIFACT)
あれ。「セカイ系」の定義って、東浩紀が「郵便的不安たち」で幾原邦彦の発言を引用してたやつ、
-----
「彼の話によると、最近の若い子は、すごく近いこととすごく遠いことしか分からない。それは小室哲哉の曲の歌詞からも分かることで、恋愛か世界の終わりか、いまの十代はそのどちらかにしか興味がない。言い換えれば、恋愛問題や家族問題のようなきわめて身近な問題と、世界の破滅のようなきわめて抽象的な話とが、彼らの感覚ではペタッとくっついてしまっている」
-----
とかいうのを、間接的にでも意識していた、のとは違うのか。「すごく近い」と「すごく遠い」とをくっつけて「ペタッ」とした感触を生じさせる。その感触が作品の中核となっている。そのような作品が、彼ら言うところの「セカイ系」だと勝手に思い込んでいたんだけど。
もちろん、作者が単に天然で「元からくっついちゃってる」作品もあれば、作者が自覚的に両者を「わざとくっつけてみせて」そこからの「ずらし」効果を狙った作品もある。何となく「最終兵器彼女」なんかは後者だと思っているのだけど。西尾維新は読んでないんで知らぬ。
|
|
2月13日(木) 普通の日記調。
◆久しぶりに塾講師のバイト。といっても個人指導形式だから、実態は家庭教師とあんまり変わらない。
高1生の期末テスト対策を手伝うことに。科目は数学(確率)と生物(遺伝の法則)。思わず、ここやここといったネット上で行われていた議論を思い出して、一人勝手に盛りあがる。おかげで試験対策とは関係無いことまでべらべらと語ることに。可哀相な高1生。
「純系の個体同士を交配させてF1を育て、F1どうしを自家受粉させてF2を作る…」というくだりを説明しようとしたところ、「自家受粉」を間違えて大声で「近親相姦」とわめいてしまったのは、我ながら愉快。それ意味違うし。ホワイトボード1枚はさんで隣で勉強していた、沢山の小5生たちに悪影響を及ぼしていないと良いのだが。
あと、確率を教えたときには「君がカジノに行ってギャンブルをやるとするよね」とか、そういう話題満載。競馬と宝くじとパチスロのギャンブル性の違いについて適当に語ってみたり。
◆ところで昨日ジュンク堂でイアン・ハッキング『偶然を飼いならす』を買っていってしまった人は誰ですか。おかげで立読みが出来なかったですよ。おかんむり(それは何か違う)。
◆
(2月14日注: 186(一服中)氏のサイコロ及び確率論考から来た方へ。一応前日にも書いてるんで、そこんとこよろしく。あと確率や自由意志をネタにしたSFといえば(最近だと)イーガン『宇宙消失』の方だろう。俺はもう内容忘れたので、誰かまとめてくりゃれ)
確率と言えば、件の砂色の日記を読んで、ルーディ・ラッカーの小説『ソフトウェア』の中で、僕が一番好きな部分を思い出してみたり。うろ覚えで書いてみる。
この話、とあるアレな博士の作ったロボットが知能を持った挙句に反乱を起こし、大挙して月を占領して月から人間を追い出してしまった、という筋書き。博士の計画だと、ロボットたちの学習機能が変な局所最小値(ローカル・ミニマム)にハマってしまわないようにするために、時々彼らの思考をランダムに攪乱して学習機能をリフレッシュすることになっていた。で、博士がどのように攪乱を実装したかと言うと、
「全てのロボットは定期的に、一つの宇宙線観測装置(多分、霧箱みたいなヤツ)にアクセスする。観測された(ランダムな)宇宙線の数に従って、ロボットの内部状態を書き換える」
という風にしたわけ。で、知能を持ったロボットたちは、この宇宙線観測装置のことを神聖化して崇め奉るようになる。なぜかって、自分が考えてもみなかったことを、まるで「神託」のように、装置が与えてくれるから。
そして占領後しばらく経ってから、ロボットのうちの一体と博士とが会話をするわけです。装置への信仰心を語るロボット。対して博士が「でもさー、あれって良い乱数アルゴリズムを思いつかなかったから、宇宙線を使っただけだよ? それを信仰されてもなー」と言うんだが、ロボットは「そこら辺の擬似乱数アルゴリズムと、あれ(装置の尊称はワン”One”)を一緒にしないでくださいな。大宇宙での様々な恒星活動、その結果としての宇宙線が、あの装置に降り注いでいるんです。我々はその結果を直接その身で受けているんです。ああ素晴らしい」と返す、というのがあって。この「すれ違い」のシーンがすごく好きで。だから砂雪氏のことは、発言が正しいかどうかはさておき、微妙に応援していたり。
◆ルーディ・ラッカーで更に思い出したんだが、時々読みに行くサイトの人がラッカーの本を捨てられてしまったらしい(カンタン系の2月8日分)。ラッカーのファンとしては実に泣ける話である。
-----
どうやらルーディ=ラッカーの読んでいない作品を結構捨てられたようだった。ハヤカワSF文庫の作品はどうだって良いけれど、新潮文庫から出ていた自身の青春時代と重ね合わせた小説も捨てられていたようで、慌てる。
-----
えっと「空を飛んだ少年」って(多分こっちだよね?)、すげえつまんない話だから別に読まなくてもいいっすよ、と言いたくもあるのだけど、それはさておき「家に『空を飛んだ少年』は2冊あるんで良かったら無料でお譲りしましょうか?」などと考えるも、何せまるで接点のない人なので、どうやって受け渡ししたものか。つうか、そもそも受け取ってもらえるのか。このレベルの用事でメール書きたく無いしなあ。
この方、土曜日の「網状言論Fリピュア」に行くみたいで、それとは関係無く僕もチケットを持っているんだが(整理番号71番)、まさか会場で「fairaさん居ますか?」なんて大声を張り上げるわけにもいくまい。
というわけで、会場で古い青と黄の表紙をした新潮文庫を手に持ち、黒の革ジャンを着た人物を見かけたら、「それ下さい」と声をかけてみても良いかもしれません。って多分読んでないと思うけど。
|
|
2月12日(水) 確率論。
◆たそがれSpringPointや「見下げ果てた日々の企て」で知った、確率論(というよりも、確率論の前提)に関する議論。
イアン・ハッキング『偶然を飼いならす──統計学と第二次科学革命──』辺りが、理解の手助けになるんじゃないかと思った。といっても僕も読んでない。池袋ジュンク堂に読みに行くとしよう。
確率統計学は社会改良論や優生学とある意味セットで発展してきたわけで。その意味での反発が確率統計学に向かうのは故無きことではない。砂雪氏の(統計学を用いた)心理学への反発は、どちらかというとそういう背景から来たものではないかな、と想像してみたりする。どうだろう。
議論を読んでいて、何となくクリプキのプラス/クワス論と時間論との絡み、とかが頭に浮かんだのでGoogle様のご託宣をあれこれ受けていたところ、出てきたのが、これ。またアシュタサポテかよ。つうかこれ「ギャルゲーと時間性」(それだけでもないんだが)に関する、すげえ有名かつ重要な文章だし。
私信>アリムラくん。
>せっかくflurryさんを呼んであげたのに、彼は来なかった。
あれって「呼んであげた」だったのか。てっきり「人がある程度居ないと困るんで、来てください」だと思ってたよ。なーんだ。「人が居なかったらどうしよう」とか心配して損した。
それはそうと「他人にSFを薦める」という点では僕はあんまり役に立たないですよ? そもそもSFあんまり読んでないし。偏ってるし。そもそも僕の場合、おそらくはすごく個人的な理由でSFを読んでいるわけで(「個人的でない理由」って何だよ、とか言われると困るが)。不特定対象に作品を薦める言葉を持ってないのだ。
|
|
2月9日(日) キャッチワールド
◆クリス・ボイス「キャッチワールド」(ハヤカワ文庫SF)
うわあ。すげえ。何じゃあこりゃあ、としか書けません。
この作品、多くのワイドスクリーン・バロックと同様に、惹句で損をしているような気がするのだけど。
-----
(略)田村艦長率いる≪憂国≫号を含む報復艦隊が、結晶型生命体の故郷であるアルタイルをめざし、出撃の途についた。敵を絶滅し、地球人類の種としての生存を確保する為に……。傑作ニュー・スペースオペラ登場!
-----
だもんなあ。確かにそれ以上何を言ってもネタバレになってしまうし、ネタバレしてしまうのは惜しい作品だから仕方が無いのだが…。「はあ?日本かぶれのガイジンが書いたスペースオペラ? 次行こ、次」という扱いを受けても仕方あるまい。そうなると、新刊SFが出るたびに律儀に買い揃え、面白かろうが面白くなろうが全部の作品を律儀に読了するようなタイプの人間のみがこの本を手に取ることになる(あとはイロモノ大好きっ子)。けれど、この本の真の面白さは、そのような律儀な人間には判らない所にあるように僕には思えるのだ。困ったものである。
◆斎藤環「戦闘美少女の精神分析」(太田出版)
読んでみた。ついでに『戦闘美少女の精神分析』をめぐる網状書評も読んだ。
何だか妙な本で。つうか良く判らん。そこそこ面白く読んでしまったのだが、それは著者の功績というよりも、取り扱っている題材のお蔭だろう。
-----
端的で下世話な表現をするならば、アニメキャラで「抜く」ことが出来るか否か、それがおたく-非おたくの一つの分岐点ではないだろうか。
-----
とか書いてあって、「おお、抽象的なセクシュアリティとやらではなくて、『抜く』という具体的な性行動の話をしてくれるのか。そいつはすごい」と期待していると、それが違う。いつの間にやら「戦闘美少女の(抽象的な)セクシュアリティ」とかいう話にすりかえられてしまう。そういう本で。
オタクはアニメキャラを用いてどのように抜いているのか(実際のアニメ番組を観ながら自慰行為を行っているのか、それとも記憶上のイメージに頼っているのか、18禁同人誌を用いているのか、などなど)。同一人物がリアル女性のヌードグラビアを鑑賞しながら自慰行為を行うことと比べて、手続き上の相違などはあるのか、あったとしたらどのように?について、この本は何も書いていない。そういうとこを一足飛びにして
-----
「オタクは(実在しない)アニメキャラで自慰行為が出来る」⇒「オタクは虚構コンテクストへの親和性が高い」
⇒「待てよ。オタクって実は『そのキャラが実在しない』ってこと、そのこと自体にハァハァしながら自慰してるんじゃ?」
-----
って感じの論の展開をされると、読んでいる方としては「ハァ?」という気分になる。現役オタクへのインタビューとやらを敢行して赤裸々な回答を得たりしているのだから、もうちょっと具体的な部分を調べてくれても良いだろうにね。
ところで、東浩紀の書評は完全に(悪い方向に)読み違えているような、というか彼、何も分かっていないんじゃないか?
-----
著者の考えはひとことで言えば、日本社会にはある歪みがあり、そのせいで虚構と現実が同様に強い世界感覚が生まれたのだが、そこで虚構の現実性を支えるために特殊な欲望が必要とされた、それが戦う女の子への欲望なのだ。
-----
「日本社会の歪み」なんて語ろうとなんてしていないだろ、この本。むしろ逆。「戦闘美少女」は、「普遍的なセクシュアリティ」が発露する一形式にしか過ぎない、と言ってる。それを「特定の社会に固有の歪み」みたいなものに帰着させるような態度は、本文中で既に否定されていたはずなんだが。
◆実証性。
東浩紀や斎藤環といった人たちの論に関して、「実証的な部分を軽視し過ぎている」という指摘を結構見かける。
実証的な作業がなぜ重要かというと「ゴミから演繹されたものはゴミである」という大前提も当然あるんだが、多分それだけではなくて。実証的な(時には相互矛盾するような)データとぶつかりあい鍛えられることによって、論がある種の「深み」を増す。その「深み」が重要なんじゃないかと思う。
自分の論の切れ味のみにこだわって実証的な部分を軽んじる人、逆に、実証的な「正しさ」のみにこだわって「深み」を見落とすような人は、ほら、そのアレだ。いわゆる「動物的」ってヤツなんじゃないだろうか。
…どうも自分は「動物的」という言葉を、「深みが無い」という程度の意味にしか理解していなかったらしい。ううう。
|
|
2月6日(木) 偽鈴凛
◆偽鈴凛。
…いや、こーいう写真で一部筋を震撼させた、t.A.T.uの画像が沢山載ってるサイトを教わったので。
|
|
2月4日(火) 日本アパッチ族
◆小松左京「日本アパッチ族」(角川文庫)
この本を「人が美味しそうにモノを食べているのが読みたい」という理由で読む自分は罪(以下略)。
-----
このほかスクラップの食べ方は、酸の中でいためるとか、煮こむとかいろいろあるが、基本的なのは、このスクラップのたたきである。また、これを長い間五〇パーセント程度の酸につけておくと恰好の飲み物となった。硫酸の場合は黄色で有効成分も薄く、塩酸の場合はやや黒色を帯びて成分も強い。なお飲み物用として、その材料に銅を使えばきわめて芳醇な真っ青な飲み物ができ、その舌ざわり、こく、芳香は糖分の少ないペパーミントにそっくりだった。そのほか黄血塩、赤血塩の溶液もよく飲まれるものの一つだった。
食道楽の連中は、スクラップの比較的柔らかいものをよくたたき、摂氏六〇〇度〜七〇〇度に熱して、石灰や塩化メチルソースをつけて食べた。食道楽といわず、これは実にうまい食べ物で、子どもたちは、祭りの日に親が、これを槌でたたいて、いろいろな形、たとえばミサイルとか、原爆雲とか、人工衛星とかの形にたたいて作ってくれるのを楽しみにしていた。そのとき彼らは日常の貧しいおやつ、ゴム靴の底や、蜜柑の皮や、ビールのビンのかけらとは違った豪華なごちそうに歓声をあげるのだった。
-----
とかいった描写を、池袋駅JR構内のスタンディング・パブでバスペール・エールを飲みながら「あー美味しそうだなー。それはそうとチーズトースト早く焼きあがらないかなー」なんて考えつつ読んでいる僕が居るわけで。何というか。
日本敗戦後、焼跡を彷徨していた少年。その「焼跡闇市派」の少年の原風景が持つ、乾いたエネルギーのようなものが、日本全土を呑み込んでいく様は容赦なく、圧倒的。
でもその一方で、その破壊は日本のみに留まるんだよなあ。日本アパッチ族は金門橋を齧ったりしないし、中西部の居留区に行って本物のアパッチ族と会ったりもしない。うーむ。
◆俺メモ。ロボ娘におけるパラメータスライダの重要性
◆某所。
>マシュウが俺に語れ語れと強要してくる
何となくこことか。
|
|
2月2日(日) (無題)
コロンビア号墜落。
90年の「2%」や99年の「0.4%」、といった「致命的な事故が起こる確率」の見積もりって、どういう風に計算されたのだろう。信頼性工学?
◆LEGIOんさんとこ。返事が遅くなってしまった。
-----
ヽ~ノ´Д`) いやいや、さすがにスタージョンの法則は知ってますよ。
個人的には残り10%を無理矢理に定義してくれると面白いなぁと思いましたが。
-----
なるほどそういうことでしたか。…ってそんな御無体な。
>(色変え部分)
あ、そういうネタで良かったのか。「もしコミケが100サークルのイベントだったら」みたいなヤツを捏造しなくてはならないのかとばっかし。
◆俺メモ。シューティングゲームにおける「切り返し」
あと、同じく棺の中の楽園からこれとは関係無い話題をもう一つ。
-----
その昔、keyのオフィシャルBBSで「これ(Kanonのこと)で泣かない奴は人間じゃない」という内容の投稿をしてバッシングを受けた人がいたが、これは本当に叩かれるほどの内容だったのだろうか。
-----
僕自身も好んでいない論法を用いるならば、「本当に感動したならば、泣かなかった奴のことを考えてる暇なんて無いだろ?」ということなのかもしれないな、と思った。(keyのオフィシャルBBSのことは全く知らないのだけども)。
もちろん、この場合「本当の××」っていうのが曲者なんだけど。
ひょっとしたら世の中には、恋人のとてもおいしい手料理を食べたときに、真っ先に(本人の意識すら飛び越えて)口から出る言葉が「おいしい!」じゃなくて「これをマズいなんていう奴は人間じゃないね」なんて人も居るのかも、などと想像してみたり。その行為が正しいか正しくないかはさておき、その人は人間関係で余計な苦労を背負いこむだろう。
更に、それとは微妙に関係無い話。その昔、いくつかのサイトで「(ToHeartの)マルチのシナリオで泣かない奴は人間じゃない」という内容の文を見かけたのだが、あれはジョークを含んだ表現だったのかも、ということに先程ようやく気が付いた。「人間じゃないなら何だ。メイドロボか」というツッコミを待っているような、そんなジョーク。
(自分への宿題:ここで終わっていては「90%」である。残り10%を無理矢理にでも語ることが時には必要なのかもしれない。
「Kanonの真琴シナリオで泣かない奴は人間じゃない」という言葉がジョーク足りうるかどうか、という課題を設定することにより、マルチシナリオと真琴シナリオを比較検討すること)
|
|
2月1日(土) (無題)
某所でD&D 3rd。ECL10。
Spellfire Channelerになって、56D6のSpellfireを撃つ。爽快。そのあとMaximized, Empowered, Ray-Burst, EnervationとMaximized Horrid Wiltingを喰らって死亡(どんなプレイだよ)。
とりあえずRed Wizardは恐ろしい、ってことで。
|
|
|